出エジプト記14章19〜25節 「海を割る」

石井和典牧師

窮地

 窮地に追い込まれても、そこは窮地ではなくて救いの地である。という事を信仰に生きていると度々経験します。神はあえてそのような厳しい道を歩くようにご計画くださいます。苦しみに直面しないと人間が神を求めないからです。残念ながら、私たちは神を離れて、神がわからなくなり、わからなくなるだけではなく、自ら神を人生から排除してしまう性質をもっています。だから、何も無い平坦な道では、神に感謝するのではなくて、別のことをしだすのです。自分がこれだけ安定した人生を歩んでいるのは、自分の努力の賜物であると傲慢になる。傲慢にならなかったらならなかったで、刺激を求めて自堕落になり退廃的な生活を送ることもあります。

 平坦で安全な道は害毒になる場合が非常に多いのです。だから、主はあえて私たちを厳しい試練に合わせて成長させられるのです。神を神として認め、神を知るためです。

 このように、教会に来て、聖書に触れたら、物事の味方が変わります。

出エジプト

 さて、イスラエルの民はエジプトにおいて大きな試練に遭いました。奴隷の身分に落とされ、子どもたちがファラオによって虐殺されました。その中で生まれてきたのが、モーセでした。彼が解放の旗手として、導き出されました。神さまが民の叫びを聞いてくださった。

 約束の民として生きるものにとって神だけが救いです。神は約束の民の叫びを一つ残らず聞いてくださいます。だから、祈ってください。人生をささげて祈ってください。主がその大能の御手を動かそうと待っていてくださるのですから、祈るべきです。

 わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。(出エジ3:7)

 約束の民を「わたしの民」と呼んでくださり、その痛みをご自分の痛みとしてくださいます。キリストの血によって勝ち取られた皆様も約束の民です。叫び、祈り求めてください。神がわたしたちを「わたしの民」と呼んで下さることが私たちにとって救いであることを経験してください。

10の災いを通して

 10の災いを通して、イスラエルの民はエジプトを脱出することができました。しかも、羊の群れも、牛の群れも、金銀の装飾品や衣類も得ることができて、ファラオはモーセとアロンに「わたしを祝福してくれ」と最後には言うほどまでに、イスラエルの神に屈服しておりました。ですから、晴れ晴れとした気持ちでエジプトを後にすることができました。

 さらに、その歩みは、主に守られた歩みでありました。

 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジ13:21)

 だから、この解放の歩みは順調に進むはずと皆が信じ込んでいたはずです。

 しかし、神さまはあえて約束の地、カナン行きの道は、「迂回」をさせれました。一度荒野に出て、もしエジプトの戦車による追っ手があったとしても、戦車が走れないような道を通るというのが、一番安全で妥当な道だったと思います。だから、エジプトからすぐに東に向かって出ていくのが妥当な道でした。

 しかし、神さまは妥当な、安全に見える道はお通しになられませんでした。海の方向に、南に人々を導かれたのでした。これはカナンとは逆方向の遠回りの道です。行き先には葦の海が待っていて、退路を絶たれる道でありました。

 しかし、この危険な道にこそ、神さまのご計画がお有りだったのです。

 主はおっしゃられました。

 するとファラオは、イスラエルの人々が慌ててあの地方で道に迷い、荒れ野で彼らの行く手をふさいだと思うであろう。わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。(出エジ14:3〜4)

えっ?

 超強力な、世界最強の軍隊に追いかけられるって。最悪の事態です。ファラオの心をかたくなにし、後を追わせる?60万の男手、家族を連れて逃げている。それもエジプトの最強の軍隊にはかないません。

 主は最高の人生の救いの計画を持っておられるんじゃないのですか。

 主はこんな最悪な計画を私たちにもっておられるんですか、と言いたくなったと思います。まだ、はじめのうちはことの深刻さに思い至っていないようです。

 神さまがこちらにいきなさいよという命令をそのまま受け入れて、エジプト軍に追い詰められても逃げられない海辺に移動します。

 イスラエルの民はエジプト軍が実際に目の前に現れるまでは、自分の問題だと深刻に受け止めていなかったようです。主は、予め、「ファラオの心を頑なにして、追わせるよ」って教えてくださっているのに、目の前にエジプト軍が実際にやってこない限りその言葉が現実味をもって迫って来なかったのです。だから、目の前に軍隊が現れた時は、慌てふためき、不平不満、いわゆる「つぶやき」をモーセに言い出します。数限りないつぶやきを荒れ野の生活でモーセにイスラエルの民はぶつけていくのですが、これがはじめのつぶやきとなりました。

 どういうところでつぶやいたのか、これは私たちがこころに刻んでおくべき内容です。

 神の言葉があたえられて、「このようになるよ」っていうことが言われていたのです。しかし、それが自分の目の前で目に見える形になるまで、実際に起こると信じていないということです。そして、現実になると、そこに神がおられないかのような言葉を使い、本当は信じてはいなかったのだということが明らかにされてしまうということなのです。

つぶやき

 民のつぶやきはこういうものでした。

 我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか。(出エジ14:11)

 つい先程まで、エジプトの軍隊を見るまで、意気揚々と行進していた民です。エジプト人はエジプトから出ていくとき、好意をしめしてくれていたように見えた。エジプト人から財産をたくさんもらうことができた。目の前には主の雲の柱があり、主が共におられると確信できたから。確信できるから彼らは信じていたのです。

 しかし、確信できない状況、好意ではなくて殺意をこちらに向けるエジプト人、財産を奪おうとするエジプト人、その目に見える姿に怖気づいてしまった。神さまの思いはどこかに飛んでしまった。それが残念ながら信仰者の姿であったというのです。

モーセの信仰、冷静さ 

 モーセ一人が信仰をしっかり保っています。彼は全能の神を見ています。一人の人が信仰によって立ち上がるということが、共同体全体の益になること。むしろ共同体全体の全体意識というのは、多くの場合、「つぶやき」に満たされ、現状分析をもとにした「神の力はどっかにいった」状態になってしまうということを肝に命じる必要があります。必ずと言っていいほどにそうなってしまうのです。それが人間の罪です。

 その中で一人、信じる人が立つ必要があります。モーセの言葉、この信仰の言葉を聞いてください。

 恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。(出エジ14:13)

 モーセだけが、全能の神の力、万軍の主の力、エジプトに負けることは決して無い、主を見ています。この信仰というのは、私たちの内からは出てこない、主によって導かれた真の信仰です。見えない神の霊である聖霊に導かれた人が使う言葉です。皆様が一人の真の信仰者として立てば、物事は変わります。モーセがいなければ、この民はどうなっていたでしょうか。信仰に立つものが一人いれば、その共同体が守られるのです。みなさんがそのように立つことができるように、主の御名によって祈ります。

 丸腰のイスラエル、600もの最強兵器をもったエジプト兵に追い詰められ、勝てる見込みなどありますか。大量虐殺の光景が見えてしまう状況。見込みなどないところに、主の業が起こると信じることができますか。全能の父なる神を信じるとは、このような状況でなお、主が勝利を与えうると信じる信仰のことを言うのです。

見ないで出発する

 民に対して、目の前で海が割れていない状況の中で。現実が神の業によってまだ変化していない状況のなかで、前に足を踏み出して、海の方に行けと主は命令を出されます。主はモーセに命令なさいました。

 なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。(出エジプト記14:15)

 出発させなさいというのは、海に向かって、「まだ主の奇跡によって割れてはいない海」に向かって出発しなさいということです。海は、地獄とつながっていると人々は考え、恐れていました。恐れの対象である海にあえて、この恐ろしい状況の中で前に進んでいかなければなりません。

 皆さん、物事が変化してきた兆候を見て、それで「あ、大丈夫だ」と思って行動したくなる傾向が強いのではないですか。何をするにしても、自分が切り出して行動することを避けたり、とにかく便乗できる良い兆候がでてきたら、そこにヒョイって乗り込んで、うまい所だけいただこう、などということは平気で人間やりますよね。

 とにかく、なにか都合の良い流れというか、都合のよい波が立ったらって思うんですが。主が命じられることはそういうものではないようです。目の前で全く割れる兆候のない海に、ただただ、神が行けというから向かっていって、まさにその先には死が待ち受けているのではないかと思わざるをえないところ(人々が地獄だと思うところ)に足を踏み出していく、しかし、そこには主が約束してくださった絶対的な勝利が待ち受けている。

 そんな信仰の戦いを我々はしているのです。信仰の戦いを戦おうとしている人はもうすでにこういう状況を経験しているでしょう。主が命じられたことを実行しようと。

 しかし、そうでない人は、波がくるまで待っているんじゃないですか。海が開けるの待っていんじゃないですか。しかし、主は言葉で命じて、私たちの信仰を通して働き、一人の信仰者の信仰を通して奇跡を起こして下さる方です。私たちをつかって、私たちの信仰を呼び覚まそうとされておられるわけです。だから、そこに信じて海に向かって、怖いですよ、不安ですよ、しかし、主がお望みであればと足を踏み出す一人が必要なのです。

主が主であることを知る

 海が割れて、その海に屈強なエジプト兵が飲み込まれるということを通して、主がなさりたかったことは。

 そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。(出エジ14:18)

 真に神がここにおられて、全能の力を及ぼしておられ、その神のご臨在のもと人間が跪いて、その主がお側におられるという幸いだけをひたすらに味わい、喜び、感謝し、涙する。神の栄光が現れるために、わざわざ遠回りをしなければならないのです。神の栄光が現れるために、信仰によって危険を冒す必要があるのです。神の栄光が現れるために、皆が地獄と考えるような場所に足を踏み入れなければならないのです。

 しかし、信仰によって歩むものを神は守られます。

 イスラエルの部隊に先立って進んでいた御使いは、移動して彼らの後ろに行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに経ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ち込め、光が闇夜を貫いた。(出エジ14:19、20)

 主が問題の間に入ってくださいます。信じるモーセに従った民と敵との間に、御使いが移動し、一晩中両軍は近づくことができませんでした。そして、モーセが信仰によって手を海に差し伸べると海が割れました。その中をイスラエルの人々は進み逃げることができました。皆さん、モーセのように信仰によって前に進む人が必要です。主イエスの御名に信頼して歩む勇敢な人が必要です。主イエスの十字架の血潮が皆様を清めているのですから、祈りをもって聖霊を迎え入れて、信じられなかったことを信じる人が出てくる必要があります。

 モーセは常に、主に聞き続け、主から力を頂いて、前に進みました。

顔の輝き

 私は、一人の人を思い起こします。私が20代前半ぐらいに出会った人です。その人の年令は何歳だったか、定かではないのですが、70〜80ぐらいの人だったと思います。いつも輝いていました。神さまのために自分を使うのだとそういう気迫がみなぎっていました。目があまり良くない方でした。しかし、その目は輝いていました。かつての栄光を振り返り、「あぁ、昔はよかったね」そして「今はねぇ」などというつぶやきは、その人から一度も聞いたことはありません。神さまがいまなさりたいことのための自分を使うのだという輝きが溢れていました。彼は本当に祈りを大切にしていました。祈るために集まる時、必ず彼がいました。

 祈っている。と言ったらモーセ。聖書を読んでいるとそれが分かってきます。モーセは神さまといつも対話をしていました。祈っていました。祈りの場面で必ず出てくる人。モーセは120歳まで生きました。モーセの最期の時を記述した箇所が申命記の最終章です。

 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせていなかった。(申命34:7)

 肉の目が良かったのか悪かったのか、記述の通り良かったのでしょう。しかし、もっと言及すべきは、彼の信仰の目が霞んでいなかったということです。祈り続け、聖霊を受けて、神の業のために動き出そうとしている人、信仰によって前に進もうとしている人、その人お目は霞みません。

 キリストの名による祈りに皆様が生き、その存在から輝きが満ちあふれてくるように、祝福します。アーメン。