マタイによる福音書連続講解説教
2026.2.22.受難節第1主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書27章1-10節『 受難の歩み 』
菅原 力牧師
今朝ご一緒に御言葉に聞く聖書箇所は4つの部分、4つの話から構成されている箇所です。まず一つ目は1節2節。ここにはユダヤの最高法院の協議、ピラトへの主イエスの引き渡しが簡潔に記されています。二つ目は3節から5節。ここにはユダのことが描かれています。そして三つめは6節から8節。ここにはユダが神殿に投げ込んだ銀貨を祭司長たちがどうしたか、畑を買い墓地にしたということが語られています。そして最後9節10節にはそれは旧約聖書の預言者の言葉の成就であった、という話で締めくくられているのです。
今朝はこの4つの話を踏まえつつ、ユダのことをみ言葉を通して思い巡らして、神のみ心に聞き、神を礼拝して参りたいと思います。
ユダは12弟子の一人でした。つまりこれまでずっと他の弟子たち共に主イエスに従ってきた人でした。しかしこの福音書の26章には、ユダが祭司長のところに行き、主イエスの引き渡しを申し出て、銀貨三十枚を受けとったことが記されています。
その際ユダは「あの男をあなた方に引き渡せば、幾らくれますか」と尋ねています。この時ユダが使った言葉、引き渡す、これを日本語の聖書は「裏切る」と訳したり、元の言葉どおり「引き渡す」と訳したり、文脈で使い分けていますが、裏切るという意味は元の言葉にはもともとなく、引き渡す、渡す、任せる、という意味の言葉です。今日の聖書箇所で「イエスを裏切ったユダは」とありますが、それは引き渡したユダは、ということであり4節の「わたしは罪のない人の血を売り渡し」というところも引き渡しということです。何が言いたいか、と言うと、この「引き渡し」という言葉を「裏切り」と訳してしまうと見えなくなってくるものもある、ということです。
ユダは何度も言いますが十二弟子の人でした。しかしこの「引き渡す」という言葉から見えてくるユダの姿があります。それは先生であろうが、師であろうが自分にとって有益であれば、尊敬もするし、その恵みも受けるけれど、自分にとって有益でなければ、交換することもできる、引き渡すこともできるという生き方、姿です。交換可能、乗換可能、Aというものが気に入っていたけれども、Bというもっと気に入ったものが出てきたら、いくらでも前のものは引き渡して次のものにする。ユダにとって、イエスを引き渡すとはそういうことだったのです。それは、キリストに仕える、キリストの僕として生きる、という生き方の実は対極にあるものなのです。キリストに自分を献げて行くという生き方ではなく、自分が選ぶ生き方と言っていい。素晴らしい師に出会った、自分で選ぶ。やがて自分の価値観とは違うことがわかり、選びから除外する。自分が取捨選択する、自分が選ぶ、ということが中心にあるのです。
ユダが祭司長たちに主イエスを引き渡し、主は最高法院で裁きを受け、祭司長たちは、総督ピラトに引き渡したのです。つまり人間による引き渡しの連鎖が起こっているのです。その根本にあるのは、自分が取捨選択する、人間による取捨選択、選びということです。神も自分で選ぶ、と言えば違和感を覚えるかもしれませんが根本にあることはそういうことです。それが「引き渡す」という言葉において透けて見えてくる人間の在り方であり、マタイはこの言葉に十分こだわりを持っているのです。
ユダは自分の「引き渡し」がこのような事態になるとは思っていなかった。どう思っていたのかは書かれていないので分からない。けれどいずれにしても自分が思い描いていた筋書きとは違ってきた。ユダはその中で、イエスに有罪の判決が下ったのを知って、後悔し、祭司長や長老たちに銀貨を返そうとした。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」もちろんこの段階ではローマ総督の判決はおりていない、しかし最高法院の判決を受けて、主イエスは死刑になる、とユダは判断し、悔いてこう言ったのです。それに対して祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」
確かに祭司長たちが言うことは、筋が通っている。ユダが取捨選択したのです。ユダがある時イエスについていくことを自分で選び、ある時イエスを引き渡すことを自分で選択したのです。誰かに唆されたのでも、罠にはまったのでもない。ユダの取捨選択なのです。お前の問題なのです。
ユダは祭司長たちが銀貨を受けとらないので、その銀貨を神殿に投げ入れた。それは当時の習慣としてあったようですが、ユダの行為は後悔の表れだったのでしょう。そして、ユダは首をくくって死んだのです。
ユダは最後まで、自分で取捨選択した、ともいえますし、最後には自分をも死に引き渡した、ともいえます。
先週読んだペトロの否認の出来事、ペトロは、キリストのことを知らないといった後で、キリストの言葉を思い出して激しく泣いた、と聖書は記録しています。それは自分の弱さ、脆さ、情けなさに泣いた自分への涙だったのではないか。けれども今日の聖書箇所のユダは、キリストへの罪を告白していて、ペトロよりも深く罪の自覚に立ち、罪を悔いているのではないでしょうか。二人を比べる必要はないのかもしれないけれど、ユダだけが罪人、というわけではないし、ユダだけがキリストを裏切ったわけではない。しかし聖書を読む者の中でユダを特別視する視点は強いように思うのです。
ユダのことを思う時、わたしたちは福音書全体を通して読むことの大切さを思うのです。ある場面の切り取りではなく、福音書全体を通して語られることに目を向ける必要がある。最初にユダのことを十二弟子の一人、と言いましたが、この福音書においてもユダがキリストによって選ばれたことははっきりと記されています。マタイだけでなく、マルコもルカも、そのことをはっきりと記し、さらに、弟子の選びの最後にイエスを裏切った(引き渡した)イスカリオテのユダである、という一文を福音書記者たちは書き記しているのです。これはどういうことなのでしょうか。キリストは弟子を選んだ。しかしその中には、主イエスを裏切る者も混じっていた、主イエスの選びに間違いがあった、瑕疵があったということでしょうか。そうではない。そもそも弟子たちは主イエスの逮捕の時、皆逃げ去ったのだから、皆主イエスを棄てた。それなら主イエスの弟子選びはそもそも全員まちがっていた、ということなのでしょうか。そうではなく、引き渡したユダも、主イエスの選びの中にあった、ということを福音書は語っているのです。そんな人は知らない、と言ったペトロも主の選びの中にある、ということを語っているのです。十字架を前にして逃げ去ったヤコブも、ヨハネも、皆主の選びの中にあるということ福音書は語っているのです。つまりこの人たちは弟子として立派だから、優れているから、信仰深いから、人間的に優れているから選ばれたのではないのです。理由はわからないのです。○○だから選ばれた、というのは人間の考える理屈です。キリストが選ばれたから選ばれた、という以外にはない。
キリストが弟子たちに語られた言葉で忘れることのできない言葉、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去っていく。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかった方が、そのもののためによかった。」凄まじい言葉。生まれなかった方がよかった、そういう罪人だ、と弟子たちに向かって語るのです。しかしその生まれなかった方がよかった罪人のためにキリストはこの世界においでくださったのです。この罪人を弟子として選んでくださっているのです。そして忘れてならないのは、この言葉を語った後に聖餐をなさり弟子たち一人一人にご自分の身体と血であるパンと杯を与えるのです。キリストの選びとは、ペトロもユダも、どんな罪人もその招きの中に置く、神の恵みの選びなのです。わたしたちの理屈や論理を超えた神の選びです。それはわたしたちの内に根拠のない、自分を死に追いやるものをも選び抜く、神の、イエス・キリストの選びです。
ユダはこの神の、イエス・キリストによる選びを本当のところ知らなかった。十二弟子の一人に選ばれたのだからキリストの選びがあることはもちろん知っていたでしょう。しかし、ユダが自分で取捨選択し、自分の選んで人生を生きていると思っている、そのユダの存在の全部を受けとめ包んでいる神の選びがある、ということを知らなかった。ペトロもこの時知らなかった。
ユダは自分の犯した罪を自分で罰して自死したのではないか、とも受け取れます。キリストによる罪の赦しも、キリストによる新しいいのちも、それを受ける以前に、自分で取捨選択して逝ってしまった。聖書はやはり人間の罪の姿を精確に見届けている。すべての自分で負うことの姿を見届けています。
古来、ユダに関する議論は枚挙にいとまがない。ユダは救われたのか、どうなのか、という疑問が根本にあるからでしょう。議論だけでなく、裏切り者という烙印を押され、偏った見方をされているユダに対する名誉回復の実際的な働きかけもあります。
しかしわたしたちにとって大事なことは、ユダもまた神の選びの中にある人だということを信じて受けとめることです。人間の深い罪も、生まれてこなかった方がよかったと言われる罪人も、キリストの愛と選びの中にあることを信じて主に委ねることです。そしてさらにわたしたちにとって大事なことは、この罪人のわたしが神の選びの中にあることを信じ受けとめて、その恵みに感謝して、今を神に向かって生きるということです。どれほど私が罪人であっても、その罪人を招き選び、赦しの中においてくださる神の恵みを信じて受けとめ、今日一日を生きるということ、それがわたしたちにとって本当に大事なことであり、それがキリストの受難の歩みに応える、応答する道なのです。