ルカによる福音書 5章1〜11節 「舟がいっぱいに」

 人々はイエス様の周りに集まってきました。なぜならイエス様には神のちからがあると皆が認め始めていたからでした。現在の教会のクリスチャンのように、イエス様が神様と信じることはまだまだできていなかった時代です。ルカ福音書の4章、5章の段階では人々は、とにかくイエスのもとにいけば、何かが起こる。そのように信じはじめていました。その光景はルカ4:14では次のように記されています。

 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

 霊の力に満ちてと記されています。この「満ちて」という表現が実はルカ福音書においてはたくさん使われています。新約聖書の中に24回出てきて、そのうち22回がルカと使徒言行録というルカが書いた書物の中にあるのですから、このルカという人がどれだけ「満たされる」ということに注目していたかがわかります。

 私達もルカと同じように「満たされる」ということに本日は注目したいと思います。そして、満たされるということはどういうことは、満たされるためにはどうすればよいのか探って参りたいと思います。

 まず、一体何に人は満たされるのでしょうか。それは先程読んでいた箇所にも記されていました。イエス様は“霊”に満たされていたと。

 この霊に満たされるということこそ、ルカ福音書と使徒言行録に通底して、いや聖書全体と言ってもいいと思います。流れ続けている大事なことです。

 霊というのは何でしょう。それは神の霊です。神の霊とはなんでしょう。神の心です。神の心とは何でしょう。愛です。神の心を知ることができるように、私達に現れてくださったお方がイエス様です。そのイエス様に満たされるためには、どうすればよいのか。

 聖書に聞いて、それを反芻し、祈りで応答するのです。そのためには、イエス様がどんなお方かをまず知らなければなりません。

 本日読んでいる箇所は、イエス様のお気持ちそのものが描かれている箇所です。イエス様の周りに沢山の人が集まっていました。ゲネサレト湖の湖畔と書かれていますが。ガリラヤ湖の事です。ガリラヤ湖に皆が神の言葉を聞こうとして集まってきていました。実はもうすでに、気づきはじめている人は気づいていた、イエス様が語っておられる言葉こそが神の言葉であるということ。だから、非常なる熱意を持って集っていたわけです。それを「押し寄せて来た」と記しています。

 神の言葉を教えてくださる。それを聞きたい。群衆の熱意に押される形で湖に集まっている集団があります。

 しかし、その横で、漁師たちが少し離れたところにおりました。一日の漁が終わって網の手入れをしていました。この漁師たちは一日働き詰めて、一匹も魚を得ることができませんでした。働きの実りを得ることができずにその働きを終えるということの虚しさ、悲しさ。なんとも言えない思いを抱いている。そんな漁師たちでした。

 イエス様はそんな徒労感を抱いている漁師に近づいて行かれます。群衆を横においてです。

 私はイエス様は霊的なお医者さまだなと思った時が聖書を読んでいて何度もあります。なぜかというと、お医者様というのは、苦しんでいる人がいたら、その人のところに走りよって行く人です。飛行機の中でお医者様おられませんかというとハイと手を挙げるようなイメージです。いろいろなお医者様がおられると思いますが、皆の理想ってそういう人じゃないでしょうか。

 その理想の中の理想がイエス様ですね。癒す力をおもちでしたので、次々と病を抱えて苦しんでいる人の傍らにイエス様は行かれました。

 タレント、アビリティ、力、能力。そういったものをおもちの方はその力を生かすために、誰かのために走り寄るのです。その力の実力を確信する人であればあるほどそうするはずです。

 群衆、そして漁師3人。

 イエス様はこの時、漁師の方にお顔をお向けになられたのでした。

 というのは、彼らの徒労感、疲労感、何も報われない嘆きに満ちていたからです。そのぽっかりと空いた心のスキマに、イエス様がお触れになられ、癒すためです。神の力を皆が体験するためです。

 イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネのこの人達は今でこそ使徒と呼ばれますが、当時は漁師です。漁師の舟にイエス様は乗ってこられました。

 イエス様は一人ひとりの仕事の現場、またその仕事道具である、舟。そこに入って、語りかけてくださる方であることがわかります。世で与えられた自分の課題、仕事、ライフワーク。そういったものを皆様お持ちだと思います。その日常の中、しかも、苦しみを抱いてどうしていいのか分からないと言いますか。うまくいかない。徒労感に苛まれている。そういうものたちのところに匂いを嗅ぎつけるようにして、やってきてくださる。それがイエス様であることがわかってきます。

 舟のところにやってきて、その舟に乗り込みつつ、岸におる群衆に話し始められたと記されています。どんなことを話されたのでしょうか。内容が記されていませんので分かりません。しかし、わざわざシモン・ペトロの舟に乗りつつお話をされたのですから、これから起こることについての話であったと思われます。神の心と力について。この一人の漁師の徒労、その小さな一日の働きにさえ目を向けてくださって、その者を憐れんでくださる。

 シモン・ペトロが慰めを得る道は、ただ主イエス・キリストの言葉を聞いて、そのまま従うという道でありました。

 ペトロのすべきことは主の思いに自らを委ねて、行動するだけでした。

 群衆が集まって来ている時間ですから、もう漁をするには適切でもない時間です。これから行ってもまた徒労に終わるのではないかという思いしかわかない状況です。しかし、そこで、主はおっしゃるわけです。ルカ5:4。

 シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」

 魚とりのプロである漁師が諦めているのに、魚たちは自ら網に入ってくるようにして、網がいっぱいになりました。

 これが神の業です。理性では理解できないのです。しかし、主のお言葉ですから、そのとおりしてみました。ルカ4:5。

 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」

 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

 お言葉ですから、そのとおりしてみましょう。理知的な理性と、霊的な信仰との戦いといいましょうか。葛藤と言いましょうか。今も、昔も、キリストの周りにいる人々は感じてきたに違いありません。

 理性ではどう考えてもどうにも好転させることができない状況を、神はヒックリ返すことがおできになる。信じるということを優先させて、少し、自分の考えてきたことを横において、自分を離れて、キリストの言葉に従ってみたら、大変なことが起こった。しかも、それはあまりにも喜ばしいことで、受け止めるのも大変であるような状況。

 舟2そうも魚でいっぱいになってしまったら、というか、1そうでは到底受け止めきれない、想像を絶する量の魚を得ることができたのです。舟も沈みそうな状況です。この舟の状況をルカ福音書は「二そうの舟を魚でいっぱいにした」と記していますが。この一杯にしたというのが、ルカになんども出てきます「満たされた」という言葉なのです。

 キリストは徒労感の只中に入ってこられる方です。

 何も得ることができなかったという悲しみに触れてくださる方です。しかも、群衆をすこしわきにおいて、悲しみを抱いているものをこそまず満たそうとなされているお方です。

 ぽっかりと空いた心の隙間を、圧倒的な恵みで満たしてくださる方。

 実際に主の奇跡に触れてしまったら。自分の不信仰に気づいてしまいます。すなわち神の業が起こることを、神は力あるお方であること、神が神であられることを信じてこなかった自分に気付かされてしまいます。だからペトロはこのよう言いました。4:8。

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」

 自らの不信仰を認め、自覚するものに、主は使命を与えられます。5:10。 

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 人間をとるという言葉は、ほんとうは「人間を生け捕りにする」という言葉が使われています。

 人間を「生け捕り」にする人になる、ここをより正確に訳すと。

 これから、わたしはあなたを人間を生け捕りにする漁師にしていきましょう。

 となります。

 人間が人間を捕獲するとかいうことになるとひどく暴力的な表現に聞こえてきますが。今イエス様がシモン・ペトロの心を生け捕りにしたのと同じことをしていくという意味です。

 シモン・ペトロはどのようにイエス様に捕らえられたのですか。

 この私の舟に、生活の只中に、神の独り子が乗ってきてくださって、その業を見せてくださるという驚き。その結果、船は圧倒的な恵みで満たされた。考えもしなかった恵みが満ちてきた。その出来事によって心捕らえられてしまったのです。イエス様の思いに打たれた。ペトロの心にふれて、ペトロの心を満たしたいという思いに圧倒された。

 その結果、自分はまともに神を信じていなかったことを悟らされたわけです。

 と同時に、これからは、キリストのおっしゃることに従っていこうという思いに満ち満ちていったのです。

 すなわち、「愛」によって生け捕りにされて、信仰が生まれてしまったわけです。

 イエス様がしてくださったことを、そのまま、いま打ちのめされて心にぽっかりと穴があいてしまっているような民に対して、しなさいということですね。

 それが捕獲するということです。

 霊で満たされていなければなりません。イエス様のように。イエス様の心で満たす必要があります。イエス様のご行為と愛に注目してください。

 この心を何度も味わい続けると愛が満ちてきます。その霊に満たされた自分をもって、誰かのところに行くだけでまずは良いのです。相手が霊で満たされることを願ってその所にいって、お祈りする。そして具体的な必要に主が答えてくださるように行動するのです。 

 愛というのは受けると同時に与えなければ満足は生まれません。与えるということこそ幸いであると主は教えてくださいました。使徒言行録20:35。

 また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 だから、常に、主イエスは愛を沢山与えられますが、それと同時にその人が使命に生きるように召しいだされます。使命は、「愛する」ということを動機に行われるものです。主イエスが与える使命ですから。愛なのです。

 そのために、信仰生活1日みたいな人を、使徒として用います。なんという無謀なことでしょうか。しかし、これが主イエスの業です。どこまでも恐ろしい、しかし、どこまでもすばらしい。神にしかそれはできないからです。アーメン。