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マタイによる福音書連続講解説教

2025.11.16.聖霊降臨節第24主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書25章31-46節『 人の子が栄光の座に着くとき 』

菅原 力牧師

 今日ご一緒に聞きます聖書箇所は、主の十字架の受難の出来事が始まる 26章の直前に置かれた主の言葉です。つまり十字架に向かわれる主のここまでの話の最後に置かれた話であり、一つの要ともなる話です。

 ところがこの箇所はとても理解が難しい。相当に複雑な話なのです。しかし、さらっと読んだだけだと、必ずしもそうは思わない、むしろわかりやすい話だ、と思って読む人もいるのです。つまり、終末の審判の基準は飢えているもの、渇いているものへの善行、困っているものへの善行、それなのだ、ということで話として分かりやすい、と受けとめる人もいるということです。つまり小さなものへの小さな善行、それが終末における裁判の基準だ、ということです。

 しかし、よく読んでいけばわかるように、話はそれほど単純ではない、と思います。

はじめから読んでいきます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆、従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らを選り分け、羊を右に、山羊を左に置く。」終末の時の光景を語る主の言葉です。人の子という言葉が主語になっていますがこの人の子には以前申し上げたように、やがてやってくる救い主という意味と、苦しみを受ける神の僕という二つの意味が込められています。ここで、主は間もなく受ける十字架の苦しみを思いつつ、その受難の主が栄光に輝いて再臨されるときが来ることを語るのです。キリストが栄光の座に着かれるとき、すべての民がその前に集められる、その時生きているものだけでない、これまでのすべての民、膨大な数の民です。そして羊飼いが羊と山羊を分けるように、すべての民を分けるというのです。羊と山羊とは日中は同じように放牧しているのですが、陽が陰ると山羊は冷たい風に弱く、羊は外気に強いので、山羊は洞窟に入れたりして分ける。そのように、膨大な数の人間を選り分けるというのです。

 その選り分けをする王とは、キリストのことであり、右と左とに分けていく。その判断基準となるのは35節と36節にある「あなた方は、わたしが飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に世話をし、牢にいた時に尋ねてくれたからだ。」

 この文章でまず驚かされるのは、終末の審判の時に、わたしたちのこれまでの行動が問われるのですが、その善い行いの相手がキリストと同定されているということです。靴屋のマルティンという話のように。わたしたちの生活の中にキリストがいたと言わんばかりの話なのです。正直これはとても戸惑う話です。

 しかしそれにしても、こうした善行が終末の審判の判断基準だと言われると、どんな人でも自分は大丈夫、合格だとは言えなくなってくるのです。そもそも、わたしたちは飢えている人、渇いている人、病気の人、牢にいる人に対して、一人一人対応している訳もなく、ほとんどの場合、見て見ぬふりをせざるを得ない。40節の言葉で言えば、「この最も小さな者の一人にした」わざが終末の審判の判断基準だと言われると、二の句が継げない。

 けれどもそれだけではない。

 これが判断基準だと言われると、納得いかない自分もいるのです。

 そもそもキリストの福音というのは、パウロがローマの信徒の手紙で言っているように、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信による」つまりわたしたちの倫理的実践によるのではなく、キリストの信実によるのだ、とわたしたちは聞いてきたのです。ただ、ややこしいのは、そのパウロ自身が別のところでこうも言っているのです。「神は各々の行いに従ってお報いになります。」つまりパウロ自身、救いはキリストの信実に齎されるが、救いを受けてそれで終わりではなく、どう生きるかその行いによって神に裁かれるというのです。ここにわたしたちが聖書を読むうえでの大事な問題が深く絡み合っているように思います。

 キリストがここで、ただに善行を積みあげよ、それが審判の際の判断基準だと言っているわけではないでしょうし、ヒューマニズム的な善行礼賛を語っているわけでもないでしょう。もし単なる善行礼賛ならば、福音も信仰も問題にならないことになってしまいます。この聖書箇所の後のマタイの26章には一人の女性が主がペトロの家にいる時に入ってきた時に、高価な香油を主イエスに注ぎかけた出来事が記されています。その時、弟子たちは、なぜこんな無駄遣いをするのか、高く売って貧しい人々に施すことができたのに、と女性を咎めます。その時主イエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」と言われました。つまりただ善行だけが問題になっているのなら、この話はおかしなことになります。弟子たちは、貧しい人たちのために、よいと思ったことが、主イエスへの奉仕がここで問題になっているのですから。

 今日の聖書箇所を読み進むと、話はそれほどすっきりと単純化されているわけではない、ということはよくわかってきますし、そもそも、ここで主が語られている話は何を言おうとしているのか、わからなくなってくるのです。

 

今日の箇所で要となっている主イエスの言葉は、40節に示されています。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち私にしたのである。」この主の言葉でわからないのは、この最も小さな者の一人とは誰のことなのか、ということです。この最も小さな者という言葉は、「わたしの最も小さな兄弟」の一人となっている写本が圧倒的に多く、新共同訳も兄弟を入れていました。協会共同訳は兄弟を入れていないのですが、兄弟という言葉が入ると、キリスト者という理解が鮮明になります。つまりここで飢えたり渇いたり、困窮したりしてるのはキリスト者のこと、さらに言えば、キリストの福音を宣べ伝えている者、という解釈が有力になってきます。その人たちに対する善い行い、それがここで判断基準とされていることだ、という理解です。一方で兄弟を入れないならば、この最も小さな者とはキリスト者であろうがなかろうが関係ない、今困窮の中にある人、ということになります。

 しかしこの40節が語るのは、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」ということです。小さな者とは誰か、という議論があるものの、キリストはここでその小さな者とご自分とを同定している、ということです。それは、キリストがご自身が小さな者となって、この小さな者と共に歩み、この小さな者を負ってくださったからです。言い換えれば、この最も小さな者の一人に善きわざ、愛のわざをされたのは誰なのか。飢えや渇き、人間の困窮、苦しみに共に在ろうとして担おうとしていかれたのは誰なのか。キリストなのではないか、ということに何度も読み進むうちに気づかされていくのです。

わたしたちはこの箇所を読むと、先程申し上げたように、自分がどれだけ、よい業を行い得たのか、ということが気になってきます。次いで、この小さな者は誰なのか、と捜し始めます。しかし、それ以前に、キリストが小さな者と共に在るためにこの世界においでくださったこと、そしてその小さなものを愛して、その小さな者のために命をささげてくださったこと、そして今まさにキリストはそのために十字架に向おうとしておられること、小さな者のためにご自分の存在を与えてくださったことに気づく必要があります。キリストがここで、この最も小さな者の一人、と言っておられるのは、読者である「わたし」のことだ、ということに気づいていかなければなりません。キリストはまさに、わたしのために、これから十字架に架かろうとしていかれるのです。

キリストにわたしが愛されてきたこと、共にある恵みの中にあること、それを受けとめて、生きるのです。小さな者であるわたしと共に在って愛し続けてくださるキリストを全身で受けとめながら、生きるのです。飢えていた時に食べさせ、渇いていた時に飲ませ、宿を貸し、裸の時に着せ、と言った行為から遠く離れていても、ろくろく実行できていない自分であっても、隣人愛から遠いわたしであっても、キリストがこの最も小さな者の一人であるこのわたしを愛してくださっていることを心に覚えて生きるのです。

 今キリストの話を読むと、右と左に選り分けられた人たちの違いは、自分のしてきた善行に対する、自分はそんなことしてこなかったと思っている人たちと、それなりにやってきたという自負を持っている人たちとの違いのようにも感じられます。実行してきたという自負が問われているとも読めます。

しかし、その根本にあるのは、最も小さな者であるこのわたし、という自分の受けとめ、そしてそのわたしをキリストは愛してくださった、くださっている、ということから生きているか、そうでないか、という違いなのではないか、と思います。そこから生きていこうとするなら、わたしたちの前にはいつも十字架のキリストのいてくださって、わたしを負いながら、わたしと共に在りながら、わたしの歩みを見つめてくださっているのではないでしょうか。

 「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」その歩みの中で、このキリストの言葉をよくわからないなりにも何度でも受けとめていきたいと思います。