ルカによる福音書連続講解説教
2026.6.21.聖霊降臨節第5主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書2章41-52節『 少年イエス 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所はルカ福音書の冒頭から始まる主イエスの誕生物語の締めくくりと言える箇所で、ヨハネの誕生予告から始まり、ここまで語られてきた物語が、成長していく主イエスの少年時代が語られて、一つの区切りをつけるのです。
そして続く3章からは大人となった主イエスの宣教の物語が始まっていくのです。
さて、主イエスの両親はユダヤの慣習に従い、毎年過越祭にはエルサレムに行っていました。当時のユダヤでは成人男子は、年に三度、祭りの際にエルサレムに赴き、祭り・礼拝に参加することが義務付けられていました。ただ遠隔地に居住している場合、年に一度だけ赴くという人たちもいたようです。いずれにせよ主イエスの両親は毎年、エルサレムに赴いていた。
ユダヤ社会では13歳から「律法の子」と呼ばれ、律法遵守において一人前、つまり大人扱いされるようになる。成人です。ここでイエスが12歳になったとき、というのは、その直前の微妙な年齢ということになります。心身共に成長豊かな時であるとともに、まだ少年であるときなのです。
「祭りの期間が終わって帰路に就いたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。」当時過越の祭りのような大きな祭りに行くときは町全体で、町単位で旅に出たのです。ユダヤ人のほとんどが出かけるわけでそのような慣習が生まれたのです。ですからヨセフ・マリアも町の人皆と共に帰路に就き、子どもたちも家族単位というより町の人たちと一緒になって群れを成し帰路ついていたのでしょう。少年イエスがいないことに気づかなかったのです。
「道連れの中にいるものと思い込んで、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」両親は当然町の人たちと一緒に帰っていると思っていた。知らずに一日分の道のりを行った両親は慌てて、引き返しながら、捜しながらエルサレムに引き返したのでした。
「三日後にようやく、イエスが神殿の境内で教師たちの真ん中に座って、話をしたり質問したりしておられるのを見つけた。」エルサレムの町は祭りの前後大変な数の人で溢れます。両親は大変な思いをして人ごみの中、少年イエスを捜したのでしょう。三日後にようやく、イエスが神殿の境内にいるところを、それも教師たち、学者たち、律法学者たちと話をしたり質問したりしているその場所で捜し当てました。
「聞いている人は皆、イエスの賢さとその受け答えに驚嘆していた。」
「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜ、こんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』」心を痛め、心底心配して捜し回っていた二人は、学者たちとの受け答え驚く暇もなく、見つけだして安堵する前に𠮟責したのです。
「すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるはずだということを知らなかったのですか。」これがこの福音書における主イエスの第一声、最初に語る言葉なのです。とても印象的な第一声です。「しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。」意味が分からないというのはここでは、自分たちに語られた主イエスの言葉を理解することができなかったということです。
主イエスがここで語っている言葉を、もう少し直訳に近く訳せば、「どうして私を捜したのですか。わたしが自分の父のもとにいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」
父の家と訳されている家という言葉は原文にはなく、家と限定するよりも、父のもとが元の意味で、その父のもとにいるはずというよりも、父のもとにいるのは当たり前だ、と少年イエスは語った。
確かにマリアは受胎告知の時に、生まれてくる子は神の子だ、ということを聞いているし、主の誕生の際には羊飼いたちからも天使の言葉を聞いたいたでしょう。それなのに、なぜこんな無理解なのか、という人もいます。
確かにそういう人はいるのですが、考えてみればわかるように、そもそも自分から生まれた子が神の子、ということが人のキャパシティ、受容力を超えているのです。だから二人が主イエスが語った言葉を理解できなかった、というのはある意味で当然で、もともと理解できない言葉なのです。人間の知性的な受容力では受容できない言葉だからです。それはただ信仰において受けとる以外ない言葉だからです。
マリアにせよヨセフにせよ、12年にわたって我が子としてイエスを育ててきたのです。その間わが子としてのイエスと共に暮らしてきた、ということがあり、その一緒に暮らしてきた中で、その延長線上で我が子を捕えようとしている。イエスが「父のもとにいるのは当たり前だ」と言ったことの超越性というか、肉親の関係を超えた関係性の中に自分が置かれているその自然さが分からなかったのでしょう。
けれども、主イエスはここで、マリアが母であり、ヨセフが父であることを否定していない。しかし主イエスにとってそれらをすべて覆う、天の父がおられることを受けとめておられるということです。それはイエスが早熟で、賢く、律法学者とも議論ができるような頭脳明晰な子供だった、偉人伝にありがちな話では全くありません。またこれは、イエスが宗教的に抜きんでた霊性を持っておられた、ということとも違う。そうではなく、この物語から伝わってくるのは、少年イエスが自分の肉親の親を超える天の父のもとに自分があることをもしっかりと、深く、豊かに受けとめていた、ということなのです。だから、主イエスはマリアやヨセフを親として否定しているわけでは全くなく、この後も、ナザレに帰り、両親のもとで18年近くに及ぶ生活を共にしておられるのです。
主イエスの少年期のことを書き記している福音書は、このルカ福音書だけです。その意味で貴重な証言ということができます。しかしこの証言は、一般的な伝記にあるような偉人たちの少年期や少女期の早熟ぶりや天才ぶりを証言するものではない。あるいはまたイエスの中で神の子としての意識が芽生えてきたのはいつ頃からなのか、というような問いに答えようとするものでもない。その問い自体は、わたしたちにはわからないこと、という他ない。事実聖書はそのことに関心を示してはいないし、そもそも何も書かれていない。
大事なことは主イエスがご自分の天の父のもとにあることを豊かに受けとめておられる、ということ。そしてそれは主イエスにとって当たり前の事柄、おそらくこの自然さが御子イエスなのです。天の父のもとにあるとは、一体性の中にあるということでしょう。
「それから、イエスは一緒に降っていき、ナザレに帰り、両親にお仕えになった。母はこれらのことを皆心に留めていた。」
主イエスにとって天の父のもとにあることと、地上の肉親と共にあることは相互に矛盾することではなく、主イエスは当時の子どもの多くがそうであったように、父と母の愛情のもと、二人に仕えて、働き、暮らしたのです。
マリアは、心に留めた、というのです。マリアの「心に留めた」という態度が表現されているのは、これが二度目です。
羊飼いたちが生まれたばかりの乳飲み子のところに来た時、マリアに話したこと、それは天使のおとずれに告知だったのですが、その時にも彼女は心に留めたのでした。
そして最初の時も、今回も「これらのことをみな(すべて)心に留め」たと記されています。これらのこととは、何かというと、一言で言えば、ルカ福音書1章2章にかかれていることなのでしょう。そしてそれを心に留めた、ということなのです。心に留めるとは意識して、忘れない、記憶するということ。実際マリアは主イエスの言葉を理解できなかったわけで、イエスの言葉を記憶することはもとより、その理解できなかった自分も記憶するということです。
ここには福音書の著者であるルカの思いも溢れている。ルカは他の福音書には見られない長く豊かな主イエスの誕生物語を書き記しています。神の御子イエス・キリストがこの世に生まれた物語はそれ自体神による、神の物語です。しかしそれは同時に、そこで人間が用いられ、神に応答する人間の物語でもあるのです。ザカリア、エリサベト、マリア、ヨセフ、羊飼いたち、シメオン、アンナ。一人一人この驚くべき神の出来事に出会う中で、神に応答していく人間の物語でもあるのです。そして、当然のことながら、そこで人間の不信仰や、無理解も生まれてくる物語。信仰深いと人々から言われていようが思われていようが、神の言葉の前では人間の不信仰や無理解は逆にあらわになることもあるのです。不信仰というだけでなく、信じたいと思ってはいても、信じられない、自分が納得できないという思いに捕らわれていく、さまざまな自分が出てくるのです。その自分も含め記憶していく。神の語られたレーマ、言葉を記憶していく、それが大事なことです。と同時に、その言葉を受けとめられていない自分を心に留めて、尚、神の言葉に聞いていく、そういう態度をマリアはここでもとっている、ということでしょう。
わたしたちも神から語られた、聖書から聞いたみ言葉を心に留めると同時に、その言葉の前で躊躇逡巡している自分の姿も心に留めて、み言葉と何度でも出会い続ける私でありたいと思います。