マタイによる福音書連続講解説教
2026.1.11.降誕節第3主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書26章36-46節『ゲツセマネの祈り』
菅原 力牧師
今朝朗読された聖書箇所は「ゲツセマネの祈り」と呼ばれる主イエスの受難の歩みの中できわめて有名な聖書箇所で、皆さんもこれまでに何度なく読んでこられたところであろうと思います。今朝はこの聖書箇所に聞き、神を礼拝してまいりたいと思います。
さて主イエスはオリーブ山に行く途中で、ペトロを始め弟子たちの躓きを予告したのち、オリーブ山の中にあるゲツセマネというところに弟子たちと共に行かれました。ゲツセマネという地名は「油搾り」という意味の言葉で、オリーブ山はまさにオリーブの木が生い茂り、そのオリーブの実から油を搾る場所だったのでしょう。オリーブの木の生い茂る場所に主は夜の静寂(せいじゃく)の時、祈るため弟子たちと共に行かれたのです。
「『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。ペトロとゼベダイの子二人とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。」わたしたちがこの聖書箇所を読み、自分が本当に聞こうとするなら、なぜキリストはこの時ここで祈られたのか。なぜキリストは苦しみ悩み始められたのか、しかもそれは死ぬほど苦しいと言われているが、どういう苦しみなのか、マタイ福音書を丁寧に読み返しながら思い巡らす必要があります。弟子たちと共に過越の食事をした後の話ですから、夜の時間。その時間に祈り始められる。40節に一時(ひととき)という言葉が出てきますが、これは二時間をあらわす言葉で、主はここで三度祈るのですが、その一回が二時間程度だったのです。凄まじい祈り、と言っていい。二時間ぶっ続けの祈り。しかもその祈る主イエスが苦しみ悩み、死ぬほど苦しい、この苦しいは悲しいとも訳せる言葉で、しかもそれを弟子たちに伝えているのです。いったいこの苦しみはどういう苦しみなのか。
さらにそれに続けてキリストは「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」と言われるのです。この言葉どう受けとめるべきなのでしょうか。
そして「少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。』」うつ伏せとは、顔を地面につけてひれ伏してということです。
主イエスの苦しみ悩みは、杯という言葉で言い変えられています。杯はとても多義的な象徴的な言葉ですが、今この場面では読者であるわたしたちに十字架の苦しみである、ということは伝わっていきます。しかしそれは、ただたんに十字架上で肉体的な苦しみを受けることがつらい、たんに死ぬことへの恐れ、ということを言っておられるのではない、ということもわかります。なぜならそれは主イエスにとってご自分の意思であり、使命でもあったからです。もちろんどんな意思であれ、いざそれが現実となると、恐怖やおそれの念が生じるということは誰にでもあることです。しかしそのことだけで済むような話ではない。
主イエスの十字架はたんなる刑死ということではなく、わたしたちの罪を担い、その罰としての死を死ぬ、というものでした。つまりこの死は、ローマ兵による刑死でありつつ、キリストにとってこれは神の罰としての死だったということです。これをわたしたちは真剣に受けとめなくてはなりません。つまりこの十字架の死は、神が罪人である人間に与える裁きとしての死であって、本来、このわたしが受けるべきものなのです。神が罪人に与える裁きとしての死、それがどれほど恐ろしいものか、わたしたちは知らない。というか他人事のように思っている。しかしそれはあなたが受けるべきものをキリストが代わってくださっている死なのです。
キリストはここで最高最大の罪人となって罰としての死を死んでくださったのだ、とかつてマルティン・ルターは言いました。人間の受ける罪人として裁きを全部背負われたという意味で、ルターは言ったのでしょう。それは別の言い方をすれば、罪人のひとりになる、ということです。罪人として死んでいく、ということです。それは悪魔の力に敗北して負けいていくということです。
従ってそれは、おそろしい。こわいのです。わたしたちはこれを自分のこととして受けとめていない。だから死ぬことへの恐れはあっては、罪の罰としての死へのおそれはほとんどの人は感じていない。キリストはわたしたち人間のために神の裁きを受ける、ということはわかっておられたことでしょう。しかし、今十字架を前にして、神の裁きへのおそれをキリストは受けておられる。それは避けがたいものと言ってもいい。
とすれば、「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」という主の言葉は、たんにずっと起きていなさい、というようなことではなく、この神の裁きの前で恐れおののくわたしを、そして祈り続けているわたしを目を開いて見なさい、ということなのでしょう。
キリストがこのわたしに代わって神の怒りの裁きを受けられる、その事実から目を逸らさない、ということなのでしょう。
キリストの内には神の主権、神の御力を信じるが故のおそれがあった。神はまことこの世界の裁き主であられるからです。この杯を受けることは本当に恐ろしい、苦しい、つらい、けれども私の望むようにではなく、御心のままに、というのがここでキリストの祈りです。神の前で苦しみをそのままに、おそろしさをそのままに祈る主イエス。しかし主ご自身がこの福音書の主の祈りにおいて祈られたように、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、とここでも祈られたのです。その祈りを何度も何度も繰り返されたということかもしれません。
「それから弟子たちのところへ戻ってごらんになると、彼らは眠っていた」のです。眠ったというのはもちろん夜ですから、肉体が疲れて眠るということなのでしょう。しかし根本のところにあるのは、誰のためにキリストがここで苦しみながら祈っておられるのか、ということがわかっていないということなのです。凄まじい、壮絶な、祈りの時です。激祷という日本語はありませんが、まさしく激しく祈り続けられた主の姿です。
主はペトロに声をかけこう言われた。「あなた方はこのように、一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい。」誘惑に陥らぬように、とはどういうことなのでしょうか。そもそもこれは誰に向かって言われたのか。もちろん弟子たちでしょう。
しかしこの言葉は主イエスがご自身に対して言われた言葉としても読めます。すなわち、主イエスご自身が杯を過ぎ去らせてほしいといったように、十字架という苦難抜きの救いはないか、ということでもあったのです。人間の罪を贖うのに、十字架以外の救いの道はないのか、ということを主イエスご自身も思われた。自分自身が罪人のひとりとして死んでいく以外の道はないのか。しかしそれは主イエスにとっても誘惑と言えるものだった。つまり誘惑とは神の御意志から少しであっても離れること、神のみ心から目を逸らすことであり、ゲツセマネにおける主の祈りは、まさに主ご自身の壮絶な誘惑との戦いであり、その誘惑に陥らぬようキリストご自身が祈り続けたということなのでしょう。そのキリストの十字架への歩みから目を逸らさないよう、目を覚まして祈っていなさい、と弟子たちに語られたのです。
わたしたちにとっての誘惑というのは、イエス・キリストの十字架の救い、恵みによって自分は今在る、ということから目を逸らしていくこと、眠ってしまうこと、なのです。別の言い方をすれば、キリストの十字架がなくても自分は自分で生きていけるし、やっていけると思うところ、誘惑に呑み込まれていくのです。ちょうどペトロが、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と自分の力に頼り、自分の信念に頼り、自分の持てるものでやり切れると思ったように、悪魔の誘惑はキリスト抜きで生きるようわたしたちを導くのです。
ゲツセマネで主が言われた言葉をわたしが聞くとは、わたしの生活の中で、誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈る以外にはない。キリストの十字架を眼開いてみるのです。ある人の表現では、キリストはわたしたち一人一人が地獄の苦しみを知らなくてもいいよう、ご自分が十字架に架かり、神の裁きの苦しみを受けてくださった、ということ。この聖書は地獄なんて一言も言っていないのですが、よくわかるのです。つまりわたしたちがキリストの十字架見つめるというのは、キリストが苦しまれた地獄を見ることではなく、キリストがそこでこの私を負ってくださっているという恵みを見ることなのです。わたしは確かにキリストを十字架にかけて、十字架における罰を受けさせるほどの罪人。だがしかし、私はこのキリストの十字架によって罪赦されるもの。救われたもの。そのことを見るのです。だから目を覚まして祈り続ける必要があるのです。
このキリストの祈りが三度にわたって続いたこと、そして弟子たちは三度共皆眠っていたということ。そのことを思うと、わたしたちの精神は、眠ってしまう弱さを根本持っていることを知らされるのです。本当に大切な、しかもわたしのために起こっている出来事から目を逸らそうとしたり、怠惰になったり、油断したり、自分勝手自分本位になったり、どうしようもなく眠ってしまう脆さがあるのです。
しかしそれだからこそキリストの十字架がある。それゆえにこそゲツセマネの祈りがあるのです。わたしたちはキリストの「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉を受けとめていきたい。わたしたちは日々誘惑の中にあり、日々誘惑に敗北し続けているがゆえに、くり返し目を覚まし祈っていく者とされていきたいのです。