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マタイによる福音書連続講解説教

2023.9.10.聖霊降臨節第16主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章9節『 天の父よ 』

菅原 力牧師

 今日からご一緒に主イエスが祈られた「主の祈り」に聞いてまいります。主イエスは先週の箇所で祈りについて語られました。それは祈りとは何かというような説明的なことではなく、祈るときにはこうしなさい、というすぐれて具体的な内容のものでした。そしてそれに続いて、すぐに「だから、こう祈りなさい」といって主ご自身が祈り始められる。祈りについてあれこれ述べるのではなく、直ちに主イエスご自身が祈り始められるのです。

 祈りをご自分の祈りそのものによって弟子たち、また説教の聴衆に向かって伝えようとされた、それがこの「主の祈り」です。

 『天におられるわたしたちの父よ』、主が祈られた最初の言葉、それは祈る相手に向かう呼びかけの言葉でした。わたしたちが呼びかけ、祈る相手の神は、天におられる、そのことをはっきりと自覚する呼びかけです。地上にいる友人に向かって祈るではない。目に見える偶像や対象に向かっての祈りでもない。天におられるとは、わたしたちを全く超えた権威、権能、力を持った方だ、ということです。わたしたちを超越しておられる方、時間に拘束されず、永遠の中にいましたまう方、この世界を創造された方、ということは、この世界の中の存在ではなく、この世界を超えた方であるということです。天とは、この地上の世界に拘束されず、かつこの世界に働きかけてくださる権能を持った方、それが天におられる、ということです。しかし驚くべきことに、その天におられる方は、わたしたちの父、なのだ、と主の祈りの冒頭の呼びかけの言葉は語るのです。  

 わたしたちを全く超越して、この世界を創造する力をお持ちになり、永遠から永遠に生きたまうお方、そのお方をわたしたちの父と呼ぶのです。キリストが父と呼ぶことは当然としても、この神を「わたしたちの父よ」、と呼んで、弟子たちも福音を聞いている者たちも神の子であることへと招き入れる祈りなのです。  

 この「父」という言葉なのですが、少し説明が必要です。原文はギリシア語で「お父さん」という言葉が書かれているのですが、もともと主イエスが語られたのは、ギリシア語ではなく、アラム語という言語です。この主の祈りも元々アラム語で語られた、それをギリシア語に翻訳したのです。そして新約聖書の中には、この時の主の言葉、「父」という言葉を原音のまま残している箇所がいくつかあるのです。それは「アバ」という言葉です。「アバ父よ」と訳しているところがその箇所です。この言葉については皆さんもこれまで聞いてきておられることと思いますが、これは幼児がお父さんを呼ぶときに使う幼児語です。いまの日本の幼児で言えば、「パパ」という子が多いでしょう。あるいは年老いた男性に対する尊敬を込めた親しい者たちの呼びかけ、そういう言葉です。

 それで、この言葉をじっくり味わっていただきたい。ご自分が子どもだったころ、父親に対して呼びかけていたその呼び名、それを今思い出してください。そしてそれを何回となく、呼んでみるのです。実際に呼んでみるのです。すると、父の顔が浮かんできたり、父の声が聞こえてきたり、父と過ごした時間の一齣一齣が浮かんでくるのです。もっとじっくりと呼び続けると、父の言葉、態度、行動が思い起こされてきたりもする。

 主イエスは神のことを「アバ」と呼ばれた。そう呼ぶだけで、父なる神から受けている、安心だとか、喜びだとか、感謝だとか、そして父への信頼、そういうものの中で、祈りがなされていったのでしょう。  

 「天におられるわたしたちの父よ」これは驚くべき呼びかけです。なぜなら、天と父とはまったくかけ離れているからです。天はわたしたちを超えた世界、父はわたしたちの最も親密で、身近で、日常的な関係。その二つの言葉が同時に語られているのです。全くかけ離れたものがまるでつながっているかのように呼びかけられている。それはなぜ可能なのか。

 言うまでもなく、この二つを繋ぐ方がおられるからです。わたしたちにとって、超越者である方を父と呼べる関係へと、繋ぐ方、この祈りを祈る主イエス・キリストの存在です。この方の仲保の働きのゆえに、キリストの信実のゆえにわたしたちは、神の子の身分などまるでないにもかかわらず、「天におられるわたしたちの父よ」と神に向かって呼びかけ、神に祈ることができるようしていただいたのです。  

 わたしたちキリスト者は今、世界中で主の祈りを祈っています。そして「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけているし、呼びかけることができる。この祈りの道が拓かれるために、主イエスの業と言葉、生と死、そして復活はなくてならぬものだった。

 そして、キリストをこの世界に与え給う神の意志なくしては、この祈りはわたしたちの前に拓かれていかなかったのです。キリストはその神の意志の中で、十字架に向かっていかれたのですが、だからこそ、この祈りを、わたしたちの神、わたしたちの父に向かって祈りなさい、と主は言われたのです。

 「天におられるわたしたちの父よ」というこの呼びかけは、天におられる神が、イエス・キリストの贖いの業ゆえにわたしたちの父であることを喜んでくださる、という恵みの事実があります。父という呼びかけは、確かに親密であり、親しく、安心、信頼に溢れたものです。

 と同時に、この呼びかけに続く主の祈りは、御名、御国、御心、と10節にかけて続いていく、あなたのお名前、あなたの国、あなたのみ旨が、あがめられ、実現していきますように、という祈りが続いていく祈りだ、ということにしっかりと目を向けたいと思います。

 主イエス・キリストの神への呼びかけは、アバと呼べるほどの親しさ、身近な、信頼の中で祈られる。そして事実、主の祈りの拡がりは、神に向かってさまざまなことを祈っていける拡がりがあるのです。しかし神への祈りは、わたしたちの名前があがめられるのではなく、わたしたちの意志が実現するようにではなく、神のお名前、神の国、神のみ旨がなるようにと、祈り続ける、そういう祈りへとわたしたちを招く祈りでもあることも知らされるのです。

 「天におられるわたしたちの父よ」との呼びかけに続いて、主がまず祈られたのは、「御名が崇められますように。」という祈りです。

 あなたのお名前、名前は存在そのものを言い表す言葉で、あなたの存在が崇められますように、という祈りなのですが、「崇められる」というのは訳が難しい言葉です。聖とされますように、という言葉です。神が聖なるものであることは確かなことですが、その聖なる神が聖とされますように、とはどういうことかといえば、聖である神が聖であり続け、聖が貫徹されていきますようにという祈りです。神が神であることを祈る祈りです。別の言い方をすれば、神さまのご意志が貫徹されますように、という祈りなのです。神の存在が悪や罪の力、諸霊の力の中で、神であり続け、神の意志が貫かれていきますように、ということです。不思議、といえば不思議な祈りです。わたしたちの日常の祈りの中で祈られていない祈りともいえます。神の意志が貫徹されますように、といっても、それはわたしたちの力やわたしたちの努力によって貫徹されていくわけではない。わたしたちはただ祈り願うのです。あなたがあなたであり続けて、あなたが、神としての御意志をあなたの自由の中で貫徹してくださいますように。そしてこれは続く10節のあなたの御国が来ますようにと相俟って、終末の救いの完成の時、新しい神の都が到来しますように、という祈りと深く重なり合って、神の御意志が終末の完成に至るまで、あなたの御意志として貫かれていきますように、という祈りなのです。

 しかし考えてみれば、主イエスが最初の呼びかけに続いて、御名が崇められますように、と祈られたのは、当然のことといえば当然のことなのです。なぜなら、祈りにおいて、わたしたちの願いや、わたしたちの希望が実現することは、究極のものではないからです。わたしたちの願いや希望や期待は、それ自体中途半端なものです。悪い意味で言っているのではない。パウロがいうように部分的なのです。救いの完成の全貌が見えていないのですから当然です。中途半端だからダメというのではない。しかしその願いや希望を含め、最終的には神が神であり続けて、神の御意志を貫いてくださることの中で、わたしたちは満たされていくのです。眞實救われていく、完全に救われていくのです。

 だからわたしたちの祈りは、主イエス・キリストが祈られたように、御名が崇められますように、あなたがあなたとしてその御意志のままになさり、その御意志を貫徹してください、そう祈るのです。そしてその安心の中で、わたしたちの願いを、希望を、祈っていくのです。

 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように』わたしたちを超えて、わたしたちの創造者として、歴史のまことの支配者として、そして救いの完成者としてお働きになる、わたしたちの父よ。わたしたちの父となってくださり、父と呼ばれることを喜びのうちに受け入れてくださる神よ、あなたのお名前、あなたの存在が、この歴史の世界を貫き、終末の完成に至るまで、あなたの御意志を貫き、その御意志をわたしたちにお示しください。『天におられるわたしたちの父よ。』