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マタイによる福音書連続講解説教

2023.9.17.聖霊降臨節第17主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章10節『 御国が来ますように 』

菅原 力牧師

 天におられるわたしたちの父よ、という呼びかけで始まる主の祈りは、御名が崇められますように、あなたの御意志が貫徹されますように、という祈りに続き、「御国が来ますように」と祈ります。わたしたちが毎週礼拝で祈っている「主の祈り」では御国を来たらせ給え、となっていて、多少とも言葉が違います。きますように、という訳だと、願望、願いのようにも聞こえます。来たらせ給え、というとおいでください、という丁寧な感じ、がします。

 ところが原文では、御国は来たれ、というような言葉で、ある人はこれを「御国は来い」、と訳しています。すなわちこの祈りは、できれば来てほしいというような意味ではなく、まちがいなく、完全に、来い、という強烈な祈りなのだ、ということです。正直驚きます。

 主の祈りの第一祈願、「御国が来ますように」も、わたしたちが主の祈り以外ではなかなか祈らない祈り、わたしたちの心を神に向けさせる祈りでした。しかし第二祈願は第一祈願以上に祈ってこなかった祈りなのではないでしょうか。

 祈りといえば、自分の内面にあるものを神に申し上げる、訴える、願う、というような方向ばかりを考えがちです。しかし主の祈りは、イエス・キリストの、父なる神への祈りは、まず何よりも、神へとわたしたちの心を、精神を向けさせる祈りから始まる。しかもその祈りは、願いは強烈。

 御国を来たらせ給え、御国は来い、という時の御国は、あなたの国、神さまの国ということで、これまでいろいろな機会に申し上げてきたように、この「国」という言葉は国以外にも「支配」という大事な意味があります。

 国という言葉は空間的な広がりがあります。地上には国があって王がその国を支配していました。古代の王は絶対的な権力の中で人々を力で支配していた。そういうイメージが焼き付いている言葉なのに、主イエスはこの国、支配という言葉を使われています。どうしてなんでしょうか。

 それはとても飛躍して聞こえるかもしれませんが、人間が作った国、人間が人間に対して行う支配、わたしたちはそういうものに囲まれているのですが、それとは全く違う、国、支配があるのだ、ということを主は語り告げたかったからです。神の国、それは終末に約束されている新しいエルサレム、神の都、「神が人ともに住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その人の神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみはも嘆きもない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と黙示録でヨハネが幻のうちに見、聞いた約束の都。神が約束された国があるのだということです。

 そしてそれは力や暴力や権力による支配ではなく、愛による根本からの支え、恵みによる充満。神の都は、神の国は、愛と恵みに溢れる都なのです。

 主イエスはそうした意味を充満を込めて、人がこれまで知ることのなかった、愛による支配、恵みによる支配が充満する神の支配を、神の国を語っておられるのです。不思議なことに、日本語の支配という言葉も、もともとの意味は相手から離れずささえるという意味で、支配人という言葉はもともとの意味と繋がった言葉です。

 思い起こしてほしいのですが、主イエスの伝道の第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。神の国は、神の支配は近づいているのだ、だから、悔い改めて福音を信じない、と人々に語りかけたのです。それはこの世界が、そして人間がさまざまなものによって支配されている、そのただ中において語り返られた言葉でした。わたしたちは今も、さまざまなものによって支配されています。その時々に権力や力によって支配されていますし、お金によって支配され、時間に支配され、死に支配され、この世にある諸霊、諸力によっても支配されています。その支配に自覚的であるときもあれば、無自覚で、何も気がついていない時もありますが、この世に生きるということは、この世の力に支配されている、ということでもあるのです。

 

 しかし主イエスは、この世に来られて、わたしたちに福音を宣べ伝えるその最初に、神の支配は近づいた、と語られたのです。神さまの支配は始まっている。それはイエス・キリストによる神の愛の支配、神の恵みの支配です。十字架と復活は神の国の始まりを告げるものです。

 しかし神の救いの業は完成したわけではなく、完成の時に向かって進んでいるものです。キリストの祈りの第一は、あなたの御意志が貫徹されますように、であった。そしてそれに続くのは、神の支配が、あなたの国が来い、というものです。ここには、キリストの祈り、願いが充溢している。この世界の中で、この世界を貫いて、そしてさらに歴史を貫いて、あなたの約束される終末の時に至るまで、あなたの御救いの意志が貫徹され、あなたが約束される新しい都、神の国、あなたの全き御支配が来たれ、と祈っているのです。

 

 ここであらためて確認したいことは、キリストはこの祈りを、ご自分一人の祈りとして祈っておられない、ということです。わたしたちの父よ、と呼びかけたそのことの中には、わたしたち一人一人もこの祈りを祈って生きよ、という呼びかけが主イエス・キリストのうちにあるのです。

 祈ることの拡がり、裾野を持っています。しかしここでキリストがまず第一に、神の御意志の貫徹、神の御支配の来たらんことを祈っていることにしっかりと目を向けたいのです。そしてそれをわたしたちも心を込めて祈っていくことが求められているのです。

 

 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」

 この三つ目の祈願は先の二つの祈願と重なり合っています。御心とは御意志といってもいいので、最初の祈願、神の御意志の貫徹と重なり合っているのです。しかし違いもあるのです。あなたの御意志のままになさってください。天におけるように地上でも、とこの後ろに置かれた文章が入ることで、神さまがただ神の意志なさることを行ってくださいますようにというだけでなく、この地上においても神の御意志に従う力をお与えください、と祈っているのです。ただ神の御意志のままになさってください、というだけでなく、地上においてそのあなたの意志に従ってわたしとしてください、わたしたちとさせてください、という祈りがここにあるのです。

 ゲツセマネの祈りを思い起こしたいのです。主イエスはゲツセマネで、十字架を目前にしてこう神に祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」ここで、これから迎える受難が神の御意志であると受けとめておられる主イエスが、それとは違う自分の意志を持っていたことがわかるのです。できることなら、こうしてほしい、というのは自分の意志です。

 しかし主はこのゲツセマネの祈りを祈り続ける中で、「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈るのです。すなわち主イエスは、祈りにおいて、神の意志を受けとめつつ、それとは違う自分の意志をもって祈ります。しかし祈りの中で、「あなたの御心が行われますように」といって自分の意志を神の意志に重ねていく。

 これは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」そう主の祈りで祈られたキリストご自身が、ご自分の歩みの中で、その祈りに生きた生身の姿、といってもいい。

 神の御意志が天で行われるように、この地上においてもあなたの御意志に従うわたしとしてください、と主は祈られた。神の御心のままに従うこのわたしとしてくださり、あなたの御意志の中で用いてください、と祈っているのです。

 

 わたしたちは、天にいらっしゃるわたしたちの父である神に祈ります。あなたのお名前が聖とされますように、あなたの御意志が貫徹されていきますように。あなたの国が、あなたのご支配が来たらんことを。あなたの御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

 こう祈り始める時、わたしたちの中の秩序というか、心の向きが変えられていく入り口にわたしは立つのです。自分が今どんな課題の前に立っているとしても、どんな問題があるにせよ、ともかくまず神を仰ぐ。わたしを超えて、生きて働く神を仰ぐ。わたしたちの父であり続けてくださる神を仰ぐ。そして何より、神の御意志の貫徹と、神の御支配が来ることを祈る。そして神の御心の実現の中で、このわたしもわたしたちも従うものとされることを祈る。

 そのときわたしたちは、握りしめているものを手離す自由へと招かれ始めていくのです。まず神を仰ぎ、まず神のお働きを祈り、神の御意志の中で、神の働きの中で、神にお委ねし、神に従っていく自由へと、信仰へと導かれていく。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも、そう祈りつつ、今日を生きる。与えられた時間を生きる、み言葉に聞きつつ、今日を歩んでいきたいと願うのです。