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マタイによる福音書連続講解説教

2023.10.1.聖霊降臨節第19主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章11節『 日ごとの糧を与えてください 』

菅原 力牧師

 今朝は主の祈りの四つ目の祈り、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」に聞いて、神さまを礼拝してまいりたいと思います。

 今日お手元にお配りしましたのは、今日の聖書箇所、マタイによる福音書6章11節の翻訳をこれまでに出ていますいろいろな日本語訳聖書から抜き書きしたものです。お読みになってわかるように、この短い文章の1節なのですが、ずいぶんと訳が違います。わたしたちが今礼拝で祈る「主の祈り」は、文語訳が元になっています。文語訳で、「糧」と訳された元の言葉はパンなのですが、当時の日本ではパンが日常的ではなかったので、そのままは訳せなかった。お米とか、ご飯ともいうのも、抵抗があったのでしょう、「糧」という含蓄のある言葉に訳されて、それが新共同訳にも、協会共同訳にも引き継がれています。口語訳は食物と訳した。これも苦心の訳なのでしょう。11節の翻訳で一番問題になるのは、「糧」「食物」の前にある形容詞なのです。文語訳は「日用の」と訳し、口語訳は「日ごとの」、新共同訳は「必要な」と訳し、協会共同訳は「日ごとの」とまた以前の口語訳に戻しています。どうして翻訳が違うのか、といえば、この「糧」の前にある形容詞が、新約聖書では二か所しか出てこず、他の文書でも、ほとんど出てこないことばで、意味が確定しにくい言葉だからです。紹介した翻訳文でも、「日用の」「日ごとの」「必要な」「今日の」「明日のための」「なくてならぬもの」とさまざまな意味を読み取っているのです。

 そこでまず、わたしたちはこの翻訳の共通の部分、糧を与えてください、パンを与えてください、に目を向けたいと思います。

 主の祈りは天におられるわたしたちの父よ、という神への呼びかけに始まり、神さまのお名前が聖とされますように、あなたの御意志が貫徹されますように、と祈り、あなたの国が、あなたの支配が来たらんことを、と祈り、あなたの御意志が天で行われるように、この地上においてもあなたの御意志が行われますように、と祈りました。天の父よと呼びかけに続くのは、すべて神さまに関する祈りでした。そしてこの四つ目の祈りからわたしたちに関する祈りになっていく。その最初の祈りが「パンをください」という祈りであることに正直驚くのです。信仰のこと、罪のこと、そういうことであっても不思議ではないのに、「パンをください」という祈りなのです。

 確かに言うまでもなくパンは大事です。毎日の糧、日ごとの食物、必要な糧、それがなければ、わたしたちは死んでしまいます。その意味で食べることはわたしたちのまさに生命線です。食べることで命を繋ぎ、食べることで体を維持し、からだをつくっていく。

 しかし、だからといって、もしこの主の祈りを知らなかったら、わたしたちは「パンをください」と祈っているでしょうか。社会全体が貧しい時や、人々が今日食べるものにも困っているときであればともかく、わたしたちは今、この祈りをどれだけ切実感を持って祈っているのでしょうか。この国に住む多くの人は冷蔵庫を開けると入りきれないほどのたくさんの食糧が詰まっているのです。コンビニやファストフード店では次々に時間切れのお弁当や商品が捨てられているのです。飲食店に行けば、たくさんの食事がゴミとなって捨てられる。たくさんの食物、パンに囲まれて、いかに食べ過ぎないか、ということを思い煩うような環境の中で、この祈りはどういう意味を持っているのでしょうか。

 この祈りはパンを与えてください、という単純率直な祈りです。それを神にストレートに祈っているのです。パンをつくっている人、農作物をつくっている農業従事者に向かって「パンをください」と祈っているのではなく、神さまを仰ぎ、神さまに向かって「パンを与えてください」と祈っているのです。確かに多くの人は、パンはパン屋さんで買うか、自分で焼くか、するのです。野菜はスーパーやお店で買う。自分で畑を耕し作る人もいる。そもそも農家の人もいるでしょう。わたしたちが口にするパン、そのパンを神からのものとしてわたしたちは受け取っているのか。人間が作り、さまざまな流通を通して自分でお金を出して買っている、と思っている人がほとんどなのではないか。

 けれど、このパンを、この食材を、わたしたち一人一人にいのちの糧として与え、このパンを食べることで、わたしを活かし、わたしをわたしとして作り、わたしとして働かせてくださるのは、神さまだ、という信仰がこの祈りにはある。そもそも、このからだ、このからだは自分のものではなく、神が与え、神がわたしを存在させ、生かし養ってくださるものだという信仰があるのです。

 確かにパンを作ったのは人間です。しかしこのパンをいのちの糧として、与えてくださるのは神。そしてこの糧をわたしの中で活かして、わたしを養うのは神。そういう信仰がこの祈りにはあるのです。

 

 パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で書いているあの言葉「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。」

 パウロもまた、パンをいのちの糧として、成長させてくださるのは神だ、という信仰に生きていたのです。

 

パンということで、福音書の中には、さまざまな大事な記述がありますが、わたしたちがマタイ福音書読み進んできた中で、主イエスが荒れ野の誘惑において、断食という極度の空腹のときに、サタンがこれらの石をパンにしたらどうだ、と誘惑してきたことを覚えておられることと思います。あれは、生きていく上で結局のところ、大事なのは、神だとか、信仰なんかじゃない、パンなんだ、食いものなんだ、という深い誘惑でした。それに対して主イエスはサタンに対して、「人はパンだけで生きるものではない」と応えられたのでした。主イエスの言われたこと、それはパンが必要なことがはっきりと肯定されている。パンが生きていく上で必要なことは言うまでもない。だがパンだけで生きるものではない、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたのでした。

 主の祈りで主が神にパンを与えてください、と祈る。それはまさに主がパンの大事さを、無くてならぬものであることを知っておられたからです。しかしそれだけでない。パンを誰から与えられたものとして受け、誰に養っていただくのか、誰によって活かされていくいのちを生きるのか、まこと知っておられたからに他ならない。パンだけでなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって、人はまこと生きるのです。それはパンと、神の言葉なのではない。パンもまた神から与えられた糧として受けとめ、神の言葉に聞いて生きるのです。

 そこで、最初に申し上げた翻訳の違いの話に帰るのですが、文語訳は「我等の日用の糧を今日も与え給へ」と訳したのですが、日用とは毎日必要な、ということです。毎日、わたしたちを活かすいのちの糧を今日も与えてください、と祈るのです。口語訳聖書の「日ごとの食物」の日ごととは、まさに毎日、一日一日、その日その日、ということです。新共同訳聖書は「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と訳しています。生きるために必要な糧、どうしても必要な糧を与えてください、と祈るのです。この日用も、日ごとも、必要も、どの訳が正解ということではなく、それぞれ深い味わいがあります。併せて読むことで、主イエスの思いがじわじわと伝わってくるようにも思います。毎日必要な、生きるために必要な糧を今日与えてください、と神に祈るキリストの姿が次第にはっきりとわたしたちに伝わってくるのです。フランシスコ会訳、これはカトリック教会の聖書ですが、「今日の糧」と端的に訳しています。今日を生きる、今日必要な、今日を生きるために必要な、ということが短い言葉に込められている。ルツ訳というのは、ドイツの聖書学者の訳で、語学的には、説得力のある訳なのですが、明日というのは、来る日のという意味を含んでおり、終末の食事のパンをも含んだ祈りになっています。永井訳とは昭和初期の新約聖書の翻訳としてとてもすぐれたものです。我等のパン、無くてならぬもの、と訳しており、それぞれに、苦心の訳。これらの翻訳に込められているのは、わたしたちが生きていくために、わたしという存在が、わたしといういのちが生き活かされ、作られていくために、必要な糧を、必要ないのちの糧を今日も与えてください、という切実さです。真剣さです。真摯さです。

 そしてどれもが共通しているのは、受け取るのは今日なのです。今日という日を外してはない。神からの恵み、神からのいのちの糧を今日、与えてください、と主は祈られたのです。

 今日、ということでわたしたちが知らなくてはならないことは、二つです。一つは、出エジプト記に出てくる話ですが、エジプトを脱出したイスラエルの民が、食べるものに困り、神に祈ったときに、マナが与えられた。ただそのマナは今日一日分だけ、明日はまた明日与えられる、ということだった。それはなぜなのか、なぜマナは備蓄できないのか。それは、今日生きる分を今日神から受けることが大事だからなのです。今日また新たに神に祈り神からの恵みを受けるのです。そしてそれは、一度受けとれば、明日も来月もそれでいいというのではない。今日また新しく神からいのちの糧をいただかなくてはならないし、今日また新たに与えられるのです。

 そしてもう一つ。いのちの糧は今日、受けて今日食べるからこそ、いのちの糧になるのです。昨日食べたから今日はもういい、というものではない、ということです。昔教会に行っていました。昔聖書を読みました、それは今を生きるものではない。同じように、いつまでもこのみ言葉が好きです、といって以前読み取った自分の理解にしがみついているのは、ひょっとして昨日の、一か月前のパンを食べるようなことなのかもしれない。

 

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」「今日の糧を今日与えてください。」一日に何度もこの主の祈りを祈りたいと心から願うのです。