ヨハネの黙示録 21:6〜7 「アルファでありオメガ」

石井和典牧師

 十字架から終わりの時が始まっています。主イエスは終わりを来たらせるために来られました。終わりのときの結論は、「信じるものを復活させる」というものです。主イエスはこのようにおっしゃられました。ヨハネによる福音書6:39、40。

 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。

 終わりの日に信じる者たちが失われないこと、命を得ること。主はそのように願われて、実際に信仰によって命が我が内に宿っている。これを経験しているのが教会共同体です。

 しかし、終わりの時の感覚というものを今一度アップデートし直し続けるということが私は必要だと感じています。

 というのも、実際私達は危機の時代のど真ん中を歩んでいるからです。

 聖書を読んでいただければわかりますが、私達が今日本で経験しているような安寧をすべての時代の民が謳歌していたのかというとそうではありません。超大国の力に攻め寄られ、飢饉、病、天災、様々な危機が常にある。そんな時代のことばかりが聖書の歴史です。

 そんなことを思っていますと、今までの私がにわかに抱き続けてきた、戦後75年のある所平和ボケした穏やかで安定した日本というイメージこそが特殊なのだとの思いに至るのです。校庭の片隅で必死にバスケットボールに興じていたあの小学生時代。あれは決して人類の歴史全体からすると当たり前のことではなくて、「特殊な幸い」を享受していた時であったとも思わされます。

 ヨハネの黙示録に描かれている神の裁きのイメージや、血なまぐさい争いや、天災による阿鼻叫喚の姿をなんとか見ないように見ないようにと考えて歩んできたのが私のクリスチャンとしての歩みだった気がします。

 しかし、今このコロナの現状に至って1ヶ月、2ヶ月先がわかりません。安定が取り去られました。

 そして、やっと今このときが、終わりのときの只中にあるのだと実感とともに思わされています。

 主は、終わりのときに試練を与えられます。裁きとして人々にそれがのぞむことが記されています。そのときに、主が人々に求めておられることは、立ち返ってくるということです。これは新旧約聖書、貫いて変わりません。神様ご自身が憐れみ深いお方であり、なんとか立ち返るようにと求めておられます。

 それがヨハネの黙示録の2章において。主イエスのお言葉を通して語られます。エフェソからはじまって、スミルナ、ペルガモ、ティアティラと小アジアにある各地の地名の教会が記されていきます。7つの教会です。7というのは完全数です。それから、この7の教会をまるっと円を描くように上げられているということ。この意味というのは様々な含蓄を読むことができます。ただこのヨハネが書かれた時代のことだけを指すのではなくて、その後の次代の教会までもが視野に入っていると考えることができます。具体的に現代においてはこの地域の教会へのメッセージだと読み解く人も出てきます。

 しかし、私は主イエスのこの各地への教会へのメッセージから、今ここで生かされている私達への勧めが聞こえてくる思いがいたします。間違いないのは、終わりの時が十字架から始められて、新しい天、新しい地の創造が起こるまで、そのあいだの時代に私達はいるわけですし、そのあいだの時代に起こることというのは、かつて聖書の中で起こり続けていたように、神様からのメッセージを受け止めること、そして、その信仰を持って試練を耐え忍び、また試練を回避して主のもとに逃げることです。

 教会が愛から離れてしまっていないか、死に至るまで主に対して忠実であるか。ニコライ派の教えにくみしていないか。ニコライ派の教えというのも様々な解釈の余地がありますが、これは「支配と民」という言葉が組み合わさったものなので、霊的位階制度を批判するものであると言われてもいます。すなわち、神様を主としてあがめるべきなのに、人間や組織、制度をやがて神としてしまうようなことでしょう。イゼベルという女に気をつけろと、偶像崇拝を推奨していた女です。また、信仰的に死んでいる自分に気づいているか。目を覚まして悔い改めなさい。冷たいか熱いか、なまぬるい状態でいるなと。

 全世界の教会がこの終わりの時に至って、自らの姿を振り返って主の御前にある自分を意識して、身を整えてことが大切です。

 しかし、そう言われても、わたしは弱くて弱くて。そうおっしゃる方もおられるかもしれません。そんなふうに思われる方こそ、本日の主の御言葉に聞く必要があります。ヨハネ黙示録21:6以下。

 事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。

 主が初めであり終わりです。その御方のまえで何よりも大事なことが記されています。それは命の水を飲むということです。また、渇きを意識するということです。命の水の渇きです。命の水というのは聖霊とも言われます。聖霊の渇きを、神の心への飢え渇きを持っているか。主を求めているか。

 常に変わらず、砂漠へと、荒れ野へと導かれます。今潤っていると思っていても、荒れ野へと導かれます。しかし、そこで「主への渇きを覚えるか」です。渇きというのは、この大阪の暑さの中で痛感していますが、そのことを自覚し、潤されるために行動するという、その自覚が無い時に、命への危機が迫っていることがよく報道されています。だから、高齢者の方は脱水症状への自覚が薄くなるので気をつけてくださいと、今まで何度聞いたことでありましょうか。

 この渇きの自覚ということが何より大事なのです。人間はこの世にある限りまったく不完全です。常に命の水が、枯渇していく、砂漠に水をまくような。そういう状態でしかありません。肉というものの限界です。だからこそ、常に常に水を飲み続けなければなりません。肉体が常に水を飲み続けなければならないということ、この自然科学的な現状も霊的な内容を指し示すことだと思います。

 常に求め続けなければなりません。常に受け続けなければなりません。それが私たちのリアルな姿です。

 命の水という言葉が出てきたときに、常にお話させていただいていますが、中国伝道の父であるハドソン・テーラー先生は、伝道の旅の中で子供を失い、妻を失い資金が枯渇し、どうにもならなくなったときに、渇きへの自覚に至りました。ヨハネによる福音書6:35の言葉によって命を吹き替えしたように、復活していくわけです。その言葉というのは、このようなものです。

 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

 ギリシャ語の現在時制における継続的な習慣という概念が彼の心を支配します。この言葉というのは、キリストのもとに生き続ける人、信じ続け、命の水をキリストから受け続ける人。たった一度受けてそれで終わりではなく、つねに渇き、常に満たされということを経験しつづけることが大事だと、気づかされて、彼の中で、霊的な命の躍動が始まっていくわけです。

 すなわち、常に渇いていることを意識し、飲み続ける。これを生涯にわたって、この肉があるかぎり、この完全ではないものを抱えているかぎり、食事を常にしなければならないように、水を飲み続けなければならないということです。

 主は常に約束のみ言葉をお守りになられます。エレミヤ書を早天礼拝で読んでいますが、エレミヤ書も新約聖書のヨハネ黙示録、最後の最後とつながっているということが理解できます。エレミヤ書33:17。 

 主はこう言われる。ダビデのためにイスラエルの家の王座につく者は、絶えることがない。レビ人である祭司のためにも、わたしの前に動物や穀物を供えて焼き、いけにえをささげる者はいつまでも絶えることがない。

 永遠のダビデの王座の約束。サムエル記下7章の約束。それがイスラエルという国が滅び王制がだめになるのだというその直前においても、主はお語りになられて、実際に想像だにしない形で、主イエスというメシアの到来によってこの言葉が実現されて、終わりの時に突入していきます。そして、実際に主イエスを信じる皆様が、このように異邦人の土地においても、礼拝をささげつづけるようになっています。主に仕える祭司的な役割をするものたちが立ち、そして、主イエスの王座が保たれ、永遠に主の契約に預かるものたちがここにいる。

 エレミヤにおいて約束された内容も、物事は人間の思い通りにはすすまないが、しかし、それでも主はご自身の民を回復するという結論に至るのだと示されていきます。エレミヤ書33:26。

 しかし、わたしは、彼らの繁栄を回復し、彼らを憐れむ。

 聖書の預言は、立ち返ってくるものを約束の地に入れるというものです。その主の思いに例外はなく、アルファでありオメガであられて、すべてをご支配なさっておられるお方が、そのように新天新地という、神の支配の結論に導く。何があってもそこに到達する。主の約束の言葉というものはそのように力強いものです。

 その時に、私達はその主のお力にひたすらに信頼し、渇きを覚え、肉の弱さを思いつつ、常に主のもとに何があっても、荒れ野の中でも、捕囚の中にあっても、何かに遮られて自由を失っても、その砂漠の中から、水を飲み続ける。

 永遠に湧き出し続ける命の水を、この聖書から受け続ける。この約束のみ言葉を信じて求めてください。

 自分が渇いていることに気づき求めること、求め続けること。そのものに、あふれるほどに主の命の水が、聖なる霊が満たされることでしょう。アーメン。