創世記12:2〜3 「祝福の源」

石井和典牧師

 アブラハムは主によって選ばれた人です。アブラハムという名前は「多くの国民の父」という意味です。彼は主に選ばれて、すべての民を救い出すためのイスラエル民族の基となります。後に主イエスがイスラエルの民の中からお生まれになられます。

 アブラハムはすべての民の救いのために新しく選ばれた人です。すでにあった民族の中から一つを特別に選ばれたというわけではありません。

 すべての民を救うために、この民を新しく形作られたということなのです。その目的は、一つの民だけではなくて、すべての民族を救うためにです。万民に祝福を与えるためです。

 土曜日の早天礼拝でも口にしてしまいました。ユダヤの民のように、律法をはじめから持っていて学ぶことができ、あらゆる生活習慣を通して主を知るといことはなんと素晴らしことなのかと。私も生まれたときから聖書の民として歩みたかったというような内容を。

 しかし、彼らは非常に多くの困難や迫害を経ることになりますし、何より主によって御言葉を与えられたがゆえに、他の民よりも厳しく打たれ、懲らしめられて、裁きを受けていきます。

 やはり彼らは最前線であり、試みの多い民。その民に選ばれていなかったということは逆に言えば幸いなこと。

 我々は彼らから学び、傷だらけの歴史を通して、同じ罪を犯さないように、心を開き続けることが許されているのですから。

 アブラハムが導かれたのは、カルデアのウルからでした。お父さんのテラが生きている時代です。カルデアというのはバビロンの別名です。創世記11:31。

 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。

 彼らがカルデアで、バビロンで、ウルで以前どんな生活をしていたのか、ヨシュア記24:2〜3でわかります。

 ヨシュアは民全員に告げた。「イスラエルの神、主はこう言われた。『あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた。しかし、わたしはあなたたちの先祖アブラハムを川向こうから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。

 ユーフラテス川の向こう側、すなわちカルデアのウルに住んでいたとき、どんな生活をしていたのかというと、「神々を拝んでいた」のです。アブラハムに関しては、唯一神信仰を抱いて、偶像信仰と戦ったと言うような伝承が受け継がれていますので、この家族全体が唯一信仰に立ったからウルを追われていったのかもしれないとも言えます。しかし、アブラハムの父テラにおいて間違いなくこのバビロンでの生活を受け継いでいたものであり、偶像信仰に立っていたということが言えます。

 主はこのバビロンのテラを導き出し、偶像崇拝と決別させ、その息子アブラハムに明確に信仰を与えて、新しい民を導き出し、救いの業を行うとお決めになられていました。

 父の代から導きを受けていたのがアブラハムです。主の導きというのは常にあります。

 私達はこの聖書の伝承に出会い、この言葉によって歩むように今召されています。この言葉に出会うことができたことは幸い以外の何ものでもありません。

 この場所におり、親の影響や環境の影響を受け、いつのまにか、導かれていた。しかし、それは実は主のご計画が背景にあり、見ようとすれば、そこに主の目的があり、実際にそこで主の目的を発見するのならば、祝福される歩みがそこにある。

 そのような歩みがそれぞれに準備されていることを読み取ることができます。

 どうして親父さんであるテラがバビロンを抜け出し、カナンの地を目指したのか、バビロンの偶像信仰を脱することができたのか、それは主の導きとしか言いようがない。さらに、第なる計画がアブラハムを通して準備されていました。カルデアのウルを出るということは、アブラハムがすべての国民の父とされるためのプロセスでした。

 神様から受けた御言葉によって、現在、また将来の主のご意思を知ることによって、実は過去というのは思いっきり塗り替えられていきます。

 「アブラハムは信仰の父です」と私は異邦人でありながら本気で思っています。

 なぜなら、彼の信仰が義と認められたから、信仰のみによる義の父として、それゆえ、世界中の民をこの信仰に立たせることによって子供とするというこの、アブラハムの子としての歩み、信仰の子供としての歩みが極東の日本で実現している。

 神様の約束の実現。アブラハムにおいて約束されていたことが実現している様を自分の中に見ることができます。

 神の言葉、その約束の実現。彼の人生は主が約束してくださったとおりの道をたどることになりました。創世記12:1〜3。

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」

 この御言葉は重要な御言葉であり、皆様も何故主によって召されたのか信仰が与えられたのかということを明確に指し示す内容となっていますので、何度も読み返して記憶すべきです。

 神様が示してくださるところに、自分の慣れ親しんだところを離れて向かう。そのように自分を捨てて、主に従うものを主が祝福してくださる。祝福ということはあらゆる領域において神の業がその人にあるということが明確になっていくことです。

 神がともに歩んでくださっていることが、全領域において明らかになっていくことです。その人を見ると、主が守ってくださり、主が愛してくださり、主が導き、主がお仕えくださること、主の業、主の心が明らかになるということ。

 祝福と呪いということについてお知りになりたい方は、申命記11:13以下と申命記28章とを読んでいただければ分かると思います。

 神の御声を聞いて、神に従っていくと、神ご自身が近づいてくださり、神の業が起こっていきますよ。神の御声を無視して、神から離れていきすと、神がお離れになられて、神様の恵みから遠ざかっていきますよということです。

 すべての民を信仰に導き入れ、その結果、神がおられるということが明確になり、神の業がそこらじゅうで祝福の民を通しておこりますよということですね。

 バビロンにおいて起こったことは、神の祝福ではなくて、人間の名が高められることによって、有名になること。それで一つになれるんじゃないか、バベルの塔を高く積めばそれが統合の象徴となるんじゃないかということ。

 すなわち神様から頂いた祝福ということではなくて、自分たちがしたいことをしたいようにするということをもって、彼らは神の心を省みることから離れ、祝福を失い、言葉がバラバラにさせられたということを経験していったのでした。

 そこから出てきたのがアブラハム。人間中心の発想から、神中心の発想へと至り、祝福の源となります。ヘブライ人への手紙11:8に彼の信仰がどのようなものだったのかを指し示す内容が記されています。

 信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。

 慣れ親しんだところから離れて、神の主導権に従って、神が示す土地に行きました。自分が住みたい場所ではありません。自分のこれまでの生活を守るではありません。神が中心なので、神のご意思に従って、出ていくことになりました。

 信仰的な回心というのはどのような時に起こるのかというと、自分自身の慣れ親しんだところから離れるということをもって起こります。自分を神様の視点で見るようになって、主のご意思が中心になっていくということ。悔い改めが起こる。悔い改め、メタノイアというのは、自分を高次元から見据えるということでもあります。

 そのためには、自分の視野から離れなければなりません。主はいつも皆様がなれていることの外側に連れ出して、自分自身が見えるようになり、そして、主に従うことと自分の思いに従うこと。この違いに気づかせるようにさせるわけです。

 「コロナ禍」というのは、我々にとっては日常の外でありました。慣れ親しんだところから強制的に離される経験を皆がしています。しかし、その中に今いて、そこで何を選び取るのか、自分自身の本当の姿と向き合い主の示してくださるところに向かうのか、それともかつての自分に戻ってしまうのか。問われています。

 主を見て、自分の慣れ親しんだところから離れ、神の心を選び取るのか、それともバベルの塔にもどり自分たちの統合の象徴によってなんとかするという発想に至るのか。

 十字架の血によって清められて、見えるようになった皆様が、これから更に主の御手を見るのか、戻るのか。問われているところです。祝福の源となるように、祈ります。アーメン。