教会暦・聖書日課による説教
2025.10.12.聖霊降臨節第19主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書24章15-31節『 わたしの言葉は滅びない 』
菅原 力牧師
先週の聖書箇所に引き続き、主イエスの言葉が続いていく場面です。
正直、わたしたちにとっては馴染み深いとは言えない言葉が連続しています。終末以前のいろいろな光景について語られているのですが、それ自体わたしたちに馴染み深いとは言えない。ですが、今日の聖書箇所を何度も読んで、ここに主イエスがわたしたちに語ろうとしておられることは、はっきり伝わってきます。
それは今日の聖書箇所の言葉で言うと、「人の子が来る」ということです。「人の子の徴が天に現れ」「人の子が来る」ということです。
今日はまず、「人の子」というこの言葉に思いを寄せるとともに、なぜ主イエスがこの言葉をここで使われたのか、そのことをお話ししたいと思います。
先週も少し話しましたが、ユダヤ教の歩みの中で、捕囚期に終わりの時の神の最終的な審判ということが預言者によって語られ、捕囚期以後の歩みの中で、神の裁き、審判、救いの完成、といった終末を語る預言者が現れてきました。
今日の聖書箇所の冒頭に出てくる預言者ダニエル、彼の預言がダニエル書に記されています。
「見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のところに着き、その前に導かれた。この方に支配権、名誉、王権が与えられ、諸民族、諸国民、諸言語の者たちすべては、この方に仕える。その支配は永遠の支配で、過ぎ去ることがなく、その統治は滅びることはない。」
このダニエルの預言にあるように、人の子なるものが現れ、救いの完成、永遠の支配、といった神の栄光があらわされていくということなのです。
「人の子」には大きく二つの意味があります。
一つはやがてやってくる救い主、という意味です。世の終わりに神からの救いの完成をもたらすもの、救世主、という意味でこの言葉が用いられていくようになるのです。まさにダニエルが預言しているとおりの方です。
そしてもう一つ、人の子は「受難の人の子」苦しみを負う救い主という理解が受けとめられていきました。苦難の僕、ということで、イザヤ書などに現れているものです。
主イエスはこの旧約時代から人々の中で息づいている「人の子」という言葉をここで積極的に用いておられる。この言葉にご自分の思いを託しておられる、そう考えていいのです。
ユダヤ教で語られたやがてやってくる救い主、「人の子」。その人の子をご自身の再臨と重ね合わせて語っておられる。そしてもう一つ、受難の人の子、ということをキリストははっきり語っておられる。つまり主イエスはご自分のことをこの旧約において預言されてきた「人の子」と同定され、救い主であって苦難の僕であるご自分の姿を重ね合わせておられるのです。やがて現れる救い主は、ただたんに救いを与えるというのではなく、わたしたちのために苦難を背負って、十字架にかかりしものとしての救い主なのだ、ということをこの「人の子」という言葉に託しているのです。つまりキリストはここで、自分は十字架にかかって死んでいくことも語っておられるのです。そして、この人の子が必ずまたやってくるのだ、再臨するのだ、とキリストはここで繰り返し語っておられるのです。
すなわち、キリストはご自分が十字架にかかる直前、この「人の子」という言葉で盛られてきたものに、ご自分の歩みを重ねて、この言葉で、神の救いの御わざを語ろうとされたのです。それは、主ご自身がやがて十字架において死んでいかれる。しかし、十字架の死において、神の働きは終わるわけでも、閉ざされるわけでもない。主は復活し、やがて神の御許に帰っていかれる。そして聖霊が与えられ、教会がキリストの福音を宣べ伝え、すべての民に福音を証しするときが与えられる。そしてキリストはインマヌエルの神としてわれらと共におられる。神は働き続けられる。そしてやがて、神の定め給う時、神が決断なさるときに、終わりの時が与えられ、救いの完成の時がやってくる。その神の歴史を貫いて働かれる御わざを語ろうとしておられる。その中でこの人の子という言葉に着目して、その言葉の持つ拡がりを弟子たち、わたしたちに指し示そうとされたのです。
わたしは十字架において死んでいく。しかしそれで終わりなのではない。死を貫き、復活・昇天を貫き、終末へと至る神の大いなる御業を仰ぎ見よ。そのとき人の子は再臨する。わたしはまたやってくる。そのことを、この神の大いなる働きの中で、受けとめ、信じて、歩んでいきなさい、ということなのです。
先週も申し上げたことですが、ユダヤの歴史においては、大国に国ごと強制連行され捕囚の身になったり、イスラエルの地に戻ってきても、外国の支配下に置かれたり、まことに厳しい現実のある中で、神による審判、神による裁き、神による救いの完成への期待は高まっていったでしょう。
一方で地震や天変地異、神殿の崩壊というような大きな出来事、戦争、飢饉、といった大きな苦難、偽預言者による惑わし、不法のはびこり、そうした地上の混乱や苦難の中で、人々は終末は近いのでは、終末はいつ来るのか、ということに心騒がせてきたのです。
しかし主イエスご自身はそういう困難が生じ、苦難に襲われたとしても、惑わされないように、慌てないように、最後まで耐え忍べ、と語られた。それは地上のどんな大きな出来事があるにせよ、それが地上の出来事であって、神が与え給う天来の出来事ではないからです。神は神のお決めになる時に、神の思われる仕方で、終末の時をお与えになるのです。
むしろわたしたちにとって大事なことは、人間がこの地上で経験するさまざまな歩み・歴史、それを貫通して、それらを超えて脈々と流れる神の救いの御わざ、ご計画、御支配、それを信じて、惑わされない、慌てない、耐え忍ぶ、ということなのです。そしてそのことが「人の子は来る」という一言の中に盛られている、この人ことを思うたびに、神の救いの御わざを思い起こす必要があるのです。
30節で主イエスは「その時、人の子の徴が天に現れる」と言われた。人の子の徴とは何かといえば、苦難の人の子であり、すなわち、十字架でありましょう。
天に十字架が現れるというのです。天に十字架の姿が現れる、すなわち、十字架につけられたままのキリストの姿が現れ、示されるというのです。「そしてその時、地上のすべての部族は悲しみ」とは、自分たちの罪のゆえにキリストを十字架につけてしまったことを悲しむのです。自分自身の罪を悲しむのです。
「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗ってくるのを見る。」確かに、その終わりの時に、人の子の徴、十字架につけられたままのキリストがしるしとして現れる。しかしそのキリストがやがて、大いなる力と栄光を帯びてやってくる、というのです。
これはある意味終わりの日の情景描写であり、神の働きの視覚化というようなことでありましょう。
つまりキリストは十字架にかかって死んでいかれるが、その罪を負って死んでいかれる主こそがわたしたちの救い主であり、その主が栄光の主であり、まことの勝利の主なのだ、ということです。
おそらくこれを聞いた時弟子たちは、よくわからなかったに違いありません。何を言っておられるのだ、という思いを持ったでしょう。
しかし弟子たちはこの主イエスの言葉を忘れなかった。記憶したのです。だからこの言葉がここにあるのです。
主の再臨ということはあまりにわたしたちの知識や経験を超えすぎていて、わからない、という人もいるかもしれません。しかし、そもそも主イエスは神の御許におられ、この地上を超えた神の御許からこの世界にお生まれ下さったのです。それはまさに神がお定めになった、神の判断したまう時に、神が働いてくださって、この世界にお与えくださった出来事です。わたしたちはそのクリスマスの出来事は受けとめているのです。大事なことは神の壮大な救いの計画を受けとめていくことです。それは言うまでもなく、クリスマスだけが独立して存在するのではなく、クリスマスも、十字架も、復活も、昇天も、聖霊降臨も、そして再臨も、すべて一つの神の御わざなのだということです。再臨だけ切り離して、受け取るというようなものではない。そしてその神の大いなる御業の中に今すでにわたしたちは活かされ、生き、終末の救いの完成を仰ぎながら、今を歩む者とされているのだ、ということです。
人の子が来る、という主イエスの言葉は、わたしたち人間の歴史を貫き、超えて、語り続けられているのです。