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マタイによる福音書連続講解説教

2023.10.8.聖霊降臨節第20主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章12節『 赦してください 』

菅原 力牧師

 今日の説教題は『赦してください』です。主の祈りの第五祈願は「赦してください」という祈りです。人を赦せるようにしてください、という祈りではなく、赦してください、ということを祈る祈りです。

 わたしたちが礼拝で毎週祈っている「主の祈り」はこの部分を「我等に罪をおかすものを、我等が赦す如く、我等の罪をも赦したまえ」となっています。これは先週も申し上げたように、文語訳の訳順に従ってこうなったものですが、本来の形は、今わたしたちが読んでいる新共同訳の順序、つまり赦してくださいが文頭にあるのです。

 さて、聖書本文をもう一度読んでみます。「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」まず気づくのは、普段祈っている主の祈りが罪をも赦したまえ、となっているところを負い目を赦してください、となっていることです。

 元の言葉は新共同訳聖書にあるように負い目という言葉です。負債とか、借りとかいう意味を持った言葉です。実は文語訳聖書もこの部分を罪と訳しているわけではなく、文語訳聖書は負債と訳してルビを振っておいめと記しています。じゃあなぜわたしたちの祈っている主の祈りは「罪」という言葉になっているかと言えば、それはルカによる福音書のこの部分が「罪を赦してください」となっており、そこからとったということなのでしょう。確かにここで祈られていることは、内容的に言えば、罪を赦してください、ということなのですが、それをマタイ福音書では主が負い目、と言葉を用いられたということを報告しているのです。これはとても意義深いことです。つまり、主イエスが罪のことを負い目という言葉でも表現しておられたということだからです。

 なぜ、罪のことを負い目、と主は言われたのか。罪という言葉は、Aさんの犯した罪、というようにその人の中にあるもの、というふうに受け取られやすいものです。あなたは罪人だ、という時の罪はあなたの中にある、如何ともしがたいもの、というふうに受け取られがちです。しかし、負い目という言葉で罪が語られるときには、それは自分の中にあるというだけではない、相手に対する負い目、借り、もっとわかりやすく言えば借金なのです。自分の中にあるということ以上に、相手がいて、その相手から借りている、返さなくてはならないものがあるという状態のことです。辞書を引きますと、最近の用例としては、相手に借りがあるという気持ちの負担、というように、使うことも多いようです。主が罪という言葉をここで用いず、負い目という言葉を使われた、それはわたしたちの罪が自分の中のものというのではなく、相手のある、その相手への現実的な、具体的な負債であり、したがってそれはその相手に返済しなければならないものだ、ということなのです。相手とは誰なのか。もちろん自分以外の人間ということもあります。あの人、この人に対する負債ということもある。しかしイエス・キリストが問題にされる罪とは、わたしたちの神に対する負債なのです。負い目なのです。

 しかしいったいどういう負い目なのか。それは神がわたしたちを極みまで愛してくださっているのに、その愛の愛に応えていないという負い目です。心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛せよ、というあの第一の戒めを生き得ていない、という負い目です。全力で愛してないというだけでない、神の愛を無視したり、忘れたり、疑ったり、神の愛などないかのように振舞ったり、ときには神の愛を踏みつけにしてしまう、そしてペトロや、ユダのように、裏切っていく。神の愛に愛に応えていないというだけでなく、神がこの世界において創ってくださる愛の関係を壊そうとしている、壊している、それがここでの負い目、負債です。

 負債というのですから返済しなければならない。ところが私たちの持っているお金では返済しきれない負債なのです。負債に見合う返済額があまりに膨大で返済しきれないのです。もし仮に、わたしたちが神に対して、負債を負っているとして返済できているとか、返済計画が立っており、後1年で返済、ということなら、赦してください、とは祈らない。祈る必要はない。ただ着実に返済していけばいいのです。しかしここで負い目を赦してください、負債を赦してください、と祈るのは、返済しきれない負債を相手に負っているということです。返済できないということを知っている人の祈りなのです。返しきれない負債を神に負っている。だから赦してください、という祈りなのです。

 しかし、と思う人がいるかもしれません。わたしたちの罪はイエス・キリストの十字架によって負われ、裁かれ、赦されたのではないか。この主の祈りを祈っている段階では主イエスはまだ十字架にはかかっておられないけれど、主イエスはもちろん十字架を視野に入れて、ご自分の十字架によって罪を負う人々のためにこの言葉を語っておられる。つまり主イエスは十字架によって罪許されるものに対して、この祈りを祈り続けよと言っておられる。そのことを疑問に思う人がいるかもしれません。既に赦されているのに、赦してください、と祈り続けるのですか、と思う人もいるでしょう。確かにそうなのです。わたしたちの罪は、わたしたちの負い目は、負債は、キリストによって負われたのです。キリストによって赦されたのです。

 ではなぜこの祈りを祈りなさい、と主は言われるのか。

 それは、わたしたちがこの莫大な負い目、負債があることも、その負債が赦されていることも忘れてしまう存在だからです。

 マタイによる福音書の18章に主イエスのたとえ話が書き記されています。そのたとえ話は、ある王様に莫大な借金をしている家来がいて、返済できなかった、という話が語られています。自分の妻も、子ども、また持ち物も全部売って返済しなさいと家来は命じられる。所有物はもちろん、妻も子供も奴隷として売って、返済しろ、ということでしょう。ところが家来は、待ってください、きっと全部お返しします、とできそうもない言葉を並べて王に願うのです。すると王はなんと、その家来を赦し、借金を全て帳消しにしてやったのです。驚くような話です。

 ところがその家来は帰り道に、金を貸していた仲間に逢うと首を絞めて「金を返せ」という。待ってくれという仲間の頼みも聞かず、牢に入れてしまうのです。

 その一部始終を見ていた仲間たちが王にこのことを報告すると、王は家来を呼び、「不届きな家来だ」と言って怒るのです。お前の借金を全て帳消しにして赦してやった。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」そう王に言われこの家来は牢に入れられた、というたとえ話です。主の祈りを読んだ後にこのたとえ話を読むと、このたとえ話が言わんとしていることが、胸に突き刺さってくるのです。これはいったい誰のために語られたたとえ話なのでしょうか。

 わたしたちは莫大な負債を神に対して負っているものです。負い目を持っている。にもかかわらず神は独り子をわたしたちのために与えて、その負い目を、負債を負って、わたしたちの負債を全て帳消しにしてくださった。にもかかわらず、わたしたちはそのことを忘れて生きているのです。忘れて、小さな負債を赦せずに、赦さないで生きていることもすくなくないのです。

 12節の後半部分を読むと、わたしたちはこの言葉をすぐにはのみ込めない違和感を覚えます。赦しましたように、と過去形になっているからです。まるで赦したことが、赦されることの条件のようにも読めるからです。ルカによる福音書の同じ個所を見ると、「わたしたちも自分の負い目のある人を皆赦しますから」と将来に向けての決意をあらわす文章になっています。これなら、と思う人は少なくないのですが、マタイではあくまで過去形になっています。それぞれの伝承があったということですが、わたしたちは今、マタイによる福音書を通して、主のみ旨に聞いていくなら、12節の前半と後半の関係は、確かに難しい。しかし先ほども申し上げたように、この言葉は、十字架によって罪赦される者に向かって語られた祈りの言葉なのです。赦されているのに、その赦しの大きさを、豊かさを、忘れてしまうわたしたち。そのわたしたちに「赦してください」と祈るように言われた主イエス。それは、あなたの赦しを、日々信じる者とさせてください、受け取る者とさせてください、という祈りです。そして12節後半の言葉の前に立つのです。誰も「赦しましたように」とは言えない現実を抱えていたり、違和感を覚えていたりするのです。そういうわたしたちの現実の中で、赦してください、と祈り続けるのです。それはキリストに赦されている自分を受けとり、その赦しの中で、自分の現実を生きるためなのです。

 自分が赦されているものをあることを知った時こそ、人は赦しへと向かう存在になるからです。12節の前半と後半のギャップを、キリストはご存じないはずはなかったでしょう。しかしキリストはそれを承知の上で、なおこの祈りを祈るようわたしたちを招いた。それは赦されて生きるということと、赦して生きるということがわたしたちにとって生涯にわたる課題であり、葛藤や悩みを抱えつつ、人生の大事をキリストの赦しの中で生きていきなさい、という呼びかけがこの祈りに込められている、ということなのです。