ルカによる福音書連続講解説教
2026.5.10.復活節第6主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書1章26-38節『 主イエスの誕生告知 』
菅原 力牧師
天使ガブリエルは先週聞いた祭司ザカリアのもとに遣わされてヨハネ誕生を告げ知らせたのに続き、一人の女性のところへ遣わされます。六か月目にと最初にあるのは、ザカリアのもとに遣わされてから六か月目に、という意味で、こんどはナザレのガリラヤという町に遣わされます。
ガブリエルが遣わされたのは、この町に住む、ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである「マリア」という女性のもとでした。
マリアのもとを訪れた天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」と呼びかけます。「おめでとう」という言葉は「こんにちは」という挨拶の言葉です。天使はマリアに挨拶し、あなたは恵まれた方だ、主があなたと共におられる、と告げたのです。マリアはこの言葉にひどく戸惑って、これはいったい何の挨拶かと考えこんだ、とありますが、マリアの戸惑いはよくわかるのです。いきなり天使が現われ、他ならぬ自分に声をかけてきて、しかもその言葉の内容はマリアの全く与り知らぬところのものだったからです。
天使は言葉を続けました。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
ガブリエルはマリアに驚くべきことを伝えます。
それはあなたは身ごもり、男児を出産する、その子はいと高き方の子、つまり神の子と呼ばれる。その子は、まことの王となり、その子による支配は終わることがない、というものだからです。イエス・キリストによる救いはこの世界を覆い治め、キリストによる救いは終わることがない、ということです。
マリアは戸惑って、何の挨拶かと考え込んだ、というのはとても真っ当な、態度だと思うのです。マリアは天使にそもそもの疑問を返しています。「どうして、そんなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」確かにマリアの疑問はもっともです。しかし、天使は最初に「あなたは神から恵みをいただいた」と告げているのです。この告知は告げ知らせは、神の恵みの中で起こることなのだ、と語っているのです。
わたしたちはここであらためてじっくりと考えてみたいのです。マリアは今天使を通して神の言葉に直面しています。わたしたちは聖書を通して、神の言葉に直面します。しかしだからと言って、はじめから神の言葉として聞けるわけではない。自分の常識や知識や経験を超えた事柄が語られていれば、疑問だけでなく、抵抗感や、納得できないものを感じます。さらに聞いて受けとろうとしても、そこに壁のように立ちはだかるものがあって聞けない、ということもあるでしょう。ザカリアの場合で言えば、自分たち夫婦はすでに高齢だという壁があって、子どもが生まれるという言葉を受け入れがたい、ということです。マリアの場合もそういう壁があったということです。しかし大事なことはそこでどうしたか、ということです。マリアはそこで天使のもとを立ち去ったわけではない。つまり、神の言葉に聞くことをやめていないのです。さらに聞くのです。
「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
天使が語るのは、今語られていること、それは聖霊が降り、神の力、神の働きによってなされることなのだ、ということです。神の力があなたを覆って働くのだ、ということです。マリアは今、そのことの前に立っているのです。あなたがどう受けとめるとか、どう理解するかという
ことに先立つ神の働きがある、と語っているのです。神の力があなたを覆う、というみ言葉の前に立たされるのです。
生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。全く驚くほかないですよ。自分のおなかに宿る子が、神の子だと聞かされて、驚かない人はいない。そもそも神の子がなぜ人間から生まれるのか。マリアの中には、戸惑いも、疑問も、抵抗感も、納得できないものも全部あったと思います。
しかし、天使の言葉に聞き続けていくのです。天使は語り続けているので、聞くのは当たり前だ、と思う人がいるとしたら、そうではない、と思います。聞き流すことも、その場を離れることも、無理です、ということもできたし、事実そうする人もいるでしょう。
けれどマリアは聞くのです。
「あなたの親類エリサベトも、老年ながら男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。神にできないことは何一つない。」
天使はエリサベトのことを語る。親類とあるのですが、どういう関係だったのかはわからない。しかしつながりのあるエリサベトのことを語り、彼女が身ごもっていることを語って、神にできないことは何一つない、と告げるのです。神にできないことは何一つない、これを直訳すれば、神からのことで不可能はない、となりますが、ガブリエルはこの告知の中で「神から」という言葉を二度使っている。一つめは30節の「あなたは神から恵みをいただいた」の箇所。そしてここでも「神から」という言葉を用いている。
マリアの妊娠、出産、そしてその子の歩み、すなわちマリアの身にこれから起こること、そして生まれてきた子の生涯、歩み、それは全部神からのことなのだ、神によるものだ、と語るのです。
神の言葉との出会いはザカリアもそうであったように、恐れを感じさせたり、戸惑いも、疑問も、反発も、納得できないものを皆含んでいます。
わたしたち一人一人も、聖書に聞き、神の語りかけに出会うとき、同様の経験をします。神の言葉はわたしの納得を超えているものでもあるのです。とすれば、わたしたちが神の言葉に聞く姿勢というのは、わかってもわからなくても、戸惑いや、疑問が湧いてきても、その中で神の言葉に自分の身体を向けていく、聞くことをやめない、ということでしょう。
マリアは天使に向かって「私は主の仕え女です。お言葉どおりこの身になりますように。」と言って自分の存在を神に向けて、応答するのです。マリアは自分の中にある戸惑いや、疑問が解消されたから応答したのではなく、それらがマリアの中にあっても、尚、神からの働き、神の力に自分の身体を差し出していこうとしているのです。わたしは主の仕え女です、以前の新共同訳聖書は「はしため」と訳していました。死語になりつつある言葉だから、仕え女という文字を見てわかる言葉にしたのかもしれません。まさに仕える女なのです。自分の思うように、自分の願いを聞いてくれて、自分に良いものを与えてくれて、という具合に神を自分の満足に仕える者としていく道、自分が主人になってしまう道
ではなく、自分が主に仕える者だ、という告白です。
だから今のわたしにはわからないこと、受け取れないことも、主のみ言葉にお仕えする中で、神がわからせてくださるかもしれない。あなたの言葉通りにこの身が用いられていきますように。あなたの御意志が、あなたのご計画が、あなたの働きがこの身において成就していきますように。
マリアの態度はわたしたち神への信仰に生きようと願う者にとって一つの在りようを指し示しています。天使を通して語られる神の言葉の前で、戸惑いや疑問や納得できないものがあっても、み言葉から退かない、という態度です。天使の言葉の射程は広く、神の子、ダビデの王座につく者、永遠にヤコブの家を治める者、その支配には限りがないこと、どれ一つとってもこの段階でマリアが十分な理解に及んでいるということはなかったでしょう。しかし彼女は自分に語られた言葉の中で生きようと願っています。全身を神に向けて、み言葉のままに自分を用いてください、という思いを天使に語っています。
今日の聖書箇所の中心にあるメッセージは何か、ということを考える時に、それは32節、33節であることを示されます。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主が、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
その支配は終わることがない、とはわたしたちの救い主であり続けてくださる主だ、ということです。現在から終末に至るまで、わたしたちを愛して、恵みの中に置き続けてくださる主だ、ということです。
この主が与えられていることに感謝し続け、喜び、そこに希望を置いて歩んでいくことこそ、大事なことです。
マリアはここで大きな役割を与えられています。そして、一人の信仰者として、み言葉に聞く態度を示してくれています。それはマリアを崇拝する、というようなことではなく、マリアの応答に、信仰の態度に、謙遜に学ぶ、ということです。
マリアが聞いた天使の言葉は、時を超えて、わたしたち一人ひとりにもこの世界に、わたしたちに神の子が与えられた、という恵みの事実を語っています。どんな状況の中でも、どんな困難の中でも、深い悲しみの中にあっても、わたしたちに神の子が与えられたこと、その御子イエス・キリストの救いの中にわたしたちは終わりなくおかれていること、そのことを受けとめていきたいと思います。