列王記上 8:10〜13 「主の神殿」

石井和典牧師

 ダビデの息子であるソロモンが神殿を建てたとき、主は心からお喜びくださって、ソロモンと共におられました。彼の心はまっすぐに主に向かっていました。彼の真っ直ぐさというのが現されているのが、列王記上3章です。神殿がまだできていないときに、ソロモンに主がご自身を現されます。ソロモンは全力をもって主に自分自身をさげるようにして、ささげものを捧げます。

 ソロモンは「全力で最善」をささげます。すかさず神様がお応えくださっています。列王記上3:4〜5。

 王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこには重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた。その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた。 

 主がこのソロモンの心に応えてくださって走り寄るようにして、お言葉をくださっています。主はこのような「全身全霊の主への思い」を受け止めてお応えくださるお方です。この時のソロモンの心というのは真っ直ぐ主に向かっています。そのようにしか言いようが無い言葉が連ねられています。列王記上3:7以下。

 わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきか知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。

 主はソロモンの思いにこのように応えられます。3:10。

 主はソロモンのこの願いをお喜びになった。神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。

 王として、様々なものが必要でした。健康が必要ですし、財力が必要ですし、当時は民を外敵から守る力が必要でした。多くの場合そのような力というのは王の実力として評価されて、王自体の名声につながるものですから、誰もが求めるものでした。しかし、そういったものを求めるよりも民の言葉を神の前に聞き分け、真実を判断することができる知恵をソロモンは求めました。何よりも神より賜った使命を第一に考えて、その使命にどのように自分が仕えることができるのか、神に仕えることができるか、神から頂いた務めがすべてである。そんな彼の心が伝わってきます。

 しかし、そのように主に対してまっすぐなものに主はソロモンが当初求めていなかったものまで準備して与え尽くされます。列王記3:13〜14。

 わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めと守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。

 実際にソロモンが統治している時代のイスラエルは歴史上最盛期と言われるほど繁栄していきました。主がソロモンの心に応えられて、ご自分の約束の言葉を守られて実現しました。その中でも常にソロモンが大事にしたのが、神殿です。神殿はソロモンによって建てられて、ソロモン神殿と言われます。これが第一神殿、そして、第二神殿がゼルバベルによって再建されますが、バビロン捕囚によってソロモン神殿は破壊されてしまいます。

 神殿が破壊されてしまうということは、ダビデによって立ち上がっていった国が、出エジプトから約束の地に入っていくという壮大な建国のストーリーが、一度全部破壊されてしまうような恐ろしく大きな出来事でした。というのも、ソロモン神殿を見ていてもわかりますが、この神殿にこそ、主のご臨在があるのであると信じていたからです。実際に、精魂込めて国の威信のすべてを投入して、全力で神殿を建てたソロモンのところに主はご臨在くださいました。その主のご臨在について記されているところが本日の箇所です。

 主のご臨在が実現した時、何がなされたのでしょうか。

 ソロモンによって精魂込めた神殿が準備された。全力の献身があったこのことも重要です。

 しかし、それよりももっと大事なことが本日の所に記されている内容なのです。それは何か。それは、神殿ができてその神殿の中心に契約の箱が持ち込まれて安置されたということです。

 契約の箱の中には、石板が二枚入っていたということです。神の言葉、律法がそこにありました。

 神殿が準備されたことも大事ですが、何よりも大事なのは、神殿の中心に契約の箱が、神の言葉をあらわす石板が、安置されたということです。そこに神のご臨在が充満していったということです。昼は雲の柱、火の柱が荒野のイスラエルの民を導きました。シナイ山においてモーセが啓示を受けて石板を授かるときにも雲が山を覆いました。雲は神がおられるということを表します。人間は主のご臨在があるところ、自分の手の業をやめて、主の栄光に見惚れるしかなくなります。国の中心は神殿、神殿の中心は神の言葉。神の言葉を真ん中においたところ、主のご臨在が与えられました。列王記上8:11。

 その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである。

 そして、その場は、人間の業ではなくて「祈り」で満ちます。12節以下13節。そして、この8章全体はソロモンの祈りとなります。

 このソロモンの祈りが特徴的です。民があらゆる苦しみを経験して、物事が頓挫して、どうにもならなくなって、そこで自分の罪を自覚し立ち返ってくるならば、そして民がこの臨在の聖所を思い起こして帰ってくるのならば、どうか主よ、その祈りを聞いてください。という祈り。このパターンが手を変え品を変えなんども繰り返されます。

 民がどんなところでつまずくのかというと。隣人に罪を犯すとき、敵に打ち負かされてしまったとき、雨がふらなくなってしまって飢饉になってしまったとき、病気が広まってしまたとき、戦いで劣勢に陥ったとき。おそらくソロモンは起こりうる国家の危機をここに並び立ててすべて祈ったという感覚ではないかと思います。

 危機に陥ったときに、その原因の一端が自分たちにあることを認めてそれはまさに罪に起因すること、神を見なかったことに起因すること、神を見てこなかったからこのような現状に追い込まれてしまったのだということを自分で自覚して、自分で立ち返ってくるのならば、その祈りのすべてを拒まないでくださいと祈っています。それは誰も例外なく、異邦人であったとしても、どんな人であったとしても、主のご臨在を思ってそこに、自らの非を認めて立ち返るのならば、その祈りに耳を傾けてくださいと祈っています。

 私は、このソロモンの神殿建立のときの祈りというのは、あまりにも洞察が深くてというか、私たちの信仰の現状を見透かしてといいますか、イエス様の時代の信仰者たちの姿も見透かしてといいますか、深い洞察があることを認めざるを得なくて、鳥肌が立ちます。

 我々は、何かことが起こったり、危機に陥ったり、困ったことになったら、多くの場合、その原因を自分が神のもとにいくという自分の態度に帰していくのではなくて、誰かの他人や環境のせいにして無理矢理にでも自分を納得させて、自分を守ります。実際にはそんなことはほとんど意味がなく、物事が起こったら、ただひたすらに自分自身が神のもとに帰るということが最重要問題であるということを思い起こさせるのです。

 そして、神の御前で自らを省みることによって自分こそがただしい道へと歩みを神の力によって正されていく。するとまことに神の御業を全身で受け止めるような主のご臨在を体験し、ソロモンのように、すべての民を主の祝福で満たすのだという思いにかられていくのです。

 ソロモンの神殿建立の祈りで、最後に記されている言葉、何が記されているのかを記憶してください。列王記上8:53。

 主なる神よ、あなたはわたしたちの先祖をエジプトから導き出されたとき、あなたの僕モーセによってお告げになったとおり、彼らを地上のすべての民から切り離してご自分の民とされました。

 「一体何度言い続けるのだろう」というぐらいに、かつての出エジプトのことを、最後の決め手のようにソロモンの父であるダビデも、ソロモンも口に出します。そうです、主の救いの御業こそが彼らにとって決め手の決め手。そこにだけ期待をおいている。だから神殿建立の時、完成したときになんと記されていくのかというと。本日読んでいますところは列王記8章ですが、その前の6章1節で。

 ソロモン王が種の神殿の建築に着したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから四八〇年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジウの月、すなわち第二の月であった。

 と出エジプトを起点に記されるのです。

 四八〇年前のことを語りに語り、いつも覚え、祈りの中に常に覚え、あの救いの御業が常に起こるであろうことを期待し、祈り続け。神殿の中心にはシナイ山の石板が入った、神の言葉そのものをあらわす契約の箱を安置し、主のご臨在を信じたわけです。

 私たちは、この神殿が、キリストの血によって買い取られた私達自身であると理解しています。コリントの信徒への手紙一6:19。

 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

 私達自身の中心に神の言葉を運び込んでいるでしょうか。イスラエルの民は、この神殿の中心に別のものをおいてしまったことさえありました。何という話なんだと思われますか。しかし、本当にわたしたちはこの神殿の中心に神の言葉をおいているでしょうか。そのことを振り返ってみていただきたい。そこに神の言葉があれば、ご臨在が与えられ、ソロモンに応えられたように、主がご自身の御業をもってお応えくださるはずです。皆様はキリストの体なのですから。アーメン。