ヨハネによる福音書 18:1〜11 「剣をさやに納めなさい」

石井和典牧師

 イエス様は弟子を守ってくださいました。本日の朗読箇所にこのような記述があります。ヨハネ福音書18:1。

 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた。

 「キドロンの谷の向こうに行かれた」という表現は特別な内容が意識された言葉です。新約聖書の中でよく使われるオリーブ山という言葉をつかっても良い場所です。こう言っても良いのです。「オリーブ山のゲッセマネの園に行かれた。」と。しかし、「キドロンの谷の向こう」とあえて記されました。キドロンの谷というのは、ダビデがエルサレムから逃れるとき。すなわち王として都落ちしたときに通った谷です。ダビデの傷ついた姿を彷彿とさせる言葉です。ダビデはアブサロムという息子に追われて、エルサレムを離れなければならなくなりました。それは、家臣たちの命を守るために、そのようにせざるを得なかったのです。ダビデが位を追われる時、意識していたのは、部下たちのことでした。自らが傷ついたとしても、愛するものたちを守りたい。そのような思いが染み込んでいる場所、それがキドロンの谷と言っていいでしょう。

 イエス様がエルサレムを離れてオリーブ山に向かわれる姿を、特に部下の命を守るために都落ちするダビデに重ね合わせながら、「キドロンの谷の向こう」という言葉があえて使われているわけです。

 イエス様は、常に弟子の命を守ることをお考えくださっていました。これが永遠に守られる神の御言葉の中に記されています。そのことだけで、私達は絶大なる力を得ます。

 何があってもどこでもどんな時でも、主は主に従い、忠誠をささげるものの、弟子たちの命を守ることをお考えくださるのだということが、聖書に、永遠に、刻まれているということだからです。この原則は永遠に変わることがない。

 どのようにお守りくださるのかということも、この直前のイエス様の祈りを見てみると分かってきます。「永遠の命を与える」ことによって弟子たちを守られるということなのです。イエス様の祈りを少し読みます。ヨハネ福音書17:1〜2。

 「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

 知るという言葉は、単に知識を得るということだけではありません。知るものと知られるものとの間に、関係性がある、交わりがある。そんな言葉です。聖書の中で、知ると出てきますと、交わりを意味したり、男女関係を意味することさえあります。すなわち、知る問言葉は一体となるということをも意味する言葉でもあります。イエス様を御言葉を通して、知り、祈りの中で対話をし、実際にイエス様を生活の中で経験していく。このような、信仰生活そのものが実は永遠の命の中に生きているということだったのです。御言葉と祈りの中に生きることによって、永遠の命を得ている。

 また、イエス様はその語りの中で「わたしたちの内にいてくださる」とも言ってくださいます。ヨハネ福音書17:26。

 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

 御名を知らせたとも記されています。御名によって祈るようにと信仰生活をはじめたときから勧められています。教会は主イエスの御名によって祈る人々の交わりです。その中に、主イエスがおられるのです。交わりの中にもおられますし、私たちの内にも、聖霊としてお住まいくださるのです。御言葉、祈り、聖霊。永遠の命によって弟子たちを守ってくださいます。

 イエス様は、あえてこのユダの裏切りの時、十字架の時、苦しみの時、園に向かわれました。これはゲッセマネの園のことです。イエス様は、この園をとても大事にされていました。この場所をこれまで何度も訪れました。弟子たちを連れて。対話をし、祈るためにこの場所を大切にされていたのです。

 園というのは、ヘブライ語でガンという言葉ですが、このガンは、四方を柵で囲まれた場所。隔離された公園とか庭園というような場所です。イエス様がおられる集会がこの囲われた場所で、そので開かれていきました。その集まりは、非常に自由であり、誰もが対等でいられるような自由な語らいの場でありました。イエス様と弟子たちだけの、親しい交わりの場、憩いの場所です。

 神様とは別の方向を向いて歩いていってしまったユダ。このユダもいつもどこに行けばイエス様にお会いできるかということはよく分かっていました。園に行けばよかったのです。ヨハネ福音書18:2。

 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。

 ここに来ればイエス様にお会いできる。園に行けばよかった。園で行われていたことは、イエスさまの御言葉を中心にしたイエスさまとの語らいでした。それが、ゲッセマネの園です。イエス様にお会いできる場所。あたりをつけることができます。現代でも同じです。聖書を読み祈りましょう。そこに主イエスはおられます。これを生活の中心にしたら、主イエスが皆様の人生の中心におられるようになります。主を中心とした生活において、主との交わりを楽しでいただきたいと思います。

 ユダはこの交わりの場がどこにあるのか分かっていました。そこに主との交わりを楽しむ純粋な思いではなくて、永遠の命を味わう思いではなくて、それらすべてをぶち壊しにし、主イエスの思いを踏みにじり、破壊するために向かいました。

 彼の心の中は、主イエスが間違っている、主イエスはメシアではない、主イエスはペテン師である。主イエスにローマ帝国からイスラエルを解放する力など無い。そのような不信と不従順、おのが正義をぶつける思い、これらの悪い思いに満たされて、すべてを破壊するためにここに来たのです。

 神の言葉を語り合い、分かち合い、楽しみ喜び、愛し、仕え。永遠の命つながって、永遠に生きる命を存分に味わう。そのような園で味わうべき思いではなくて、自分の基準で主イエスを裁き、破壊する。それがユダでした。

 裁いて破壊する。これが許されているのは、神だけです。救う力を持ち、父であり、すべての責任をお取りになることができる天の父だけです。にもかかわらず、人は「裁いて破壊する」側に立ってしまいます。その現実をユダが私達に指し示しているのです。人がそこに立ってはいけない。神がそこにおられるのです。

 ゲッセマネの園を、主イエスとの交わりの場所とするのか、裏切りの現場としてしまうのか。

 

 常に信仰の言葉、聖書の言葉、証、他者の信仰を喜ぶ。まるでゲッセマネの園でイエスさまがここにおられたら。こんな話を弟子たちはするのではないか。イエスさまを中心として、こんな証をして共に喜ぶんじゃないか。そんなふうに思う瞬間を経験させていただきました。

 先日お招きした守部先生、栄子さんご夫妻のことです。常に主が中心で証。徹頭徹尾、主の証でした。お二人のお話は。それは講演中に限りません。食事のときも常にです。こんなクリスチャン本当にいたんだ。そんなふうに面食らってしまいました。感動ひとしきりでした。主イエスがおられるゲッセマネの園。そんな場所にキリスト者はどこでもすることができることを学びました。

 イエス様はゲッセマネの園が裏切りの現場になってしまうことも、何もかもご存知であられました。ご存知の上で一切動じることなく、御自分がここにおられることを隠れることなく「わたしだ」とおっしゃられます。そのお姿に、つかまえに来た者たちは逆に、後退りして、地に倒れた、と記されています。神のご計画と、神のみ力の前に、いくらこの世の力に長けて手に武器を持っているものでも、ひるむしかなかったのです。

 御自分が弟子たちの盾になられ前に立ちはだかるイエスさま。そのために武力は必要ないのです。天の父の心が必要なのです。それが最強の力であることをご存知なのです。弟子たちを堂々と守られる主イエスのお姿がここに刻まれています。主イエスははっきりとおっしゃられました。ヨハネ福音書18:8。

 わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。

 自分が犠牲となって弟子たちを守るという言葉です。イエス様がことあるごとにおっしゃられたことを、ご自分の行動をもって実行しておられるのです。ヨハネ福音書6:39。

 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

 キリストに与えられたもの、信仰をこころに与えられた者、そのものを一人も決して失わない。そのようにキリストが決意なされている。それがまた天の父の御心であるとおっしゃられているのです。神の御心、この世の道理、真理。すべての中心。

 それは、信じるものが決して失われないように、ということなのです。永遠の命に私達が生きるということは、この世の存在よりも確かです。この世はやがて失われます。しかし、私達の命は決して失われない。それが主の御心だからです。永遠の命というのは、この世界の存在そのものよりも確かなものとさえ言えます。この世界はやがて失われるのですから。

 ヨハネ福音書10:28。

 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。

 ヨハネ福音書17:12。

 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。

 信じるものを何があっても守り抜く。それが主の御心です。

 イエス様のこころである「弟子が守り抜かれる」ということは、必ず実現するのです。だから、自分の手に武器をもってあえて戦いを挑む必要はありません。主の心だから、武器を持たなくても実現します。主の心が全てに勝って実現されます。ペトロは剣をもって戦いに乗り出そうとしましたが、そんなことは必要ではないのです。

 イエス様が逮捕されて、弟子たちは散り散りになって、こんな状態から主の御心が行われるはずないじゃないか。もうダメ。もうこんなんじゃ信仰もなにも誰も守っていないじゃないか。しかし、主なる神はそこから御業をなさる。主の御心とは、そのように人間の罪や現実によって歪められるものではない。

 人間の目に敗北にうつることも、主は勝利に変えることがおできになる。それが十字架です。主の御心は何があっても決して変わらない。貫徹される。遂行される。

 信じて、ついていって、弟子となるものは、その主のわざの一部とされてしまうのです。ハレルヤ。主に従いたいと思います。

 剣を納めよ。それでも勝利する。敗北の姿をとっても良い、それでも勝利する。十字架にかけられ、処刑されても、それでも勝利する。アーメン。