ルカによる福音書連続講解説教
2026.9.20.聖霊降臨節第18主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書6章1-11節『 真ん中に立ちなさい 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所には安息日に起こった二つの出来事に対するファリサイ派の人々の抗議が示されるとともに、主イエスのそのことへの応答が記されています。
最初の出来事は、安息日に、主が弟子たちと共に麦畑を通られたとき、弟子たちが穂を摘み、手でもんで食べた、その様子を見ていたファリサイ派が問い質したことから始まりました。
当時の社会では他人の畑でも空腹を覚えたものが穂を摘むことは許されていました。そうした互助の仕組みがあったのです。だからここで穂を摘んだことそれ自体が問題にされているのではなく、それを安息日にした、ということが問題視されているのです。安息日に仕事をすることは許されていない。弟子たちは穂を摘んだだけでなく、手でもんでいます。これが労働にあたるということなのでしょう。安息日を厳守する、それがユダヤ社会の最も大事な戒めの一つでした。十戒の第4戒として、厳守してきた戒めです。
安息日にしてはならないことは禁止規定39、その各々に細則が39、全部で1500余りの禁止条例が定められていました。
戒めに忠実なファリサイ派が「なぜ、あなた方は安息日にしてはならないことをするのか」と問うたのも、ある意味当然のことでした。
二つの目の出来事はまた他の安息日に起こったことで、主イエスが会堂で教えておられるとそこに右手の萎えた人がいたのです。その場所に今度は律法学者もいて、ファリサイ派の人々と共に、イエスを注視していたのです。つい先日安息日規定を犯した主イエスを注視するのは、これもまた当然でした。すると主イエスは彼らの見ている目の前で、手の萎えた人に「立って、真ん中に出なさい」と声をかけ、その人をみんなの前で癒されたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、このイエスのこの行動態度に激怒したのです。
この二つの出来事が記されて、安息日に対する主イエスの言葉が記されている、というのが今日の聖書箇所です。
ここを読んで、なぜよりによって安息日に、こんなことをしたんだ、と思う人がいるかもしれません。わざわざ安息日に麦畑を通り、わざわざ穂を摘んで、手でもんで食べる、それは今日しなくてもいいだろう。手の萎えた人の話も同様で、明日すればいい。ユダヤ社会において安息日の厳守がどれほど厳しく行われていたか、そのことを受けとめれば、そういう感想も出てきます。ひょっとして確信犯的に、わかってわざとやったのではないか、と思う人もいるでしょう。
しかし、ここでの主イエスの言葉を受けとめるためには、もう少ししっかりと安息日というものを受けとっていかなければなりません。
そもそも「安息」とは何なのか。日本語の安息とは、「心安らかにくつろぎ、休むこと」ということで理解されています。
ところが、旧約聖書の言語、ヘブライ語では安息というのは、第一義的に「やめる」こと、止(と)めることなのです。具体的に何かを止めることなのです。何を止めるのか。
安息日のルーツ・起源は旧約聖書に二つあります。一つは出エジプト記。ここには、創世記の天地創造の出来事が語られ、神が七日目にすべての創造の業を終えて休まれた、という言葉によって示されているもの。もう一つは申命記にあり、そこでは創造の業の終わりの休みにも触れつつ、エジプト脱出によってエジプト時代の強制的な仕事のノルマから解放されて、神の命じた安息に入る、そのことが起源になっています。
そこからユダヤ社会の中で、安息日を守るということが発展していくのですが、実はこの安息日の起源から安息日をどのように受けとめていくのか、よくわからないとも言われています。
実際、安息日の厳守、ということで規則とか規律ということが先ほども申し上げたように1500もあること自体、考えようによっては、安息日の受けとめが定かならぬところに起因しているのかもしれません。それほどに規則が必要だ、ということです。それで、規則に縛られるのではなく、規則からの自由がここで問われているのだ、とこの聖書箇所を読む人がいますが、そうするとキリストは安息日というものをどう捉えておられたのか、そのことが問題になってきます。
申命記の5章にはこう記されています。
「安息日を守ってこれを聖別し、あなたの神、主があなたに命じたとおりに行いなさい。六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。あなたも、息子も娘も、男女の奴隷も、牛やろばなどのすべての家畜も、町の中にいるあなたの寄留者も同様である。そうすれば、男女の奴隷も、あなたと同じように休息できる。」これは読めば読むほど不思議な箇所で、安息日、どのような仕事もしてはならない、仕事を止めて、休息せよ、と言うのですが、具体的にどうせよ、という指示がないのです。安息日を守ってこれを聖別し、主が命じたとおりに行え、とあるのですが、何をすべきかは何も書かれていない。
このような掟は、今日、不備な掟、なのではなく、高度な戒めだということが言われています。つまり各自が安息日をどのように受けとめ、守るのか、問われていくからです。そして山のような安息日に関する規定は、その安息日について各自が信仰的主体において判断していくことを邪魔しているのかもしれない。
仕事をする、ということは自分で段取りを考えたり、相手と連絡を取り合ったり、人間として自律的に行動することです。それは職場での仕事も、家での家事労働も同じです。ところがそれをすべてやめるのです。まず仕事を止める、それは自律的な生き方を一旦止めるということです。自分で今日一日の段取りや、計画を立て、何時までにはそれを終わらせるとか、そう言った自律的なことをすべてやめる。やめてどうするのか。
とても飛躍するように聞こえるでしょうが、神の時間の中に身を置くということが必要なのです。自分に与えられている時間の本当の主は神であることを、心と、身体と、流れる時間の中で受けとめ、感じていく、体感していく。神の統治、神の御手、神の主導性の中に身を置くのです。そんなこと簡単にできるわけがない、と思うかもしれない。しかし、すべての働きの手を止めて、神の導き、神の支えの言葉を聞き、そこに身を置く。理屈よりも前にまずそれを現実的にするべきと掟は語る。安息日には人間の自律を止める、ということなのです。安息日を守ってこれを聖別し、とは神のものとするということです。つまりすべての時間を神の時間としその中に身を置くということです。
安息日の厳守、聖書の時代、ユダヤの人々は、そこで規則を積み上げ、この規則を守るということを自分の仕事にしてしまっていたのではないか。安息日以外の六日間は自分の仕事をして、安息日は安息日で、規則を守る仕事をしていたのではないか。「安息日にしてはならないことをなぜするのか」とファリサイ派は問うた。しかしその問いかけたファリサイ派は、安息日にすべきことをわかって、受けとめてしていたのか。主イエスはそれに対して、ダビデの逸話も引用しつつ、「人の子は安息日の主である。」と応えられた。
人の子とはキリストのことです。キリストはここで、わたしが安息日の主だ、とはっきりと断言なさった。この一言にはいろいろな意味が詰まっています。わたしが安息の与え主だ、ということであり、わたしと共に歩むこと、わたしと共に神を仰ぎ、その救いを受けることの中に安息がある、ということを語っておられるのです。そもそも、神が創造の業を終えて休まれた、その安息の中に入ることは、神の恩恵の中に身を置くこと、わたしたちはすべて神の恵みの中で造られ、活かされ、神の恵みを受けて生きるものであることを安息日の度に受けることなのです。
安息日に手の萎えた人に向かって主イエスが呼びかけたのは「立って、真ん中に出なさい」という言葉でした。真ん中に出る、というのはここではどういうことでしょう。安息日の中心におられるのは神です。キリストです。その真ん中におられる神の前に、キリストの前に出てきなさい、ということです。そして神と向き合い、キリストと向き合いなさい。そしてその恵みを、愛を、真実を身に受けなさい、ということなのです。真ん中とは、神の恵みの場所のことです。その人は立ち上がって真ん中に立ったのです。そして癒しを受けたのです。
わたしたち一人一人も、安息日をどう受けとめ、どう守るのか、問われているのです。教会に行って、礼拝をまもって、祈りを献げて、ということにとどまらず、自律的な生活を中断し、神の時の中に、神の恵みの中に、身を置き、真ん中に出なさい、というキリストの声に聞く。規則ではなく、キリストの呼び声に聞いて、安息日をどう受けとめるか、問われているのです。