マタイによる福音書 6:5〜6 「隠れた主」

石井和典 牧師

 施し、祈り、断食。というこの3つが、当時の人達に、「信心深い、敬虔に」うつる行為で、称賛されるものでした。しかし、信仰的な行為と言われる行動においてこそ、人は罪を犯すということを主イエスは教えてくださっています。イエス様は真実の真実を教えてくださいます。こうやったら信仰深そうに見えるとか、人から良い評価を受けるとか、いかにも本物のように見えるとかそういうことではない。

 本質を問い、本質を教えてくださるのです。いかに人々が隠そうが、イエス様にはそれが見えているということです。

 イエス様と出会う、神様の心を受け止めるという瞬間はこのように、非常に痛い所をつかれるという経験を通して与えられるものですね。福音書を読んでいますと、主によって「あなたのこういうところが罪ですよ」ということを示されていきますが、そのときにこそ、主は皆様に出会ってくださっているということになるわけです。

 ですから、本日のところを読んでいて、「痛い所つかれた〜」となるのが、大事なわけですね。ここを素通りして、自分はこのような罪人ではありません。罪人でない自分を感謝しますといって自分の胸をなでおろしている人は、何も成長していかないわけです。

 説教を聞いたり、聖書を読んだりして、自分とはなんの関係もない、私はイエス様がおっしゃるような罪人ではないという感じで、涼しい顔をしていたら、それは聖書を読んでいるということにならないのです。

 主イエスの言葉は、わたしたちの真実の姿を明らかにします。イエス様の言葉を聞いている人は、自らの罪を悟らされるのです。必然的に主の前にいる人というのは、徹底的に自分の罪を知らされますので、低くさせられます。

 「謙遜の極み」という状態にどうしたってなります。謙遜の極みになっていないのは、主の前にいないからということにほかなりません。ヘブライ人のへの手紙4:12にこのような使徒パウロの言葉があります。

 神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 イエス様のお言葉を聞きますと、本当は、本心は、実は神の前にいないで、人の前にいる。人に見られるということを前提として、信仰深そうに人に見せる行為をしている。しかし、そんなもの冷静に考えると意味が無いのですが、意味がないことを、いつのまにか行ってしまっている。これが人間ですね。それが罪ですね。

 信仰深いということは、ひたすらに神に向かっているということですよね。これを求めていたはずなのに、神に向かわず人に向かって、人が見ていてくれるからこれをやる。人が見ているから、人にどれだけ施しをしたか見せるために施す、祈りはどれだけ祈り深い人であるかを人に見せるために行ってしまう。断食はどれだけ苦行を自分が神のためにしているのかを人に知らせるために見苦しい顔をする。

 神に向かってしているはずのものが、いつの間にか変質してしまって、台無しになってしまっている。

 このことに気づかせるために、信仰深い民と言われ、自認していてユダヤの人々に対してイエス様はこのように本質をついて、隠されたように見える真実を切り分けてくださるのです。

 そうです、私たちは特別意識しないといつの間にか物事を台無しにするような状態になってしまっているということですね。教会で行われているすべてのことがそうなのです。教会が最も堕落しやすい場所です。

 もしも、人に見てもらおうとして行っていたら、その善行の報いは期待できないということがはっきりと書かれています。マタイによる福音書6:1。

 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。

 施しをしたら、誰にも気づかれてはいけない。施しをした事自体も、忘れるのです。そのようなことを行ったという情報自体人に知られてはなりません。なぜなら、人に知られてしまうと、神からの報いを期待できなくなってしまうからです。施しの意味がなくなってしまうからです。マタイ6:3。

 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しをひと目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。

 誰にも気づかれてはいけないどころか、自分でも忘れていなければならない。なぜなら、自分の善行を人に知らしめているのは、自分だからですね。自分が人に言わなければ、広がらないわけです。

 祈りも同じで、人が見ているときに大げさな祈りをしがちなのです。人が誰も見ていないときにこそ熱心に、人が見ているときには、簡素に。言葉数が多ければ聞かれるのではなくて、祈りというのは、そもそも深い神様との交わりだからですね。公の場で意気揚々として、誰かに見せびらかすものではありません。そのようなことを考え始めた時点で神との交わりを失っているのです。マタイ福音書6:6。

 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 神に向かってしていないことが問題で、神にむかって善行を行うなら、神は報いてくださる。このように約束してくださっていると読み取ることもできます。人の顔色を気にせず、神が報いてくださるというところを目指して、神に向かって行動すれば良いことがわかります。信仰というのはとてもシンプルで単純ですね。ただ何を優先し、どこを見ているのかです。一言で言えば、誰を前にしているのか。神を無視していないか、神を中心にしているのかということですね。

 ユダヤの人々は、神を中心にしている「体(てい)」はとってはいましたが、実際には、人を中心にしていたり、自分を中心にしていたり、的を外していました。罪を犯していました。だから、その点を主イエスがご指摘くださっています。

 体裁は保っているけれども、中身がない。そういうものに人はなりがちなんですね。

 断食というのも、食を断って、命の与え手は神であることに集中する行為ですが、自分がどう見られるかに集中してしまうという、的を外すことが起こっていたんです。

 信仰共同体においては、いつのまにかいとも簡単に、本質からそれ、罪を犯し、ということが、信仰の名のもとに起こり続けるということですね。

 こういうことを指摘されて使徒たちはやはり悔い改めたのですね。ちゃんと覚えていて書き記していきました。

 この基本のはじめのポイントに、深い自覚と謙遜さをもって立ち返ることが教会の力でした。より深く、自分にイエス様がこの言葉をお話くださり、私の罪を指摘してくださっていたのだという自覚を持つことができるようになっていくことこそが大事なのです。

 主イエスは、ひたすらに天とつながっていないわたしたちの現状を指摘して、天とつながることができるように、お言葉をくださっているのです。天とつながらないことがいかに虚しいことか、天とつながるのならば、いかに報いを期待することができるのか。6章の終わりで主はこのようにおっしゃられています。マタイ6:33。

 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

 神様よりも、何を食べようか、何を着ようか。神よりも自分の命のことで思い悩み、真の命である神を失っている。寿命についてすべて主の思いのまま。しかし、それを与えた主を思うことはしない。

 すべて求めていることよりも優先されて主を求めること。これによって神の国はあなたがたとともにあり、そして、必要なものもすべてあなたとともにあり。

 主イエスの約束ですから、必ず守られます。まず何を求めるかなのです。

 純粋に主のご存在を求めていった人たちの報いがこの聖書という書の中には溢れています。しかし、純粋ではなくて、いつのまにか主のご存在ではなくて、別のものを求めた人がどうなるのか、主イエスは教えてくださっています。

 主を求めるものには、命があります。十字架の血で皆様を清めて天にお連れくださいます。しかし、主をもとめるのではなくて、自分の命を守ろうとするものはそれを失います。マタイ福音書16:25。

 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 肉の命、この世のもの、それらを第一にするのをやめて、肉の命を捨てて、主とともにある主との関係を第一にしたものはすべてを得るのです。アーメン。