ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

教会暦・聖書日課による説教

2025.7.13.聖霊降臨節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書21章28-32節『 神の国に入る 』

菅原 力牧師

 神殿の境内での主イエスの教えが続いています。先週の箇所では祭司長や長老たちが主イエスのもとにやってきて、「何の権威でこのようなことをするのか」と問い質したことで、権威を巡る話になったのでした。

 それに続くのが今日の聖書箇所で、主イエスはまず、とても短いたとえ話を語ります。たとえ本体は難しくはないものです。

 ある人に二人の息子がいて、父は兄のところに行き今日葡萄園へ行って働きなさい、と言ったところ、兄は「いやです」と答えた。が後で考え直して葡萄園に行った。父は弟のところにも行き、同じことを言うと、弟は、「はい、お父さん」と応えたのですが、行かなかった、というたとえばなしなのです。

 そして主は周りにいた人々に尋ねられた。「この二人のうち、どちらが父親の望み通りしたか。」人々は迷わず、「兄の方です」と応えたのです。

 たとえ話の内容はわかりやすい。兄弟のどっちが父の意志に従ったかと言えば、いやですと答えながらも、後で考え直して葡萄園に行った兄の方だ、と人々が言ったのはよくわかるのです。いい返事をしながら実行しなかったと弟、いやだと言ったけれど、考え直して実行した兄、という話です。

 しかしその後、31節の後半から主イエスがこのたとえに解釈を加えている部分は決してわかりやすいはいえないのではないでしょうか。

 「よく言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたがたより先に神の国に入る。」いきなり特定の人々が上がってくるのです。徴税人や娼婦がいきなり登場するのです。そしてその後に「あなたがた」と出てくるのですが、これは誰を指すのでしょうか。徴税人や娼婦がここで出てくるのは、当時の社会の中で罪人という烙印を押されていた、それも、人々から忌避され、遠ざけられていた人たちがここで語られているのです。そして「あなたがた」とは、祭司長や長老たちのことです。当時のユダヤ社会の中で罪人として蔑まれた人々と、宗教的な指導者、両極と言ってもいい両者なのです。

 しかしここで主イエスは、徴税人たちの方が祭司長たちよりも先に神の国に入ると、と言われた。なぜ徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入るのでしょうか。ここで兄と弟の話とのつながりがわかりにくくなるのです。

 主イエスはその理由を続けて語ります。「なぜなら、ヨハネが来て、義の道を示したのに、あなた方は彼を信じず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。」というのです。ここは丁寧に読み進んでいきたいと思うのですが、洗礼者ヨハネが出てきて、前回の部分の話と繋がっているんだということがわかるのです。

 洗礼者ヨハネが来て、義の道を示した。それは今噛み砕いて言えば、救いへの道を示した、ということです。洗礼者ヨハネはこの福音書の3章のところで、悔い改めよ、天の国は近づいた、と宣べ伝えた。神の方にあなたが向き直って、近づいている神さまの支配の中で生きよ、と宣べ伝えたのです。その近づいている神の支配とはまさにイエス・キリストなのです。ヨハネ自身、十字架も復活も現実に見ることはなかったのですが、彼は一人の預言者として自分の後に来る方こそ、神の支配を成就される方だと受けとめて、そのことを宣べ伝えていた。

 祭司長や長老たちは、洗礼者ヨハネのその言葉を信じなかった。そもそも自分たちは悔い改める必要はない、と思っていた。彼らはおそらく人々に罪を語っていたでしょう。しかし自分たちは律法を守り、律法を厳守している。そして万が一罪を犯したとしても犠牲の生贄を献げている。だから自分たちは悔い改める必要はないと思っていた。だから洗礼者ヨハネの言葉をまともに受けとめなった。もっと言えば、彼らは在野の洗礼者ヨハネなど本当のところ眼中になかったのかもしれない。

 この祭司長や長老たちの態度、この生き方は、まさにこの短いたとえの弟の態度と重なります。父親が、葡萄園に行って働きなさいというと、「はい、お父さん」と応えたのです。祭司長や長老たちは自分たちは神に聞き従っている、という自覚の人なのです。律法も守っている、という自覚の人たちなのです。だから神への返事はいいのです。けれど、返事はいいのだけれど、ほんとのところ神に従わない。ここで神に従うというのは、悔い改めて、神に立ち帰って、神からの信実を受けることです。自分の思いの中で生きてきたものが、神に向き直り、神の方をしっかりと向いて、神の言葉に聞いて服従して生きようとすることです。祭司長や長老たちには悔い改めがない、彼は弟のようなのです。

 では一方徴税人たちはどうなのか。この人たちは、自分たちが神の掟を守っていない自覚があった。実際、徴税人も娼婦も律法を守れず律法に即して生きていなかった。この人たちは律法の外にいる人たちとして、疎外されて生きてきた人たちです。そして本人たちはその自覚が強くあった。その姿その態度は、葡萄園に行って働きなさいと言われて、「いやです」と答えた兄と重なるものなのです。父からの求めに応えていない自分を知っているがゆえに「いやです」と答えた兄と重なる。ところがこの人たちの中に、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、どんな罪人であっても神の方に向き直り、ヨハネの後に来る方によって罪赦されて、救われる、そのことを受けとめる人たちが出てきたのです。それが、いやです、と答えたにもかかわらず、後で考え直して出かけた兄と重なるということなのです。この29節に出てくる「考え直して」とは、思い直す、心を変えるという意味の言葉で、悔い改めにつながる言葉です。

 主イエスはこのたとえ話の解釈で、先ほども申し上げたように、ユダヤ社会の両極の人々を持ち出してきた。それは、どんな仕事、どんな社会的な立場、地位にあろうが、それが根本的なことではない。大事なことは、ただ、ヨハネの示した道を受けとめ、キリストを指し示したヨハネの言葉を信じて、神の方に向き直り、イエス・キリストによって担われ、新たにされて、歩む、ということなのだ、ということをここで明らかにしようとされたのです。

 ここまで読み進んできて、わたしたちには気づかされていくことがあります。それは主イエスがエルサレムに入城してからの行動、語られた言葉は、まるで深く結ばれ、連鎖のうちに循環しつつ、われわれに主イエスの豊かなメッセージを届けている、ということです。

主イエスはまず、子ろばに乗ってエルサレム入りされました。それは主イエスのへりくだりの、謙遜の象徴と言ってもいい行動でした。同時に、その謙りの主は、神殿の境内で商人たちを追い出す大胆な行動に出る主でもあられた。それはへりくだって十字架の死に至る主イエスが、人の手による犠牲の生贄はもはや必要がないこと、つまりわたしたちの救いは、ただキリストの十字架に贖いによるのであって、人間の努力や人間の献げものによるのではない、ということを宣言する行動であったのです。まさにキリストの象徴的な行為なのです。

そして、主の翌日無花果の木に向かって、葉の他何もない、葉ばかり茂ったその木に向かって、実がならないようにと言われた。エルサレム入城後の一連の歩みと行動の中でこの発言を聞くなら、それは象徴的な言語であることは明らかで、かつここではきわめて反語的なものです。

つまり実がならないように、と言われたことは、実がなっていない現状に対する裁きであり、だからこそ、これから先神を仰ぐ者たちが実を結ぶようにという祈りを込めた言葉になっていくのです。

そして実を結ぶということは、悔い改めて、神に立ち帰ることだ、ということをわたしたちは聞いてきたのです。

そしてさらに、主イエスは祭司長や長老たちの問いを受ける形で権威の問題について語る。その際主イエスは洗礼者ヨハネのことを取り上げて、祭司長や長老たちに逆に問いかける。そして、わたしたちを神の権威に服する生き方へと招かれるのです。権威を振りかざしたり、権威についていたずらに論ずるだけでなく、わたしたち一人一人が神の権威に服して歩んでいく道、わたしたちをその道に招こうとされる。そうした一連の言葉と行動の中で、今日のたとえ話を語られ、その解釈を示されたのです。わたしたちにとって神の権威に服するとは、このたとえの父の求めに最終的に応えていくことです。いやだと言ったとしても、考え直して、悔い改めて、神のもとに立ち帰ることです。それはわたしがどんな人間であれ、どんな罪人であれ、わたしの立場や、地位や、人となりに関わらず、イエス・キリストの十字架の贖いによって、このわたしが罪赦されて救われる、その恵みが与えられるからです。洗礼者ヨハネはわたしたちにそのことを指し示した。指さした。このヨハネの指し示しを信じるのなら、どんなものも救われる。「いやです」と言って神の招きを拒否したものも、悔い改めて、神に立ち帰ればいい。ある意味わたしたちの生涯はそのことを繰り返しです。きがつくと、神に対して、父に対して「いやです」と言っている。だが何度でも悔い改めるのです。考え直すのです。その時、洗礼者ヨハネはイエス・キリストを指差すものとして、わたしたちの前に、立ち続けてくれている神の使者、預言者なのです。キリストは、このヨハネのことを、わたしたちの心に刻むのです。キリストの32節の言葉、「あなた方はそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」それは、まさに、だからあなたは、日々、悔い改めて神に立ち帰り、福音を信じなさい、というキリストからの深い深いメッセージなのです。