ルカによる福音書連続講解説教
2026.7.12.聖霊降臨節第8主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書4章1-13節『 荒野での誘惑 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所は主イエスが宣教の歩みを始める直前に荒野で悪魔の試みを受けられたというよく知られた聖書箇所です。
さて、今日の聖書箇所で大事な言葉、それは「試み」という言葉です。以前の新共同訳聖書では「誘惑」と訳されていた言葉、そのもう一つ前の口語訳聖書では「試み」と訳されていて、その訳語に戻った言葉です。ギリシア語でもこのどちらの意味も含んだ言葉です。この「試み」ということなのですが、実は聖書の中では肯定的に用いられることも多いのです。神の意思に本当に従っているか、それを実証させる試み、その人が不信実を超えて神のもとに立ち帰るための試み。そしてその人を練り清めるための試み。こういう用いられ方があるのです。だからこそ詩編を読むと「主よ、わたしを調べ、試してみて下さい。わたしの思いと心を確かめてください。」というような、「試み」を与えてください、という祈りがあるのです。
旧約聖書を読むと、アブラハムやモーセといったまさに神に向かって生きた信仰者が、神からの試みを受けたことが記されています。神の明確な目的があったからです。しかし、「試み」は誘惑という側面も強く持っている。わたしたちの日常はむしろ誘惑に強く引き回されている、と言えなくもない。そうしたこの「試みという言葉の拡がりを意識しつつ、今日の聖書箇所を読み進んでいきたいと思います。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川から帰られた。そして、霊によって荒れ野に導かれ、四十日間、悪魔から試みを受けられた。」まずここで気づくことは、聖霊に満たされていても試みに遭うのだ、ということです。聖霊という神の守り、導きの中に置かれていても、試みに遭遇するのだ、ということです。しかも霊によって荒れ野に導かれたというのです。ここはより厳密に訳すと荒野の中を導かれ、という文章で、荒野という場所は悪魔の住まう場所と考えられていたのです。その悪魔のいる場所の中を導かれていったのです。悪魔についての詳しい話は今日は割愛しますが、一つのことだけを言えば、悪魔というのは、中傷者、敵対者という言葉です。悪魔の働きは神に敵対することなのですが、より具体的に言えば、神と人間との交わりを断とうとするものです。悪魔にとって最大のことは、人間と神との関係に割って入って、この関係を揺さぶり、ぐらつかせ、最終的に関係を遮断させることなのです。
最初の試みは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」というものでした。主イエスはこのとき40日間何も食べず激しい空腹を覚えておられた。このとき悪魔の語らんとするのは、本当に人が飢えたり、困ったり、困窮に陥ったとき、必要なものはパンであり、その困窮に対応するお金だったりものだったりであって、もしお前が神の子だというのなら、その必要なものを与えろ、と言っているのです。人間はギリギリのところで必要なのは神の言葉とか、神の恵みではない。パンであり、お金であり、必要なものそのものなのだ、と悪魔は誘いこむ。
それに対して主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』とかいてある。」と応える。これは申命記8章の言葉です。この箇所はまさにイスラエルの民が40年の荒野での歩みを余儀なくされた試みの時を物語聖書箇所です。パンが必要なことを神はよく知っておられる。事実主は天からマナを降らせ、食べるものを与えられた。そこで神が語られた言葉を主は引用されて悪魔に応えるのです。それはそのような困窮の中で神に養っていただく恵みを受けることこそ大事なことだということです。
二つ目の悪魔の試みは、「この国々の一切の権力と栄華とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、全部あなたのものになる。」というものだった。わたしを拝むなら、この世の一切の権力と栄華を与えよう、ということです。この世で栄え、この世で力があるもの、この世で人々の思いを集めているもの、それを見せて神ならぬものを拝む、そこに悪魔の誘いがあった。悪魔を拝むとは、何も直接悪魔を拝まなくてもいい。パンを拝む、この世の力を拝む、地位や権力や社会的な力を拝む。人間の能力を拝む、自分たちの力を過信して、神抜きにやっていくなら、悪魔を拝むことになるのです。主イエスはこの悪魔の言葉に対して「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある、と応えたのです。これもまた申命記の言葉。
三つ目の試み。神殿の端に連れて立たせて「神の子ならここから飛び降りたらどうだ。」神があなたを守ってくれるだろう、という誘いでした。これを奇跡を求める誘惑と言ってもいい。病気を治してください、そうすれば信じます。この仕事を成功させてください。そういうことが起こるなら信じます。そのとき人は神を信じるのではなく、奇跡の奴隷になっていく。信仰はまるで商いのようになり、これこれのことが起こるなら信じる、という取引になる。それだけでない、ここにはさらに深い誘惑が隠されている。お前が神の子なら、ここから飛び降りてみろ、神はお前を助けてくれるだろう、というのは神を試す、という誘惑なのです。人間はいつも神を試す側に立とうとする、それを誘う誘惑なのです。主イエスはこの悪魔の試みに対して、「あなたの神である主を試してはならない」と言われていると応えるのです。やはり申命記の言葉。
悪魔の三つの試みは、さまざまな深みを持った巧みな誘惑なのですが、注目したいのは、神の子なら、もしお前が神の子であるのならと、くり返し悪魔が言っていることです。神の子の自覚に問いかけている。わかりやすく言えばこういうことです。もしお前が神の子であるなら神の子として自覚で自分で判断で事を決めたらいいだろう、神の子と呼ばれる神なのだから。これはとても微妙な誘惑なのです。神抜きに判断して自分で決めろと言っているのです。それは最初にお話しした神との関係に割って入って、神との関係を遮断することに繋がっていくまことに巧みな誘いです。悪魔の誘惑は、主イエスに対する誘惑であり、同時に、わたしたち人間に対する誘惑であるともいえる。その意味で主イエスの悪魔との向き合い方は、その応答は、わたしたちに対する大事な指し示しなのです。
主イエスの悪魔への応答、誘惑への態度は、実にシンプルな、まっすぐなものとでした。神に対する無条件の信頼と服従の態度でした。神への従順でした。
「試み」という言葉は誘惑という意味と共に、試練と訳すこともできる言葉で、この言葉は福音書以外では特にヘブライ人への手紙において繰り返し語られ、この言葉が一つのキーワードとして語られていくのです。
「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることができるのです。」
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われたのです。」大祭司というのはここでキリストのことなのですが、キリストはご自身幾多の試練をこの地上の歩みにおいて受けていかれた。そしてさらに進んでこういう言葉が記されています。
「キリストは、人として生きていおられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことのできる方に、祈りと願いを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを通して従順を学ばれました。」
キリストは一人の人間としてこの世を生きた時、困難や、苦しみや、試みを受けてきた。そしてその中でどう生きたのか、と言えば、自分を死から救うことのできるまことの神に祈りと願いを献げ、神に心と思いを向けて生きた。つまりその苦しみの中で神にいよいよ信頼し、いよいよ神に聞き従い、神との関係の中でその苦しみを、その試みを生きようとされた、というのです。キリストはそこで従順を生きたのです。従順というのは相手の言うことに逆らわないで素直に聞く、と辞書にはありますが、それは服従を生きたということです。それもいやいやではなく、感謝と喜びのうちに服従に生きた。神との関係を生きて、神に聞き、その中で、苦しみも、困難もみな生きる、それを従順を学んだといいっている。さまざまな苦しみや困難やこころみの中で、絶望したり、他の神々を拝むのではなく、この世の力やこの世のものにすがろうとするのではなく、その試みの中でいよいよ神への従順を、服従を生きた、というのです。つまりいよいよ神との関係を交わりを深められた、というのです。そしてキリストはこの神との関係の中にわたしたちを背負って入れてくださった、とヘブライ人への手紙は語っていくのです。
まさにこのキリストの歩みは福音書が語る荒野での試みの出来事なのです。
荒野での試みはある意味でこれからの地上での主の生涯の縮図であるのかもしれません。悪魔の誘惑はこれで終わるわけもなく、時が来るまでイエスを離れたとあるように、次の機会を悪魔は狙っているということでしょう。
しかし、この聖書箇所でわたしたちが驚くことは、この試みが聖霊の働きの中にあったということです。神の導きと御手の中にあったということです。誤解のないように言えば、悪魔を神が直接的に主イエスの許に遣わした、と言っているのではありません。しかし荒野という悪魔に住まうところに聖霊が導いたのです。
さらにもっと広く言えば、この世界は悪魔が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)縦横無尽に活動する場所です。そこに主イエスを遣わされた。悪魔による誘惑は単純に神からの試みと同一ではないかもしれない。しかし深く重なり合っている。だからこそ私たちはさまざまな誘惑を、神からの試みとして受けることも必要であり、そこでこそ神への従順を学ぶ、そこでこそ神への服従を生きる、そこでこそ神に聞き従うことを経験していくことが求められている、そのことを腹に据えて知る必要があります。イエス・キリストが、ご自身試練を受け、誘惑に晒され、試みの中にあって、神への従順と服従に歩まれた、その姿を忘れてはならない。そのキリストがわたしたちを神との関係へとわたしたちを背負いながら招いてくださることを忘れてはならないのです。