ルカによる福音書連続講解説教
2026.8.2.聖霊降臨節第11主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書5章1-11節『 弟子の召命 』
菅原 力牧師
主イエスの宣教の歩みが始まり、主はユダヤの諸会堂で神の言葉を語りました。次第に主イエスから神の言葉をもっと聞きたいという人が主イエスの許にやってくるようになったのでしょう。「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレト湖の畔に立っておられた。」
ゲネサレト湖というのは、ガリラヤ湖のことですが、ガリラヤ湖というのは実は俗名で、ゲネサレト湖というのが正しい呼称です。人が多かったのでしょう、湖の岸辺にまで人々がやってきたので、主イエスは二艘の舟が岸にあるのをご覧になって、そのうちの一艘の舟、シモンの舟に乗り込み、陸から少しだけ漕ぎ出すようシモンに願ったのでした。シモンは主イエスに姑を癒していただき、このときすでに面識があり、岸で網を洗っていたのですが、主イエスの依頼通り、岸から少しだけ離れた所まで漕ぎ出したのです。そして主イエスはそこで舟の上から群衆に向かって話をされた。やがて話が終り、当然岸に舟を戻すのだろうという時に、主はシモンに向って、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい。」と言われたのです。シモンを始めこの舟に乗っていた者たちは皆驚いたでしょう。善意で舟に乗せてやって、話をする間つき合っただけですよ。それをいきなり、「沖に漕ぎだせ」と言い出すのですから。そもそもシモンたちは漁師であって、漁のプロです。その漁師たちが、徹夜で漁をしたけれど何も取れなかったのです。そんなことも知らず、漁のことも知らない素人の男がいきなり船に乗り込んできて、「沖に漕ぎ出して、網を降ろせ」とは。一緒に舟に乗っていた漁師の中にはあまりの発言にあきれてものもいえない、という人もいたでしょう。
ところがここでシモンが言葉をつなぎます。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」なぜシモンはこのとき、こんな言葉で応じたのでしょうか。
ここは今日の聖書箇所でも大事な要となる箇所ですので、あえて原文通り直訳すると、「師よ、わたしたちは一晩中働いて、何も取れませんでした。しかし、あなたの言葉に頼んで、わたしは網を降ろします。」シモンが語るのは、わたしたちは一晩中苦労したが何も取れなかった。しかしあなたの言葉に信頼して、わたしは網を降ろします、というのです。他の人はどうであれ、わたしはあなたの言葉を、この言葉と訳されているのは、依然詳しく説明したレーマです。羊飼いたちが天使が告げられたことを見に行った、あの告げられたこと、マリアが「お言葉どおりこの身になりますように」と言ったときの言葉・レーマです。シモンは自分の姑がひどい熱で苦しんでいる時、イエスが枕元に立って熱を𠮟りつけられるという場面に遭遇しました。シモンはイエスの言葉に、出来事となる言葉・レーマに出会い目撃しているのです。
「しかし、お言葉ですから」という翻訳は弱い訳だと思います。「あなたの言葉ですから、わたし一人であっても網を降ろします」がシモンの肉声に近い。そこにあるのは、イエスが語られた言葉への信頼、というべきものです。
「そして、漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。」
取った魚を舟に乗せるため、もう一艘の舟にいる仲間を呼び、とれた魚をのせると両方の舟一杯になるほどの大漁だった。
シモンはこれを見て、イエスの膝元にひれ伏したのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です。」
シモンはここでシモン・ペトロと呼ばれています。ペトロというのは、後に主イエスが付けた渾名ですから、このときにはただのシモンです。しかしルカがこう書き記したのには理由があったでしょう。
シモンは、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」というイエスの言葉を退けたわけではない。漁師ならばかばかしい、と思うようなその言葉も、あなたの言葉ですから、と言ってイエスの言葉に信頼して、沖へ漕ぎ出し、網を降ろしたのです。
そのシモンがここで、「主よ」と呼びかけ直しているのです。先生とか、師ではなく、「主よ」と呼びかけ直しているのです。もちろん、シモンはここでイエスがキリスト、救い主である、ということを了解して、信仰の告白をした、いうことではないでしょう。
しかしシモンはまちがいなくここで、自分が聞き従っていく「主」に出会っているのです。信仰はさまざまな段階を経て、導かれていく。シモンはここで、まちがいなく、信仰の歩みを一歩大きく踏み出しているのです。ルカは、このシモンの姿に後のペトロをはっきりと重ねているのです。
このゲネサレト湖には大勢の人々が集まってきたのでした。しかもこの人々は奇跡を起こしてほしいと願う人たちというのではなく、神の言葉を聞こうとして押し寄せてきた人々でした。
けれども、神の言葉を聞こうとして集まってきた人すべてが、「主」との出会いを経験し、主イエスの前でひれ伏したのではない。聞いて、そして、帰っていったのです。
しかしシモンは、イエスの言葉の前で立ち去るのではなく、その言葉に聞いて、その言葉の通りにしようとしたのです。イエスの言葉に信頼したからです。
そのシモンが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い人間です。」と言ったのです。なぜなのか。
さまざまな解釈があります。シモンはイエスの言葉に信頼した、けれども今、この方の言葉が、言葉通りに出来事となるのを見て、つまりレーマに出会って、
自分がいかに不信の、罪深いものかを全身で感じたということなのでしょう。
これは、いわば、神の恵みをわたしたちが体験するとき、その恵みに全くふさわしくない自分を深く自覚する体験と重なり合うものです。
イエス・キリストの十字架の恵みが身に沁みてわかる時、わたしはいかに十字架の恵みにふさわしくない、罪の自分であるかということに気づかされていくのと等しい体験です。シモンはこのとき、まさに目の前の大漁の魚を見て、自分の力では全くなく、主の恵みによって与えられているもののおびただしさに気づかされたのでしょう。それに比して、自分の主への信仰は小さすぎる、そう受けとめたのではないでしょうか。
主イエスによる驚きのこの出来事を経験した者たちは皆驚いたのです。シモンの仲間、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも同様でした。
「すると、イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』」
シモンは主イエスの言葉に対して「わたしは網を降ろします」と応答しました。信仰とは、主の呼びかけに対して、「わたし」が応答することです。みんながどうとか、わたしを棚上げにした話ではない。「わたし」が応える。そのわたしに対して主イエスは、「今から後、あなたは、人間をとる漁師になる」と呼びかけるのです。
人間をとる漁師とは、これまで魚を捕っていたあなたが、これからは神の国のために人を導く者となるのだ、というシモンへの呼びかけ、招きなのです。主イエスはここで、シモンが「わたしは罪深い人間です」と言ったことを何ら否定的に受けとめておられない。むしろ自分の罪の深さを主の前で受けとめ始めたシモンにこそ、呼びかけておられるのでしょう。
ここで不思議なことに気づかされていきます。それはこの場面が全体として見れば、シモンを弟子にする場面なのですが、わたしについて来なさい、とか弟子になりなさい、とは言われていないということです。これは今回あらためてこの聖書箇所を読んで、示唆深いと思わされたことです。
しかしこの場面には、主イエスの弟子になるということの具体性が語られている。それは、とても端的なことで、主イエスの言葉に聞いて、6節にあるようにその通りにする、ということです。主イエスの言葉、レーマに聞いて従いなさい、ということ、それなのです。マリアのように表現するなら、お言葉どおりこの身になりますように、その言葉の通りに従っていく、ということでしょう。
「あなたは人間をとる漁師になる」という主イエスの言葉はまさにシモン・ペトロの人生を決定づけ、方向付ける言葉になりました。シモン自身このとき、主が言われた言葉をどれだけ理解できたか、わからない。後にシモンが主イエス昇天後、初期キリスト教会の中で大きな働きをなし、その最初の宣教を担っていくものとされていくことをシモンは知る由もなかった。ただ、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」という主の言葉に信頼して、「わたしは網を降ろします」、そう応えたこの時のこの場面をシモンはその後の生涯の中で、年月を重ねるごとに深く記憶し続けたでありましょう。ルカはこのシモンの物語をしっかりと書きとどめているのです。
ゼベダイの子ヤコブも、ヨハネも主のレーマに出会い、そのレーマに聞き従っていくものとされ、ここに主のレーマに聞くグループが生まれていきました。
この人たちの中心にあるのは、主の言葉に聞いて従う、ということでした。
それがこの人たちの人生の新たな基点、基となる点になっていきました。
シモンの物語は、わたしたち一人一人の物語となっていくのだ、ということがルカの視点だったのではないでしょうか。わたしたち一人一人も、主イエスからシモンがそうであったように、わたしに呼びかけられているその御声に、聞いて、従っていきたいと思うのです。