マタイによる福音書2:1−12 「ひれ伏すべきお方」

石井和典牧師

神さまがどのように、現代の私たちと出会ってくださるのか。

 イエス様が2000年前の人々にどのように出会ってくださったのかを見れば、見えてきます。これまで見えなかった主との出会いが見えるようになる。それが、聖書のクリスマス物語を読むということです。

 心を開かないかぎり、第一に見るべきものが見えていない。それが私たちの歩み。それが罪の現実というものです。罪=ハマルティア、的外れという意味です。ということは、的を見て、的を得ればよい。見るべきものを見ればそれで良いということでもあります。主のご愛を見れば良い。主の御業を見れば良い。それらを見ないで他のことをしはじめるから、生きるべき歩みの初めの一歩でつまずき続けている。問題はただそれだけだったのです。

 今年最後の礼拝。主の愛を、主の歩みを一歩一歩注意深く見続ける歩みをしたい。来年もこの世の命を主が与えられるのであれば、同じ目標。基本的な目標として、主の愛を、主の歩みを一歩一歩注意深く見続ける歩みをしたい。聖書にとどまる、御言葉にとどまる。祈りのために時間をとる。すべてのクリスチャンにとって基本的なことですが、基本的な第一歩でつまずいているというのが現状です。

 御言葉を宿しているか、命を宿しているか。祈りを持っているか、神との関係が常にあるか。教会に必要なのはこの世の力ではありません。人的力ではありません。能力ではありません。財力ではありません。キリストの命が宿っているかです。聖なるものとされているかです。使徒ペトロはこのように言っています。一ペトロ1:16。

 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。

 また、一ペトロ1:23。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。こう言われているからです。

 「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

 神の言葉が、聖なる命を生み出すのです。御言葉を宿しているか。このことだけに集中してまいりましょう。聖書日課による聖書通読をしてください。祈り黙想するデボーションをしてください。祈りの時間を時を決めて必ずもってください。そのように、一番大事なことを自分の良心に聞きながら一番大事にしていくことを実際に行っていけば、人生は必ず変わります。約束いたします。私が約束するという前に、聖書が約束しているではありませんか。そのことにも気づいていただきたいと思います。「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と。

 さて本日のマタイ福音書2:1に注目してください。

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。

 ヘロデ王の時代という時代性も非常に重要です。主はあえてこの時を選んでお生まれになられたということです。当時はローマ帝国の支配下にユダヤの国はありました。言うなれば、植民支配と言うのでしょうか、しかし、自治が認められていたので、ユダヤには王がおりました。しかし、この王が実は非常に問題のある人でした。ローマ皇帝アウグストゥスからもおかしな王であると見られていたようです。アウグストゥスは「ヘロデの息子であるより、ヘロデの豚であるほうが幸せだ」と言ったと伝えられています。というのも、ユダヤ教徒は豚を食べませんので、豚は殺されないで済みます。しかし、ヘロデの息子たちは王の子どもであるにもかかわらず、次々と殺されていったからです。息子であるよりも、豚であるほうが殺されないのでましだと言う意味です。なぜ息子たちは殺されたのか。その原因は、ヘロデの疑心暗鬼です。

 ヘロデはエドム人でした。エドム人というのは、エサウの末裔という意味です。この人々はもはや異邦人として扱われていて、信仰者ではありませんでした。しかもこのエドム人がしたことはユダヤの人々にとっては許しがたいことでありました。ユダが滅んでバビロン捕囚でユダヤ人が皆連れて行かれてしまうときに、その混乱に乗じてエドム人は密かに入ってきてこの土地を奪ったのでした。だから、エドム人というだけでユダヤの人々はゆるせなかったのです。さらに、このヘロデの親父はローマの総督イドマヤという人であったのですが。だから、もとは王族ではないのです。かつてのヘロデの立場は、ローマから遣わされてガリラヤ地方の暴動を治めにやってきたローマの指揮官でありました。ガリラヤ地方を平和裏に治めたということをもってローマ将軍ポンペイウスから一目置かれ、その結果ポンペイウスに賄賂を送ってローマの力によりユダヤの王になった。そういう人でした。

 だから、皆によって推挙されて王になったという王ではなかったのです。王としての立場は神によって守られているというのではなく、ローマによって守られている。さらに、その下に従っている国民の心はみんなヘロデから離れている。ヘロデはなんとか自分の立場を守ろうと、かつての王族の娘を自分の嫁として迎えますが、そういうことをすればするほどに民は白け、信用しなくなりました。

 その末に、自分の息子も自分に謀反を企んでいるのではないかと疑うようになって、殺害しはじめたのです。妻も殺してしまいます。何をしてもユダヤの王としての正当性を得ることができないので、神殿を再建することにしました。

 極めつけとして、メシア誕生の知らせを知ったヘロデは2歳以下の男の子を虐殺します。恐ろしい闇の支配がある時代。誰もその力に逆らうことが出来ない時代。すべての人がこの王の一挙手一投足に支配されて、命の自由を感じることが難しい時代。そのような場所、時代を選ばれてメシアはお誕生なさいました。圧倒的な力に捕らえられてどうすることもできないと感じている、その人を解放する。人々を解き放つ、どんな人のところにも主がお越しくださる。そのように誰もが確信することができるように。後の時代の私たちも、この時の悲しみを思えば、小さなこの私のところにもメシアはお越しくださる。そのような憐れみと義の支配を望む主、それが世界を作られた神。その神のご性質を異邦人も、世界中の民も経験することができるように、この闇の時をあえて選ばれたのです。ちょうど詩編72篇には、義と公正について記されています。神の義とは囚われ人を解放し、貧しい人々に平和を与えることであると記されております。

 イエス様はベツレヘムでお生まれになられました。それはすでに旧約聖書のミカ書に記されていた内容でした。ミカ書5:1。

 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。

 これは先週も触れました。メシアがベツレヘムで誕生し、その方は神と一体である。その根拠となる御言葉です。イエス様が神であられるということに、救いの全てがあります。私たちが癒やされ、救われ、天に迎え入れられるという、この福音の全貌が、イエスがメシアで、神であるというこの一つのことの中にギュッと詰まっています。ですから、このクリスマスシーズンに、私たちがすべき礼拝というのは、イエス様というのはどのようなお方であるか、こころの中で思い巡らすことです。イエス様を心に思い描くことができ、まさに我々が触れることができるような距離で私たちに近しく接してくださるそのお方が、永遠の神であることを認め、受け入れることです。世界を創造された神。今もこの地球も、宇宙も、またこの地上のことはもちろん。海も山も、人の歩みも、歴史も時も支配されておられるお方。その御方が私たちの足を洗ってくださったイエスであるということを知る。そして、その御方が小さな人間に触れるために今日もクリスマス物語を通して私たちに仕えるために、今お越しくださる。

 ある地方の闇に満ちた歴史の中に、入り込んでくださったのです。疑心暗鬼にかられ、人を次々とあやめ、罪の無い子どもたちまでも、その闇の犠牲にして飲み込もうとしている。その人間の罪に入り込んで、この罪に解決を与えるために主イエスは来られたのです。だから、もうだれも、私の現実の中に主が入ってくるはずはない。私など見捨てられた存在である。私のこの小さな人生など神と関係がない、とはいえないということです。どんな人の闇の中にも、どんな人の罪の中にも、問題の中にも主はお入りくださいます。

 昨年、イスラエルのベツレヘム聖誕教会に足を踏み入れることができました。11月15日自分の誕生日にその場所におることができました。これは私以外の人にとってはどうでも良い内容です。しかし、私にとってみれば、あまりにも恐れ多い出来事でした。計画したわけじゃなく、タダツアーに参加したらまさに時を選んだかのようにその日でした。ですから、緊張をもってキリストの誕生の岩の前で写真をとりました。すると全ての写真がブレており、人に見せられないような写真ばかりでした。

 このことから、わたし自身の視点の不安定さや考えのブレや、何より聖書と祈りを中心とした生活をしていないということを、主から指摘をいただいたと受け取りました。お前の視点は常にブレていると。さらに、その時記憶に残っているのが私の前におられた恐らくフィリピンかインドネシアかどこかのクリスチャンのおばちゃんなのですが。彼女は周りのことなど気にもとめずに、必死に主の聖誕の岩の前に跪いておられました。額を文字通り地こすりつけて。私はそんなふうにはできませんでした。なぜなら、周りの目が気になるから。そして、いやぁこんなところ、ここがそのままキリスト誕生の場所なわけないでしょ。実際わからないでしょ。とか言って何か冷めた冷ややかな目で遠くから眺めていました。必死で礼拝しようとしている人に少し引いてしまっていました。その対比が自分の中でもどうにも忘れられないのです。

 主はベツレヘムに招いてくださったのに、ベツレヘムとはパンの家という意味ですが、命の命の源、その場所に。また、ダビデがエッサイのもとで生活し、そしてサムエルによって召されたその町。そこに足を踏み入れることができたのに、私の聖書への情熱や視点はブレていると。そして、真剣に礼拝する一人の人に冷ややかな視点しか持てないなんて。

 しかし、この指摘こそ、私にとってはパンでした。命でした。こんな小さな私に主は語りかけをして下さるのだと、その時から味わうようになりました。祈りに対する姿勢が変わりました。

 探し、求め、足を運ぶ。主は、その私たちの小さな一挙手一投足にもお働きくださる偉大なる神。全宇宙を支配しておられ、同時にミクロなこの一人にも注目してくださるお方であることを体験的に、実際的に知りました。

 占星術の学者たちが選ばれました。占星術の学者というのは、これは、占い師と、天文学者と、医者が一つになったような職務を担っている人です。イスラエルの民は嫌っていた人です。なぜなら、申命記にこのような記述があるからです。申命記18:9−11。

 あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

 全能の父なる神以外のものに権威や力を見出そうとするような偶像崇拝的な発想を神さまはお嫌いになられます。すべて自分の願望のために、奇跡的な出来事を使って人生をうまく運ぶためのものです。そうではない、神に従う歩みこそイスラエルの民が歩むべき道です。だから、占星術の学者は、占い師の一種だと思われてユダヤの民からは忌避されていました。そのユダヤからは嫌われた東方の博士たちが、イエス・キリスト誕生の知らせを、星を通して聞くのです。神はなんでもお用いになられます。一人の人をキリストのもとに導くために、星の動きさえも用いられる。今、ユダヤの民が忌避するような、いうなれば聖書的な視点で見たら、このようなことを行うのはやはり神さまは喜ばれないんじゃないだろうか。などと思ってしまうかもしれないけれども、そう思う必要はない、ということをこの記事は私たちに示します。信仰者たちが目を向けないようなそのところに神の業は起こります。

 キリストの系図を見てください、傷だらけの系図です。血筋や系統を大事にする人からすれば、汚れた血とも言えるでしょう。周りからは良い評価を受けなかった人たちが入っています。異邦人、犯罪者、遊女、明確に神に反する行動をした王。

 心から、神に立ち返り、神を探したい、神を見出したい、神に仕えたい。真に出会いたい。そのように自分を捨てて主のもとに来ようとするものは、誰一人例外なく神は迎え入れられます。その確信を、いま祈祷会で読んでいますダビデ王から与えられます。神さまは、殺人を犯しても、姦淫を犯しても、人のものを盗んでも、それでもその罪を心から悔いて主のもとに帰りたいと願うものを、帰ることにだけに希望をおいて涙して自らを悔いるものを必ず主は導かれます。それが神さまの義なのです。また、憐れみでもあります。義と憐れみとがクロスするところ、正さと、しかし一人の人を迎え入れたいという憐れみはときに相反することがありますが。しかし、神のもとでは、それが一つになって神が一人の人を迎え入れる行動へと向かっていかれるのです。

 占星術の学者たちは、たしかに律法に反する行動をとって来たかもしれない。全能の神がお嫌いになられる占いに手を染めてきたかもしれない。しかし、神はこのものたちの純粋に真理を求め、神に出会うためにその身を投じていく姿勢を無駄にはされない。迎え入れるために、行動を起こされるのです。キリストに出会わせるということです。キリストを前にすれば、真に神に出逢えば人は変わります。

 こんな小さな幼子に神が目を向けられ、この小さな幼子こそ救い主。この小さな家族に神は目をとめられ、この家族から偉大な業をはじめようとされている。暗い、匂いのするこの場所で。小さなこの場所から主は業をはじめられる。

 そのことを思ったら、もう跪くしかない。このものをも覚えてくださっていたのですか。あなたを忘れていたものをも導き、まことの王の前にひれ伏す幸いを得させてくださったのですか。博士たちは、全財産でありましょう、黄金、乳香、没薬を献げました。このことも預言に記されています。イザヤ書60:6。 

 シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。

 シェバというのはサウジアラビアからイエメンの方の国です。東方というのはこのサウジアラビア方面を指しています。

 信頼して、自分をささげて、心から跪ける。これ以上の幸いはこの世にはありません。

 小さなものに天の幸いを授けるために主は来られました。主の憐れみがそこに示され、一人の人が神の前によみがえり、栄光があらわされるように。主の御名によって祝福します。アーメン。