申命記8:2〜10 「40年の荒れ野」

石井和典牧師

 カデシュ・バルネアからべエル・シェバ(約束の地の南端)へは80キロしかありませんでした。3日で到達する距離です。その距離を迂回して、40年かかった。その40年にはどんな意味があったのかというと、「訓練」でありました。試して成長させる。そのような機会として主が荒れ野をお用いになられました。

 テストしてフィックス。「どうして世の中はテストが多いのだろう」と思う時、荒れ野の40年を思い起こしていただきたいと思います。テストは避けられません。なぜなら、成長させるという主の御心があるからです。

 そのままで、何も成長を願わないというのであれば試験はないでしょう。しかし、主はその場所で立ち止まるのではなくて、主に向かって変化していくことを願われています。それは出エジプトの民も、現代の私達も変わりません。

 では、どのように成長するのでしょうか。それが申命記8:2に記されています。

 あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

 テストするのは、訓練するのは、成長させるのは、どこに向かってかというと、戒めを守るようにというポイントへです。「神の言葉に生きるように!」そこに向かって成長があったということです。そこに向かってのテストがある。試練がある。だから申命記8:3にこのように記されて、イエス様も引用なさるわけですね。マタイ福音書4:4。

 主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

 マタイによる福音書でも荒れ野で誘惑を受けて、そこで主がお答えになられた言葉でありました。「荒れ野」が出てきていることを覚えてください。ですから、このポイントに至るため、ここへの成長の道のりのための荒れ野だったとわかります。

 「霊に導かれ、荒れ野に行き、そこで神の言葉を選び取る。」そのような歩みを信じる者たちはたどるのだということです。

 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。

 この成長の過程においてわかりやすい二人の人、すなわち神が喜ばれた二人の人がおります。それが、カレブとヨシュアです。カレブとヨシュアとは誰か。それは出エジプトの第一世代が軒並み約束の地に入る前に命を失うのに対して、この二人は約束の地に入ることが許されました。というのも、イスラエルにとっての運命の分かれ道ともいうべきカデシュ・バルネアという場所において、彼らは神の言葉を選び取ったからです。

 目の前にある現場に左右されることなく、神の言葉がすべてに勝って優先されるということを、信じて、神の力にゆだねて決断しようとした人たちです。

 他の人たちは神の言葉をとるのではなくて、目の前の現状がどう見えるのかという、自分たちの現状分析によって動こうとしました。しかし、その現状分析は正しいものではありませんでした。

 すなわち、そこに入っていった時、のちのヨシュア記を先日読みましたが、約束の地にもとからいた民がイスラエルに恐れをなして逃げていってしまいました。イスラエルの民がヨルダン川に達した時に、ヨルダン川が道を開けて、ヨルダン川が契約の箱、神の臨在の力のまえに屈服して。そのような光景をみて、約束の地にもとからいた民のほうが、イスラエルの民を恐れたのです。大自然が従うような神に戦いを挑むことなどできないと。

 それがリアルな現実。しかし、カデシュ・バルネアで人々は恐れにとらわれて、約束の地に入ることを尻込みしました。現状分析に基づいて自分たちが負けるとしか思えなかったのです。

 カレブの言葉から私達は信仰とはなんたるかを受け取ることができます。民数記14:6〜。

 土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは、衣を引き裂き、イスラエルの人々の共同体全体に訴えた。「我々が偵察して来た土地は、とてもすばらしい土地だった。もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。

 主の御心にもとづいた確信を持っているか。御言葉に裏打ちされたものです。御言葉を根拠とした確信を持っているか。それとも、自分の目に見えるものを根拠とした不安感に苛まれていないか。

 何をとるのかです。

 神の心を取るのか、自分の心を優先させるのか。

 人はパンだけで生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によっていきるのかです。

 主は、荒れ野の中で民がどのように選び取るのか、見ておられます。訓練される。何度も荒れ野へと導かれるということです。

 信仰の成長というのは、極端に分かれます。約束の地に入るのか、否か。神の御声を選び取って、それを食べ続けますと、驚くほどの成長を遂げて、カレブとヨシュアのように勇敢に約束の地に入っていくところまで成長しますが。

 立ち止まると、ずっと同じところで足踏みしている状態になります。

 怖気づいた民が言った言葉をも振り返っておきましょう。その対比、違いに気づかれると思います。民数記14:2。

 イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ。」そして、互いに言い合った。「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。

 主のお言葉、主のお気持ち、主の御心は少しも顧みられていません。

 そこで不平を言い、泣き言を言い、その民の泣き声の前で、モーセは神の前にひれ伏しているしかありませんでした。その状況に、主はこのようにおっしゃられました。民数記14:11。

 主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。

 主はいつもしるしを見せてくださっていました。それが本日のところにも記されていますが。マナを与えられたということです。ウエハースのようであったとか、甘い蜜のようであったとか、色々記されていますし。学者がこのようなものではないかとか、樹液じゃないかとか、説明しますが。実際にどんなものなんでしょう。わかりません。

 マナは、ヘブライ語で「マン・フー」。「何だこれは」です。よくわからないのです。しかし、よくわからないのだけれども、生きることができるという不思議なものです。実際、神様がご準備してくださった「マン・フー」「何だこれは」で満ちているというのが人の歩みではないでしょうか。なぜここまで導かれたのだろうか。なぜここまで生かされているのだろうか。様々に理由づけはできますが。しかし、不思議。どうしてどこから、イエス様を信じる心が与えられて、命のパンに気づいて、命の水にあずかったのか。どうして、私を導いてくれたあの人は私の前に現れて、イエス様のところへ導いてくれたのか。「何だこれは」。不思議。しかし、永遠の命に生かされている。

 見ようと思えば見える!神の御手が。無視することをもうやめて、もう無視しないで。信じて。信じて、主の力に信頼することを覚えて。主の御心が貫徹されていくことを信じて、その御心に自分を委ねましょう。

 40年というのは神のときが満ちるという意味があります。神のときが満ちるまで、荒れ野に導かれます。しかし、その荒れ野は訓練場です。練習場です。トレーニングルームです。申命記8:4以下。

 この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導きいれようとしておられる。それは平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水があふれる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。

 訓練の最中はやたら辛いと感じるものです。しかし、訓練に過ぎない。そこで、本質に肉薄することこそ大切なのです。確かに、その苦しみの只中で多くの人が目を覚まします。目の前に敵がいるから目を覚まします。目の前に難局があるから目を覚まします。目の前に荒れ野があるから目を覚まします。

 そこで何を選ぶのかを主は見ておられる。そこで神の言葉を取るのです。そこで神の言葉を取らない限り、荒れ野から抜け出すことはできません。約束の地に入れません。約束の地に入ることがすでに決まっている、確信に立った時。民はこのように言いました。ヨシュア記1:16以下。

 彼らはヨシュアに答えた。「我々は、御命令を行います。遣わされる所にはどこへでも参ります。我々はモーセに従ったように、あなたに従います。どうか、あなたの神、主がモーセと共におられたように、あなたと共におられますように。いかなる命令であっても、あなたの口から出る言葉に背いて、従わない者は死に定められねばなりません。どうぞ、強く、雄々しくあってください。」

 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるようにさせられて、荒れ野の旅は終わりました。彼らは成長しました。信仰に生きています。そこにあるのは約束の地でしかありません。

 教会は神の言葉である主イエス・キリストに徹底集中します。御言葉を荒れ野で選び取ります。そこに道が開かれると信じます。主の御心を最優先できますように。アーメン。