サムエル記上16:4−13 「聖徒とは」

石井和典牧師

 キリストの死によって、私たちの死が閉じられました。永遠の命が与えられました。本来ならば、滅ぶはずのものが救われて神の民となりました。神に造られていながら、神に恩を返すこともせずに生きてきました。自分の人生は自分の力によって建てあげるものだと信じて頑張って生きてきましたが、それらはすべて神の手の内にあったのだと知りました。そもそも、神がおられなかったら今この場に私はいないのだということを知りました。

 すべてはキリストの犠牲の死。身代わりの死があったから気付くことができました。

 キリストによって死は過ぎ去りました。

 コリントの信徒への手紙一15:50以下にこのように記されています。

 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたに神秘を告げます。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

 「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

 キリストの命に繋がるということは、永遠の命に繋がるということです。この命に生きるためには、これまで持っていたこの肉体を脱ぎ捨て、新しいものを得なければなりません。新しいものとなるためには、一度死ぬということを経験します。そして、やがてくる復活の時に、「死は勝利にのみ込まれた」と信じるものたち皆が復活を体験することになります。十字架の言葉、キリストの贖罪を信じ生きるものたちは皆救われます。一コリ1:18。

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。

 キリストのお姿、そして十字架に至る道のり、その全てが新約聖書に記されています。聖書に生き続けるものには、新約聖書のみならず、旧約聖書の中にキリストの姿、神の姿が見えてきます。そして、限りない導きが自分の人生を満たしていることを発見します。福音に生きるものにとって、聖書は何にもまさる神の力であることを体験していきます。

 地位や名誉や、財や、力は、全くゴミクズのように力がないということを悟るようになります。

 使徒パウロはこれまで持っていて誇りにしていたことを、次のように語りました。フィリピ3:7。

 わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。

 キリストの命だけ、キリストだけ。ほかは何も必要ない。地位も、名誉も、富も。そういったものには力は全くない。

 私たちの先達たちが、このことを証ししてくれています。死の瞬間、今まで持っていたものなど何の役にも立たなくなります。その様を、葬儀の度毎に見てきています。ただ神のみと向き合うしかなくなります。その時に価値あるものはなんだったのか探しはじめるのではおそすぎます。今この時から、最も価値あるもの、最後に握りしめていなければならないもの、私を生かしているものは何か、発見してください。そして、そのことのためだけに生きる決意をしてください。

 最後の瞬間にお金をもってこいという愚か者はいません。最後の瞬間に、自分が築いた地位にしがみつく愚か者はいません。最後の瞬間にどうすべきなのでしょうか。

 キリストを握りしめてください。キリストの愛に生きてください。

 キリスト者というのは、「幸せ過ぎるな」と思う瞬間が最近とても多くなってきました。 

 最後の瞬間にすべきことを、常に、日頃から、祈るということを通してすることが許されているのです。地位も名誉も、富も、人望もステータスも、何もなくても、この瞬間から、一番大事なお方に触れることができ、その御方に祈り、その御方にしがみつくことができる。死の瞬間でも変わらず同じように。いや、死の瞬間だけじゃないですよ。永遠に繋がる命だというのです。そのような信仰を。

 本日共に読んでおります。サムエル記上というのは、特に二人の登場人物に注目してください。ダビデとサウルです。二人は王です。第一代目のイスラエルの王サウル、第二代目のイスラエルの王ダビデです。サウルと、ダビデの生涯は対照的です。主にしがみつかなかった人と、主にしがみついた人。

 サウルは見た目や能力は非常に優れた人でありました。サム上9:2。

 彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも方から上の分だけ背が高かった。

 さらにサム上10:24を見ますと。

 「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶものはいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」

 背が高く美しく、能力も高く、この人に並ぶものはだれもいないと皆が認め、王様としてふさわしい人。それがサウルでありました。古代中近東では、王を選ぶ時は容姿を大切に思っていたようです。彼ははじめは非常に良い働きをします。ある時、アンモン人がヤベシュという町を包囲しました。ヤベシュの民は戦っても負けてしまうと踏んで、はじめから和平を望みました。しかし、アンモン人が和平のために提示した条件というものがひどいものでした。兵士全員右の目をくり抜かなければならないというものでした。兵士が右の目をくり抜かれてしまったら戦うことができなくなります。その知らせをサウルは聞いて、怒りに燃えて、神の霊がくだったと記されていますが、特別な力をもって、イスラルの全軍を集め、アンモン人を一網打尽に撃破したのでした。ヤベシュの人たちはこのサウルの戦いに恩を感じ、サウルが死ぬ時命をかけてサウルの遺体を敵であるペリシテ人から回収しました。サウルは王としての滑り出しは非常にすばらしい王でありました。

 しかし、サウルはアマレク人との戦いの中で、罪を犯しました。神が命じられたことに従いませんでした。神はアマレク人をかつてイスラエルに対する罪を犯したことによって裁くと言われ、滅ぼしつくせとサウルに命じました。アマレクが行った罪というのは、イスラエルの民が出エジプトをして弱りきっている時に、その民の一番弱いところを狙い、隊列のしんがりから奇襲をしたということです。さらに、伝承によると、イスラエルの民と戦ってその民を殺害したときに、イスラエルの民は割礼をしているので、その事を侮辱するために、男性の性器を切り取って投げ捨てました。だから、神さまはアマレクに復讐をなさいました。

 しかし、サウルは神のご命令どおりに従いませんでした。アマレクの王を、滅ぼし尽くすのではなく、生け捕りにしておきました。そして、戦利品の中の肥えた良い動物を、滅ぼし尽くすのではなく、残しておきました。王を生かして近くにおいていたのは、王を足蹴にしている様を民に見せて、自分の力を民に見せつけようとしたのか、政治的に有利な立場にたとうとしたのか、ハッキリ書かれていませんのでわかりませんが、とにかく、神に従うよりも、目の前により良いと思える自分の判断に従って行動してしまったのです。

 明確にこうすべしとの言葉をいただいていたのに、それに従いませんでした。サウルに対して預言者サムエルは宣言しました。サム上15:26。

 あなたが主の言葉を退けたから、主はあなたをイスラエルの王位から退けられたのだ。

 サウルは色々言い訳をしましたが、その言葉から彼の問題点が見えてきます。サム上15:24。

 兵士を怖れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。

 サム上15:30。

 わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、

 神さまがどう思われるかではなく、どう見られるか。神を恐れるのではなく、民を恐れて決断してしまった。結局彼は、神を王として心に迎え入れれるのではなくて、どこまでも自分が王であることに固執し、神を神として迎え入れるよりも、自分の王位や体面を守ることに終始したのです。

 かたや信仰の人ダビデはどんな人だったかというと。はじめは、自分の父親にさえ目の止められない人物に過ぎませんでした。預言者サムエルとの会食にも来る必要がないと呼ばれなかった、親に大事に扱われていなかった、すなわちこの子がこの家を継いでいく重要な人物であると考えられていなかった。そういう人物を神は、あえて選ばれて、王とされました。ダビデ以外の他の兄弟は見栄えがよく、父親であるエッサイにとっても自慢の息子だったようです。しかし、主は。サム上16:7。

 容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。

 とおっしゃいます。

 主が御覧になられたダビデの心というのはどういう心のことを言うのでしょうか。私たちがこの信仰の先達たちから受け継ぐべき心というのはどういう心でしょうか。

 それは一言でいうならば、神を知りたいと願う心です。ダビデの歩みを見ていきますと、彼は常に主の思いに寄り添い、主の思いを知ろうとした歩みをしております。彼は人間ですから度々罪を犯してしまいました。しかし、ダビデはとことん主の思いが何であるかに立ち返ってきた人でありました。そして、彼の内側に、神が神であられること、自分は神によって立てられた王に過ぎないこと、真の王の中の王は、主なる神であること。神が聖なるお方であり、その聖なる神の、「聖」が一体どのような「聖」であるのかよくわきまえていた人でありました。

 本日は、聖徒の日とも言われます。永眠者記念礼拝は、聖なる徒を覚える日です。聖徒というのは、普通の人とは違います。神によって分かたれた民です。どのように分かたれたのかというと、神の聖をわきまえ、その神の聖が自分の内側に形作られていった人。そういう人を聖徒と呼ぶのです。

 神の聖というのは、どういう意味で聖なのでしょうか。それは預言書にわかりやすく示されております。三つの意味を今日は特に覚えておかえりいただきたいと思います。

 一つ目はイザヤ書に示されている神の聖なるお姿です。そのお姿は、裁き主として正しい裁きをくだされるかたとして描かれております。

 二つ目は、ホセア書に示されている姿。神は憐れみ深さ、赦しの姿を通してご自分が聖であることをお見せくださいました。

 そして、三つ目、エゼキエル書をとおして、聖である方は、民を救うことを通してご自分が聖であることをお見せくださったのでした。

 裁き主、憐れみ深い方、救う方であること。 

 確かにダビデには、真の王は主であり、裁き主は主。裁く方はこの御方しかおられないと考えておりました。故に、サウルを何度も自分の手で裁くことができるチャンスが実はありました、復讐を達成できるチャンスがありましたが、自分の手ではそれを決してしませんでした。神が裁き主であることを心から受け入れていたからです。

 神の憐れみをダビデは、神を見ることによって自分の内に宿す人となっていました。あれだけ何度も命を狙われたサウルに対する最後の追悼の言葉は、サウルのその国を守った能力に対する敬意をのべておるのです。神の憐れみは限りなく、主の憐れみが注がれればどんなものも生かされ、赦しが臨むと信じていたに違いありません。

 ダビデの詩編、旧約聖書の詩編を読んでください。彼がどれだけ神に助けを叫び求めているか。追い詰められ、追い詰められ、何千人にも囲まれ。命を狙われたダビデ、しかし、彼はつねに救いを神にだけ求めていました。救いの神であることを心の底から受け入れていたからです。

 いうなれば、ダビデの心というのは、この神が聖であるこの聖というご性質を自分の内側にハッキリとうつしていた心であったと言うことができます。 

 神さまは旧約聖書の律法の中でおっしゃられました。レビ11:45。 

 わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。

 ひたすらに神のお気持ちを心にうつし続けるものに、神はご自身のご性質を分け与えてくださいます。

 キリストはご自分の血をもって、私たちが罪によって隔てられていた壁を打ち破ってくださり、キリストは私たちの心の内側に入って来られるようになりました。キリストの血の功績を信じるものには、主が内側に住んでくださり、聖なるご性質を私たちの内側に形作ってくださいます。

 本当になすべき第一のことは、神にしっかりとしがみつくこと。

 そして、このダビデがし続けたように、神がどんなお方であるのかということを心に宿し続けること以外ありません。キリストに心に入っていただいて、その神の聖というものがどのようなものか。お心がどういうお心か、ひたすらに主のお心に触れ続けて、変えていただいて、天に向かっていきたいと思います。

 ダビデは主を恐ていましたので、主を恐れた行動を取ることができました。主を思い描き続けると行動もついて来ます。当然です。何をすべきかわかります。先に召された人々の事だけを聖徒と呼ぶのではありません。皆様がこの世における聖徒です。アーメン。