創世記27章18〜29節 「祝福をめぐる争い」

イスラエル

イスラエル民族の名前の由来となっている、イスラエル、すなわちヤコブという人の物語りを見てまいります。イスラエルというのは、戦うという意味の「イスラ」と神という意味の「エル」が合わさって出来た名前です。イスラエルというのは、神と戦って勝ったという意味なんです。後に、ヤコブはペヌエルという場所で神の使いとくみうちをして戦い、もものつがいが離されて歩けなくなったという出来事が起きます。

 しかし、ヤコブはこのくみうちをしていた人こそが神の使いであることを悟り、必死に足を引きずりながら、すがりつき、絶対にはなさないとしがみつきました。その神にとことんすがりつく信仰を神さまが良しとされたのです。神に徹底的にしがみつくその姿をみて、負けたよって思ってくださったのですね。神さまはヤコブに「神と戦って勝った」と言ってくださり、「イスラエル」と名前をつけてくださったのです。

 決して全能の神に人間が勝てるはずはありません。しかし、父は子を慈しみながら、かわいがって、あなたは必死にわたしと戦って、最後はしがみついて祝福してくださるまではなしませんと言って、私に勝ったねと言ってくださったのです。このイスラエル、ヤコブの話を今日はご一緒したいと思います。

ヤコブという名

 まず、ヤコブという名なのですが。この名前、あまり良い名前ではありません。創世記25章24節以下を見ますと、名前の由来が記されています。

 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。

 ヤコブはかかとをつかんでいたという意味があり、さらに欺く者という意味もあります。なぜかかとをつかむこと、欺くという意味があるのかというと。当時、中東地方で盛んなスポーツといえば、レスリングでありました。レスリングの反則わざが、相手の足首をつかむということでした。足首をつかむと必ず倒れてしまいます。

 ということは、ヤコブは、人を欺き、反則を犯してでもすべての祝福を独占しようとする人という名がはじめから与えられてしまっていたということになります。実際彼が行ったことは、その名前の通りのことでありました。

 お兄さんのエサウから、たった一回の食事と引き換えに長子の権利を奪いました。長子の権利というのは相続権でありまして、長子には他の兄弟よりも父親から二倍の財産を貰えるというものでした。それをたった一回の食事で奪い取るずる賢さを持っていました。

相続の問題で争う

 現代の言葉で言えば、相続権を巡って親父を騙して争うという内容が、創世記には記されています。イスラエル民族の初めのストーリーに描かれているということです。

 聖書は事実そのものを書いていますが、しかし編集が成されています。編集されているということはどういうことかというと、何を伝えたいのかというその伝えたいポイントというが必ずあります。

 その中で今日注目してもらいたいポイントというのが、選ばれた民は、選ばれた民だけれども、選ばれたのはその人が特別な人だからというわけではないというこちです。相続問題で争うということは、これはですね。特別な聖人を描こうとしていたら、載せたらまずい内容ですよ。まぁ、印象が悪いと言いましょうか。特に私たち日本の社会に生きているものにとって、あまりのも生々しいといいますか、そこかしこで聞く話ですよね。肉の兄弟が実は一番仲が悪かったりします。

 そう、ここに登場するヤコブは、私たちと何らかわりのないタダの人。いや、むしろ欺く人、反則を使ってでも人から利益を得ようとする人。決して聖人などではありません。これをしっかり受け止めなければなりません。その人に神の計画と導きが起こるということです。

聖書が力あるのは

 聖書が力ある神の言葉として迫ってくるのは、これが自分に向けられた言葉であると捉えることができたときです。これは私に向かって神さまが何かを伝えようとしておられると受け止めようとするときです。特別な人の話でしょ。私は違う私は選ばれていないし、私はヤコブではありません。などと読んでいたら、サササッと言葉が素通りするだけですし、神の業を見ることができなくなります。目を開かないと神の業は見えてこないのです。

 神さまはこんな人をも用いられたのか、ヤコブと似ているところが私にはたくさんある。ヤコブの問題は私の問題だなぁ、と思えるように神さまは聖書を泥臭い人間がおる場所として描かれることを願われたわけです。

 イスラエルは民族の誇りなのだ。だから、イスラエルは神と戦って勝ったスーパーマン。凄まじい超人!とは決して描かない。確かにイスラエル民族の誇りなのですが、ヤコブがすごいというよりも、このヤコブを導かれた神、ヤコブに約束を与えられた神こそがすごいのです。

 神の力を信じる神の民に、神は永遠に変わらないお方であるから、同じことをしてくださる。そのような期待をもってこの書を探り、心に刻んでいく時に、聖霊の導きにより神の業が起こります。

祝福の言葉 

 ヤコブは祝福を騙し取ります。お兄さんに変装して子山羊の毛皮をつけて、目が見えなくなってきたお父さんイサクを騙します。お父さんは「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」と言ってほぼ見抜いているように見えるのですが。騙されてしまいます。イサクは騙されたことに気づかず、ヤコブを祝福してしまいます。祝福の言葉を読みましょう。27章27節以下。

 ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは/主が祝福された野の香りのようだ。/どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」

 イサクがヤコブを祝福した内容は、食べ物とぶどう酒が途切れずに豊かにあるようにという祝福と兄弟から仕えられる権利でした。ヤコブはこの祝福をだまし取ったのですが、それでも主はこの祝福の言葉を受け継ぐものとしてヤコブを選ばれ、ヤコブにおいてこの祝福は守られて受け継がれていきます。

神の思いの恐ろしさ

 神は恐ろしいお方だなとつくずくと思います。御自分の思いを貫徹されます。御自分が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と讃えられることをお求めになられた方は、ヤコブを通して祝福が受け継がれていくことを貫徹なさいます。

 これだけの、「欺くもの」としての実力といったら失礼でしょうか、罪を犯す素質を持っているヤコブを神は祝福なさるのです。後ほど見ますが、父イサクからの祝福のみならず、神さまから直接にヤコブは祝福の言葉を聞くことになります。人間の罪よって神の業が妨害されることはない。神の業が人間によって終わりとなることはない。

ヤコブは悔い改めの人

 ヤコブに関連する物語りは創世記25章から最後までです。創世記の半分がヤコブの生涯にさかれています。彼を一言で表現するなら、我が強い人、ずる賢い人、欺く人です。部分的に読みますと、なんとヤコブはひどい人なんだという感想を持つ人が多いはずです。私も、イスラエルと言われる人がこういう人だということを知った時、ショックでした。旧約聖書をはじめて読んだのは大学生の時、20歳のときです。つまずきそうになりました。

 しかし、彼の物語を全体的に読もうとすると、目を広げて彼の人生を全体で見ようとすると、一言「悔い改めの人」であったと言うことができます。

 兄の祝福を奪ったヤコブは、住んでいたヘブロンを離れてパダン・アラムに逃げました。兄エサウがヤコブを殺そうとしていたからです。荷物すべてをもって逃げ出しましたが、途中疲れて石を枕にして寝ていると、神の使いたちがはしごを上り下りしている夢を見ました。

 神さまは夢の中でおっしゃられました。創世記28章13節。

 わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。

 ヤコブの精神状態は非常に不安定な状態に這ったはずです。父親と兄を欺くという大罪を犯し、さらに、兄に命を狙われて逃げている。極度の緊張状態だったはずです。そこで力尽きて眠った時、その時にこそ、主はヤコブに現れて、神さまのご計画、契約を伝えられたのでした。 

 あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまでは決して見捨てない。

悔い改めこそ賜物!

 そして、ヤコブは言いました。これも私たちにとって決定的な言葉でありましょう。28章16節。

 ヤコブは眠りから覚めて行った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

 これは悔い改めの言葉です。何と美しい言葉でありましょうか。神の御業を発見した瞬間に人が言う言葉です。ここから人生すべてが変わります。この悔い改めのために、これまでのヤコブの欠け、ヤコブの人生があったのです。ここに立ち返ってくるための歩みでした。ここに至ることを見越して主は、ヤコブを赦し、受け止め、ヤコブを導いておられたのです。

 悔い改めというのは絶大なる神から頂いた賜物です。悔い改めから全てが変わることを私たちも経験しています。それは、クリスチャンになったとき、何十年もその年月を重ねても、毎日毎日心を開いて主を知ろうとするものが経験する賜物です。しかし、これが絶大なる賜物であることを知るためには、主の赦しの深さと、その憐れみ、ご計画の遠大さ、そして、変わることの無い愛を知らなければなりません。

 もちろん、我々は、赦しが先にあるという状態でなければ悔い改めることはできません。裁かれ滅んでしまうという前提では、主のところに帰ることもできません。しかし、ヤコブの話を見ていてもわかりますが、悔い改める瞬間を目指して、それまでのヤコブへの導きがあることが分かるのです。罪を犯した、そこでもう終了。それが人生であったのならば、もう私たちは立つ瀬がありません。しかし、罪を犯してなお主がヤコブを追いかけて、ヤコブの夢に現れて、ヤコブに祝福の言葉を与え、ヤコブを恵みで満たすことが前提である。このことを知って、ヤコブは自分の罪を改め、涙して主に従うことができるのです。

悔い改める人は主を恐れる

 創世記28章17節。

 そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」

 神さまに向き合っている人の特徴というのは、この謙遜さです。神の前に震えるようにして、その赦しを味わいます。

 傲慢な、高飛車な人というのは、この恵みに浴していない人です。恐ろしく深く、赦され赦され、赦され続け、しかし、それでも主が契約を反故にされずに、祝福にあずからせようとされているということを知ったら、跪くしかありません。

 神の前で、自分のこれまでの不従順を悔いることができますか。できるなら、それは主からの特別な選びと、祝福が注がれている証拠です。悔い改めの賜物という絶大なる賜物を頂いているのです。主の前に自らの至らなさを悔いて涙する瞬間がありますか、あるならば、あなたは選ばれている。ヤコブのように、選ばれてしまっています。それほどに神の前に跪く賜物というのは絶大なる賜物であることを忘れないでください。

 何を言っても、何を経験しても、痛い目にあっても、悔い改めない人というのは実際にいます。自分が悪いのではなくて、他人が悪い、環境が悪い、社会が悪い、と責任転嫁して、悔い改めの涙で祈りの場を濡らすことの無い人です。御言葉に何も心が迫るものもなくただただ素通りしてしまう人もいます。

感謝をささげよう

 だから、主の前で自らの胸を打って、詩編のダビデのように、「主よ見捨てないでください」と叫ぶ心が与えられていることがどれだけ偉大な賜物であるか覚えてください。そして、感謝をささげてください。

 ヤコブは畏れおののき感謝をささげました。創世記28章18節以下。

 ヤコブは次の朝速く起きて、枕していた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。

 ヤコブはすぐに行動しました。感謝に溢れ、主の恵みに震えている人は行動しないと気が済みません。聖書を読んでいると、涙に溢れて、体が勝手に動くということを経験します。もう、だれもその人を止めることはできないでしょう。ヤコブは油を石に注ぎました。

 ヤコブが注いだ油は、オリーブ油です。当時、オリーブ油の価値は貨幣と同じです。どこでも何でも交換できました。オリーブ油は食事にも必要ですし、火をともしあかりにするためにも必要でありました。

 この時のヤコブの状況を考えてください。命を狙われて、場合によっては隠れて、潜伏しつずけなければ行けないかもしれないのです。明日がわからない状態。ますますオリーブの価値は高いものであったに違いありません。

 しかし、ヤコブは神が「見よ、わたしはあなたと共にいる。」という言葉を下さったことに信頼したのです。この言葉だけで生きていくことを決めたのです。だから、命と同じ価値があるオリーブ油を捧げ尽くしてしまうことができたのです。

誰に何をささげるか

 究極的に、この世の歩みは「誰に何をささげ得るか」ではないでしょうか。キャンプに集まってくる子どもたちに、私たち自身をささげて、この子どもたちのために祈り、信仰が手渡されるようにと祈り続ける時に、この働きを周りの人々も大切にせざるを得ないんじゃないでしょうか。

 親は子どものために命を注ぎ込んで、時間も、お金も、労力もすべてを注ぎこんで子どもが恵まれるようにと思っています。

 「誰に何をささげるか」が究極的に大事なことです。ヤコブは悔い改めて畏れおののきつつ、自分に与えられる神の恵みの偉大さを覚え、その偉大なるがゆえに、自分の持っているものを手放しても全く後悔も無いと思ったのです。

最後にヤコブの言葉を読んで終わりにしたいと思います。28章20節。

 神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。

 生涯にわたって、与えられたものの十分の一の収穫を捧げ続ける。並大抵のことではありません。しかし、ヤコブにとっては当然のことでありましたでしょう。なぜなら、食べ物、着る物、全部が神が与えたもうたものであったと気づいたですから。さらに、子孫に至るまで、徹底的に主がお守りくださるというのですから。子ども孫の代、それよりもっと先も守ってくださるというのですよ。恐ろしい恵みです。震え上がります。

 神さまとの関係性を見出し、見えないものを見るという、霊的な目が開かれば開かれるほどに、感謝が溢れ、自分自身を主のためにささげないではいられない状態になります。誰に強いられるわけでもなく、自分から進んで、主のために命さえささげるという人が起こってきた。それが教会の歩みでありました。

 自分を捨てて誰かのために身をささげたいとまで思える人は、幸いだと思います。幸いがその人に溢れていなければ、できません。 

 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイによる福音書16章24節)

 と、主イエスがおっしゃったのは、私たちをただ苦しめるだけではなくて、真の天の幸いで心が溢れるている状態を教え受け継がせるためです。幸いが、外まで出て来てしまって命まで人のためにささげうる、その真のキリスト者となる、その瞬間を見ておられるためです。主は幸いを与えようと願っておられます。

 この世の幸いで満足しないでください。それは朽ち果てます。やがて塵になります。主に従うことこそ命です。アーメン。