ヨハネによる福音書1:29〜34 「罪を取り除くお方」

石井 和典牧師

 洗礼者ヨハネはイエス様の道を準備する人でした。道の準備というのは人を立ち返らせるという準備です。洗礼は一度古い自分に完全に死ぬことを意味しました。洗礼を意味する「浸す」という言葉は、イスラエルの言葉では「命」というよりもむしろ「死」を意味するものでした。犠牲の血に浸すという言葉が旧約聖書の中には出てきます。動物が犠牲となってそこで神の怒りがおさまり、人は罪を赦される。それがユダヤの人々の信仰です。浸すというのは、「血に浸す」という言葉として使われましたので、血や死、しかし、そこにある贖罪という意味で使われたのです。

 そして、洗礼というのは、「浸す」という言葉でしたので、洗礼はまず古い自分に死ぬことを意味しました。

 洗礼者ヨハネは今までの自分のあり方を捨てて、もう一度人生を神のもとでゼロから立て直していかなければならない。今のユダヤ教は形骸化してしまった、組織を重視しすぎるあまり、その内側に信仰の命を失ってしまった。神の裁きが下るまでに、皆悔い改めなければならない。メシアはすぐに現れて、新しい国を建て直してくださる。油注がれた、聖霊に満たされた者が現れる前に、まず自分たちの佇まいを改めようではないか。

 そういう思いで洗礼者ヨハネは活動を開始したのです。さらに言えば、この洗礼者ヨハネの登場は、イザヤ書の預言の成就でもありました。イザヤ書40:3。

 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

 この荒れ野で道を備えるものが洗礼者ヨハネであったと後の人々は受け止めました。イザヤ書40章以下はバビロン捕囚の後、BC500年前後に記されてものであると言われています。すなわち洗礼者ヨハネの時代から400年も前から、このようなヨハネのような存在が現れると言われていたということになります。そして実際に主の言葉通り、物事が実現していっている。それがヨハネの存在であり、イエス様のご存在でありまsちあ。

 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭いみちは広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。/肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 主の御前に謙遜に跪き、主の前に砕かれた魂を準備せよ。あらゆる谷や山はフラットになれ。主の栄光が表されるから。主の前に人間は一瞬で吹き飛ばされる草に過ぎない。花は咲いているようで一瞬でその花の生涯を終える。しかし、主の言葉だけは永遠に残り続ける。私たち人類は消え去るが主は消えさることはない。

 神の言葉のもとに立ち返ってきなさい。そういう運動が洗礼者ヨハネによって起こされていたのです。ヨハネはエリヤの再来であると言われました。ユダヤ教の中ではエジプトからの解放者としてモーセと偶像礼拝からの解放者としてエリヤが預言者として非常に重要視されます。

 特にエリヤの再来と洗礼者ヨハネが言われますのは、まさにエリヤと同じようなイデタチで彼が現れたからです。

 らくだの皮衣を着、腰に皮の帯をしめて、いなごとのみつを食べ物としていました。エリヤもまるで世捨て人のような質素な生活をしていたのです。その風貌、その眼光みな共通するところがあったのです。エリヤがなそうとしていたことは、バアル礼拝からイスラエルを立ち返らせるということでありました。バアル礼拝というのは偶像礼拝です。神ならぬものを神とし、それに従っている偶像礼拝的生き方から人々を解き放つ役割です。

 神礼拝というのは、神のご存在が私たちの中で大きくなって、いや偉大である神に気づいて、もう何ものにも比較することができないほどの栄光を有しているその御方の前にとにかく畏れかしこんで跪く。言うなれば、主を大きくする。私の人生の中で、主が大きな存在、自分よりも家族よりも、誰よりも、どんなことよりも。それが唯一なる神を礼拝するということです。

 偶像礼拝というのはどういうものかというと、逆で、神を小さくしていくのです。コンパクトに、自分のコントローラブルな範囲で、ちびっちゃいお守りになんかに最後にはなって、それを携帯して、携帯していえればなんか良いことがあるんじゃないかというような。とってもその存在が小さい、時々思い出したときに出てくる。普段心の中は、別のもので満たされていて、家族とか、恋人とか、仕事とか、とにかく他のもので溢れていて、思い出したときに神がでてきて、その神もこっちが出てきて欲しい時だけ、このコトだけ、そういう小さな神にしていく。これが偶像崇拝的な信仰です。

 それが具体的形をとったのがバアル信仰でありました。稲妻を持っていて天気を操る五穀豊穣の神。神々の中で高位にあるものと考えられていました。こういった偶像神は、偶像神同士お互いの事を認めあっていて、お互いの間に何かストーリーをもっていたりします。しかし、イスラエルの父なる神は、御自身の人類の父としてのあり方、創造の主であるあり方。それが真理、真実でありますので、その唯一であるということを決して譲ったりはなされない。神々の存在を認めるなどということはなされない。他の神を認めるというのは、人々の心を父なる神から離していく、落ちた天使たちの行為、すなわち悪魔の行為であるとおっしゃられるわけです。

 真の信仰というのは、すべての中心が神に向かっていく。しかし、偶像信仰というのは結局はすべての中心が人間になっていく。人間にとって都合の良いことが起こるためのものです。ですから、ヨハネ黙示録に記されている666という悪魔の数字は、人間を指し示しているとしっかりと記されています。7が神の数字、6が完全から一つたりない人間の数字です。ヒューマニズム、人間中心主義、そういったものはやがて神を排除していきますので、偶像崇拝と変わりません。

 そして、実はほとんどすべての人が、この偶像崇拝的な神が願われていない罪の状態にはまり込んで抜け出せないでおるのです。神を自分の方に引き寄せて、神が私の付属物、オプションであるかのように考えたり、組織を守るため、そのために神が利用されていたり、さまざまに、主を主として従うのではなくて、主を僕のように仕えさせようという人間の試みがつづけられてしまっているのです。信仰者と呼ばれている人たちの中に、特にそういう人たちが多い。

 だから、洗礼者ヨハネはユダヤ教徒たちに、悔い改めの実を結んで、洗礼を受けて、一度自分に死んで、もう一度主のもとに新しく歩みをはじめるという運動をはじめたのです。すると実際にそこに、世の罪を取り除いてくださるメシアがお越しくださったのです。この御方が来られれば、道が真っ直ぐになる。信仰者としての歩みが正される。ただ、神に向かって聖霊の力に頼りながら歩む道が整えられていくのです。

 この救い主は小羊としてこられました。この小羊というのは、出エジプトのときに神の裁きが小羊の血を塗っている家を通り越した。という過越のあの小羊のことです。神の裁きが通り越していく。本来なら、神を覚えるべき人間が神を忘れて生きてきた。それらうず高くつもり重なってどうにも、こびりついて離れないこの罪をすべて主イエス・キリストのメシアの血によって清める。真っ白くなる。そのための小羊として、メシアはお越しくださいました。

 さらに、イザヤ書53:4に記されている預言が実現するために、主イエスは小羊としてお越しくださいました。 

 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。/彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼が受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 メシアが苦しむことによって、平和といやしが与えられると記されています。

 平和と言っても、世の人々が言う平和ではありません。神を中心としていなければ聖書的な平和ではありません。シャロームという言葉にはあらゆる私たちが想像する平和、平安のイメージが盛り込まれていて、その言葉の意味は多岐にわたります。想像するすべての意味が込められていると考えて間違いありません。しかし、それは主が中心におられる平和です。先程から言っていますように、洗礼者ヨハネはエリヤの再来。エリヤは偶像礼拝をやめさせて真の神に立ち返らせる戦いをした預言者です。その役割を洗礼者ヨハネも担い、その道こそ、メシアを迎え入れるにふさわしい道。

 すなわち、自分の側にすべてひきつけて、神を分野別で、コントローラブルな神にして、崇めたいときにだけ崇めるような。ご都合主義的、ご利益的な神。偶像礼拝ではなくて、まことの神礼拝によって人々が解放されていく。

 神が世界の中心であり、神が創造者であられ、神が常に主導権を握っておられ、神が中心であり、神は私たちの思い通りにすることができず、私たちこそ、神の思い通りであって、神に従う。全能の父なる神。この神に立ち返らせ、その中で得ることができる、神が中心におられる平和これを与えるためにメシアが来られて、小羊として御自身の身を裂かれ、十字架にのぼられたのです。シャロームを与えるために。このシャロームに至った時、人はがんじがらめになっていた鎖から解放されて、自由に解き放たれて力を得るのです。

 このシャロームは聖霊が注がれることによって人々のうちで味わわれます。この箇所を読んでいても、霊が鳩のようにイエス様に下り、イエス様は人々に聖霊によって洗礼を授けるお方であると記されています。洗礼というのは浸すという意味です。聖霊の洗礼というのは聖霊で浸されるということです。聖霊で目一杯満ち溢れているということです。

 神の霊を宿すためには、まず、清められなければなりません。神は汚れた罪の中にはおられません。私たちが汚れている状態であれば、そこに聖霊は宿りません。シャロームもいやしもありません。ですから、主の血潮によって清められ、真っ白くしていただかなければ、聖霊を味わい満たされるということはありません。

 しかし、一度キリストの血の効力を信じ、キリストを信じ受け入れ真っ白くしていただいて、聖霊を受け入れるならば。シャロームが与えられ(あらゆる平和的、平安という言葉のイメージから連想できること)、癒やしを受けとることができます。

 聖霊は神のご臨在です。神がわが内に宿るという驚くべき出来事です。聖霊が宿るならば、旧約聖書から新約聖書に記されているあらゆる出来事が私たちの間で起こり得ます。全能なる神が私たちと共にあることを確信させるからです。信じる力が与えられて。新しい視野を得て、心がまっさらに白く清められて、エネルギーが内側から湧いてきて、あの使徒たちのように、また国をイスラエルという国を建てた人々のように、また、奴隷状態から民を解放させた人々のように、驚くべき神の業が周りを取り囲んできます。なぜなら、そこに神がおられるからです。

 聖霊の洗礼をさずけるお方とヨハネがイエス様のことをおっしゃられたのは、実は後の時代の教会の時代に至るまで、驚くべき神の業がその先に視野の中にすでに入れられていた発言であることがわかります。神の言葉に生きるということは、このように神の視座がその言葉の中に入り、未来を見渡すビジョンを指し示す言葉を使うようになり、実際に何ものをも恐れず前に進む力が与えられる道なのです。

 これら信仰の賜物をただ、主に従い、主に栄光を帰し、自分ではなく主を主とした人の人生に与えられるものだということです。聖書で起こっていることは実は真の信仰者たちのためのものです。同じことが起こります。アーメン。