創世記3:1〜7 「堕落からの回復」

石井和典牧師

 創造されたものは「極めて良い」ものでありました。それは神の言葉の秩序の中にすべてがあったからです。創世記1章、2章を読んでいただければわかりますが、神の心で溢れています。何も堕落していません。夫婦がおり、アダムとエバがおり、アダムがエバに対してこのようにいいます。創世記2:23。

 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

 目の前にいるもうひとりの人は自分と一体であると。神がお造りくださった。自分の一部である肋をとってと。喜びも、痛みも同じように味わうのだと。ここに神がお造りになられた最小単位の共同体の麗しい姿があります。

 そして、これこそ私達が本当は知っているはず、求めるべきその道であります。

 しかし、人はそこから落ちました。3章が堕落について記されている箇所です。「自分で善悪を判断するように」なってしまいます。主に聞いて、主の心に従って、主の秩序の中、主のお力に信頼して。ではなくてなってしまいます。自分で自分の義を立てるようになっていきます。

 まず蛇が誘惑します。蛇というのはサタンとも言われます。この蛇が厄介です。賢いものであり、人間を誘惑する。「本当に神はそのように言ったのか」というような論調で、神がおっしゃられたことを少しづつ歪めてきます。はじめは少しです。しかし、全く別の方向に向かわせるための少しです。神の言葉を歪めはじめると、最終的には全く別の方向に行ってしまいます。

 人間は思います。神がこうあってほしい、こうあるべき。神はこうでなきゃ。神がご自分のことをご自分でおっしゃる、それよりも自分が思うことが先にくる。

 私は神がこうであると思う。私がそう思うんだから神はこうでなくちゃ。

 善悪の判断の基準は、今も、昔も永遠に、神のもとにあります。

 しかし、それを人間の好きなようにできるところに引き下ろさせるのです。

 それが蛇の魂胆です。私が善と思うことが善であり、私が悪であると思うことが悪。そのように判断していきます。

 そのための導入として、神様ご本人の姿を歪めていきます。主はこのようにおっしゃいました。創世記2:16。

 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 「園のすべての木から取って食べなさい。」と主はおっしゃれたのです。しかし、蛇は話を変えます。創世記3:1。

 蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 神様は、食べることを禁止されたことはない。むしろ園のどの木からも食べて良いとおっしゃられたのです。しかし、蛇は、神が「禁止」をなさる方であることを中心において、すべての木から食べることを禁ずるということを言っているんじゃないかと疑いをはさんでいきます。神は禁止され、命を取り上げようとしていると。しかし、主はアダムとエバに必要な食べるものをたくさんご準備くださって、恵みで喜びで、主の「善い」で満たしてくださっていました。創世記2:8、9。

 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

 好ましく、良いもの、命が満たされていくために良いものをそこら中に溢れさせてくださっていたのです。だから、神の祝福でこの園は満ちていた、神の心で満ちていた。彼らを愛し、生かす心で満ちていました。

 しかし、悪魔はその心の中心が「禁止」にあるかのように言葉を変えました。

 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 と。主が願っておられたのは、主のご愛に満たされて、神に創造されたものとして、神の戒めを自分の心として、すなわち何が善で何が悪なのかそのすべてを主に委ねて、主のご愛の内側で生きていくことです。それゆえに隣人を神が願われたように愛するということです。

 善悪の知識の木の実を取って食べたその究極の姿は、イエス様の十字架の前における人々の姿です。律法学者も祭司長たち、群衆は主イエスを「十字架につけろ」と叫びました。マタイによる福音書27:22〜23。

 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。

 この群衆の中には、自分の立場を守ろうとする最高法院のメンバーや、律法学者、ファリサイ派、祭司長など、名だたる信仰者がいました。しかし、彼らはこの創世記の堕落の記事のように、神の前に神を自らが判断するところに立ってしまいます。すなわち自分が善悪の知識の木の実を食べて、神に聞くのではなくて、自分の義によって神を判断するという方向を選んでしまったのでした。

 はじめは、すこしづつ話を変えて行く、曲げていくということから蛇の誘惑は起こります。神が実際には言っておられなかった「触れてもいけない」という言葉に変えました。そして「必ず死ぬ」ということを「死んではいけない」というふうに少し柔らかく変えて蛇に言いました。創世記3:2。

 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央には生えている木の果実だけは、食べてもいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 変化しているその神への洞察に、さらに決定的な方向転換を加えて神へ向かう思いを「自分に向かう思い」に変えてしまいます。4節。

 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」

 蛇は、決して死なないという話にすげ替えました。しかし、私達にはわかります。ここで人は死ぬのだと。すなわち、彼女はもうすでに、神が善悪をどのように判断されるのかということよりも。6節に目がうつってしまっています。

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。

 これを食べたら神との関係が断絶されて死にます。この一線をこえたら、神を裏切ります。それこそが死です。

 関係をぶち壊しにするすべてがここにある。恐ろしいものでした。

 蛇にそそのかされて、それが「目を引き付け」るものとなり、「賢く」なるのではないかという自分の洞察が生まれてきました。

 いやこの「善悪の木の実に手をだす行為」こそ、あの「十字架につけろ」と叫んだおぞましい群衆の姿につらなり、自らが神のようになる行為でありますのに、彼女はもう自分の心がどう見るか、ということにしか興味がありません。

 恐ろしいことに、その行為を隣にいた男に伝播させて、二人で堕落します。

 そして、主なる神がこう問いかけられます創世記3:9。

 「どこにいるのか」

 と。主の目は千里眼です。どこにいようが何をしていようが見えています。しかし「どこにいるのか」と問われるのです。それはすなわちあなたは「どこに立っているのか」という問いです。彼らは善悪を判断するところには立つべきではなかった。すなわち神のようになるべきではなかった、しかし「神のようになってしまった」のです。本来ならば立ってはいけないところに立ってしまったのです。

 常に立ち位置を誤り、見る方向を誤り、心のベクトルが、向かっている方向が、神ではなくて、自分自身。ものの見方が歪み、恐れるべきものを恐れることができなくなり。滅びの道に自ら入り、立ってはいけないところに立つ。

 そして、人を裁くのです。

 あの「十字架につけろ」と叫んだ群衆のように。

 恐ろしいほどに一貫して罪の根があることに気づきます。初めのときも、そして十字架の時も、現代の我々も。「立ってはいけないところに立っている」主は「どこにいるのか」と問いかけておられます。

 しかし、主は初めの記述からその中に救いへの道。イエス・キリストへの道をつくっておられます。その記述が創世記3:14、15です。

 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

 蛇の頭を打ち砕く方が現れます。確かに、異邦人でありつつ、この創造のはじめの問題にふれることができるように、教会が導かれています。

 立ってはいけないところに立ち、裁いてはいけない人間が裁きの座につくことの問題点、すなわち「善悪の知識の木」の問題に主イエスの力によって理解を与えられている者たちが集められているのです。

 主は初めから救いを織り込んでくださっています。創世記からイエス・キリスト、そして教会へ。それを理解できる異邦人へと。救いが織り込まれています。

 主に善悪を聞いていきたいと思います。帰りましょう、主のもとに、イエス・キリストゆえに。アーメン。