創世記2:7〜9 「土の体と命の息」

石井和典牧師

 人間はとりわけ特別な存在です。神様の創造の御業のクライマックスとして、人間の創造があります。6日目に獣と家畜を創造されて、神の似姿である人間を創造なさいました。「神の似姿」というこのことこそ、人間が人間であることの中心です。だから、神が父であり、主イエスは神を父と呼べと教えてくださったわけです。イエス様のお言葉を思い出してください。マタイによる福音書6:9。

 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。

 主はわたしたちに神様を「父と呼べ」と教えてくださったのです。これは決定的に重要なことです。人間は神の似姿であるので、その生みの親である神を「父」と呼び、その父のもとに帰ることこそ、命であるということです。

 「私は神に似ている」「神が私の親である」この認識に立つことこそ、私達の命です。

 神ご自身が交わりの存在であることを私達は知っています。

 父、御子、聖霊です。

 それゆえに、神は人を交わりの存在としてお造りになられました。神に似ているとはそういうことです。男と女とに創造なさいました。創世記1:27の言葉の並びというのが極めて重要です。

 神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

 神にかたどってということの内容は、男と女という関係性の中に生きる存在としてということです。だからこの関係性の中に生きるということこそ、「神の似姿として」ということの指す中心的な意味合いです。

 男と女とに創造なさいました。そこに強烈な意味があるのです。さらに主のご意思が読み取れます。創世記2:18です。

 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

 独りでいるのではなくて、「彼に合う助ける者」が必要なのです。これは「対等に向き合えるパートナー」という意味です。他の被造物では対等に向き合って、対等に助ける者にはならなかったのです。そのものは、男の肋から造られなければならない。肋から造られたというのは、その男と一体であるということを意味します。そこに優劣はありません。一つなのです。全く対等で同じもの。

 三位一体の神が、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神と一体であり、そこに優劣は無いのと同じようにです。

 人が独りでいない理由は、そこに愛するべき交わりの存在として、一体であるもうひとりの人が必要であるということです。そして人は言うわけです。創世記2:23。

 「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

 女性を見て、「私と一体」と男性は思ったということです。

 なるほど、だからこの世で愛という名のもとに、親は子供の痛みを自分の痛みとし、共に泣き、共に喜ぶというこの一体性があるのだなと思わされるわけです。親がどうして子供が傷んでいる時に、自分が代わりになってやりたいと思い。またそのような思いに生きる人間を人はまた共感するのか。それは、主がそのように全く対等であるパートナーである自分以外のもうひとりの人を、「自分の体の一部として扱い愛する」ことこそ、この創造のはじめで起こっていたことだからです。

 この一体性こそが、愛の本質であり、自分自身のこととして誰かの痛みを負い、自分の一部として受け止めていくことこそ、最高、最善の主が願われた関係性であることがわかります。

 さらに、本日の箇所で重要なのが、人間は塵に過ぎないということです。人間は神ではないということです。人間は生きる者となりました。しかし、その生きる者としての歩みは土の塵である体を抱えているものとしての歩みです。ここに「生きる者」と記されているのは「生きている魂」と翻訳することができます。

 この魂という言葉はヘブライ語でネフェシュという言葉であり、この言葉は魂とか息とか、また喉とも翻訳できます。この喉という言葉がとても重要です。喉というのは水を飲んで渇きを覚えます。人間の魂というのは、命というのは、神のように自存するものではありません。神様はご自身のことを「私はある」とおっしゃいました。これは存在の根拠という意味です。出エジプト記3:14です。

 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあると言う者だ」と言われ、

 と記されています。「わたしはありてあるもの」と翻訳する人もいます。ですから、神はある、存在そのもの、存在の源ということなのです。神様だけが自存します。しかし、人間はどうかというと常に渇き、常に何かを必要として、なにかに依存しないと生きる事ができない存在です。自存できないのです。神様とは違います。魂は、息であり、喉であります。常に何かを渇望していきます。

 土の塵で形作られ、崩壊の危機をいつもはらみながら、しかし、主によって息が吹き入れられて、魂が、命が、息が、喉が与えられて、いつも何かを求めて、渇きをおぼえて水を飲み続けなければなりませんが、神によって息が吹き入れられた存在。

 神によって息を吹き込まれないと生きつづけることはできないので、神から離れて行くと、死に向かう。神から息吹が吹き入れられてこそ、本来の与えられた務めをはたしていくことができます。その務めとは、創世記1:28です。

 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 神の霊に生かされて支配されるのではなくて、被造物を支配するのです。愛によって。神の霊によって。しかし、被造物に逆に支配されてしまうというのが、神の息を失った人間が陥った状態です。

 被造物を愛によって支配し、管理するのが人間の役割です。

 しかし、神の霊を受けるところから離れたので、逆に被造物に支配されるようになりました。ものに支配され、環境に支配され、お金に支配され、他者に支配されてしまうようになってしまいました。

 それは、主の霊を失ったからです。神の霊に満たされると、そこに秩序が生まれ、コントロールが生まれて、愛の支配が出来上がっていくのです。

 主イエスはこのように言われました。マタイによる福音書6:33、34。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 神の国というのは「神の支配」という意味です。まず、神の国を求めて、神の支配の中に生きて、神の霊の支配の中に自分が生きて、神の支配の中に入るから、他のものに支配されることから逃れて、逆に神の愛の中で、神の愛による支配を打ち立てていくということです。

 だから、主イエスは、聖霊による洗礼を待ちなさいおっしゃられたのです。聖霊による洗礼とは、神の霊に浸され、バプテスマされるということです。バプテスマというは浸される、満たされるという意味です。神の霊の満たし、神の霊による支配。命の息が吹き込まれてはじめて、なにかに支配されるところから抜け出して、愛による支配を打ち立てることになる。

 使徒たちは愛によって、キリストの支配権をつぎつぎと打ち立てていきました。

 このように見ていきますと、キリストと出会ってキリストによって変化が与えられて行くということは、堕落以前の神様が「良い」と言ってくださって祝福してくださった人間が生きている状態、神の息を受けて、人間はしかし塵でありますから、息でありますから、喉でありますから、常に他者に依存しなければならないわけですが、その依存を神の霊に、神の息が吹き込まれることに、神の息吹に頼って命を保っている状態。そのところに使徒たちは導かれていっていたということが見えてきます。

 だからこそ、人が本来のあり方を回復していく道だからこそ、使徒たちは主が造られたままに、他者との愛の関係に生き始めました。他者のために命を捨てる。交わりの中に生きて、信徒同士が隣人を自分自身と同じようにあつかい、一体であるように扱い。隣人の涙を自分の涙として、まことに人が独りでいるのは良くないといってくださった、その人間のあり方を回復していっているのです。ローマの信徒への手紙12:13〜21に記されているこの言葉こそが、主が独りでいるのは良くない、彼にあう助けるものを造ろうと願ってくださった主の創造の御心が実現している言葉だと思います。

 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

 キリストの霊が宿るところ、実は本来の人間の姿への回帰、回復があるのに気付かされます。パウロの姿はあのエデンの園におけるアダムの姿のようにさえ見えてきます。神様が願ってくださった人間の姿です。

 私は非常に強烈なあこがれを覚えます。教会がこのマインドで交わりを形作っていくのならば、神の願われた人間の共同性。人間性の回復が、人間が人間であることの回復が。神がこうあってほしいと願われたものが、ここに実現していく。

 キリストの教会。創造の回復。

 キリストを信じて、霊を受けて、息吹を受け取って、共同性を回復させていただきたいと思います。本来の人間の姿を。アーメン。