創世記11:1〜9 「バベルの塔」

石井和典牧師

 バビロン帝国の首都バビロン、その都がどのようにして立ちあがっていったのかを語る原因譚がバベルの塔の物語です。この都を治めていたものはもともとどのようなものだったのか。それが創世記10:8に記されています。

 クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は、主の御前に勇敢な狩人であり、「主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ」という言い方がある。

 勇士というのは、「武力を帯びた権威者」という意味です。勇敢な狩人と記されている通りです。新共同訳以外の翻訳では「権力者」と翻訳しているものもあります。しかし、ポイントはこのニムロドの時代は祝福されて、「主の御前に」彼ら力を帯びたものが行動していたということがわかります。すなわち、これは腐敗した世に対して神の義による制裁を加えうるものとして、しかも神に喜ばれる秩序を守る役割を正しく行っていたのだということがわかります。

 ローマの信徒への手紙を読みますと、使徒たちが権威者についてどのような心を抱いていたのかわかります。ローマの信徒への手紙13:1〜4です。

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。

 この記述と、創世記とがつながっていることがおわかりになりますでしょうか。ニムロドは主によって立てられて、剣を帯びて、権威者として振る舞っていましたが、その権威者がすなわちバベルが堕落していってしまうという悲しい歴史が記されているのがバベルの塔の物語であるということです。

 しかし、大前提は「権威者は主がお立てになられている」ということです。その上で、この主のお力を信じるところに義の実現ということがあるのだということもわかります。常に主のお姿を見るということ、ここから離れるとなんであれ堕落していくという顛末をたどります。肉の存在である人類の悲しい現実です。「主の御前に」という言葉がしっかりと表現されているニムロドの時代は良かったのです。しかし、そこから彼らが考え出していったことが問題でした。

 彼らの町は、「都市化」していきました。すなわち人工物がその周りに沢山あふれるようになっていきました。それを象徴的にあらわすのがこの言葉です。創世記11:3。

 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

 自分たちの文明の力によって環境が取り囲まれていきその結果彼らはどのような心になったのかというと、それが、創世記11:4。

 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 すなわち、自分たちの文明の力を積み上げていって、「有名になろう」とした。「有名になろう」ということは、自分たちの力を誇示して、神ぬきの世界を作り上げていこうということです。

 神の力ではなくて自分たちの力。それを誇示することによって、散らされることのない安定した自分たちの好きな社会を形作ろうということです。

 力を誇示することによって、一つになり、都市の偶像化、社会の偶像化が起こります。神ぬきで物事を考え、神に栄光を帰していかないと、どんなにはじめは良いものと思われていたとしても、やがてそれによって滅びるという道を辿らざるを得ないのだということがわかります。

 バベルのときは、もはや滅ぼすことをすまいというノアとの約束の言葉の効力がしっかり効いていて、滅ぼされるのではなくて、言葉を混乱させられるという道をたどることになりました。

 それは自分たちの団結の力によって権力、権威を生み出し、それによってコントロールするという思惑をすべて打ち砕くために神がなさった神の業でありました。一つになることがあえてできないようにさせられて、力を取り上げられたということです。

 どうして教会は聖霊降臨を「バベルの塔の逆」と教え続けてきたのか。

 それは、人々が人間の力、文明の力、人工物によって一つになるということでは全くなく、 「自分たちの力を捨てきる『祈り』の中での一致」がそこにあったからです。文明の力をもって一つに集まろうとしたら、それを神が散らされた。しかし、文明の力を捨てて、自分たちの持っているものを捨て、主のみ前に全く力無きものとして、ひざまずいて自らの罪を認め、ただひたすらにキリストのご介入を待っている。そんな姿がペンテコステの弟子たちの姿でありました。

 彼らは自分たちの不甲斐なさにうちのめされていました。命をかけてもついていくと豪語していたものが、無残にもキリストをつぎつぎと裏切っていきました。にもかかわらず、キリストは何もなかったかのように赦しをもって弟子たちの共同体を訪ねてくださって「おはよう」と言ってくださった。

 その主の忍耐と赦しの中に、彼らは自らの力ではなくて、神の心によって一つになる道を選び取ろうとしました。それが使徒言行録の1:14の姿です。

 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 そこに、ペンテコステが起こりました。使徒言行録2:1〜3。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 世界中の言語がそこで話されていました。不思議な奇跡の瞬間です。しかしその共同体にはキリストに向かうという一致がありました。本来は理解しあえないような地域、文化、伝統を背負った者たちがそこに集められて、別々の言語を話していました。

 しかし、そこには神の力がありました。その力によって、使徒たちはそのペンテコステから全世界に出ていく力を得たのでした。

 「自分たちの力を誇示すること」によっては、神を失い、人々の間には対立が生まれます。互いのことを理解することができなくなって散らされていく。

 「お互いの言葉が同じ言語でも理解できなくなる」のです。当時は実際に言語がバラバラにさせられました。バラルする。バベル。創世記11:7。

 我々は、降って行って直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。

 理解力がなくなって、散らされ、混乱させられる。

 主の裁きがここにあります。しかし、それは主の憐れみでもあります。最終的な破滅に至ることのないようにという主の温情です。

 バベル、ペンテコステこのふたつの出来事が対置されて、そのことから自分たちの姿を知ることができ、どのように立ち返るのかを知ることができる私達。

 主がここまで導いてくださったとしか思えません。

 問題だらけです。しかし、主は聖霊が下り、神の霊によって一つになって力を受けるようにと、神の心を宿すものとしての歩みを与えようとされている。だから、私達は導かれて、バベルとペンテコステを目の当たりにする幸いを得ている。

 バベルで私達の姿への気づきが与えられ、ペンテコステでつくりかえられるその道が示される。キリストの前に力を捨てて、キリストの霊のご介入を待ちたい。赦しがあり、慰めがあり、新しく力を受ける道がここにあります。 

 「自分たちの力を捨てて、心を合わせて熱心に祈っていた。その民を主が憐れみを満たし、聖霊で満たして送り出してくださった。」

 そんな言葉が刻まれる共同体でありますように。アーメン。