使徒言行録9:19b―22  「宣教する力」

石井和典 牧師

 敵がいるとします。攻撃します。その相手こそキリストであった。使徒パウロが経験したことです。イエス様に出会う前はサウロとヘブライ名を名乗っていましたが、主イエスと出会って人生が変わりました。パウロと名乗り、ギリシャ文化の中に出ていって宣教しました。偉大なる力が与えられました。はじめ彼はクリスチャンを迫害していていたユダヤ教のファリサイ派の人でありました。

 ダマスコという場所にクリスチャンを捕らえに行く途中、神の光に打たれます。

 立てなくなり、物も食べられなくなり、目が見えなくなりました。そこで神と出会いました。苦しみと、渇きの中で神に出会い、力を与えらました。

 無実のクリスチャンを捕らえ、牢に入れていたのですから、パウロこそ裁きを受けてキリストの共同体から排除されてしかるべきでありました。しかし、キリストの共同体は彼を迎え入れます。神は彼をこそ神の器として用いられるのです。アナニアがパウロのために遣わされますが、アナニア自身はパウロのもとに遣わされるということに二の足を踏んでいます。使徒9:13。

 しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムであなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長から権限を受けています。」

 すると主はおっしゃいます。使徒9:15。

 「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう。」

 人々が、嫌おうが拒絶しようが関係ありません。神の業のため、神の御計画のためにすでに召しいだされているのがパウロでした。神がどのようにお用いになられるのかはすでに主の主導権によって決められているのです。人々が判断することではありません。

 パウロはキリストの共同体のリーダーシップを取るには不適格な人です。というか、絶対にこんな人をリーダーにしてはいけないという人ですね。なぜなら、クリスチャン投獄の首謀者だからです。しかし、この不適格な人を主はお選びになられたのです。ここに、人間の思いと神の思いとの違いがあります。イザヤ書55:8〜9にこのような言葉があります。

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは/あなたたちの思いを高く超えている。

 選ばれた器であるパウロは、「苦しまなければならない」と言われています。イエス様が苦しまれたように、選びの中にあるということは、主の名のゆえに苦しみを覚えるということでもあります。確かにパウロはユダヤ教のリーダーシップを取るものとして、クリスチャンを迫害し、牢屋に放り込み、自分はユダヤ組織か守られて平安に暮らすという道があったと思います。それに比べるとクリスチャンとなるということは、自分が投獄され、自分が迫害される道でありました。パウロは自分自身の歩んだ道をこのように表現しています。 コリ11:24。

 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 しかし、パウロの道は、神によって召され、目が見えるようになる道であり、聖霊で満たされた神の御心を確信する道でありました。苦しみがつぎつぎと襲ってきましたが、神が守ってくださっていることを事あるごとに味わい、ますます力を受けて前に進み出ることができる歩みとなっていきました。ローマに投獄されようとも力を失うことはない歩みでした。

 アナニアが預言する通りになりました。使徒9:17。

 そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」

 目からウロコが落ちて、見えるようになり、洗礼を受けて、食事をして元気を取り戻しました。そして、すぐにあちこちの会堂で語るようになりました。見えなかった神の御業が見えるようになって、元気になり聖霊に満たされて心の内に力が常に注がれ続けたのですね。

 

 一度本当に見えなくなってしまって神を求めて飢え乾き、あがき求めるということがいかに重要かわかります。

 このような神を求める心が心の内側から湧き上がってこなければ、パウロが聖霊に満たされるということもありませんでした。

 目が見えず食べも飲みもできない瞬間を経験することはとても良いことでした。ひたすらに神を求めなければいなくなるからです。マタイ福音書5:6においてイエス様はこのようにおっしゃられました。

 義に飢え渇く人々は幸いである、/その人たちは満たされる。

 義というのは神との正しい関係という意味です。一言で言い換えるならば、神のご存在に飢え乾いて神を求めるものに、神はご自分をあらわしてくださるということです。神を失っているということを認めて、そこに神を求めて、探し求めて飢え渇き続けるとそこに主がご自分の姿をあらわしてくださるのですね。

 これは主イエスの約束の言葉ですから、必ず実現されます。

 主をあらゆるところに求め続ける人は、主を見出すのです。主との関係を見出すのです。義を見出すのです。義を見出したパウロは、どこにいっても、キリストがメシアであることを述べ伝え続けました。これまで必死で勉強してきた旧約聖書。天の父なる神。その神が御子キリストにおいて現れ、永遠を有しておられるお方が、限定されたかのようにその時代にあらわれてご自身のお姿を見せてくださった。

 パウロにとって御子イエスが神であられるという啓示は、驚くほど大きなこと。自分が追い求めてきたものの結論といいましょうか、お会いしたかった神が、キリストという目で見て手でふれて、言葉を交わすことさえできたお方であったこと。そして、そのキリストの霊がわが内に住んでいることを実感しながらの歩みとなったのです。神との関係が彼の歩みに満ち溢れています。

 神との関係、すなわち義が、彼の人生に満ち。義に生きることこそが彼の道となりました。

 どんなとこにも出ていくことができました。なぜなら、そこにキリストがおられるという神との関係を確信していたからです。人々はその態度自体に驚きました。使徒9:21。

 「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」

 自分の正しさを訴えるように誰かを捕らえて、犠牲にし、命を奪い取るというようなサタンの業ではなくて、彼が今従事しているのは、自分の内側に溢れる命の中を生き、どんな迫害にもへこたれることなく、命の泉が内側からわきいで、その命の泉で他者をも潤し、さらにますます力を受けて進みに進み行く歩みとなっていったのでした。

 クリスチャンを捕らえようとしていた人たちをうろたえさせるほどに、そこに神が働いておられるということを周りの民も認めざるを得ない姿になっていきました。使徒9:22。

 しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。

 神の業を行うことによって、それに反対するものたちをうろたえさせるほどのものとなった。まさに、イエス様の周りでイエス様に敵対する人たちが抱いていた感情です。イエス様があまりにも素晴らしい業をされるので、ユダヤ当局は、イエス様が人々に触れられ、癒やされ、慰めの言葉を語られ、立ち上がることができなかった人が立ち上がり、人々が力を受けていった様におそれを抱いたのでした。イエス様がなされたように彼も歩むことになりました。その歩みがどんなに困難に満ちたものであるかを、パウロ自身に示そうとおっしゃられるほど、キリストと共に歩むことには妨害が入り、困難が伴うものです。しかし、辛くもパウロはその難を神の御手によって逃れ続けます。使徒9:23。

 かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、

 と記されている通り、命が危なくなりましたが、彼の内側にあるキリストの命はますます燃え上がって、宣教のために前に進みゆくのでした。

 キリストに触れていただくこと、神にふれていただくことというのは、困難の中でふつふつと湧き上がって来る力を得るということです。罪赦されて、神との関係が回復したものの強さというのは計り知れません。

 ひたすらに、神に飢え乾き、食べ物よりも神を求め、目が見えなくなっても神を求め、求め続けるものに、主はご自分の霊を授けられます。パウロのように。わたしたちにも。アーメン。