創世記1:31〜2:3 「安息日」

石井和典牧師

 神は六日目に人を創造されて、すべてのものをご覧になられて、「それは極めて良かった。」とおっしゃれました。この言葉に最大限の注意を向ける必要があります。創世記1:31。

 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 良かったというのは、「満足した」とも翻訳する人がいます。神はすべてをご覧になられてご自身の御業のすばらしさに満足されました。

 喜び、楽しみ、満足したのです。

 神様が基本的に被造物を見て思ってくださるのは、「喜び」であることを忘れてはなりません。これこそ世界観のベースです。

 本来の立ち位置に帰って、ただ主のもとに行く、それだけで神様は最大限の喜びの心で私達に接してくださるということです。

 私達を見て、喜んでくださる。それが創造の初めの基本の基本だったことがわかります。しかし、大事なことは、そこから人間は堕落してしまったということです。

 「絶対にこれはやぶらないで」という神様との約束を破って、関係性が崩れました。初めに創造してくださった、そしてその全身に受け止めていた光を失いました。光を失うということはどういうことかというと、神様がわからなくなるということです。

 光を得るということのわかり易い出来事はパウロの出来事です。これによって創造のはじめの光の創造ということがどのようなものであったのか理解できます。その出来事というのは、パウロが神様からの光に打たれて目が見えなくなった出来事です。

 熱心なファリサイ派のユダヤ教徒であり、神の律法を字義通りすべて守り。その神の律法から外れずに生きているということを誇りとしていました。クリスチャンはその道から外れ、律法を破って生きている、そのような理解しかはじめパウロにはなかった。そのような律法をないがしろにする人間は処罰しなければならない。そのような思いで、ダマスコにクリスチャンを迫害しに行く途中、光に打たれて肉の目は見えなくなりました(使徒言行録9章)。その光によって神様との関係が回復されていきました。神様がわかるようになったということです。光が注がれました。光が注がれて、自分が迫害していたイエス様こそが、主であられることがわかったのです。神様とのまことの関係を見出した。三日間暗闇の中で、何も見えなくなり、食べ物もとらず肉の命さえ失ったかのような状態にさせられましたが、彼には確かに光が注がれました。

 三日目にアナニヤというクリスチャンがパウロを訪ねてきて、彼がパウロの上に手をおいて祈った時に、目からうろこのようなものが落ちて、肉の目が見えるようになりました。しかし、厳密に言えば、もう肉の目が見えていないときからすでに彼は目が見えていたのです。イエス様が約束されていたメシアであると強烈に示されたのですから。その時点で彼の信仰の目は開かれたし、心でこの光を受け止めていたのです。

 パウロは第二コリント4:6でこのような言葉を残しています。

「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

 

 光を失うことが堕落であり、光を得ることが回復であることがわかります。主イエスがわかるならば、光を得ているのであり、その人はあの創造の力を受け、神の御業が起こっているということです。

 創造のはじめはそもそも「光あれ。」と主がおっしゃられるところから始まり、この光があるところ、神に造られたものはすべて「極めて良かった」。神ご自身が感動して喜んでくださるということが起こっていたはずなのです。

 しかし、神との約束を破ることで、関係を失い、この光を失った。すなわちこの光というのは関係性であるということがわかります。

 光が私達に降り注いできて、私達はこの日光に私達自身の肉体、脳まであるところ支配されているということが研究でわかってきています。日光にあたならないとセロトニンが分泌されずになかなか精神の調整をつけることが難しくなると。光を受けないと生きていけないのが私達であるということを指し示しています。そして、聖書が示すのは、光とはイエス・キリストのご存在に気づくことであり、クリスチャンの只中にキリストの霊が住んでいることに気づくこと。もしも、クリスチャンを迫害したのならば、それはイエス様ご本人を迫害していたのだという、光が注がれないと全く気づかない事実に気づくことができること。

 パウロはその光に打たれて、神との関係が回復して、気づくようになって、目が見えるようになっていったのでした。

 だから、この光が満ちているのならば、主が造られたものは、すべて「極めて良かった」「満足だ」「喜ぶ」とおっしゃってくださる状態に人が導かれていくということです。

 もしも、皆様がイエス様を求めて、イエス様のお姿を生活の中に、ご自分の歩みの中に見出し、聖書を通して、神様との関係性を求めて、そのことに飢え渇いて求めて求めて、の歩みをしているのであれば。誰が喜んでおられるのか。

 それは神がご自身です!

 爆発するような、創造の力に満ちるように、光の秩序に満ちて主が満足されておられるということです。良いというのは「トーブ」というヘブライ語です。良い、満足した、楽しい、幸い、善などなど。神の肯定的な思いに満たされているということ。それを感じることができるのが主イエスによって光を受けたものの喜びです。

 神を求めて祈る時、神の「トーブ」に気づいてください。

 どんなに皆様が悲しみを抱いていても、神のもとに私達が行くのであれば、それを主は「トーブ」喜ばしいとしてくださる。主が喜んでおられるということ。

 この世界観のもとに戻ってくるように語りかけるのが、創世記。

 そして、旧約聖書全体です。

 神のトーブに戻ってくるように、その道の回復を目指すのが主の業。

 旧約聖書は堕落して光を失いつつある人間がどのように回復されて光ある道に帰るのかというストーリーです。常に回復への道のりが準備されていく。罪の中で崩壊して、神の秩序を失って、光を失っていく人間と、そこから神との関係を回復して、光の中に生きていく道を備え続けられる主の御業のストーリーです。

 そして、究極の極めつけが、主イエスという光が現れてくださることによって、堕落以前の光が回復されるということが次々と起こっていった。

 その最たるわかりやすい例が、先程ご紹介したダマスコへの道の途上でのパウロの姿です。ものが見えるようになって神との関係性が回復されました。

 主イエスはこのようにおっしゃられました。ヨハネによる福音書8:12。

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 イエス様に出会って、イエス様に従うものは、この命の光を持つので、創造のはじめのあの光に満ちた堕落以前の状態を人々は回復していくということです。

 未だ肉の体に支配されていますので、堕落する性質の中にあり、ほっておいたら光を見失う性質の中に落ちていってしまいます。

 光を見出して、光を得て、何度もこの光の中に立ち戻ってくるという命の中に、堕落以前の状態に、片足をしっかりと踏み入れているというのが我々教会です。

 私達の良心は、心はよくわかっています。どこかで語りかけます。究極的な満足は、本日の聖書朗読の中にでてきた安息は、喜びは、この神との関係性の中にしかないこと。神との関係性の中で安らうしか、安息日はないと。

 この中に実際はすべてがあること。しかし、肉の欲求に負けて、目がくらまされて、肉の求めるところに従って別のものを優先させてしまって、落ちていく自分がいるのです。

 いくら一度導かれても、ここに真理があると思っていても、なお肉が邪魔をして、別のものを第一にしていってしまい、平安を失い、安息を失い、満足を失い、喜びを失う。

 しかし、心はわかっています。イエス様のところに戻る以外にないこと。ここに心のすべてを向けて、神との関係の中に満足を見出す以外、どこにも満足などないのだということを。幸せは、トーブは、「良い」はこの神との関係という光の中にしか無いということ。

 それをどこかでわかっている。しかし、誘惑に負けて、別のものを追い求めて。ハッと我に気づくと、全然別のなにかによって幸いが与えられるんじゃないかと勘違いをしている。

 しかし、よく立ち止まって心が求めているものの先を見てください。その先に主の関係をしっかりと見ているのかと、光を見ているのかと。

 光をこそ、神との関係こそ幸いのすべてではなかったかと。

 安息はたしかに、主のもとにだけあります。安息日は、イエス様のもとにあります。イエス様のもとに堕落していたものが回復する道のりがあります。

 そこに帰れば、主の祝福が待っています。創世記2:3。

 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

 祝福。神があらゆる「トーブ(善)」で満たしてくださいます。光に帰ってきてください。アーメン。