ヨハネによる福音書12:20〜26 「死んで実を結ぶ」

石井和典牧師

 主を愛し、主を思い描くと、そこから命の泉が溢れだしてきて、暖かくなり、力に満たされます。天の父を、子なるキリストを、そばにおられる聖霊を思い描いてください。それこそが、今、私達がキリストの教会に集ってなすべきことです。唯一なすべきことです。それ以外のことに心を奪われてはいけません。命の水の源泉がそこにあります。この源泉からだけ飲まなければなりません。他のもので満たしてはいけません。

 ただ、主なる神、子なるキリスト、聖霊を見ていく、ここに集中することで命をいただくことができます。幸いも、全てここにあります。今日歩くために必要な糧がここにあります。

 イエス様は、この時、命を狙われていました。御自分が神と等しいお方であるとおっしゃられ、メシアであることをお認めになられていたからです。もしも、この発言が偽物によるものであったら、そのものを放置しておくことはできない。イエスさまの命を狙っていた人々は、最初は神に仕える思いであったかもしれません。しかし、いつしか、キリストを罪人して裁くという思いの中に飲み込まれてしまっていました。

 イエス様は生まれながらの盲人の目を開くことがおできになられました。歩くことができない人を歩かせることがおできになられました。ラザロという人を生き返らせました。これらのしるしを見れば、本物だ。神から遣わされ、神と共におられ、神のちからがやどり、神のメシアである。なんの先入観をもたなければ見えてくるはずです。しかし、逆に殺そうとする人々がたくさん出てきました。

 自分に対して殺意を抱いている人々、共同体がすぐそこにある。そんなことがわかったら普通人はそこから逃げたいものです。二度と近づくまいと思うものではありませんか。しかし、主イエスはお逃げになられません。多くがイエスさまが罪を犯しているものと判断していましたが、人々の中にはキリストを救い主と理解する人々が出てきていました。何があっても、人々の交わりの只中に入っていかれる。それが私達の救い主、イエス様です。

 イエス様は、ユダヤ教の祭り、過越祭を目指しておられました。というのも、そこに神のご計画があったからです。過越祭というのは、エジプトからの脱出を祝う祭りです。イエス様が歩まれていた時、この時は今から2018年ほど前の話です。出エジプトというのはさらに1300〜1500年も前の話となります。

 人々は出エジプトを記念し、人々は祭りを行い続けていました。出エジプトを思う過越祭は、とりわけあのファラオにおいて起こった10の災い、そこからイスラエルの民が神の裁きを過越したことを覚える祭りです。エジプト中の初子が神の御使いによって打たれました。しかし、イスラエルの民は家の鴨居に小羊の血を塗っていましたので、その裁きが過越したのです。

 イエスさまが求めておられるのは、神の御心、神のご計画です。この祭りの最中目指しておられたのは、ご自分が過越の小羊として全人類の罪を過越させるということです。小羊の血が塗られている家。キリストをメシアとして信じるもの。そのものたちにのぞむであろう罪の裁きの全てが、キリストの血潮によって過越す。これこそが主イエスが求めておられることです。

 イエス様が祭りのためにエルサレムに入ってこられる時。言い換えると十字架におかかりになられるために、ご自分が過越の小羊として人類を救うために入ってこられるときに。人々は、なつめやしの枝をもって迎えに出ました。なつめやしの枝は、仮庵の祭りの時に、人々が砂漠での生活を覚えて、普段住んでいる場所とは別の仮の住まいを用意し、その屋根に使うものです。なつめやしは神殿にも記されていますし、なにより人々の命そのもの。あの砂漠で沢山実をならせて人々の命を支えるものとして非常に重要なものでありました。

 そして、民は叫びました「ホサナ」と。どうか救ってください。という意味です。仮庵の祭りのときに人々が、祭壇の周りを七度回ってホサナと叫ぶ習慣がありました。イエス様がこれられることによってついにこの過越の祭りも、7週の祭りも、仮庵の祭りも、すべてが満たされる。そのことを暗示する、すべてがこのイエスによって一つになる。そういう迎え方を人々は意識してか、せずしてか、これこそが完成であるという迎え方をしていきました。

 後になってやっと、過越の小羊として屠られた方は、モーセの律法を完成させ、聖霊を人々に注ぎ、神のもとに向かうその道を整え、約束の地に人々を迎え入れ、完成させるお方であることを理解しました。不思議ですね、あとから理解していこうとすると、偶然のように見えたことが、すべて一本の糸が通って行くように、神の計画のためにつながっていきます。

 主イエスは、信じるものたちに一切の別け隔てをなさいません。ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、主を知りたいという人々を、主はご自分のもとに招かれます。それが本日の箇所に描かれていることでもあります。ギリシア人たちがイエスさまのもとにやってきました。彼らは、ローマの文化の中で育った、異邦人でありながら改宗したユダヤ人です。彼らは常に神を求めていました。文化や伝統にとらわれず、真実の真実、真ん中、真芯を求めていました。ですから、主イエスが来られたときに、来るべきメシアが来られたのだということを期待し、また、主イエスに近づくことが許されたのです。彼らはこのように言いました。ヨハネによる福音書12:21。

 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」

 主はこの心の内から溢れ出してくる真実に出会いたいという思い。その言葉にお応えくださったのです。ですから、祭りの最中、ユダヤ人全体からは命を狙われている中でも、このギリシア人にお言葉をおかけくださったのです。

 「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」

 求めるものすべてを、主イエスは放置される方ではありません。どんなところでも、どんな文化でも、どんな国でも、どんな場所でも、主を求めるものにご自身を現してくださいます。「求めるものには」です。

 教会やキリスト教の共同体にかかわっていきますと、はじめは様々な動機で集まってくるものです。しかし、最終的に行き着くポイントは、ただ、「主にお目にかかりたい」「主にお会いしたい。」「主の御言葉を聞きたい」「主とはいったいどんなお方なのか示していただきたい」というように、主を中心に思いを向けていきますと、その全てに主はお応えくださるでしょう。

 しかし、その他のものをこの共同体に求めたところで、それが本当に応えられて帰ってくるか、それはわかりませんし、多くの場合は失望するのではないでしょうか。主が中心の歩みが、主を知り、主と共に歩む中で、主がおられるところが形作られるのに、自分中心で、自分の役にたつようなところだけ部分的に喜んで受け入れてほかは全然聞かないなどということになると、もうその時点で、主を中心にしていないので、主がおられません、結局何も得られないのです。主を愛し、キリストを求める共同体。その愛に、心に主はお応えくださるのです。

 主からの思い、主への思い。主を愛し、主を慕い、求め、主の姿を追いかける。そのようにまっしぐらに主に向かっていくものが失望することは一切あり得ません。というのは、主はご自身の全能の力を、主を愛するものにお見せくださるからです。

 主は、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」とただ主に向かうギリシア人に対して、仰せになられました。ヨハネ12:23。

 「人の子が栄光を受ける時が来た。」

 イエスさまはご自身が十字架にかかって死ぬことこそ、神の栄光が溢れだすその時となると、特別に求めるものたちに教えてくださいました。私達教会はいまでこそ、教理として受け止めて、十字架の贖罪を皆が信じるようになっていますが、この時に、この言葉を信じるということは、非常に難しいことでありました。しかし、彼らには信じがたいことが開きしめされ、それを彼らはしっかりと覚えていたということは、それを受け止め、信じ。栄光を彼らはキリストの中に見たのです。求めるものには、必ずご自身を表されます。

 イザヤ書にすでに預言されています。メシアが救い主が苦難の僕としてこられる。それが実は中心であり、とても大事なことだったのですが、そのように捉えきれていないはずです。救い主は政治的な解放者であり、ローマから、圧政から、国を解放なさる方。まさか、ご自分が命を捨てられて救いがなる、犠牲の小羊と御自分がなるということなど理解できなかったはずです。目が開かれていないと、まさかメシアがそのような死ぬなどと理解はできません。

 しかし、主イエスは、この人々の目を開いてくださって、犠牲の小羊の姿こそが、十字架の姿こそが、栄光の姿であることを教えてくださったのです。死ぬことこそ、神の栄光を指し示す時となるのだと。ヨハネ12:24。

 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

 キリストは、人類のためにご自分の命をささげてしまうお方です。愛するがゆえに、自分を捨てる「捨てる」愛です。この愛の中に生きることこそ、が幸いです。

 自分を捨てることができないというのは、幸いな状態ではないのです。キリストのように、ご自分の愛ゆえに、自分を投げ出すことさえできる。そのような愛の中に入ってしまうことが、幸いです。

 不思議です。命とは命を捨てることであると。

 一見論理矛盾のように見えます。しかし、子どもを持つ親にとってはこれはよく分かるはずですし、誰かを死ぬほどに愛した人にとってはあたりまえの世界です。自分の命より大切なあの人。狂気のようにさえ見えます、愛の世界というのは。

 しかし、これこそがキリストが私達に指し示す世界なのです。ここに、人々を招き入れようとされている。キリストご自身がそのように歩んでくださった。愛するゆえに、自分を捨て、命を捨てる。それが神であり、キリスト。

 私達の中心、私達の神、この世界の道理。真理です。

 なんどもイエス様は、福音書の中で類似の内容を語ってくださっています。マタイによる福音書10:38。

 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 マタイによる福音書16:24。マルコによる福音書8:34。ルカによる福音書17:33。

 キリストが中心です。世の中心は、命を捨てることなのです。自分にしがみついて生きていくことから離れることです。自分にこだわらなくて良いのです。自分は捨てるものです。自分を捨てて、自分の十字架、すなわち神様からいただいた計画、使命、それはある人には非常なる苦しみかもしれない、十字架と呼べるものかもしれない。しかし、そのことのまえに自分を投げ出して、自分を捨てて、主のご愛の中に、人を愛するという事の中に、誰かのために命をささげるというところまで、そこまで入っていったものこそ、実は命の中に、キリストの中におるということなのです。

 キリストは、自分自身を捨ててしまっても全く惜しくないと思えるほどの愛を、すでに私達の心に注いでくださっています。

 自分を捨てて命を捨て、命を得るという歩みにどうして入っていけないのかというと、「キリストの愛を受けていないから」だけなんです。

 十分に受けて、この愛にとどまり続けると、もう自分を捨てても構わないという境地にまで至ります。この世で、後の世で得るべきものの全てをすでに得ている、だから与えてしまって惜しくないという歩みがゆるされるのです。アーメン。