マタイによる福音書連続講解説教
2025.12.7.アドヴェント第2主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書26章14-30節『 弟子たちに与える 』
菅原 力牧師
アドヴェントの第2主日を迎えました。わたしたちはマタイによる福音書に継続して聞いてきました。今朝もそのマタイ福音書に聞いて、アドヴェントのとき、神を礼拝してまいりたいと思います。
14節「その時、十二人の一人で、イスカリオテのユダというものが、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなた方に引き渡せば、いくらくれますか」と言った。受難週の歩み、舞台は次々変化していきます。ここでユダが登場します。12弟子の一人。彼は自分から祭司長のところに行き、イエス引き渡しの交渉をするのです。読者である我々にとってこれはとても大きな驚きであり、ショックです。12弟子のうちの一人がこんなことを考え、かつ考えるだけでなく、実行するとは。祭司長たちは、イエス逮捕のチャンスを窺っていました。ユダはそれを察知して、交渉している。幾らくれるか、という言葉は、元の言葉では何をくれるか、なので、値段交渉をした、というのとは幾分違うのですが、いずれにしてもイエスを「引き渡す」ならと交渉した。彼らは銀貨三十枚をユダに支払い、ユダはイエスを引き渡すタイミングを計っていた、というのです。驚きです。
そして舞台はまた変わっていきます。除酵祭の第1日、弟子たちがイエスの許に来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と尋ねたのです。除酵祭というのは、種入れるパンを食べる祭りのことですが、これが過越祭と実質的には重なり、一つのユダヤの大事な祭りとなっていました。主イエスは都の「あの人」のところへ行って「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と伝言を命じ、弟子たちもそのようにして、過越の食事の準備を整えたのでした。
そして、この過越の食事の席に弟子たち皆がついて一緒に食事をしている時に主イエスは「よく言っておく。あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と突然言われたのです。ユダの行動もわたしたちにとっては驚きでしたが、ここでの主イエスの発言にも驚かされます。弟子たちは非常に心を痛めた。ひじょうに悲しみ、思い悩んだという言葉です。「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めたのです。代わる代わる言い始めたということ自体、弟子たちのうち誰もきっぱりとは否定しきれなかったということでしょう。
主イエス「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸したものが、わたしを裏切る。」と言われました。過越の食事のメニューは細かく決まっていましたが、鉢の中には「いちじく、リンゴ、ナツメヤシ、アーモンド、クルミ、シナモン、葡萄酒もしくは葡萄酢からできている濃いジャム」が入っていました。それを食べものにつけて食べるのです。おそらく一つの大きな鉢に皆が順に食べ物を浸した。ここでのこの言葉で、裏切る者が特定できた、と読む人もあれば、わからない、と捉えるものもいます。
主イエスはさらに言葉を続けます。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
主イエスがここでいわれているのは、「人の子」は、何度も言ってきたように、救い主であり、苦難の主であるキリストのことですが、主は、神のみ心に従って十字架へと向かい、苦難の死を迎える。それは神の御意志であり、神のみ心であり、その御心にそって事はすすむ、と言っておられるのです。しかし、だからと言ってそこに至る道で人間の犯す罪はどうでもいいということでは決してない。人間の罪は罪としてキリストはその事実をはっきりと指摘される。
「だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」裏切りの予告にも驚かされますが、この裏切る者への主の厳しい言葉に圧倒されます。人の子を裏切るような者は、生まれてこなかった方がよかったというのですから。
古来この聖書箇所を通して、ユダの罪を語る者多く、ユダには悪魔が乗り移ったというような展開も少なくないのです。またユダについて描く文学者も少なくない。しかし、聖書を虚心に読めば、この裏切る者とは、明らかにユダだけ、とは言えない。ペトロもこの後、実質的には裏切り行為をし、他の弟子たちも結局は皆主を裏切っていくのです。確かにユダはここで一人で登場し、大祭司と引き渡しの交渉をし、大胆に明白に裏切っていく。
しかし他の弟子たちもこれほどの明白さはなくとも、形こそ違え、みな裏切っていくのです。主が言われた「あなた方のうちの一人がわたしが裏切ろうとしている」の一人は、12人のうちの一人ということではなく、12人の誰もがこの一人であるという意味での一人なのかもしれません。裏切りと言うと、何か特別な行為行動のように思う人がいるかもしれませんが、肝心な時に、その場所から立ち去っていくとか、何かの折に、キリストのことを知らないと言ったり、黙ってしまったり。日本語でも裏切りとは約束や誓いを破ってしまうというような意味だけでなく、愛の信頼期待に背いていく、答えていかない、というような広がりのある言葉です。ペトロがこの後、キリストのことを知らない、と言ったことは、福音書では裏切りとは呼ばれていませんが、実質同じです。そのことを思う時にここでの主イエスの言葉はわたしたちに重い。生まれてこなかった方がよかったと言われる罪人。それは弟子たちだけでなく、わたしたちもキリストに対する裏切りを重ねてきたのではないか、と思うからです。
ユダは主イエスに向かって「先生、まさか私のことでは」と問うています。この時気づかれたと思うのですが、他の弟子たちはイエスのことを「主よ」、と呼びかけているのに、ユダは『先生』と呼んでいます。ユダにとってイエスは主、救い主ではないのです。しかしユダは他の弟子たちと同じ言葉で、まさか私のことでは、と問うのです。しかし、主イエスはユダに「それはあなたの言ったことだ」と応えて、問い返しています。
けれども、わたしたちがさらに驚かされるのは、この弟子の裏切り予告の後、主の晩餐、主の聖餐の時がもたれていくということなのです。
一同が食事をしている時、という一同は、ユダはもちろん主イエスの弟子はみんな入っているのです。ここで主は、パンと葡萄酒を弟子たちに与える。パンはご自分の身体だと言われ、葡萄酒は多くの人のために流されるわたしの契約の血だ、と言われる。ここには主イエス・キリストの十字架があるのです。弟子たちは未だ分からずとも、この主の言葉の背後には十字架におけるキリストの死があるのです。そしてこれこそが真実過越なのです。エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民が神の恵みと導きによって、出エジプトによって奴隷から解き放たれ、新しく歩みだしたその記念の祭りが過越です。
主イエス・キリストは、ご自分の十字架による死によって、すなわちご自分の裂かれた身体と、流される血において、まことの贖いのわざがなしていかれるのです。罪人の罪を背負い、その罪人の罪の贖いがここで起こる。その恵みをこの聖餐において与えお示しくださったのです。主イエスはここでユダヤの過越の食事の席で、人間の罪の赦し、贖い、解放という過越の成就を示されたのです。
主はここで二つのことを言われました。一つはこのパンと杯はあなた方の罪が赦されるためのものだ、ということ。それはまさにユダの罪も、弟子たち一人一人の罪も、そしてこのわたしの罪も赦す十字架の贖いです。キリストの裂かれた身体であるパンを食べ、杯を飲むことによってキリストの死の、救いの力に与るということ。そしてもう一つ。「言っておくが、わたしの父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで」とあるように共に在るということです。主は甦りの主として、あなた方と共に在る。インマヌエルの主であり続ける、そのことをこの主の晩餐で示された。そしてこの物語において決定的に語られていること、それはこの食事に裏切るユダも、裏切るペトロも、他の弟子たちも誰一人排除されていない、ということなのです。生まれてこなかった方が良いと言われる者が排除されていないのです。
まさにその者の罪の赦しが十字架で起こる。まさにその者と共に主イエスはあり続ける。その赦しとインマヌエルがこの食事において弟子たちに告げられるのです。
弟子たちはいったいどんな思いでこの主の晩餐に与ったのでしょうか。ユダも、ペトロも、他の弟子たちも、一人一人、何を思ってこの食事に与ったのでしょうか。それこそ文学的にはさまざまな想像がかき立てられるところです。しかし、ここでわたしたちが受けとるべきことははっきりしています。それは弟子たちが罪赦され、インマヌエルの主と共に生きられるようになるのは、弟子たちの力や内にあるものではなく、ただ、キリストから与えられるものによる、ということ。キリストが差し出してくださった裂かれたパン、流された血、すなわち十字架の恵み、復活のいのち。それはすべてキリストが与えてくださるものです。救いは、弟子たちの何かによるものでは一切ない。だからこそ、生まれてこなかった方が良いと言われる者も罪の赦しを与えられ、復活のいのちの中で生きることが許されるのです。
アドヴェントの時に、受難の主イエスの歩みに聞くことはまことに意義深いことです。それは、クリスマスという出来事が、わたしたちのために神が決断されて、与えてくださった独り子の誕生が、わたしたちの罪の赦しとインマヌエルというまさに神の救いの出来事だったからです。
「マリアは男の子を産む。そのイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」福音書の中には、その救記の出来事が、恵みの福音が貫かれているのです。