イザヤ書6:1−8 「聖なる万軍の主」

 イザヤ書は小さな聖書と言われています。なぜなら、前半部分の1章〜39章がちょうど旧約聖書39巻にあたり、後半部分の40章から66章までがちょうど新約聖書の27巻にあたり、内容的には、旧約的、新約的であるからです。前半の部分はアッシリア帝国によって北イスラエルが滅亡し、南ユダもアッシリアの侵攻を受けながらも、かろうじて命を保っていくという内容になります。歴史と主の憐れみが描かれています。

 イザヤ書の40章からは、回復と救いへの道のりが示されていく箇所となります。新約的と言われるはじまりの部分イザヤ書40:3を見てみましょう。

 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

 聖書を読み続けておられる方。何かを思いおこしませんか?そうです、洗礼者ヨハネを彷彿とさせる言葉です。洗礼者ヨハネの言葉は、新約聖書すなわちイエス・キリストのご生涯を記述していく時に、必ず初めの方に描かれる言葉、すなわちスタートの言葉と言ってよい言葉です。マタイによる福音書3:1―3。

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」

 ちゃんと見てみると、イザヤ書が引用されて福音書は始まっているのです。

 聖書は不思議な書物だと思わされます。イザヤ書を編集した人は、メシアの到来を信じていたことは間違いありませんが、しかし、新約聖書の成立と、新約聖書がどのような書物が集められて、何巻から成り立つなど知るすべはありません。新約聖書が27巻だから、回復と救いの時代を描くイザヤ書40章から66章まで、すなわち27章をひとまとまりで考えよう。などとは決して意識できないはずです。ですが、実際そうなってしまっています。まさに、イザヤ書は小さな聖書。旧約と新約の構造がある。これは、神の業としか言いようがありません。ハレルヤ。

 しかも、これをユダヤの人々は今もとりわけ重要な書物として極めて重要視して、実際にメシアがこの預言どおりやってきて国を復活させてくださると信じているのです。過去を精算し、未来を思い描くため。今のイスラエルという国が存在するために、無くてはならない書物それがイザヤ書。だから、必死でユダヤ人は今現在も祈り続けている。神殿を再建してくだるということを信じて、神殿の壁。エレサレムの嘆きの壁で涙を流しながら祈り続けているわけです。今日も壁に手をついて涙しているユダヤ人が今もいることでしょう。

 そして、旧約と新約の民、クリスチャンにとってもこのイザヤ書は無くてはならない書物です。ですから、このイザヤ書というのは実は世界と世界、時代と時代、天と地、ユダヤ人と異邦人、あらゆるものをつなぐ書物であることが分かってくるのです。神さまはあらゆる民族をつなぎ、救い出そうとされておられます。

 イザヤ書はなぜ書かれたのでしょう。イザヤの召命という出来事がその発端になります。イザヤは神から召しを受けました。召しを受けた時はBC740年頃でした。ウジヤ王が死んだ年です。ウジヤ王ははじめは非常に優れた王でした。国を安定的に統治し、隣国に奪われた領土を回復しつつ、ユダを繁栄へと導きました。しかし、ウジヤ王は晩年に変化してしまいました。彼は、王であることによって高ぶり傲慢になりました。祭司が捧げるべき香を自分でささげようとして神の裁きを受け、重い皮膚病にかかって人生を閉じました。神に従うことよりも、自分の独断によって祭儀を行ったのです。どこまでも、主の前に人は跪かなければなりません。

 イザヤはウジヤ王のいとこでありましたので、この王こそが自分の立場を守る基盤でもありました。彼が頼りにしていた王が亡くなり、これからどのように歩むべばよいのかわからなくなってしまった。そんな時に主の言葉が望みました。

 ピンチは最大のチャンスとはよく言われますが、これは信仰生活においてもその通り当てはまることです。他に頼るものがなくなってしまった時にこそ、神に立ち返るチャンスです。イザヤに与えられた預言は回復のための預言でした。王が最終的に堕落してしまったように、この時、民は神に背く行動をとるようになってしまっていました。そのうえ、大黒柱であった王を失いました。さらに、アッシリアやバビロンの力が、脅威が迫っていました。しかし、のピンチの時にこそ、耳を傾けるものには、回復の預言が与えられるのです。イザヤ書55:1−3。

 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

 神に対する飢え乾きをもって、水を求めるように神のもとに来ること、これが、あらゆる問題解決に至る道であることがイザヤを通して神は大胆に宣言されます。直面している問題自体が問題ではない。神に対してどのような態度をとるかが問題なのです。ここに記されているように、人間がなすべきことは、「耳を傾けて聞き」神のもとに「来る」ということのみです。神から離れてしまっていたとしても、神は希望の言葉をくださいます。イザヤ書1:18。

 論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる。 

 どんな状態にあっても、神ご自身が、「私が真っ白くする。」と言ってくださる。これが救いです。この神の思いゆえに、民を救うためにイザヤに召しが与えられます。

 堕落、裁き、回復。神の前に立ち返る道。この順序を是非肝に銘じてください。罪による堕落の中に自分がいるということを認めるところから回復への道はじめられます。イザヤが預言者としての働きをはじめるそのスタートも、実は堕落している自分への自覚からです、すなわち罪の自覚からスタートしております。主はある時、イザヤに幻をもって語りかけられました。イザヤ書6:1以下。

 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。

 天の父なる神の御座まで彼は引き上げられ、主からお言葉をいただきました。しかし、主からお言葉をいただく前に、彼は重大な事実に気づいています。それは、自分自身があまりにも汚れてしまっているという現実です。セラフィム、これは主に仕える天使たちですが、この天使たちは聖なる主の御前に讃美の声を上げました。3節。

 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

 聖なる主の御座の近くに引き上げられると気付かなければならないことに真っ先に気づきます。

 聖なる、聖なる、聖なる

 三回重ねられていますが、これは最上級を意味します。最高に聖なるお方。聖なるというのは、分かたれたという意味です。人間のような小さな存在ではない、偉大なるお方。全てを知っておられて、全てを知ったうえで、支配する力をお持ちのお方。万軍の主というのは、誰も対抗出来ない力をもっておられるということです。人間がいくら軍事力を持とうがそれらは主からすればひとひねりです。主には疫病も思いのままです。ダビデに裁きをくだされた時、民が疫病で三日間苦しんだという記事があります。サムエル記下の24章を見ていただくと、たった三日の疫病によって7万人の人が死にました。それは主の力によるものでした。

 私たち人間はあまりにも神さまを小さく考えすぎです。私たちの頭の中に入り切らないのが神さまというお方。聖なる聖なる、聖なるお方。私たちが想像もできない、極限の聖さを持っておられるお方です。だから、この方の御前に生きますと、もう人は屈服するしかなくなります。イザヤの反応を見てくだされば、人が神と出会うとどうなるかが分かります。イザヤ書6:5。

 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

 ウジヤ王はその傲慢さ、尊大さが原因で、裁きを受け重い皮膚病になり死にました。神の前に真実に立つ人の姿というのは、このイザヤのようになります。真実に神の前に立っていないことが全ての問題の源なのです。このことに気づいてください。神の前に立たないものの姿というのは、傲慢、尊大が全面に出て来て、最後にはそれが原因で問題に巻き込まれて裁かれるのです。

 このような汚れた私は滅ぼされて仕方なし。主が聖であるということがどういうことか分かった。ただただひれ伏して、主に滅ぼされないことを願い恐れおののくしかない。イザヤは主の前でそんな思いで一杯だったのです。

 しかし、主はそのような人をそのまま滅びの中に入れられるというお方ではあられません。自らの汚れに気付き、それを隠し立てることせずに主の前にあるものを、主は必ず清めたもう。ハレルヤ。

 結局、人の問題というのは何かというと、有るものをないかのように装い、実際の自分よりも良く見せようとし、必死で何かを隠しながら生きている。すくなくとも、私は本当に主の前に跪くまでこのような生活をし続けてきたのだなと思わされました。祈るようになってからそんな自分を認めることができるようになりました。

 頑なに弱い自分を強く見せようとし、頑なに汚れた自分を人よりも少しばかり清いものであるかのように見せようとし、頑なに圧倒的な力をお持ちの方がおられるのに、自分の豆粒のような力を誇示しようとし、人との比較の中で必死に自尊心を守っている。

 しかし、主の前には、本音の本音、本心の本心、何を中心に行動しているかなど、見え見えなのです。そのことに気付いてしまったら、隠して、堅くなっていた自分が開かれ、汚れに気付かされ、解きほぐされていきます。あまりにも憐れな自分に泣くしかありません。

 主の御前で自らの汚れを認めたイザヤには、セラフィムの一人が祭壇から炭火を持ってきて彼の唇に触れ、イザヤの罪が赦されたと告げて、解決が与えられました。イザヤは御言葉を伝える預言者として召されていましたので、神さまはその部分に特に触れてくださったということです。罪赦されたイザヤに召命があたえられます。主はこうおっしゃいました。イザヤ書6章8節。

 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 主なる神と出会い、自らの罪に気付かされ、赦しを与えられて、主の御心の偉大さを知れば知る程、赦されざるものを赦す方であることを知れば知る程に、自分をただ捧げて、主に自分を従わせて、主の御手に委ねて歩みを始めるように人は必ずなるのです。

 自分にはこの使命に耐えうる賜物がありません。私にはそういう志が与えられていません。私には無理です。私じゃなくてあの人を。キリストを知っていてもこのように主が何を与えてくださるのか、そういうことを、ネガティブに選別して、これはできないといいがちであるのが、現代ニッポンのクリスチャンの姿です。何度も私はそういう発言をクリスチャンから聞いて来ました。

 しかし、主から遣わされるということを考えて見てください。イザヤは主の御前にひれ伏し、主がおっしゃることならば全て従うという姿勢を貫いています。それは、主の赦しと、主の力とを痛いほどに理解したからでしょう。赦されざるものを赦し、復活させ、送り出す力をお持ちの方なのです。すなわち、イザヤにはこの神の力へ信仰があったのです。全能の神。あらゆる力の源であり、だれもその力を凌駕することは決して出来ない。万軍の主の実力を受け入れていれば、自分が何ができるこれができる、自分が大きい小さいは全く問題ではないということは、分かるはずなのです。

 私たち人間に神が求めておられることは、私たちに何かできるかどうかではありません。神の全能さに信頼して、神の言葉、神の召しを、私たちが聞いて、信じて、従うかどうかということです。

 イザヤは主から告げられた預言を人々に語ることによって何か自分に利益となるようなことを得たかといえば、得ていません。彼はもう召されていますが、神に仕え、天に入れられ、神からお褒めをいただいたことでしょう。しかし、彼が預言したからといって民が悔い改めるわけではなく、むしろ預言によって頑なになるとさえ言われています。世ではなんの利益も得ていません。人々は彼の言葉によって頑なになり、しかしその中にもかろうじて信仰を保ち生かされていくものが残されていく。大きなユダという全能の神の力を信じないという不信仰に陥ってしまった木を切り倒して切り株を造る。すなわち国が滅んでなお残りつづけるその切り株から、一人のメシアが与えられるという預言を残し、彼はこの世を去らなければならなかったのです。

 しかし、彼は自分に何ができるかではなく、主に聞いて、信じて、従ったのです。

 イエス様は、マタイによる福音書25:31以下で。羊と山羊の例えを用いて、天に入れられるものとそうではないものとを描き出されました。終わりの時の裁きについて語っておられます。

 この世でどう行動するのかということは、何を信じ従っているのかということと密接に繋がっています。行動に何を信じているかが出てくるのです。イエス様のこの例えは、現実の行動を通して、とりわけ人に対する接し方を通してその人のうちに神への信仰が宿っているかどうかが分かるということを教えてくれます。

 神に守られ感謝している僕(しもべ)は、すなわち神を信じてそのとおり生きてる僕(しもべ)は、どんな小さな存在に対しても、例えば旅人というどこのだれだかわからない人に対しても、恵みを施そうとします。神から恵みを受けていることを大切にしているからです。このように何を信じて何を受けているかは行動にでます。特に苦しみを抱いているものに対して憐れみを注ぐ態度をとるわけです。

 それをイエス様は、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』とおっしゃられるのです。

 聞いて信じて、従う。これを実行するには大きなエネルギーが必要です。やろうと思ってできることではない。しかし、イザヤはすぐにできています。なぜ、聞いて、信じて、従うことができたのか。その秘訣はすべて、主との出会いの中にあります。主のご存在を十分に味わい、主の御前における自分、主の偉大さと私の小ささ。これを味わえば味わうほどに、内側に聖霊の力が満ちてきます。皆様にもその力が望んでおります。主を味わい知ってください。力に満たされますように。アーメン。