ルカによる福音書 24:36〜48 「驚き、喜び」

知る

 主イエスについて知っていることと、主イエスを知ることは違います。情報をただ受けただけでは、出会っているとは言えない。目の前におられ出会っていても、出会っていない、主イエスご本人だと認識できないという驚くべき状況がエマオ途上で弟子たちに起こった様をみました。

 復活されたイエス様がご自分のことを旧約聖書を通して説明しているのに、はじめは理解できませんでした。その状況はルカ24:16に記されています。

 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

 なぜ遮られていたのか。復活するという主イエスご自身からの宣言、預言は受けていました。しかし、自分たちが抱えている現状の方が先であり、神の言葉よりも今自分が抱えている悲しみが先だったのです。自分の思いによって目が遮られていてはいつまでたっても真実に到達することはできません。

 しかし、そんな弟子たちにイエス様が近づいてくださり、聖書を説明してくださって、旧約聖書からお語りくださいました。食卓を共にしていた時に目が開けました。これまで起こった謎の全てが稲妻のように神の言葉によって貫かれて繋がったのです。しかし、その時にイエス様のお姿は見えなくなりました。

 出会っているけれども、出会ってはいない。見えてはいるけれども、見えてはいない。主イエスについて知ってはいるけれども、知らない。しかし、その状態を打破して下さるのは、主イエスご本人の御言葉と主イエスご本人の忍耐強い、弟子に向かう愛です。

 改めて何度も、今まで言ったことも、もう一度説明しながら、また、最後の晩餐を共にするように、同じことを何度も繰り返して見せてくださり、教えてくだり、体験させてくださいました。そして、主イエスと言うお方は「あぁ、こういうお方である」と体験したら、心が熱くなっていた自分に気づいていくのです。経験していたことと御言葉とが繋がってくるのです。

熱い語り合い

 キリストにおいて起こったこと。これらを正しい意味で受け止めると、ただ情報としてではなくて、自分において起こったこと、世界において起こっていること、またこれから起こること。それらを「リアル」「現実的」なものであると受け止めることができると、どんどんその語りに熱が入ってきます。

 キリストが復活されたことが真実であるのならば、キリストがおっしゃられたことは全て真実であることになります。そうなると、福音書に書かれていることは違わず実現すると思えるようになります。この時は福音書はありませんから、主イエスの言葉と行いを注意深く記録した福音書を造らねばという発想にもなるでしょう。

 一つ一つ、お互いに思い起こしながら確認していく作業もはじまっていくでしょう。福音書が残されているということは、弟子たちがそれこそ擦り切れるほどに、弟子たちの証言を確認し、読み直し、記し、何度も反芻して一つ一つの意味をつぶさに受け止め直した結果とも言えます。

 確かに、自分において起こることがイエス様において起こったこととリアルにつながっている。おっしゃられたことは必ず実現するのだと思ったら、何十回、何百回と確認し直すでしょう。そのようにしているものの心はさらに何倍も熱くなるのです。

 主イエス様はおっしゃいました。良い土地に落ちた神の言葉は、100倍になると(ルカ8:8)。目が開かれるとそのようになります。

シャローム

 熱く語り合っていると、弟子たちのところに復活の主が現れてくださいました。主イエスはおっしゃられました。ルカ24:36。

 「あなたがたに平和があるように」

 挨拶の言葉、「シャローム」です。何もなかったかのように挨拶されます。赦しがここにあります。弟子たちはイエス様を裏切って逃げたのです。イエス様はお一人で苦しみを乗り越えて行かれました。弟子たちは寄り添うべきでした。しかし、それはできませんでした。ローマの鉄槌がイエス様に向かっていた。もしもローマの裁きに反発しようものならば、自分の命がどうなるのかわかりません。主イエスの十字架は、弟子たちにとっては逃げるしかない、そんな試練の時でした。皆が裏切りました。

 しかし、何もなかったかのように現れてくださいます。何もなかったかのように挨拶するというのは、簡単なようで難しいことです。これこそ、赦しの極地です。この神の赦しがあるからいつでも帰っていくことができます。

 一体私たち人間は何度、父である神様に対して罪を犯すのでしょう。驚くほど沢山、神を無視し、神を冒涜し、神の名を汚して、神の心を踏みにじっている。しかし、それでも「シャローム」と何もなかったかのように挨拶をしてくださるのです。いつもそうです。

 主イエスは、挨拶一つで、天の父の赦しが本当に与えられることを証ししてくださいました。挨拶一つで、神を証しできることをも思わされます。

 十字架の赦しはあなたのためであり、復活の命は信じる者たちの内にあり、永遠まで神のご計画、ご経綸の中を生かしていただける。永遠にこの祈りの世界が、神との交わりがつづけられる。主イエスの思いに、主イエスを信じついていくなら。主の思いだけが救いの根拠。主のご存在だけが救いの根拠。私たちの側には何もありません。

疑いを拭い去る

 弟子は復活のイエス様を前にして、亡霊だとおもいました。そしてうろたえました。しかし、まぎれもなく復活したイエス様でありました。手と足とをお見せになられ、信じることができるように弟子たちに近寄ってくださいました。エマオ途上の弟子には聖書を説明なさりました。一緒に食事をしてくださいました。最後の晩餐を彷彿とさせる場面をご準備くださいました。今度の弟子たちに対しては、焼いた魚を一切れ食べるという方法をもって確かに生きておられることを証しされました。彼らにとって、目の前におられる方が幽霊のようなものではなくて、生身のといいますか、現実感覚をもった実在の存在であることを見せる必要がありました。だから、彼らにとって今必要な方法をとって主は証をしてくださったのです。分かるように。

 念を押して言われます。ルカ24:44。

 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 モーセの律法というのはヘブライ語でトーラー。預言者はネヴィイーム、詩編はケトゥヴィームと言って、これを3つを合わせたのがタナハと言います。これらが集まれば旧約聖書全体と見なします。ですから、イエス様は「旧約聖書全体で語られ続けていることは、ご自身においてすべて実現したのだ」と言っておられるのです。

 これは恐ろしいことと言いますか、度肝を抜かれることです。復活自体でもちろん度肝を抜かれますが、聖書の預言、聖書の歴史、聖書の言葉、これらはすべてイエス・キリストに向かって備えられているものであると言っておられるということです。

 聖書は神を証しするものです。その聖書は私について預言しているものである。と言われたということです。ということは、ハッキリとイエス様はご自分がこれまで語られ続けてきた神であられることを、弟子たちに宣言しているということです。

 ついに歴史の終局点、終わりの終わり。結論。神と人類。その救い。その極みがイエス・キリストにおいて実現し。もう世界は結論に、終わりに向かうということが宣言されたということです。

全世界に向かう

 洗礼者ヨハネによる罪の赦しを得させる悔い改めは、一部の地域(ヨルダン川)で一部の人達(ユダヤ人)に起こりましたが、これからはイエス・キリストの名によって悔い改める人全てに罪の赦しが起こります。エルサレムから始まり、あらゆる国の人々に広がって行きます。弟子の心の目を開き、聖書を悟らせられました。ルカ24:45〜47。

 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

 主イエスの命にあずかり、復活の命が我が内にあり。例え肉が滅んだとしても、主が復活させてくださる。何より、神が覚えていてくださるということこそが命であり、この世のものはすべて過ぎ去る。どんなに強い力によって押しつぶされようとも、神の力にまさる力は無い。その絶対的な力で守られ、シャロームで満たされ、生まれた時か生を閉じる時まで、いやそれ以降の永遠の命の世界まで、神の恵の支配によって満ち満ちている。そのような、主の愛と、慈しみと恵が心の中にストンと落ちる。目が開かれればもう何も怖くない。神だけが恐れるべき対象であり、その他のものに対する視点というものが決定的に変わって行きます。行動も変わります。人が変わります。

 神は実際に世界を変える力をお持ちのお方です。偶像にはその力はありません。最終的に力のある方のところに私たちは走り込んで、自らの力を捨てて、委ねるべきです。その御方はここにおられます。キリスト・イエスです。

聖霊に満たされる

 神の業は継続的に続けられます。ここで終わりということがない。それが永遠なる神の業です。終わることがない。この世は終わります。終わりの時を主がお定めくださっています。しかし、主に終わりはない。ルカによる福音書は神の業が記された書物です。だから、続いて行きます。福音書としては本日読んだ箇所で終わりが記されていますが、「つづく」というような、このあと一体なにが起こるんだろうとワクワクさせる言葉で終わっていきます。ルカ24:49。

 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

 ルカ福音書のつづき、使徒言行録に接続されていく内容が記されています。聖霊が人々に望み、使徒ペトロが聖霊に押し出されて説教を始める箇所につながります。

 旧約聖書のヨエル書が実現したのだ、終わりの時がはじめられ、聖霊が注がれて人々が変わる。若者は幻を見、老人は夢を見る。すると人々は神から言葉を頂いて、預言をするようになる。さらに、不思議な業が起こって行く。主のご臨在をすべての人々が体感するようになる。

 使徒ペトロはダビデの詩編を引用してこのように言いました。使徒2:25以下。

 ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』

 王の中の王ダビデは、聖霊に導かれ、聖霊に満たされてこのように主のご臨在を味わい、この御方に人を復活させる力があることをよく理解し、陰府に下ったとしても、捨ておかれることはないことを知っていました。その詩編の16編の言葉、ダビデの祈りは神の霊に導かれて、キリスト・イエスを指し示すものでした。ダビデにおいて約束された永遠の王座。王の中の王であられるお方は、イエスであり。そのイエスは罪と死の力に既に打ち勝ち復活なさったのだと証をしているのです。

 この終わりの時、ついに王の王、主の主が現れた。その御方は私たちを救うのみならず、私たちを復活の証人とし、神がここにおられると周りの人が見ても、どう考えてもそのようにしか思えない不思議な業を私たちに行ってくださり、神がまことに傍らにおられることを証ししてくださるのです。

 私において起こっていること、これから起こること、これは神の業となるのだ。そのように確信した人々を誰もストップさせることはできません。主イエスは弟子たちを祝福して天に昇られました。

 弟子たちは、どうしたでしょうか。ルカ24:52。

 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 エルサレムに帰り、起こったことを伝え続け、神をほめたたえておりました。エルサレムに帰るということは、彼らにとってリスクの大きなことです。命の危険が及ぶことです。処刑されたイエスの弟子という触れ込みが知れ渡ったらどうでしょう。最高法院、律法学者、サドカイ派が押し合いへしあい、弟子たちのところにやって来て同じように十字架にかけろと叫ぶかもしれません。

 しかし、もう弟子たちにとって、リスクはリスクでなくなっていました。なぜなら、神に守られていることを確信していたから。キリストが彼らに現れてくださったから。神は彼らに味方し、彼らの中には聖霊が注がれるのですから。国を治めることもおできになる。世界を治めることをおできになる。未来を治めることもおできになる。その御方が聖霊として心の内に住んで下さるのだから。

 もう、何も怖くなかったのです。アーメン。