ヨハネによる福音書 11:28〜37 「イエスの涙」

石井和典牧師

 死に打ち勝つことができる。福音を聞く者たちが味わう世界です。キリストは死に勝ちます。キリストに従うものたちも同様に死に打ち勝ちます。ヨハネ5:24。

 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 永遠の命を得ることをもって死を乗り越え、死に勝利する。それが我々のあり方です。永遠の命は、信じる者に与えられると主イエスは約束してくださいました。イエス様の言葉を聞いて、イエス様をお遣わしになられた天の父なる神を信じるものは、永遠の命を得て、裁かれることはない。それが命であると教えてくださいました。

 しかし、信じていると言いながらも、信じ切っていない、信仰によって満たされていない現実があることを本日のラザロの復活の記事は私たちに伝えます。ラザロの姉妹マリア、マルタは信じているとは言っています。しかし、こころの中にその信仰が満ち溢れている状態にはなっていないのがよく分かります。マルタは信仰の告白をしています。ヨハネ11:27。

 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 しっかりと主イエスが神の子、メシアであると告白しています。しかし、その内容についてまだまだ主イエスを神として信じるというところにまでは達していないことがわかります。というのも、マルタは、もしもイエス様がここにおられたら兄弟ラザロは死ななかったでしょうにと言って、死んでしまったことに絶望しているからです。でも、イエス様はあえてラザロが死を迎えるのを待っておられました。なぜなら、神の栄光が現れるためにです。ラザロが病の中で死んでこそ栄光が現れるのです。死から復活するようにと、主はご計画くださっていました。だから、ヨハネ11:4で主イエスはこのように言われていたわけです。

 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 死が結論ではない、神の栄光が結論である。それが信じるものたちの生き方である。イエス様はそのように私たちに示してくださっています。死は主イエスの計画の内である。私の死も決められているはずですが、どのように死ぬかによって、栄光を主が表してくださる。私が信じる限り。私が主を自ら追い出して罪に至らない限り、必ず主の計画の内にある死に至る。その死は、永遠の死ではない、永遠の命にいたる道である。

 主イエスにとりましては、死は眠りでしかありません。一時的なものです。ヨハネ11:11。

 「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」 

 「   さん、わたしはあなたを起こしに行く。」このような主の御声を聞くことができる幸いが信じるものには与えられるのです。

 このような死に打ち勝つ力をお持ちであられる方のところに、マルタ、マリア、ラザロの兄弟は行くことができたということ。このことがまず恵みです。主に対して彼らはこのように言うことができました。ヨハネ11:3。

 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」

 と、叫びのように切実な言葉でありますが、そこに「あなたの愛しておられる」という主との親しい交わりを与えられているこの兄弟、姉妹は幸いです。すでに救われています。「あなたの愛しておられる」このものを守ってください。そのように祈る霊が与えられているものたちは、はじめは不完全な信仰であったとしても、やがて主によって導かれます。この主が愛してくださっているという確信をもってどこまでも、主にすがりついていくこことこそ、まず大前提として極めて重要なことです。神様は私たちに信仰を強要されるお方ではありません。そのものの心の自由に任せておられます。だからこそ、堕落するわけです。

 さらに、主に向かう霊が、心が与えられたものは、そして、そのこころに自らを委ねて行動を起こし続けるものは幸いです。そのものはやがて主の御力を体験します。その様子をヨハネ11:5、6はこのように表現します。

 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。

 すぐにラザロのところに行くのではなくて、肉の命が果てるのをイエス様は待っておられました。しかし、それは彼らを愛しておられたからです。神の栄光を見せるためです。すべては神の栄光を主が見せるためです。愛するためにそのように主はお働きくださるのです。

 エフェソの信徒への手紙1:11にこのように記されています。

 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

 約束されたものの相続者、永遠の命の相続者、天の御国の相続者。主イエスを愛するもの。そのものたちにはご計画があり、そのご計画は、神の栄光をたたえるためのご計画なのです。ということは、私たちに起こるあらゆる状況、病や死、それらは神の栄光を表すためのものであることを知るのです。だから、主イエスはラザロを通して、主の栄光が現れるために、あえて、ラザロの肉の命が尽きはてるのを待っておられたのです。主が待っておられるのであれば、主がおられるのであれば、死は死ではありません!!

 死は私たちにとっては空洞です。がらんどうです。内実がありません。復活するのですから。

 もしも、イエス様、あなたがここにおられたらラザロは死ぬことはなかったのに。。。残念でなりません。もうすべてが終わりました。そんな心でマルタはイエス様のところにきたのです。ヨハネ11:21。

 主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

 でも、このあとにマルタの信仰があらわされています。

 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しております。

 もう、終わった、、、そのように自分の目には見える。しかし、神よ、あなたは全能者。御子キリストよ、あなたがお望みであれば、なんでもおできになられます。彼女の心はもう憔悴しきっているのです。肉の目ではもうこのさきの歩みなど見えないのです。しかし、なお神はおできになる。そのこころに答えて、主イエスはこのようにおっしゃられました。ヨハネ11:25、26。

 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 死んでも生きる。肉において死んでいても、神のもとで生きている。死んでも生きる。決して死んでいるわけではない。私たちの先輩方、死んでいない。肉においては死にました。でも神において生きているのです。死んでも生きる。決して死なない。イエス様は断言してくださいました。

 あぁ、もう私は死なないんだ。神によって復活させられる。命が宿っている。実際にラザロは死んでいたんです。しかし、死んでも生きる!

 私は、本日朗読されているところを読んでいて、なんだかはじめはとても不思議な気持ちになりました。なぜなら、イエス様は今日のところを読んでいてわかりますが、怒っておられますし、泣いてもおられるのです。怒って泣いて、、、果たしてこれは一体。などとはじめは思っていたんです。

 しかし、黙想するうちに、イエス様のそのおこころのやさしさ、清らかさに気付かされていきました。先程も言いました。人は主イエスへの信仰に生きているかぎり、「死んでも生きる!」のです。これが真理であり、主イエスがお見せくださる栄光そのものです。

 しかし、それでもなお、愛するものを失うという悲しみから逃れうることができるものはいません。だから、それは悲しいできごとであることに変わりはありません。しかし!死んでも生きる!のです。

 イエス様がその人間の現実の只中に入ってきてくださって、死んでも生きるということをまだまだ信じきれていない、マリア、マルタ姉妹のそのこころの不確かさや、周りの人達の信じようとしない気持ちに、また、死という人間にどうにもならない現実に、怒りを覚えておられる。不信仰、そして現実にうちひしがれてしまう出来事に怒りを覚えつつ、なおその中で、悲しみに寄り添い愛するものを失ったものと共におられる主イエス。この怒りと涙との現実。私たちの抱えている現実というのはこういうものでしょう。

 信じているといいつつも信じ切っていない私たちがいます。私は現代の日本の教会、そして私自身がそうだと思います。「死んでも生きる!」と言いながらも、心がさだまりきらず、起こる出来事に翻弄されている。しかし、その中に主イエスは入って来てくださって、あるところ私たちの不信仰な有様に怒りを覚えつつも、しかし、その怒りは見捨てるとかそういうものでは全くなく、その中で私たちが覚える心の状態に寄り添い、共に泣き、共に歩んでくださる。

 私たちの不信仰に怒り、それでも見捨てず、共に涙してくださり、信仰の道へと導こうとしてくださっている。

 2016年にイスラエルに行ってユダヤの民の必死の祈りを目の当たりにして、なんとクリスチャンの祈りの貧しいことか、私の祈りの貧しいことかと思わされてしまった。そこから回心が始まったわけですが、先日もキリスト教基礎講座で、ある未信者の方に「日本のクリスチャンが一番祈っていないですよね」と指摘されてしまった。本当にそのとおりです。

 イエス様のご臨在を感じる時。イエス様がそばに居られた時、弟子たちはつねにイエス様から叱られるような状態でしたよね。もちろん愛がそこに溢れていました。弟子のようにイエス様と顔と顔とを合わせたかったと私はなんど思ったことか分かりません。しかし、逆にいえば全部見透かされて、全部不信仰を指摘されて、怒られて、ってすごい自分の否を不信仰を悟らされる毎日だったに違いないと思うです。

 しかし、そこにこそまことの幸いがあったのも確かですね。

 「あなたは死んでも生きる!あなたは死んでも生きる!なのに、どうして死んだら死んでしまうと思って恐れに囚われた行動をとっているのか!」

 そう、わたしはこの箇所を読んでいて叱られた思いがいたしました。しかし、主は同時に私たちの弱さに寄り添い、共に涙してくださっている。

 この幸い。この喜び。このご臨在の思いさえあれば、幸いなのです。アーメン。