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教会暦・聖書日課による説教

2024.4.7.復活節第2主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書24章13-35節『 目が開かれていく 』

菅原 力牧師

 先週、わたしたちは主が復活されたその朝の出来事、婦人たちが墓に行ったあの物語を聞きました。今朝この礼拝で聞くのはそれに続く弟子たちの話です。

 二人の弟子がエルサレムから60スタディオン(約10キロ強)離れたエマオという村に向かって歩いていました。二人がどうしてそこへ向かっていたのか、実家があったのか、用事があったのか、ただエルサレムから逃げ出したのか、理由はわからない。二人は歩きながら、エルサレムで起こった出来事を語り合っていた。すると、主イエスご自身がその二人に、近づき同行されたというのです。しかし二人の目にはこの方が主イエスであるとはわからなかったのです。

 主イエスはこの二人に尋ねられました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。すると二人は暗い顔をして立ち止まり、クレオパという弟子が「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と言ったのです。

 「どんなことですか」と主が尋ねると、二人は「ナザレのイエスのことです。」と言ってイエスのことを語り始め、十字架にかかったこと、そして今日の朝の出来事、婦人たちのことも語って聞かせたのでした。

 するとそれまでいわば聞き役になっておられた主が語り始める、さらに話が展開していくというのが今日の聖書箇所の出来事なのですが、ここで少し立ち止まってこの二人の弟子のことを考えてみたいのです。

 このエマオ途上の物語、読めば読むほど興味深い。もちろんいろいろな疑問や不思議にこの物語を読んで出会います。それを全部含めてとても興味深いのです。まず、思うのは、この二人に復活した主イエスがご自分の方から近づいてくださったということです。主イエスはこの二人に近づいてくださったのです。それであらためて思うことなのですが、復活された主イエスは誰彼構わず、相手構わず、「わたしは十字架にかかって死んだ主イエスであり、三日後によみがえった主イエスだ」というふうに表れていない、ということです。これは覚えておくべきことです。誰にでも復活の主は現れていない、ということです。あくまでもここでは弟子たちに現れたのです。ところがその弟子たちが復活した主イエスを認識することができなかったというのです。弟子たちすら主イエスを認識できないとすれば、誰ができるのか、と素朴に思ってしまう。どうしてなのか、いろいろ想像しますが、聖書が語るのは、「二人の目が遮られていて」直訳は「押さえられていて」、という言葉ですが、現象としてはともかく、ここで言われているのは、復活の主イエスがわかるということは、目を開いていただかなくてはならない、ということを言わんとしているような表現です。別に目が見えなくなっているわけではない。しかし復活の主が見える、わかるということは、この目を開いていただく必要がある、というふうに読めます。弟子の一人クレオパは主イエスが何の話をしているのですか、と尋ねると、あなただけはご存じなかったのですか、と問い返してきました。

 これらの重大事件を知らないのはあなただけだと決めつけているが、彼こそは起こったすべての出来事の意味を知っている唯一の人物であるという話です。

 これは、弟子たちが今見聞きしている現実というものを本当のところ何も理解していない、しかもそれをもっと深く理解している人に上から目線のように語っているということのアイロニー・反語です。

 主イエスは「どんなことですか」と尋ねる。すると二人は「ナザレのイエスのことです」が、と言って切り出したのでした。この言い方、ナザレのイエスという表現にこの二人の弟子の主イエスを見る見方が現れています。神の独り子でもない。救い主でもない。ナザレのイエスなのです。「行いにも言葉にも力のある預言者でした」、つまり二人は預言者のひとりとしてキリストを捉えていた、ということでしょう。だからあくまでもナザレ村のイエスという地上的なとらえ方なのです。

 「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」、これは預言者に対する期待なのか、何らか政治的な解放を期待するものなのか、よくわからないけれど、いずれにせよ言えることは、自分たちの期待を主イエスにかぶせているということなのです。主この弟子たちと共に在った日々、その時に語られた受難予告、復活予告を聞いている者としての期待ではなく、自分たちの期待をただイエスにかぶせている、そういうことなのです。

 二人仲間の婦人たちのことも告げます。婦人たちは、遺体を見つけずに戻ってきたことと、天使たちが現れ、イエスは生きておられると告げたことを仲間の弟子たちに語ったのです。この天使たちが現れというところなのですが、原文は天使たちの幻が現れ、となっています。弟子たちの間で、天使たちが語った「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」という肝心な言葉が語られず、イエスは生きておられるという言葉になり、それを語った天使は幻だった、ということです。

 わたしはここを読むと、先週語ったこととも重なりますが、主イエスの復活という出来事を信じ、受け取るということがどれほど私たちの持てるものでは難しいことなのか、ということをあらためて思います。というか、むずかしいというよりも、わたしたちの持てるものが神の業を受けとることを阻害している、邪魔しているということを思わされます。復活日に登場するのは皆弟子たちです。その弟子たちが、イエス復活の知らせを戯言のように思ったり、復活なさったのだ、という天使の言葉を、その存在と共に幻と受けとめたり、主イエスの受難予告や復活予告を思い起こすのではなく、自分たちの願望に逆に縛られていて、弟子たちは主イエスの復活ということを避けて避けて通り過ぎようしているのです。これが目が遮られている、ということなのです。わたしは何も弟子たちを不当に貶めようとは思っているのではありません。弟子たちですらこうなのか、とあらためて思うのです。

 主イエスはこの弟子たちに対して、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことを全て信じられないものたち」と呼びかけたのです。相当に激しい言葉です。愚かで、心の鈍い者たちよ、ということです。そして主は受難予告をはじめ、旧約聖書の言葉を解き明かすのです。しかし、注意してほしいのですが、それでも彼らは自分たちに語ってくださっている方が主イエスだとは気づかないのです。まだ目を遮られたままです。

 「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先に行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊りください、そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」二人はそう言って主イエスを無理に引き留めた、というのです。細かい描写がルカらしく丁寧に記されています。しかしこれは読んでわかるように、自分たちにとってためになるよいお話をしてくださった方に、一緒に泊まってくださいと言っている態度であって、主イエスを認識している態度では全くない。

 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」すると、二人の目が開け、イエスだと分かった。

 受難週の洗足木曜日の礼拝で示されたみ言葉はルカによる福音書の22章の主の晩餐の箇所でした。主イエスは十字架にかかる直前、弟子たちとどうしても一緒に食事をしたいと願って、過越の食事を準備された。その時主は食事の間で、杯を取り、取りなさいと手渡した後、パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて、これはあなた方のために与えられるわたしの体である、わたしの記念としてこのように行いなさい、と言われたのでした。つい数日前弟子たちはこの杯とパンを主から受け取ったのです。同じ所作と同じ言葉で。あの時差し出された杯は、十字架で流される血、差し出されたパンは十字架に裂かれるキリストの体でした。しかし今ここで差し出されるパンは、十字架で裂かれ死んだ主イエスが甦って、新しいいのちそのものである復活の体です。あの木曜日の夜差し出された杯とパンは、受難のしるしであるとともに、復活のしるしだったのです。

 二人の弟子は、今ここで、そのことが分かったかどうか、わからない。しかし、この主の食卓において二人の目が開けたのです。開けていただいたのです。キリストを理解し、キリストの救いがわかって開いていただいた、というのではない。開いていただいて、その開いていただいた眼で、これから見ていくのです。これから知っていくのです。そして最初に見たのは、復活の主イエスなのです。イエスだと分かったのです。

 

 主イエスが語りかけても、聖書の言葉を解き明かしても、主を認められなかった二人でした。しかし、主の食卓において眼開かれていく中で、彼らは主の語りかけも聖書の言葉の解き明かしも受けとめ直していくのです。

 二人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」というのですが、それは彼らが聞いたこと受けと事を、復活の主イエスとの出会いの中で受け直していくということに他ならないのです。彼らは急いで、エルサレムに戻ります。そして他弟子たちに自分たちの経験したことを伝えるのです。これは婦人たちが墓での出来事を他の弟子たちに告げに行くのと同じようです。しかし二人の弟子は復活の主イエスに出会ったのです。主イエスの姿はすぐに見えなくなったのですが、二人は幻とは思っていない。生きて働く神の業に、出会ったからです。神は生きて働かれる。主イエスをこの世に与えられたときも、弟子たちと共に歩んだそのときも、そして十字架に向かう歩みの中でも、死においても。そして神は死の縄目に捉えられた主イエスを復活させ、神の働きにおいてはそれを阻止するものは何もなく、生においても死においても神は生きて働き、わたしたちのその神の働きの中にある。二人の弟子は、その入り口に立っている。これまで自分の目で見ていると思い込んできた世界、現実、を貫通し、包み込み、それを超えて、生きて働く神の御業、その御業を開かれた目で見て、人々に伝えていくその歩みの入り口に立っているのです。