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マタイによる福音書連続講解説教

2026.3.15.受難節第4主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書27章32-44節 『 十字架につけられるキリスト 』

菅原 力牧師

 朗読された今日の聖書箇所は主イエス・キリストが十字架につけられる直前直後を描いた場面です。決して長い場面ではないのですが、ここにはいろいろなことが語られていることを受けとめつつ、主イエス・キリストのみ心に聞いてまいりたいと思います。

 さて、「兵士たちは出ていくと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、この人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。」以前の新共同訳聖書はここを「無理に担がせた」と訳していたのですが、こんどの訳は「徴用して、担がせた」となっています。徴用というのは、国家が国民を強制的に動員して業務に就かせることで、大げさと思う人もいるかもしれませんが、原文にはそうあり、キレネ人シモンはまさにローマに強制動員されたのです。たまたま通りかかった、という他ないこの人はいきなり十字架を担がされたのです。当時の慣習としては、おそらく十字架の縦木は処刑以前に地面に打ちつけてあり、横木を処刑される者が担いで行ったのです。主イエスは鞭うたれ、茨の冠をかぶったまま頭を棒で叩かれ、横木を担いで歩いていく状態ではなかったのでしょう。ローマ兵はこの横木を担がせるためにそこを通りかかったシモンを強制して担がせたのです。シモンのことはマルコに、ルカに出てきます。忘れることのできない光景だったのでしょう。打たれた主イエスと強制されて担がされたシモン。しかし後の教会は、ここに一つの大事なキリスト者の姿を見ました。つまりキリスト者とは、強いられて、キリストの十字架の一端を担うもの、そしてそのことを光栄に思う者のことである、と。

 「そして、ゴルゴダというところ、すなわち「されこうべの場所」に着くと、胆汁を混ぜた葡萄酒を飲ませようとしたが、イエスは舐めただけで、飲もうとされなかった。」されこうべとは髑髏、野ざらしになって白骨化した頭骨のことで、それはすなわち処刑場ということなのでしょう。胆汁を混ぜた葡萄酒とは、麻痺作用のある葡萄酒ということかもしれない。苦痛を和らげる一種の慣習だった。主イエスはそれを舐めただけで飲まれなかった、というのです。

 「彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその衣を分け合い、そこに座って見張りをしていた。」主が十字架につけられたことはわずかにここに書かれているだけ。そして当時の習慣だったようで、兵士たちはくじで衣を分け合い、座り込んで、見張りをしていた、というのです。主イエスの頭の上には「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが掲げられ、主イエスの左右には強盗が十字架刑に処せられていました。

 39節から十字架上の主イエスを嘲笑した者たちの言葉が記されています。通りがかりの者。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」通りかかった人々とありますが、それはまさに野次馬のことです。死刑を見に来た。そしてその人々が口々に言った言葉が「自分を救ってみろ」、という言葉だったのです。

 続く祭司長や律法学者たちも同じことを言うのです。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。」

 自分を救ってみろ、見ている者の誰もが思いそうなことです。その人たちから見れば、救い主と人々が言っているこの男は志半ばで、逮捕され、自分の宣教の目的も達することができず、敗北した男。人の病を癒したり、人を救ったりしつつも自分のことは全く救えない男。強さのかけらもなく、ただうなだれている敗残者。彼の周りに群がり集まっていた人々からも見放され、頼りにしていた神にも見放されて、神からも救ってもらえない男。そう見ていた人たちが多かったのではないか。それはこの人たちの救い主像をわかりやすく物語っています。

 思い起こしてほしいのです。マタイ福音書のはじめ、主が伝道を始められた直後、悪魔の誘惑を受けられたのでした。その時の誘惑の一つが、神殿の高い所に連れて行き、神の子なら飛び降りたらどうだ、というものでした。神が助けてくれるだろう、と悪魔は言うのでした。

 あの時も主はその悪魔の誘いにのらなかった。

 マタイはこの悪魔の誘惑と、十字架上で主イエスに浴びせられる侮辱の言葉とを、この福音書の枠組みのように、この二つが主イエスの生涯を囲い込んでいるように記しているのです。

 悪魔の誘惑に対して主イエスは、高い所から飛び降りることも、石をパンに変えることもなさらなかった。人であり続けられる。それは罪人の一人になって、罪人の苦しみを受けるためです。先週のところではわたしたちは主イエスの洗礼の事実に思いを寄せました。洗礼を受ける必要のない主がなぜ洗礼を受けたのか。それは主が罪人の一人となって、罪人の罪を己が身に負うて、神に赦し受ける以外にはない人間となられた、ということを聞いたのです。ここでも全く同じ。主が罪人の一人になられたとは、自分では自分を救えない人間の一人となられたということです。人間とは何か、と言えば、自分で自分を救えない者、ということなのです。キリストがこの世に来られて人となられた、それは一言で言えば自分で自分を救えないものとなられた、ということですよ。フィリピの信徒への手紙のあの有名な言葉「キリストは、神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じものになられました。」とはそういうことです。僕の形とは、罪と死の奴隷、という意味が込められた言葉で、人間と同じものになられたとは、罪と死の奴隷になるということ、従ってキリストは十字架でご自分を救えないものの一人となって十字架に架かられているのです。

 ここに居合わせた兵士たち、集まってきた群衆、祭司長、長老たち、みんな、救い主とは自分で自分を救うことも、どんな難局も切り抜けることができる、困難も力でねじ伏せ解決する、それこそ昔のテレビのアニメの主人公のようなスーパーマン的な超人を思い描いているのです。そしてそれは案外人間の心深くに根差す願望なのかもしれません。悪魔はそれを知っていたのでしょう。自分で自分を救う、どんな困難も乗り越える、その姿を見せることこそ、救い主なのだ、ということが最も深い誘惑だということを。

 そもそも、悪魔が言うように、ここから飛び降りたら神があなたを救ってくださるだろう、というのは、神を自分の意のままに利用すること以外の何ものでもない。自分の危機を困難を、自分が思うがままに神に救ってもらうというのは、人間が神を利用する最大の仕方です。そしてそれは裏返せば自分が神になっていくということに他ならないのです。神の意思に仕えるのではなく、自分の意思に神を仕えさせるのです。

 主イエスは御子キリストが人となって、罪人の罪を担い、その罪の赦しをただ神に願う以外ないものとなって、罪の罰としての死を死んでいく、罪人のために自分のいのちを献げる、それが神の意思であることを受けとめ、その意思に服従していかれるのです。従って生きられるのです。そのことをご自分の生涯の召命として受けていかれた。だから、キリストは自分を救えない救い主として、十字架に架かり、死んでいかれる。

 しかし、自分を救えないものとして死んでいかれるということは、それも十字架において人間の罪を負って死んでいくということはどういうことなのでしょうか。それは、まさに神に委ねた生、神の導きと働きに委ねた歩みなのです。キリストは神の意思を受けとめ、従い、召命と受けとめた。それは神がそこで神のよい世に生きて働いてくださる、と信じておられるからです。

 自分を救えない、それが人間の姿です。しかし同時に人間はその救えないこのわたしにおいて神が生きて働いてくださることを信じて歩むことができるのです。

 キリストが人となられた、わたしたちはそのことを時間をかけて受けとる必要があります。キリストはわたしたちのために人となられた、それはまた同時に、人とは何者か、ということを人となられたキリストにおいて知らされる、ということでもあるからです。人は、神を自分の意のままに、自分の意思に仕えさせるものではない。人とは神の意思に仕えるものだ、ということ一つをとっても、わたしたちはわかっていない場合が多い。人は自分を救えない存在。自分が根本奴隷になっている罪や死から自分では救えない存在。しかしまさにそこでただ神の恵みと導きによって活かされ、神の働きの器となる存在。キリストは人であることを生きて、わたしたちに見せてくださっているのです。ただ講釈を垂れているのではない。生きて、死んでいくことの中でそのことをわたしたちに明らかにしてくださっているのです。そしてそこで働く神の業をも信じ委ねていく姿も。

 この十字架の場所で、キリストが人間であることの姿を見せてくれている、ということを受けとめていた人はいなかったでしょう。それはその人たちの愚鈍さあらわしている、というよりも、人間の愚かをあらわしているのかもしれません。

 わたしたちもその愚かと無縁なものではないでしょう。人間とは何か、見失っていく存在なのです。

 キリストの十字架を仰ぎつつ、というフレーズがあって、わたしたちもしばしば使うのですが、そこには、重層的な意味が込められています。その大事な一つが、人であることの姿をここで受け取る、ということです。自分を救えない存在であることを知らされ、ただ、神に仕え、神に委ねて生きる存在であることを知らされ、神の働き給う器である自分を受けとめていく、そのことをキリストの十字架を仰