士師記16章23〜31節 「目が見えなくても見える」

石井和典牧師

祈りの重要性

 今年は宗教改革500年という記念の年です。宗教改革と言えば、マルティン・ルターです。彼はとりわけ祈りを大切にしました。祈りの人でした。

 今日はすべきことがあまりにも多いから、1時間ほど余分に、祈りの時間をとらなければならない。

 もし、私が毎朝2時間祈らなかったら、その日一日悪魔にやられてしまいます。私にはあまりにもたくさんの仕事があるので一日3時間祈らなければどうしてもやっていけないのです。

 この言葉に、「はっ」とさせられるのは私だけでしょうか。根本的に考え方が本末転倒であったことを気付かされます。忙しいからなんとか仕事を頑張るのではない。忙しいからこそ祈りをささげるのです。

目の前の目に見えることに

 目の前の、目に見えることによって、常に敗北させられるように誘惑を受けているということを自覚していただきたいのです。神への信頼と愛に立ち続けることが私たちの勝利でありますが、その勝利に至る道は常に妨害されています。神への信頼じゃなくて、目に見える環境や状況や、自分の能力や、人や、コネや、その他、所々諸々の神以外に頼り解決できるのだ。誰でもが考えそうなことによって、祈りが疎外され、実際に行動することが先なんだとなってしまうのです。

士師記の問題提起

 士師記は、イスラエルの民が神の国を建てあげていく使命を託されていながらも、失敗するという物語です。どう失敗するのかというと、神の主権をたてることが出来ずに失敗します。領土が与えられて、国民が与えられて、神の主権がたてば、そこに神の国がうちたてられます。しかし、それが人間の罪によって阻まれます。

 どうして、イスラエルの民は主権者を神にすることができなかったのか。それは神が目に見えるご存在ではなく、民は目に見えるものによって左右されてしまっていたからです。目に見えるもののほうが大事だと考え、その結果、神を排除してしまったからです。私たちが祈りよりも他のことを大事にする理由と似通っていませんでしょうか。だから、士師記というのは遠い昔の話ではなくて、私たちへに警鐘を鳴らしている神の言葉なのです。

 目に見えない神のみことば、神ご本人ではなく、見える現象に目がいったのです。豊かになること、豊穣を与えられること、バアル信仰ですね。バアル信仰には性的な関係を神官と結ぶことによってバアルの力が起こされて、豊穣を与えられると教えられていました。目に見える次元にのめり込んでしまい、目に見えない次元を捨ててしまった。神を捨ててしまったのです。

 ヘブライ人への手紙11章1節にこのように記されています。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 イスラエルの12部族は、ソロモンによって神殿が建てられるまで、士師時代、ともに集まって礼拝をしたという記述がありません。礼拝を共にささげることを怠ると、目に見えない次元が全くわからない世界になります。御言葉を共有し、共に跪くことが極めて重要です。一人では信仰は守れません。礼拝を捧げることを怠ると、本当に大切なことが何かわからなくなり、目に見える次元の話だけに関心がいくようになります。そうすると、つぶやきが満ちてきます。出エジプト記でモーセ以外皆がつぶやきばかりの歩みとなってしまっていましたが、それは見えない神さまを信頼し、心の目で、霊の目で見ることができなくなっていたからです。つぶやき、心がざわめき、平安を失うということが、主への信頼によって歩んでいないということの、目に見えるしるしです。

 祈祷会でダビデの箇所を読んでいますが、彼は「大罪」と呼ばれるような罪を犯すこともありましたが、詩編をみていただければ分かるように、主を叫び求めることにすぐに帰ってくる人でありました。神殿で神と出会うことを慕い求め、このような言葉を残しています。詩編27章4節。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主に家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを。

 見えない神によって形づくられ、この世に見える形をもって人間は生まれてきました。この見える実態のみをみて生きてきたものが、主イエスを通して「神の国と神の義」を第一に求めることをもって、神のもとに帰って行き、目に見えないお方に祈りをささげることをもって、あらゆる祝福を受けることができる道が整えられていることを思い出してください。源は見えない神さまです。だから、祈りに帰って行ってください。主の宮に集って、そこで祈りをささげることにこそ、喜びがあります。

士師記のパターン

 士師記のパターンをもう一度思い出してください。

 罪(偶像礼拝)→懲らしめ(異邦人)→叫び(祈り)→救い(士師)

 この流れです。定形パターンとして繰り返されます。これは過去の話ではなく、現代のクリスチャンにおいても繰り返されているパターンです。明確な偶像を持つことがなかったとしても、神さまを小さく、思い込みの中に閉じ込めるということをしてしまっているのが私たちです。特に聖書を読まない生活をしているクリスチャンはほぼ間違いなく偶像礼拝に陥っています。神を小さくコンパクトにしがちなんですね。そうすると目に見えない神さまのご存在が遠くなって、目に見える次元で起こっている神さまの業も神さまの業であると認識できなくなります。感謝がなくなります。つぶやきます。平安が無くなります。

 懲らしめが与えられて、苦しみが与えられて、その苦しみの中で叫ぶことになる。祈ることになります。しかし、その祈りに即座に主がお応えになられて、士師が指導者、祭司、預言者のようなリーダーが与えられ、導かれるのです。

 士師時代が終わりを迎える頃、本日読んでいるサムソンの時代。約束の地にもとから住んでいたカナンの人々は非常に弱くなっていました。イスラエルにとってはもう恐れる必要の無いほどに弱体化しておりました。しかし、今度は主の懲らしめのためにカナンの人ではなくて、ペリシテ人を主は用いられるようになりました。

 ペリシテ人というのは、イスラエルの海を超えて、地中海の向こうからやってきたエーゲ海周辺をその根拠地とする海洋民族です。約束の地であるカナンが与えられましたが、イスラエルの民は400年もの間、常に神を裏切り目に見える幸いを与えているかのように見え、性的な欲求を満足させるバアルに仕えました。

 だからこそ、地中海を船にのってやってくるペリシテ人を主が用いられてイスラエルを懲らしめられたのです。

 このペリシテ人の攻撃から約束の地を守る使命を受けた人がサムソンです。サムソンの時代というのは、イスラエルの民が神に向かって叫ぶこと(祈ること)を忘れた時代でした。ペリシテ人が強くなっていく時に、神は子どもを産むことができなかったマノア夫婦にに現れ、子どもを授けると約束し、ナジル人としてサムソンを育てるようにお命じになられました。

 ナジル人というのは、聖別された人という意味です。聖なるものとして、別けられ、区別されたものという意味です。髪を切らない、酒を飲まない、死体など汚れたものに触れない。そういう生活をしていた人です。

聖霊を受けていたが

 サムソンは神の霊を受けていました。特別な力と能力が彼には備わっていました。しかし、聖霊を受けたという記述のすぐ後に、ペリシテ人の娘に恋をしたという記述が出てきます。サムソンのお父さんもお母さんも、ナジル人として召されたサムソンにとって、それはしてはならないことの一つにうつりました。イスラエルの民にとって、異邦人は汚れた習慣に染まっており、お付き合いしてはならないと考えられていたのです。というのもペリシテ人はアモリ人の神ダゴンという神を自分たちの神にしたり、とにかくどんな神であってもご利益がありそうであるならば、自分の神としてしまう民です。ダゴンはバアルの父であるとも考えられていました。汚れた性的な宗教儀式を行うバアル信仰と関係のあるダゴン、その神を信じるものたちが一体何をするのでしょうか。

 だから、ナジル人であるサムソンはペリシテ人と恋仲になることは許されなかったのです。しかし、士師記14章3節からの流れを見てみますと、これが神さまの導きであったことがわかります。

 父母は言った。「お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。」だがサムソンは父に、「彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです」と願った。父母はこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。

 ここに書かれているように、イスラエルが外からやってきたペリシテ人に支配されてしまう状況にまでイスラエルの立場というのは弱くなっていたようです。というのも、ペリシテ人は海を舞台にして交易を盛んにすることができたので、彼らの方が強力な武器が使えたのです。鉄器を彼らは使うことができたと言います。イスラエルはまだ鉄を精製して使う力がありませんでした。

 神さまは、サムソンにペリシテ人に対する敵意を持たせるために、ペリシテ人の娘と結婚させ、その妻がサムソンに背くようにさせました。結婚して仲睦まじく。というのが、人間が願うことです。しかし、神のみ心がそうではないという場合もありえます。

 物事を先入観で判断してはなりません。とにかく、祈らなければ、神の思いがどこにあるのか誰にもわからないということです。祈ってください。

不思議な主

 士師記13章18節で、主の御使いは、主の御使いは神さまご自身の事を表しますが、ご自身でご自身のことをこのように言っておられます。

 主の御使いは、「なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う」と答えた。

 本当に不思議なお方です。ペリシテ人をイスラエルを懲らしめるために送られ、しかし、そのペリシテ人と戦ってイスラエルの民が勝利できるようにとお考えになられる。神さまは一体イスラエルを通して何をなさろうとされているのでしょうか。士師記を通して、また旧約全体を読んでいて思わされるのですが、とにかく民に主を求める叫びを起こさせる、信仰の祈りを起こさせる。

 そのために、どんなものでも用いられて、時に外国の神々に蹂躙されるような状況さえお許しになられる。また、ペリシテ人にいつの間にか支配されてしまっているような状況さえ、作られるのです。

 神さま、なんと私は惨めなのでしょうか。

 そう叫ばざるを得ない状況をさえ、祈りを引き出すためにお用いになられることがあるのです。

サムソンの物語で明らかになるのは

 サムソンの物語で明らかになるのは、サムソンはペリシテ人からイスラエルを解放する使命を与えられながらも、彼が忠実になれなかったという現実を指し示すのです。与えられた賜物を、主のために用いるのではなくて、自分の欲望のために使ってしまうのです。ただ女性を愛するために用いて、結局は、性的な罪のゆえに堕落して倒れます。

 ある時、こっそりとペリシテのガザに行って、遊女と一晩過ごします。彼はナジル人なはずなんですよ。聖別された人のはずです。その遊女はデリラという名でした。ペリシテ人はサムソンさえいなければすぐにイスラエルを占拠できるのに、サムソンという怪力男がいることによってイスラエルを占拠できないと思っていました。というのも、彼は一人でペリシテ人1000人を打ち殺したという過去があったからです。

 デリラという遊女は、自分の美貌を利用してサムソンから力の秘密を聞き出そうとしました。結局、サムソンはデリラに秘密を打ち明けてしまいました。その結果、力を失いペリシテ人につかまり、目玉をえぐりだされてしまいました。

使命を忘れて、欲に走る

 サムソンには、ペリシテ人からイスラエルを解放するという使命がありました。しかし、彼はその使命に思い至ることができませんでした。というのも、彼は目に見える神に頼るよりも、目の前に見える美しい女性に目を奪われていたからです。目に見えない神を信じるのではなくて、目に見えるものにうつつを抜かしていたのです。彼が真に悔い改めたのはいつでしょうか。

 目に見えるものにうつつを抜かすことができない状態になってからです。すなわち盲目になったときです。その時にはじめて、まことに目に見えない神に向き合うようになったのです。そこで、自分の使命に生きる道を選択することができるようになりました。

 主イエスの非常に厳しいお言葉が連想されます。マタイ5章27節。

 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に堕ちない方がましである。

 サムソンは、目も失い、体も失いました。それは彼の情欲に起因する出来事の結果、神を忘れているその中で、失うべきものを失ってはじめて失ってはいけないものに気付いたのです。目を失い、肉の命をも失うその中で、神さまが何をなさりたいのか。自分を通してペリシテ人を打つことが主の思いであることを、彼自身の肉の命と引換えに悟り、主の業のために、彼はその身を献げたのです。

目が見えていたとき

 目が見えていたときに彼がしていたことは、本当にめちゃくちゃです。やりたい放題です。ナジル人として聖別された人なのかこの人はと言いたくなるような人だったのです。しかし、見えると思っていたその肉の目が剥ぎ取られた時、彼は本当に見るべき神を見たのです。

 見えるものに没頭して、それら全てが剥ぎ取られてからやっと気付くというのでは、おそすぎます。主キリストに導かれた皆様には、主の名によって祈り、聖霊が注がれ、主の思いが心に満ちるという、恐ろしいほどに偉大なる恵みが準備されています。どうか、心の目を開くために、祈ってください。目に見えない神さまのお気持ちが理解できるように、聖書を開いてください。祈りに専心していくことによって更に皆様一人一人への主のみ心が見えてくるはずです。目に見えるものにうつつを抜かしている場合ではない。主の思いを悟る日必要があります。

 見えてくるまで、祈ってください。すべて、神さまから剥ぎ取られて失う時に、主から与えられた使命に気付くのではなく!今日から主の御心を探り、自由が与えられている内に、主の使命に動き出したいと思います。アーメン。