ヨハネによる福音書 5:31〜40 「聖書が指し示すイエス」

石井和典牧師

 人によっては聖書は金塊以上のものに見えてきます。この世のあらゆるものに勝る喜びがココにあると信じる人もいます。どうしてそのようになるのでしょうか。それは神の霊がその人に注がれ、その人にとどまっているからです。そうでなければ、聖書が光り輝くものであるとは決して見えないでしょう。食べ物以上のものであり、飲み物以上のものであり、各種の娯楽など全く比較にならないほど楽しいものであり、この世の最上の喜びと快楽がそこにあり、運命を決する全てここにある。そのように言えるものです。それは神の霊による証しがあるからです。

 イエス様はヨハネ福音書の中でこのようにおっしゃられたと記されています。5:31〜32。

 もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。

 「別におられる」とは何やら意味深ですが、イエス様の独特の言い回しです。自分自身について証しを自分でしてもそれが信用できないというのは、「ミシュナー」という「旧約聖書の教えについて解説をラビと呼ばれる教師が行った文書」の中にこのような言葉があるので、それを見ると当時の人達の考え方がわかります。

 人が自分のために証言する時、その人には信用がおけない。

 という言葉がありまして、このイエス様の言葉はミシュナーがもとになっています。確かにすべての人に通用する話しです。ユダヤ人でなくても理解できます。自分で自分の評価を法廷などで、必死で言っている人、特に自分は無罪だと必死で弁明しているだけの人がいたら、その人の自分への裁定はあてにならないということです。

 イエス様もご自分がメシアであられることを、御自身で言葉をもって証明するというよりも、他の方が、証明するとおっしゃいました。他の方というのはだれのことでしょうか。それは父なる神と言うことができます。さらに、もうおひとかた、聖霊であると言うことができます。特にヨハネによる福音書の中で、「別に」という言葉を聞いたときに連想されるのが、聖霊です。14:16、17。

 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 「別の弁護者」という言葉に注目してください。これが聖霊のことなのですが。イエス様は天にあげられて見えなくなるけれども、聖霊が信じるもの内に住んでくださるというのです。それが「別の」という言葉と共に出てくるのです。だから、証しをなさる方が別におられるというのは、聖霊のことであることがわかります。

 聖霊は、キリストがメシアであることを悟らせます。それが証しという言葉の意味です。キリストが目の前におられても、その御方がどんなに力ある方かわからない。受け入れられない。救い主とは到底思えない。そのような状態に閉じ込められている人々の心を解き放ってわかるようにさせるのが聖霊です。聖霊というのは、証しを確信させる力です。

 イエス様が救い主だよ。この一言を聞いて、その言葉一つで、「自分が救われていることに感謝を寄せることができる」だったり。「救い主のイメージが心の中でどんどん広がっていくだったり。「救い主であり、慰め主であるイエス様が人類のもとにお越しださったことに感謝が溢れだしてくる。」と、このように次から次へと、聖書の証し、たったひとことを聞いて熱い思いが湧き出してくるような状態。このような状態に、聖霊が注がれていくと、人はなっていきます。

 聖霊に満たされていると、聖書の言葉が光を放ってきます。聖書の話しをしているその人の言葉に、一聞いて百悟るというような状態に至るのです。しかし、聖霊に満たされていないと、一聞いてその一を次の瞬間捨て去っているというか、響かないのです。聞いたことを心で確信させる、聖霊にはそのような力があります。

 イエス様が本日朗読された箇所で、最後の方でおっしゃっている言葉に注目してみてください。5:38〜40。

 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになったものを、あなたたちは信じていないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

 これは勉強ばっかりはしているけれども、命をイエス様のところに行って実際にもらっているわけではない。すなわち、実際に信じているわけではない、だから命がない。そのことをイエス様が悲しみとともに指摘している箇所です。御言葉は一生懸命勉強するのです、しかし、実際に命が内に宿っていない。イエス様のところに来ていない。これは「聖霊が宿っていないから、いくら御言葉を学び続けても、キリストがどういうお方か悟ることがないこと」を言っているわけです。

 先程も言いましたミシュナーというラビという教師たちがまとめた本の中に、こういう言葉があります。

 律法の学びが増せば、生命も増す。・・・人は律法の言葉を自分のものにしたなら、来るべき世の生命を自分のものにしたのである。

 神様の言葉である律法、旧約聖書を「自分のものにしたら」命がうちに宿っている状態になるのです。この「自分のものにしたら」というところがミソです。この言葉はそのとおり、正しいことを言っています。しかし、実際には一生懸命学び続けていても、その学びだけで終わってしまって、「自分のものにしていない状態」。心にストンと落ちて、それが力になっていない状態がありうるのです。だから、必死で勉強して命を得ようとしていたユダヤ人でも、イエス様が現れて、この御方がメシアであると悟れなかったわけです。それは、イエス様がメシアであると悟らせる霊が働いていないからです。つまり、信じていないから、信じていないので、ただ学ぶだけで命がない。

 自分の思いを一旦脇において、ただただ主の前に行くということが人にはどうしても必要です。そういう時間を過ごしていかないと、自分の思いに溺れます。その結果、神の霊が心にやってきて、神の思いを悟っても、すぐに心がもとに戻ってしまいます。ただただ主の前にひざまずくことこそが大事なのです。

 イエス様のところに、何も考えずに行くことです。それは、具体的に言えば、祈りの時間を持つということになります。

 目を閉じるということが多くの人の祈りの最初の行為です。これこそが重要です。肉の目を一度閉じてしまって、神に目を向けるのです。その後に目を開けて祈っても良い。しかし、祈りは初め目を閉じるものです。それは、肉の目を閉じて、霊の目を開くためです。神に対して目を開くためです。

 御言葉の学びは非常に重要なのですが、それと同じ時間、ただ主の御前に行く祈りの時間をとる必要があります。そして、イエス様のところに行って、確かに力をいただいて、力をいただいてから奉仕したら良いのです。

 もう一つ、この箇所でイエス様が気にされていることは、人の目を気にすることに対する警告です。5:44。

 互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。

 お互いの間でどう評価されるかということに遮られて、人間からの誉れは受け取るのに、神に向かい、神からどう評価されるかということはどこかに飛んでしまっているという状態があったのです。それでどうやって、目の前にいるお方、神の現臨、キリストを信じることができるだろうかとおっしゃられているのです。

 人からの評価とか人の視線とか、そういったもろもろの気になってどうしようもないことを見ることを一度止めて、神にただただ向かうこと、肉の目を閉じて霊の目を開いて祈ること。これがどうしても必要なのです。霊の目が開かれれば、イエスが主であること、イエスがモーセの律法を実現する方であること、旧約聖書とはじめからつながっている方であることが見えてくるのです。ユダヤ人であったとしても、悟ることができる。

 というよりも、旧約聖書もアブラハム契約も、シナイ契約も、ダビデ契約も、この御方を通して実現されて行くのだということがわかるようになります。神の国がまさにこのイエスというお方によって実現していくということ。聖書が目指している神の国の実現、約束の地が与えられるということ、子孫が星の数のように増え広がって行くこと、永遠の王座がここにあること。民はキリストの御名によって神の祝福をあますところなく受けること。すなわちユダヤの人たちが、聖書を巡って得たいと思ってきたことの全てがイエス様において実現していくのがわかるのです。

 人は力を捨てて、学んできたことも、一旦はどこかにおいて、人からの評価や周りの人の目やほまれもどこかにおいて、ただただ目を閉じて、主に向かっていけばいいこと。ただ信仰のみで本当に良いのだということを、イエス様は教えてくださいます。

 まるごしで、信仰だけ。

 信じるものには、聖霊が豊かに注がれて、キリストの証がつぎつぎと心に染み渡ってきます。聖書の言葉が光を放ち始めます。聖書を読むことが楽しいし、人生を変えるし、全く想像もできなかったキリストが支配しておられる新しい地点へ導きだされていきます。命を得るために、キリストのところに行って、目を閉じて祈りましょう。信仰だけが必要です。

 キリストの血潮によってすでに清められている自分を発見します。まっさらでクリアーです。神に近づいていくことができます。ただ、それをキリストが与えてくださると信じて祈るだけです。アーメン。