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マタイによる福音書連続講解説教

2023.9.3.聖霊降臨節第15主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章5-8節『 祈りについて 』

菅原 力牧師

 今朝ご一緒に聞きますマタイ福音書6章の5節からは、先週の聖書箇所と、語り口が同じといっていいほど似ており、しかも内容も、重なり合っていると言っていい箇所です。先週の箇所では「施し」が語られており、今日の個所では「祈り」が語られていて、事柄は確かに違うのですが、主イエスが伝えようとしておられる芯の部分は深く重なり合っていて、大事なことが繰り返されていると言ってもいいのです。

 施しをするとき、偽善者たちのように、自分はこれから善行をするぞ、と言わんばかりにラッパを吹くようなことはするな、ということが出てきました。

 今朝の個所では「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」偽善者というのは自分の行動の本来の目的より人の視線を意識して行動や態度をとってしまう人ということです。祈る時も、祈る相手である神さまよりも、人の視線の中で振舞ってしまうのです。

 5節で語られている祈りについては少し説明が必要です。ユダヤ社会では祈りはどこでもいつでももちろんしていいものでした。それに加えて、朝、昼、夕べ、と祈りの時が決まっていました。これはユダヤ人であれば、誰もがする祈りでした。しかし、それはイスラムのように、厳密に時間が決められていて、その時間になったらどこにいようと祈りのマットいうか絨毯を引いてひれ伏して祈る、という厳格なものではないけれど、おおよその時間に、しかし必ず朝昼夕と祈る、それがユダヤの人々の生活でした。その際、これ見よがしに会堂や大通りの角に立って人目につくようにして祈る人たちがいたというのです。わたしは神に祈っている、というアピールするということだったのかもしれません。

 そうした人の視線を意識した祈りに対して、主イエスは「あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と言われたのです。自分の部屋というと今のわたしたちは自分専用の個室を思い浮かべますが、もちろん当時の庶民にそんな専用の部屋はなく、物置部屋、食糧などを蓄えておく部屋、とりあえず誰も来ない部屋で、戸を閉めて、父なる神に祈りなさいというのです。ここで、隠れたという言葉に心を向けてください。先週の聖書箇所にも出てきた言葉です。「隠れたことを見ておられる父」という言葉でした。今日の聖書箇所では「隠れたところにおられるあなたの父」「隠れたことを見ておられるあなたの父」とあります。隠れた、ということは、人間の目から言えば、見えないということです。人間の目には見えないけれど、見つめてくださっている方の視線の中、ということです。大事なことは、密室の祈りという場所ではなく、そこで人間の目には見えていない、しかし神のまなざしの中にある自分、が祈ることなのです。隠れたところを見ておられるとは、わたしの中のわたしも見ようとしていないわたしを見ていてくださる視線の中で、ということです。

 もちろん祈りの世界は多様で、礼拝で、共同体の中で祈る祈りもあれば、共に祈る祈りもあります。家族で食事のたびごとに祈る祈りも、目の前にいる友人のための祈りもあるでしょう。今ここで問題にしているのは、わたしが神へと向かう祈りのことです。しかし祈りはそれで途切れるものではないことはよく知っておく必要があります。共同の祈ること、一人で祈ること、それは深い循環の中にある、そのことを念頭において、主のみ言葉を思い巡らしていきたいと思うのです。

 今年1月に行われた教会の修養会は「祈りについて」というテーマで行われました。そのとき、いろいろお話しした中で念頭にあったことの一つは、どうして祈りは可能なのか、あらためて一人一人み言葉に聞いて思い巡らしていただきたいということでした。こどものころ、親がいつも祈る姿を見て、大事なことなのだろうということはよく伝わってきましたが、祈ったら、神さまの声が聞こえてくるのだろうか、という素朴な問いがずーっと子ども心にありました。祈りというのは、人間の独り言ではないのか、と思う気持ちがありました。教会の人たちが祈る姿を見ていて、その真摯な態度はわかるとしても、この人たちはこの祈りにおいて神さまの声が聞こえてくるのだろうか、という疑問はしつこく残りました。祈りは、神さまとのコミュニケーションだという人もいました。しかしそれなら、わたしが願ったこと、求めたことに対して、神さまは応答してくださっているのだろうか、そうも思ってきました。

 今週からわたしたちは主イエスの言葉に導かれて祈りについて共に聞いていくのですが、神へと向かう祈り、ということを思う時に、それは神とわたしとのコミュニケーションなのではないか、と受けとめている人は少なくないと思います。神とのコミュニケーションという場合、わたしたちはまず自分の求めとか願いとか、訴えということを考えがちですが、キリスト教的祈りとは、まず神からの語りかけ、神からのわざ、神からの愛、神の意志があって、それに応答する形で祈りが生まれていくということが決定的に大事です。

 神がまずわたしたちに語りかけてくださっている、しかもそれは、イエス・キリストの出来事において、イエス・キリストをわたしたちに与えて、そのイエス・キリストのわざ、行動、言葉、によってわたしたちに神の信実や、恵み、愛を語りかけてくださっているのです。その語りかけを聞くことから、わたしたちの信仰は与えられていくのですが、そこで祈りも生まれていくのです。わたしたち人間には誰も祈りの心がある、というような話は、キリスト教的祈りとはまた違う話です。まず神の語りかけがあり、働きがあり、それにききうけとめおうとうするところで祈りが生まれていくのです。神はその応答を待っておられる神だということなのです。その恵みを与え愛を与える神に対して、感謝をささげ、自分の窮状を訴え、助けを求め、心にあることを打ち明けていくのです。

 しかし不思議ではないでしょうか。「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ」とキリストは8節で言っておられる。ご存じなのです。御存知なのに、なぜ祈りが必要なのか。そう思う人もいるでしょう。

 神が御存知なわたしにとって必要なものと、わたしが必要と思っているものとが同じとは限らない。むしろわたしたちは、神が必要と思っていないものを求め続けているのかもしれない。いやそもそもわたしたちは自分が何を求めているのか、求めていくべきなのか、知っているとは限らないのです。そこに齟齬があることは確かなのです。だが神は私たちの祈りを求める神なのです。それは神が、わたしたちを愛しておられ、わたしたちとの交わりの中で歩むことを望んでおられる神だからです。

 例えば、わたしたちは親として、子どもが小さいころ、子どもに何が大事なことであり、必要なことをかりに知っているからといって、何のコミュニケーションもしない、というようなことはないのです。知っていても子どもとのコミュニケーションを繰り返し繰り返しするのです。それは、コミュニケーションが知識や情報の伝達に終始するものではないからです伝達すればそれでコミュニケーションが終了する、というようなものではないのです。コミュニケーションは存在の交流なのです。存在と存在が交わり、あなたとわたしが共に生きる、コミュニケーションそうした大事な役割があるのです。

 わたしたちに語りかけてくださる神が、わたしたちに応答を求めておられるのです。その応答としての祈りの中で、わたしたちは神の語りかけに何度でも聞き、何度でもその愛に出会いながら、祈る。感謝する、願う、訴える、打ち明ける、そしてその中で神のみ言葉に聞くのです。わたしの祈りが聞かれない、わたしの求めが聞かれない、その中でもわたしは神の語りかけに聞くのです。その中で、わたしたちは神との齟齬やズレに気づかされていくことも少なくない。神が与えてくださっていることと、わたしの求めとのすれ違いに気づかされることも少なくない。しかしただすれ違いに気づくだけではない。願い求めた形で聞かれないと思われる場合にも、より深い形で、わたしが思わない形で、神は私の願いを、求めて聞き届けていかれる、ということは神はなされる。さらに言えば、わたしたちが祈りにおいて神に求め、訴え、願う、その歩みの全体において神が働いてくださるということを経験する。

 先週から祈祷会ではフィリピの信徒への手紙に聞き始めました。先週聞いた言葉にこういう言葉があります。「あなた方一同のために祈るたびに、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなた方が最初の日から今日まで、福音に与っているからです。あなた方の中でよい業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださるとわたしは確信しています。」パウロがフィリピの教会の人々のために祈るたびにいつも喜びをもって祈っているというのです。それはフィリピの人たちが、信仰あつく、熱心で、喧嘩もせずに仲良くやっているから、というような話では全くなく、信仰を与えられたときから、今日に至るまで、ずっとキリストの福音を受け続けているからであり、そのようなあなた方の中で、神の救いの業が終末の神の救いの完成の時のまで、働き続けてくださっているからだ、というのです。神が、あなた方の中で救いの業を成し遂げ続けてくださっている、だから喜びにあふれて祈っているというのです。わたしたちはキリストを信じる者とされてからも、迷いもあれば、悩みもあれば、行き詰まることも、不安に襲われることもある。ちょっとしたことでつまづき、悲しみのうちに途方に暮れることもある。しかしそのよう中であってもわたしたちが神からの語りかけ、キリストからの声に聞いて、祈り、求め、訴え、打ち明けていくその歩みの中で神が働いてくださっている、というのです。これこそわたしたちの信仰の信実です。祈りつつ、神を仰ぎ、神に聞きつつ祈るものとして、歩んでいきたいと心から願うのです。