ヨハネによる福音書 2:1〜12 「溢れるぶどう酒」

石井和典牧師

 婚宴の席で酒を飲むこと。これ以上に嬉しいことはありません。私はつい3年ほど前まではどうしようもない酒飲みでしたので、よくわかります。結婚の席では新しい家庭のスタートを共に喜び祝福するという最高の喜びと共に酒が飲める、最高の場所でした。今は酒をやめましたが、酒をやめた方がもっともっと良いものに酔うことができることを発見しました。それは聖霊に酔うということです。祈りの中で、酔うのです。この世界を知ってしまったらもう止められません。

 ペンテコステのときに、聖霊に満たされた人たちのことを見て人々はこう言いました。使徒言行録2:13。

 「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」

 と。はじめの教会の出発の場面がペンテコステ。教会の誕生日です。この誕生日は、人々が喜びに満ちて、まるで酒に酔っているように、神に酔っていた。そんな空間だったということがわかります。酒に酔うことよりももっと何倍、何百倍、何千倍も楽しみと喜びがあるというのが「祈る」ということです。

 本日読んでいますヨハネによる福音書は、「祈る」とはどういうことか「いのち」とはどういうことか、「神に酔う」とはどういうことか、教えてくれます。

 祈るということを教えてくれるのがヨハネによる福音書1:1です。

 初めに言があった。言は神と共にあった。

 言(ことば)というのはギリシャ語でロゴス。この世界の中心である言葉、ロゴスはキリスト。そのように理解していただきたいと思います。はじめの言葉というのはイエスさまのことであるとヨハネ福音書は伝えています。このイエスさまが神と共にあった。これがヨハネによる福音書が言いたいこと。最初の最初に書いた言葉。この言葉さえ理解できれば本日は良いと思っていただいてかまいません。

 言は神と共にあった。

 「共に」という言葉に注目してください。これはギリシャ語で「プロス」という言葉が使われておりまして。「向かう」という意味が本来の意味です。ですから、「言は神に向かっていた」と訳すのが本来の意味を的確にとらえる翻訳となります。共にあるということは向かっているということ。イエスさまというお方は神に向かって、向き合って、交わりをもっておられる。これがイエスさまの中心にあられることであるということです。

 イエスさまご自身が命であります。ですから、命というのはなにかというと、それは「神に向かうこと」である。これはすなわち、神に向かう「祈り」の中に、命があるということを指し示す内容となるわけです。

 光の中を歩むとはなにか、それは神に向かって歩むことです。闇の中を歩むとはなにか、それは神ではない別のものに向かって歩むことです。この向き合うとか、共にという言葉は実は信仰のキーワード。命のキーワード。光のキーワードであることに気付かされます。だから、ヨハネ福音書の1:1に記されているわけですね。

 さて、婚礼の話にもどります。イエスさまもそのご家族も出席されているカナという場所での婚礼において、ぶどう酒が足りなくなりました。この祝いの酒の席を楽しみにしていたものにとって、これはガッカリな知らせですし、この婚礼に人々を招いた主人にとっても面目まるつぶれな話でありました。そこで、「メシアであるイエス」ということに完全にではないけれども、目がひらかれつつあった母マリアが、「そうだ、息子のイエスに頼もう」と思ったようなんです。

 イエス様は人類の罪を十字架で背負って人々を勝ち取るメシアです。メシアは単なる一婚宴のために、しかも酒のためにご自身の手を動かすようなお方ではないはずです。もっともっと重要な人々の命にかかわる神の御心を全うしなければなりません。

 それを理解できていないマリアに向かってイエスさまはこのようにおっしゃいました。ヨハネによる福音書2:4。

 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 神の御心にそって、なすべきことをするのがイエスさまのわざ。だから、マリアが単に宴席にぶどう酒が必要だからという理由でその手を動かす理由はないんだよと、言っておられるわけですね。しかし、この言葉のあとに、マリアはすばらしい信仰告白の言葉を残しました。そこに注目していただきたい。ヨハネによる福音書2:5。

 しかし、母は召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりしてください」

 「お酒をなんとかしてくださいよ。」「あなたのお力をお見せくださって、そして今のこの困った現状をなんとかしてください。」そんなふうに自分の方にひきつけて、自分の都合のよいように、メシアを使うというような発想をしなかったのです。なんでもこのイエスと言う人が何かしてほしいと言ったらそのとおり、言われたままに従ってください。「従ってください」。そのように周りにお願いしたのです。メシアに対峙して、神と向き合って取るべき人間の態度、それをマリアはとっていました。

 神が言われたままに、メシアが言われるままに、とにかく従ってみよう。理解できなくても、思い通りにならなくても。主を信頼して従おう。そのような姿勢を見せています。するとイエスさまは動いてくださったのです。

 神さまに対する信仰の態度として、非常に的確な洞察をマリアはわたしたちにくれます。神の前行って、ああしてほしい、こうしてほしい、こうならなきゃこまる。こうすべきである。そんなこっち側に軸のある話、願いをするんじゃない。神の側に、主導権があり、そのお方にお従いするのである。その御心を教えてください。私は従う準備をしています。そのような思いになったときに、主は動いてくださるのであるということです。主がなさりたいことを、主にしかできない方法で実行してくださいます。

 近くに水瓶がありました。6つありました。6つという数字がとても重要ですので、覚えてください。6というのは人間を表す数字です。7は神を表す数字です。6の水瓶というのは何を意味するのかというは、人間が頑張って努力して、なんとかしようとする人間の努力の世界、人間の行動の世界、人間の限界の世界を指し示しています。その6の水瓶のところにイエスさまはお越しくださって、その人間の現実の只中で、神のわざをお見せくださいます。人間ではどうにも超えることのできない限界を、神の力によって突破されます。それがイエスさまなのです。

 そして、その神の行動に信頼し、神の突破力に信頼し、自らを委ねていく。これがキリスト者です。

 イエス様がお命じになられたことの意味をはじめはよく理解できません。ワインがほしいのに、6つもの3メトテレス(1メトテレスは約39リットル)もの水瓶に水を満たすなどということは、普通に考えてバカバカしくて付き合っていられません。一つの瓶、100リットル以上もの水をくんでくるなんて大変すぎます。この場に何人給仕する人間がいたのかははっきりと記されていませんが、総動員しても大変な労働になるのは間違いありません。しかも、ワインではなくて、水です!水!なんという無駄足でしょうか。

 しかも、さらに、その重い水瓶を移動しなければなりませんでした。宴会の世話役のところにもっていかなければならない。「もういやだ。こんなバカバカしいことやっていられない。」しかし、彼らは、なんだかよくわからないがとにかく従ってみよう。意味がわからないがとにかく従ってみよう。そんな気持ちだったと思います。しかし、神さまは驚くべきお方です。そのように「従う」という思いをささげるものに、必ず、ご自身のわざをお見せくださるのです。「従順」をささげる民を必ず祝福してくださるお方です。それがイエスさまです。

 水瓶の水がいつのまにかワインに変わりましたが、このワイン飲んでみると、驚くことに最高のワイン。良いワインだったというのです。こんな良いものをこれだけ準備する。そんなのいまこの段階で誰にもできない。まさに神の業としか思えないことを、神さまにしかできない方法で実現してくださった。それが、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」という民に、何も言わずにただキリストの言葉に従うものにお見せくださる神のわざであるというのです。

 人間が考える世界というのは、奇跡が起こる前の、6つの水瓶の世界です。6という人間の世界というのは、自分の力でなんとかして、努力して、清くなって、なんとか神に向かいれていただきたいという世界でした。ユダヤ教の律法主義。戒律主義、イエス様が来る前までの世界というのは、そのように自ら頑張らなければならない世界でした。しかし、イエス様が来られた後の世界というのは、ただただ人は「従順」をそこにささげて、神の力によって喜びがみちてくるという世界です。

 ワインというのは、聖書の中では聖霊を指し示すものです。聖霊がみちみちてきて、喜びで満たされて、その喜びによって行動をし始める世界なのです。

 すなわち、ワインに酔って、聖霊に酔って、この聖霊の力によって物事をなしていく世界です。

 キリスト者として生きていくということは、苦しみや悲しみを回避できるような歩みができるということを意味するのではありません。苦しみの中で、いつでもどこでも、主イエスが満たしてくださるワインを飲み、このワインに酔って喜ぶことができる歩みです。

 周りから見たら、「あいつ酔っ払ってるな」「気がおかしくなったのかな」とも見える歩みになります。

 「あいつ酔っ払っているな」という人に何人か幸いにも私は出会わせていただきました。目つきが違います。落ち着き払った何かを持っています。ヘブライ語のシャローム(平和、平安、繁栄、健康、充足、知恵、救い、勝利)がその人のうちで実現しているのを感じます。私が出会った聖霊に酔っ払った人達は、迫害のある地域で活動している宣教師たちです。

 話しを聞くと、命をいただく秘訣は祈りだと皆が口を揃えて言います。

 ヨハネによる福音書が1章1節で教えてくれていることと全く同じです。

 キリストは神と向き合っておられた。それが命である。

 神と向きう合うところに命の水の蛇口がある。ワインの吹出口がある。

 私たちにとっては「向き合う」ということは祈りです。

 キリストの御名によって祈り、聖霊に酔っ払った力によって歩みたいと思います。アーメン!