マタイによる福音書6章25〜34節 「何も心配いらない」

憐れみの主

 天を見るのか、地上を見るのか。人を見るのか、神を見るのか。富を見るのか、天の宝を見るのか。

 何を見るのか。

 イエス様の問いかけというのは、痛いところをついてきます。常に、問題の核心です。優しい、憐れみ深い、愛に満ちたお方であられたゆえに、人が迷って、羊飼いのいない羊のような有様を悲しまれます。マルコによる福音書6章34節にこのような言葉があります。

 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 飼い主のいない羊って、私は実際に見たことないのです。自分を保護してくれる存在がどこにいるかもわからず、羊はあまり目が良くはないので、右に左にどうしていいかわからずにフラフラしている様子のことを指しているのでしょう。

 どっちを見て良いかわからずにフラフラ確信をもたずに人生を歩んでいる。そんな人間の姿を御覧になられてイエス様は深く憐れまれました。

 憐れむというのは、ギリシャ語で、スプラングニゾマイという言葉が使われておりまして、はらわたがねじれるとか、断腸の思いとか、そういう非常に動的な、動きのある悲しみとか、苦しみとかをあらわす言葉です。イエス様は、天の国のことを知らない人々をみて、それを非常に深く憐れまれたのです。それは、羊飼いのいない羊のように右往左往しなければ生きていけないからです。本来はそうではないはずなのです。人間は神の似姿につくられて、父である神の絶対的な守りのもと安心して、自由に生きていけるはずなのです。しかし、そうではない現状を御覧になり憐れまれました。

視点の移動

 マタイ福音書6章全体は、視点の移動について私たちに教えてくれる箇所です。信仰が与えられると視点が移動します。どう移動するのかというと、自分ばかり見つめていたものが、神が私をどう見ているかということに視点が移るのです。

 特にマタイ6章は主の祈りがこの章に含まれていまして、主の祈りこそがこの話の中心にあることがわかります。主の祈りは、視点の大きなチェンジを私たちに迫る内容です。まず何を祈るのかというと神を讃える讃美の祈りを祈りなさいと主の祈りは私たちに教えてくれます。

 願い事というか、自分発信の、自分中心の祈りが多いものですが、本来は、祈りというのは神との関係の中に入っていくものでありますので、はじめに神を讃えるということが非常にふさわしい言葉になるわけです。皆さんが尊敬し、愛する人のところに行く時どうですか。自分の願いを先にぶつけるなんてかなり不自然ではありませんか。人間関係と同じように、神との関係も人格的な関係です。

 尊敬する人を思い浮かべてください。その人には敬意を表す言葉をまずのべませんか。

 祈りが大切な神さまとの関係性をつくりあげていくものであると理解すればするほどに、神さまへの讃美と、感謝と、主イエスの救いの喜びを申し上げる。祈りはそういう機会になっていきます。すると、こちらのことよりも、神のことをまず言葉にのぼらせていくでしょう。主の祈りというのは、その順番を私たちに教えてくれるのです。

 しかし、確かに緊急事態のとき、願いを聞いてくださいという祈りもします。ただ、そういうとっさに祈れる人。その祈りが主に聞かれて物事が動いていく。そういう人というのは、普段から祈りをしている人です。神への讃美と感謝を口にしている人であるということも忘れないでください。普段の祈りをしていないととっさの時にも祈りにならず、神に聞いていただけるのか確信が持てなくなります。確信が持てないと、先程言いました、飼い主のいない羊のような有様になってしまいます。それを悲しまれているのがイエス様。もっと天の父の子として、王の子として、最大に力ある方の子として確信をもって日々を歩んでもらいたいと思っておられます。

 実際、主の祈りでは私達の必要についてちゃんと目が向けられています。だから、心配しなくて良いのです。主を見上げて、本当になすべきことを第一にしていると、必要なものは整えられるということでもあります。人間は常に逆になる。神への讃美ではなくて、自分の生活をまず建てあげて、この生活の基盤がしっかりして、そしたら感謝をもって主をあがめようという順番になりがちです。そうではない。讃美をし、主の御心によりそったら必要なものが整えられるというのです。

ブレない心

 6章には、施し、祈り、断食に関することがでてきます。信じるものたちの敬虔なる、信仰心篤い行為というのは、「施し、祈り、断食」でありました。これをしていると信仰心篤い人たちから褒められる。だから、人に褒めて貰おうとして行う人達が出てきました。奉仕でも、人が見ているところはしっかりやるけれども、見ていないと急にやる気を失う。というところが人間には大いにあります。こういう傾向は皆にあるのではないでしょうか。

 一生懸命裏では死ぬほど努力して、睡眠時間も削って、命を削って奉仕しているのに、それを誰も評価してくれなかったら。確かに人間はやる気を失うでしょう。無力感に苛まれて、次の力が湧いてきません。

 でも、もしも、そうやって人の評価によってやるやらない、やる気が起こる起こらない、という状態のままであるのならば、その人の道はこれから先危うい。

 人の心はころころと変化するのが常だからです。人に対する評価、また自分自身に対する評価など、特に人を評価するときなど、「まことに無責任」なものです。すぐに評価は変わります。「良いね」と言っていたと思ったら「最悪」にすぐになります。こんなものに振り回されていたら心が潰されます。心がいくつあっても足りません。

 だから、変化する人の目を気にするのではなくて、天を見上げよ。と主イエスは教えてくださるのです。天を見上げて、常に基準を天に、本当にそれができるのならば、ブレることはない。

地上のものではなく、天

 地上のものではなくて天に目を移させるために、富についてイエス様はおっしゃられます。マタイによる福音書6章19節。

 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。

 当時の人達は、お金は両替人に預けたり、神殿に預けたり、地下に埋めたり、洞窟に隠したりしました。衣服も財産でありましたので、お金と同じようにどこかに隠していたようです。すると、虫が食ってしまったり、お金は錆びついてしまったりして、使い物にならくなってしまうことがありました。地上のどこに置いていたとしても、それは実は保証され、守られているわけではない。神さまのところにあるものこそ、永遠に守られるものであるということをイエス様は教えてくださるのです。ヤコブの手紙5章1〜6節にこのようにあります。

 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。

 地上の宝は一時的なもの、永続するものではない、それをずっと貯めておいて自分のものとして独占できるというものではないということなのです。確かに、歴史を見ても、先祖代々、宝を維持していくということは極めて難しいことがわかります。一代前は巨万の富をなしたけれども、それも一瞬で飛んでいってしまったということがよく起こります。しかし、天に蓄えた富は、永遠である。神が皆様のために与えてくださる富は永遠。

 天に富を積むというのは、どういうことかというと、永遠の価値あるもののためにこそ、才能や時間やお金などを投入していくことです。

 永遠の価値のあるものというのは、聖書の価値観に照らし合わせて見ていくと自分にとってこれであるということが見えてきます。

 天に富を積むのであると決めていれば、人間のこころは常に天にあることになります。執着心も消え、不安も消えていきます。

 永遠ではないものに、執着し、心を奪われてしまうからこそ、人間はいつまでたっても幸いになれない。これが罪の現実というものです。永遠を失ったのです。

 しかし、悔い改めて信仰に帰るものには、天を見上げる力を回復させてくださいます。執着心も不安も消えていきます。

自然を通して目を開かせる

 そして、さらに目を開かせるために、イエス様は本日の箇所を私たちのために残されたのです。マタイによる福音書6章26節。

 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

 自然の中には私達人類よりももっと素直に、永遠なる神にすべてを委ねて生きているものたちがいます。動物です。意識的に労働をしているわけではありません。それでも、神は鳥を養ってくださいます。これは労働を否定するための言葉では決してありません。使徒パウロはこういう言葉を残しています。第二テサロニケ3章10節「働きたくない者は、食べてはならない」

 人は神に造られ、神に守られている。しかも神の似姿であり、神は父であり、人は子である。ならば、その一人ひとりを神が守らないはずがなかろう。労働に従事していないものも食べることができるのだから、ましてや汗水たらして働いているあなた方を必ず神は養ってくださるのだというメッセージです。

永遠の価値と、地上の価値

 自分の命のことで心配しても、寿命は決して延びません。与えられているものを最大限に生かすため、天に対する感謝と行動のために、この体を大事にする。しかし、寿命を伸ばしたいと願ってもそれは叶えられない。それはすべて神さまのご支配、神さまのご意志です。そこまで力強い全能の神であることを忘れてはなりません。その御方が、私達とかかわり、私達と対話をし、私達の願いも聞いてくださり、私達を守ってくださるのです。自分がどうしたいこうしたい、ということよりも、この力あるかたと対話することが全てに先立って重要です。

 永遠である神と結びついていかないと、実は全てが自己目的化して価値を失います。

 この説教も、これを語ることによって自分が何かを得るとか、また例えば体をトレーニングするのは健康のためだけだとか。説教は神の言葉を伝え、誰かが神さまとつながっていただく。そのためにある。神の思いの実現のためにあるのだと心の底から受け止めていくと、これは永遠の世界におられる神につながっていきます。

 しかし、誰かを感動させたいとか、うまく喋りたいとか、そういうことを考えているとそれも自己目的化ですが、それはやがて地に落ちます。腐ります。

 体をトレーニングするもの、実際はこれはやがて脱ぎ捨てなければならない体です。しかし、これを十分に神が与えたもうた使命のためにフル活用するためにトレーニングするのだと思っていると、それは永遠とつながります。神とつながります。するとそこには地上的な価値ではなくて、永遠の価値が生まれてくるのです。

神を知らないものは、富の追及だけで終わる。

 マタイによる福音書6章31節。

 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 異邦人が切に求めているというのは、神を知らない、天を知らない人が求め追及しているものということです。食べようか、飲もうか、着ようか。これらはすべて行き着く先は富に帰結します。富があればこれらは得ることができます。

 富を得ることは悪ではありませんが、むしろユダヤ教の伝統では、富を得るのは祝福です。しかし、それが自己目的化して、ただただ富を追及してしまうことが、まさに飼い主を失った羊の状況であるというのです。

 究極的には富の追及をしても、富の追及は意味を失うのです。なぜなら、ものや富は必ず失われる、というのが結論だからです。

 だから、

 何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 神の国というのは、神の支配です。神のご臨在です。おお神よ、あなたは私と共におられるのですね。主キリストの血によって赦されて子とされました。王の子とされました。感謝いたします。あなたの支配の中生きてまいります。安心して。この確信は、信仰は神がおられる限り失われません。

 神の義というのは何かというと、義とは正しさです。何の正しさですか。神の正しさです。神が良しとされること。神が喜んでくださること。人間の目から見て正しいことではなくて、神の目から見て正しいことだけを求めて生きてく。神さまの方を向いて、神さまに価値基準を置いて生きていくということです。

 神は求めるものには、必ず良いものをくださいます。神の支配と、神がどう見ておられるかを知る力を皆様に与えてくださいますように。そうすれば必要なものはすべて与えられます。

祈りに命をかける

 私はつい最近まで、祈りに命をかけて生きていませんでした。その結果心の平安を失っていました。しかし、祈りに命をかけて、これだけで生きていこうと決めた時から、心がスッと晴れやかに、そして明らかに永遠なる神とつながっていることを実感できるようになりました。祈りにすべてをかけると決めて、その私をどうか力づけてくださいと祈るだけなんです。しかし、神は私達が信仰の決断をした時に、聖書の中で描かれている力強い鷲のように、急激に私達の人生の中に飛び込んで下さって、御自分の業を起こしてくださいます。アーメン。