創世記6:15〜22 「すべて命じられたとおりに」

石井和典牧師

 あらゆる出来事を通して、私達は主から教えを受けています。永眠者記念礼拝において、先輩方がここに遺影としておられるということが、非常に大きな示唆に富んでいます。

すなわち、「肉はやがてこの先輩方と同じように取り去られて、朽ち果てていく」という事実です。私達の肉は間違いなく取り去られます。

しかし、それでも彼らは生きているということが聖書が語る内容です。主イエス・キリストはこのように宣言なさいました。ヨハネによる福音書11:25。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 肉の次元だけではありません。神がおられる天があります。天という全き主のご支配のもとで生かされます。

 「天にまします我らの父よ」と主の祈りを教えてくださったイエス様のその祈りの、第一声が決定的に重要なのです。

 天に主がおられる。故に、肉において死んだ者たちは、信じてキリストの命に生きるものは、すべて主のもとで生かされている。

 この目に見えないものを発見する歩み。それがわたしたちの歩みです。しかし、そこから外れてしまった、戻れなくなった。

 それが人類の堕落です。

 最も重要なことは、この目に見えないものを見ていくという信仰です。ヘブライ人への手紙11:1〜2にこのように記されています。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 わたしたちは目に見えているものから、この世の中にあるものからスタートするという性質が身に染み込んでしまっていて、このヘブライ人への手紙に書かれていることに向かうことができません。

 わたしたちより先に神がおられて、わたしたちより先に神の言葉があり、神の思いがあり、その神の思いをベースにしてわたしたちの存在がある。ゆえに、目に見えることは神の言葉が先にあって、その言葉が実現していっているのが現実の世界なのだということが受け止めきれません。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 と記されています。この最も重要な信仰というのは、どういうものかというと、「望んでいる事柄」を確信しと記されていますが、これは「見えない神の言葉がまだ実現していないけれども、主の約束が与えられている」ということが前提となっています。

 神の言葉がすでにあり、その言葉にもとづいて現実は変化の只中にある。しかし、未だその実現を見ていない約束の中にある。これがやがて実現していくということを信じて、見ていく。

 見えない事実を確認すること。これが信仰であり、人間が生きている意味のすべてです。神を知ることこそ生きるすべてです。

 神の言葉を信じて、その実現を見ていく、そして主とともにその実現を喜ぶということです。これが人類が存在する意義です。

 ずっと真逆のことをしてきたのです。目に見えていることから神を類推するという。これは必ずしも悪いことではありませんが。不完全です。人間の認識は。もしくは、神さえどこかにやってしまって、自分が見えているものだけを見て、それが現実だと思うという。まったく的を外した思いで今まで生きてきたということです。本当のベースは、このヘブライ人への手紙11:3の方なのです。

 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。

 神のご存在があって、思いがあって、言葉がある。それが先。

 私達は自分の存在があって、自分の思いがあって、自分たちの言葉があって、神をどこかにおいやって、自分が先だと思いこんでいる。

 だから、ノアに起こったことを民は理解できなかったのです。人々は自分の目に見えることしか見なかった。しかし、ノアは違います。ヘブライ人への手紙11:7。

 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐものとなりました。

 ノアは、自分の認識ではなくて、神がお語りくださる神の言葉に信頼を置いて、その神に従う歩みをはじめました。お告げを受けるのです。そこで、信じて従います。すると、その信仰によって神に背くということはどういうことかが明らかにされて、ノアの周りの人々がいかに神を無視した歩みをしていたかが明らかにされます。しかし、主はノアの信仰を喜んでというような状況がつくられていくのです。

 現代の今この時も似ています。人々は皆啓示である聖書がまるで世界の片隅のことのように扱い、主の言葉を信じることはまるでマイノリティであるかのような錯覚を私達に抱かせます。

 しかし、この言葉をもとにして世界は造られていますので、こちらがメインなわけです。しかし、これをどこかの片隅に追いやり、ときどき省みるか、省みるのはまだましですが、全く無視して歩んでいます。この言葉をすべての中心に本気で置いていくことはまるで頭がおかしくなったかのようにさえ扱われます。

 信仰によって神が上から示された言葉を信じ、約束を信じ、信じるがゆえにその主の御業が実現していく様を目の当たりにする。主の思いが見えて、主の業が見える。だから、主は信仰の民を喜ばれるわけです。なぜなら、そこには神の言葉を、神の思いを見ているという主との交わりがあるからです。関係性があるからです。

 しかし、そこに信仰がなければ神の心は無視されていく。ノアの洪水の時代には、ノア以外の人々は、自分たちがどのように思うか、自分たちがどのように好きなように生きるのか、どのように好いた惚れたの中で自分の思いを達成できるかを考えていました。それが中心になって、天的な存在である天使のような神の子と呼ばれるものと、人間とが好き勝手に交わりをもって超人が生まれるという世界になってしまっていました。

 神が許された秩序を飛び越えて乗り越えて、主がお許しにならない性的な関係性を結ぶようになって好き放題な交わりが形成されていったということです。それは人間と人間との婚姻関係をいつしか逸脱していくようになっていきました。

 人々はこのまま思い通りに生きることができるような世界を望みました。

 だから、ノアが箱舟を準備しているなどということは狂気の沙汰。確かにノアが造っていた箱舟は長さ135メートル、横22.5メートル、高さ13.5メートル。恐ろしいほどに大きなものです。それをノアの家族だけで造るのですから、途方も無い時間と労力を必要としたでしょうし。そのことに集中している家族など、だれも顧みなかったことでありましょう。

 しかし、ノアはただひたすらに神から与えられた啓示の言葉が実現することを信じて、神ご自身の発言に従うことを選んだのでした。なぜなら、造り主こそがこの世界をはじめから終わりまで導かれるお方であり。この方の一声ですべてが動いてしまうからです。この御方の実際は思いのままなのです。初めから最後まで神の思いのままです。

 この御方はすべての善の源であられますので、この記事の前後を見てみればわかりますが、民が神から離れていくことに非常に大きな当惑を覚えられて、悲しみを覚えられている姿が描かれています。

 悲しみとは愛ゆえの悲しみです。愛する子どもたちが自らの意思で、自分が生きたいようにだけ生きるようになってしまい完全に道を外し、神の心を顧みなくなっていく。その姿を傍観してはじめは、悲しみとともに時間を過ごされるわけですが、ついに終わりにされるリミットを決められます。

 というのも、神から離れていった秩序は、それは秩序でもなんでもなく、終わり、滅びしか先には無いからです。

 神が感動して、良かったとおっしゃられた創造の秩序は、アダムとエバが自分たちで善悪を判断し神に聞かなくなったときから堕落し、破綻し、破壊され、関係が崩されていく方向に進みました。

 アダムとエバの息子たちはお互いに殺し合いました。人間の殺し合いこそが、破綻、破壊、関係性の崩壊の最たるもの。神を離れた結果起こったことです。

神に善悪を聞かなくなって、自分たちの義によって裁きあうようになったからです。その裁き合いが今も続いている。

 しかし、主は、この世界が造られた時にはじめに発せられた喜びと感動の声、「良かった(トーブ)」という言葉を再び発するため、また創造の力ある言葉で満たすために、信仰者、証人をお立てになられます。創世記9:1。

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」

 創世記6:22。

 ノアはすべて神が命じられたとおりに果たした。

 と、記されています。

 神の言葉である主イエス。この御方の言葉に、すべて命じられたとおり従うものは、新しい命を得、死ぬことはありません。肉において死んでも、死にません。

 主が必ず復活させられます。アーメン。