ヨハネによる福音書 5:1〜18 「起き上がりなさい」

 何も為す術のない病というものがあります。光を見出すことができずに、闇の中に沈み込んでしまう。しかし、唯一希望があります。それは、もしも、天使の力にふれることができるなら。神的な力に預かることができるならば解決されるかもしれない。というものです。しかし、それは逆に言えば、もう人間的な希望はすべてついえたということでもあります。

 そのような癒やされざる病を抱えた人々が、ベトザダの池という場所に集まっていました。エルサレムの神殿から北に数百メートルのところにある池です。ここには5つの回廊があり、病める人々はその回廊で待機をしておりました。ある一瞬のチャンスを狙って。ヨハネによる福音書5:4。(新共同訳ではヨハネ福音書の最後に載っています。)

 彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。

 ベトザダというのは「恵みの家」とか「憐れみの家」とか訳すことができますが。ここは病める人にとっての最後の望みの場所。神の恵みがくだされる場所。憐れみによって触れていただく場所となっていたのでした。しかし、天使が舞い降りる時というのは限られていたようで、というよりもそれはほとんどないような状態のようで、人々がたくさんそこで待機しなければならない状態だったのです。しかし、どんな病気にかかっていてもいやされたと記されています。ヨハネ5:3。

 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。

 どんな病気なのか分かりませんが、三十八年も病気で苦しんでいる人がその中におりました。人生の大半を病と共に過ごした人です。ベトザダの池に来ているということですから、神さまに触れていただいたらもしかして癒やされるかもしれないという期待をもっていたはずです。しかし、彼の心の中にはあきらめの思いも漂っていたことがわかります。

 イエス様が現れて、「良くなりたいか」と問われます。そのまま「はい」とか「癒やしてください」とかいう言葉を使うのではなくて、彼はこのように言います。5:7。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りて行くのです。」

 天使が現れて、神の力がそこに満ちたとしても、その池の中に自分を投入してくれる人がいない。だから、決して自分はこの恵みに、憐れみにあずかることはできない。どうにもならないんです、という言葉です。この言葉からわかることは、病める者たちの間にも競争があり、人を押しのけて、自分が自分がというところがあったということです。長年苦しんできたものから解放されるのであれば、人のことを放ってまずは自分がと考えるのが当たり前なのかもしれません。

 環境も、人も、自分に対してうまく働いてくれるわけではありません。どこに行っても競争があるし、どこに行っても自分が蹴落とされてしまうという世界があります。しかし、そういう場所に、主イエスが入って来てくださると、その現状が打破されます。絡みついていたすべてのしがらみが解きほぐされて別の人生に投入されてしまうということが起こります。それがイエス様と出会うということです。

 三十八年間動かなかったものが動きはじめる。それが主イエスと出会うということです。

 三十八年という月日は、人間にとっては「あきらめなさい」ということを意味するスパンに思えてきます。いくら願ったところで変わることはないよ、ということをまざまざと見せつけ、提示し、あきらめさせる年月です。

 しかし、そのあきらめの極地にあるときに、主イエスと向き合うのならば、そこから別の道が示されていくという可能性があることを、この記事は私達に指し示します。キリストが見せてくださる道というのは、これまで全く想像できなかったような道かもしれません。しかし、その視野を人々に見せてくださり導きを与えてくださるかたが、主イエス・キリスト。

 彼が癒やされるということを見ていたのは、キリストだけでしたが、そのただお一人のかたに力があった。それだけが彼にとって救いでした。いや彼だけじゃなく、人類にとって救いです。キリストだけはこちらを見ていてくださる。その見ていてくださる方に唯一の父なる神の力があるのです。

 周りの人々は、「あぁ、かわいそうに。せっかく天使が現れても、彼は自分で動けないからもうどうにもならないね。誰も助けてくれないし。いつまでこのベトザダの池にいるつもりなんだろう。何も変わらないのに。」そのように思われていたかもしれない。

 しかし、イエス様だけは、彼が躍り上がって喜びの中歩みを新しく始める道を思い描くことがおできでありました。

 イエス様は、神の御力を信じて、そのとおり行動するということのお手本を私達にお見せくださいます。誰もがあきらめていること、周りも、本人も。あきらめていることを、あきらめない。なぜなら、そこに神の業が働くのりしろはまだまだ残され続けているからです。人間が存在し、神を自ら排除しないかぎり、そののりしろは残り続ける。だから、イエス様は、この三十八年間も何も変わらない人に、ただ一人、積極的で、未来志向的で、ポジティブな視点を持つことがおできになられるのです。神の業を信じておられるからです。

 人間の業だけを信じていたら。そんなことはイエス様にはありえませんが、周りの人と同じようにただ「かわいそうな人ね」でこの病める人をみて終わっていたでしょうが、そうではない。神の力が注がれることを見るわけです。

 教会に一人の人がやってくる。その人は大きな問題を抱えている。誰もそのこころに触れることはできない。また、そのように人を寄せ付けない空気をも出している。その人に対してどう対応するか。そこに信仰のすべてが現れています。神を信じているか信じていないか。

 自分にとって心地よい対応をしてくれる人にだけいい顔をして、人を寄せ付けないような人には決して近づかない。苦手だから。それでは神を信じているとは言い難い。信じていないとはいいませんが、ここにいま現在おられる、現臨するキリストには目が開かれていません。すなわち、聖霊の見えざるお姿を心の目で見ようとはしてないということです。

 聖霊の臨在を見ていれば、困っている人にこそ、キリストが聖霊を注ぎつくし、満たそうとされているということがわかります。むしろ与えるために近づいていこうとするでしょう。

 イエス様のお言葉に注目してください。特別な言葉をイエス様はこの病める人に向かって使っておられます。5:8。

 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」

 起き上がりなさいという言葉は、建物を立て直すという意味もある言葉で、また人を復活させるという意味もある言葉でもあります。

 「起き上がれ、復活せよ!」そのようにも訳せるのです。復活するということはまた人生を建て直すということでもあります。誰も彼に期待と希望をもってはいませんでしたが、イエス様だけが、彼が神の力によって人生を建て直し、復活させることができると信じておられたということです。

 このイエス様の眼差しの中に自分がおるということを知ることだけで、人は新たな道を歩みはじめるはずです。

 誰が見捨てても、キリストだけは見捨てない。

 誰が希望を失っても、キリストだけは私に対する希望を失うことはない。

 キリストと出会うということは、信仰と、希望と愛に出会うということです。

 信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリントの信徒への手紙  13:13)

 この3つが揃うところで人はよみがえります。この3つが損なわれていくころ、人は死にます。逆はあえて私なりに表現すれば、不信、失望、ヘイト。これらが集まるところ恐ろしい死への道がその扉を開きます。

 教会はキリストの満ちている場所であるべきです。言い換えると、信仰、希望、愛で満ちている場所であるべきです。

 ということは、この三十八年間苦しんでいた病める人に対する主の視点と同じ視点がこの教会の中にある必要があります。そうでなかったらキリストがおられないことになる。どこまでも、その人が神によって癒やしが与えられるという信仰と、立ち上がったら一体どんなことをされるのであろうという希望と、その人のためにキリストに倣って、仕え尽くしていこうとする。仕えるということは、愛ですね。信仰、希望、愛。この空気があるところが教会。主の霊が強く働く場所が教会です。

 しかし、人への不信と、失望と、ヘイトがあるならば、そこはもう教会とは呼べません。キリストのおられる場所ではなくて、キリストと敵対していたファリサイ派やサドカイ派、人を律法によって裁き、自らの正しさを主張し、結局人を死に導く人たちの集団になりさがってしまいます。

 主によって癒やされた人の傍らに、イエス様の行為を批判するものたちがよってきました。非常にわかりやすいです。教会とは何か、非教会とはなにか。非教会である、キリストを批判するものたちがすぐに近寄ってきました。

 彼らの心には、神に対する信仰、希望、愛がありませんでした。あるのは、イエス様に対する不信であり、自分たちの思い通りに動かないというイエスに対する失望と、ヘイトでありました。彼らは旧約聖書的な正しさを主張する一方で神の心とは全く違うことを行っていました。

 病んでいる人が癒やされて、慰められて新しい命を見出す。これこそ神さまが願っておられることです。しかし、旧約聖書をよく知っていると自分で認めて自慢しているものたちは、イエス様の行動を批判しました。なぜなら、イエス様がなされていたことは一見すると、旧約聖書で禁じられていることのように見えるから。だから、してはならないことだ。イエス様が神を冒涜していると主張するのです。

 安息日律法に関することで彼らは批判しました。

 安息日の主は神です。神のために安息日があります。神の思いがそこで実現されていなければなりません。神は人に安息を与えるために、安息日をお造りくださいました。すべての人がその時に休まなければなりません。そこで、普段休むことができない奴隷の立場の人や、使われる側に立っている人。そういう人たちが決して労働にあたることができないように、あらゆる労働を禁じられました。このように禁止されれば、弱い立場にある人たちも、休むことができるからです。エレミヤ書という預言書の中にこのような言葉があります。エレミヤ書17:21〜22。

 主はこう言われる。あなたたちは、慎んで、安息日に荷を運ばないようにしなさい。エルサレムのどの門からも持ち込んではならない。また、安息日に荷をあなたたちの家から持ち出してはならない。どのような仕事もしてはならない。

 これらはまさに労働者が休むことができるようということです。当時の社会で言えば、使われる側にある人、言い換えると弱い立場にあった人ということです。その人達が安心して雇い人に気を使うことを一度やめて、安息日には神に集中し、魂に安息を得ることができるようにという神さまのご愛そのものの言葉なのです。

 ならば、その神の心を読み取るのであれば、安息日に苦しみの中にある人を解放し、喜びで満たし、神への感謝で溢れさせるということは、神の心に寄り添うものであり、なんの問題もないこと。いやむしろ、推進すべきものです。神さまがお喜びくださることであります。だから、イエス様はあえて人を癒すということをなされたわけですね。神がお喜びにならないようなことをイエス様はなさいません。

 しかし、自分の正しさを主張し、神の心を聞くことをやめ、もう顔もこわばって自分の正しさを主張し、相手の非を認めさせ、それによって自らの胸をなでおろすような、そういう神を排除した歩みをしている人たちが、この癒やされた人にいちゃもんをつけはじめました。ここからイエス様は迫害されるようになりました。

 イエス様だけは、この人が床を担いで歩くことができるように願ってくださいます。主イエスと父なる神が思っておられることと、また真逆のことがこうやって聖書の中にわかりやすく描かれることによって、神が与えてくださる光に向かうということはどういうことか、逆に闇に閉じ込められ、縛り付けられていくということはどういうことかよくわかります。闇は「正しいことをしている」とか「正しい主張をしている」とか「正しい批判をしている」とかいう体をとって、周りの人達をその正しさで扇動し巻き込みながらある人を、血祭りにあげるために近づいてくるということがわかります。

 キリストはそういう闇に入っていかれました。十字架にご自身がかけられました。その闇の中で処刑され、犠牲となられたのです。

 しかし、キリストは復活なさいました。闇に勝利しました。だから、私達も私達の周りにある闇に勝利することができます。復活の力をわが内に宿すことによって勝利できます。復活の力をわが内に宿すとは、キリストの愛で自分を満たすということです。

 この一人の38年間癒やされずにいた人に向かったキリストの、信仰、希望、愛で満たすということです。誰が願わなくても、キリストは癒やされざる人が癒やされて立ち上がることを願われる。誰が失望して、あなたを捨てたとしても、キリストだけは希望をもち、神の力によって立ち上がることをその視野に入れてくださる。キリストは癒やされたいという思いに応えて近くにお越しくださって、愛を示してくださいます。受けましょう。満たされましょう。そして、主の器としていただきましょう。アーメン。