「パウロの信条」テサロニケの信徒への手紙一5章:16−18  

信徒説教  三木義博

パウロとは:今日はパウロが書いた手紙の話です。パウロについてお話しますと、新約聖書には21の手紙があります。この21の手紙のうち13の手紙が、パウロが書いたか、パウロの名で書かれた手紙なのです。このことによってパウロが如何に大きな働きをしたかが分かります。

このパウロは主イエスのことを「十字架につけられたような罪人を神とするのは間違っている」と固く信じ、キリスト者を迫害した人物です。

彼は遂にエルサレムから230 ほども離れた、シリアのダマスコにキリスト者がいると分かると、そんな遠いところまでキリスト者を捕えに行くのです。ところがその途中、神の光に倒され、光の中からイエスの声を聞きます、その声でイエスこそ救い主キリストであると分かるのです。それからは、彼はユダヤ人以外の異邦人に対する宣教を、神から与えられた使命として生きた人物です。

パウロの患難:パウロはこの使命のために大変な患難に会います。どのような患難に遭ったかその患難を見てみましょう。  コリントの信徒への手紙二:23から読みます。

11:23・・・苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。 一昼夜海上に漂ったこともありました。

11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、 荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い

11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

今日の御言葉:このような患難にあってもキリストの素晴らしさのゆえに、宣教の情熱がまったく揺るがなかったのです。そのパウロが書いたのが今日のテサロニケの信徒への手紙です。この手紙はパウロが最初に執筆した手紙であると同時に、新約聖書全体の中でも最古の文書だと言われています。この最初の手紙でパウロは今日の御言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」これこそが神があなた方に望んでおられることですと言ったのです。

これはパウロの信条と言ってよいと思います。彼はいつもこの信条通り生きました。よくこの言葉だけが取り上げられ、キリスト者はそうしなければいけないと言ったメッセージがされます。でも私たちは何も分からずにいつも喜んではおられません。

喜び・祈り・感謝のわけ:パウロがこのように言うのにはわけがあります。それは当時、主イエスはすぐにでも、もう一度この世に来られる(再臨)と思っており、来られた時キリストを信じた者は天に引き上げられ、いつまでも神と共にいることに成る、その幸いに与るのだから、この希望の故に、いつも喜び、絶えず祈り、感謝しなさい、と言うのです。これが神が望んでおられることだと言うのです。

キリストの再臨:その再臨についてパウロは4章15−17節で次のように語ります。

4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。

4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

キリストの再臨が起これば、キリスト者は天に引き上げられ、神の国でいつまでも主と共にいることに成ります。この喜びは地上でどんな患難や苦しみが有ったにしても余りある幸いであるから、この幸いを思い、先ずそのことをいつも喜び、神から離れないように絶えず祈り、どんな患難や苦労があっても神の国でいつまでも一緒にいることになるのだから感謝しなさいという神の望んでおられる、彼の信条が生まれたのです。

パウロの受けた啓示:彼がこのように確信を持って言えるのは、実は神の国、第3の天を見てきたからだと証ししている箇所があります。その素晴らしさのゆえにこの世の患難や死さえも乗り越えられたのです。

証しの個所、コリントの信徒への手紙二 12章を見ましょう。

12:1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と  啓示してくださった事について語りましょう。

12:2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが(自分のことを言っています、以下同じです)、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。

12:3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。

 神がご存じです。 12:4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。

彼はあまりに素晴らしい啓示を受けたために、この幸いを何としても人に伝えようと死に物狂いで主イエスを伝えました。キリストにつながるのは、それほど素晴らしいことなのです。

教会はこのこと、即ちキリスト者は死んだ後、神の国で復活し永遠の命をもって神と共に生きる、そのことを信じる者の群です。私達は今日、私の話を聞いてくださるお一人お一人が私達と同じように「死」は神の国への出発である夢をもって、希望のある人生を生きていただきたいと願っています。

神がいつも見ていて下さる:話が別の話になるようですが、パウロにはいつも神が共にいて下さったことを思います時、旧約聖書のヨブ記を想い出しました。神がいつも私たちをも見ておられることをご理解いただくためにヨブ記のお話を少しさせて下さい。

主人公のヨブはいつ頃の人かはっきり分かりませんが、主イエスの生まれる400年以上前の人物のようです。ヨブは国一番の大富豪で神を畏れ、悪を避けた人物で、神の自慢の人物でした。

サタンの挑戦:ある時サタン(悪魔)が神の前に出た時、神がヨブの信仰を誉めます。するとサタンは、それは神がヨブを祝福して国一番の大富豪にしているからであって、彼も財産を無くすなどの災難に遭えば信仰を保てはしないでしょうと応えます。すると神はヨブの命以外は全部任せるから試してみよと言われたのです。それからサタンの挑戦が始まります。

サタンは先ず彼の息子・娘それに多くの家畜の全部を殺してしまいます。それでも神信頼を持ち続けるヨブにサタンは、今度は彼の頭のてっぺんから足の裏まで重い皮膚病に罹らせ、ヨブは素焼きのかけらで体中をかきむしるほどになります。ついに彼の妻は「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」というほどになります。

ヨブの信仰:それに対しヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸いをいただいているのだから、不幸もいただこうではないか。」と返事をします。

この言葉は多くの信仰者から座右の銘とされるほどです。

その後、見舞いに来た友人達との長いやり取りがあります。なんと46ページにも及ぶやり取りです。友人は因果応報でヨブは自分で気づかない罪によって神に苦しめられていると言いますが、ヨブには罪を犯していない確信があります。ヨブは罪を示して欲しい、と言いますが何よりも彼は、神から見放されていることに我慢が出来ないのです。

 彼はそれでも神を呪いはしませんでしたが、ヨブは自分の生まれたことを呪い、神の法廷で自分に非はないことを論証したいと訴えます。そこまでヨブが苦しんだとき、神は遂にヨブの前に現れて言われたのです。

ヨブに語る神:ヨブ記38章4節 わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。 11・12節 お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか。16節 お前は海の湧き出るところまで行き着き/深淵の底を行き巡ったことがあるか。17節 死の門がお前に姿を見せ/死の闇の門を見たことがあるか。18節 お前はまた、大地の広がりを/隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。

などこのような質問を54も投げかけられます。

神はこのように、これら全てを、私が定め私が造った。その私がお前を見ているのだ!と言わんばかりに言われたとき、ヨブは気付くのです。この神が、塵に過ぎないこの自分のことを見ておられ、このように現れて下さった!神はこんな自分をも、見て下さっていたのだと気づきます。

神は見ておられる:私たちもそうなのです。私たちは神なんか私と関係がないと思いがちです。神から返事がないと思ってしまいます。だけど神は知って下さっているのです。

神なんか信じない、私は神と関係がないと思っている方がおられるかも知れません。でも神は必ず見ておられます。このことだけはぜひ信じて下さい。

聖書は信仰を伝える為に書かれています。ヨブを書いた記者はヨブの物語を通して“神は人がどんな状況にあろうとも必ず見ていて下さる”そのことを伝える為に書いたのだと私は信じています。

皆さん、主イエスはクリスチャンのために十字架に架かられたのではありません。

神に背を向けて、神を無視して生きてきた、その罪を赦すために、全ての人の身代わりとなって十字架にお架り下さったのです。

主イエスご自身は、私たちの罪のために十字架にかかる必要があったのでしょうか。何もないのです。何もないのにそうして下さったのです。ここに神の愛があります。この神の愛を無駄にしないでくださいと願うばかりです。

終わりに:神は必ず私たちを見ていて下さっています。主イエスは十字架によって、全ての人に神の国に入れる恵みを既に与えて下さっているのです。そのことを信じるだけで、神の国に入れる希望に生きることが出来るのです。

神を信じ、行く着く先は天の御国であることが信じられたとき、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とパウロが言った、神の望んでおられる信条が自分の信条となります。

神を信じ、神が見ていて下さっている信仰に生きて、死をも乗り超える希望に生きようではありませんか、祈りましょう。