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マタイによる福音書連続講解説教

2023.10.22.聖霊降臨節第22主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章13節『 悪より救い出してください 』

菅原 力牧師

 今朝はマタイによる福音書の主の祈りの第六の祈願、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」にご一緒に聞き、神を礼拝してまいりたいと思います。

 わたしたちが礼拝で祈っています、主の祈りでは「我等をこころみに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」となっていて、これは今日の聖書箇所の文語訳そのままです。ただ、こころみに遭わせず、という試みの言葉は、現代では試しにやってみること、という意味になってきて、聖書が語っている意味とは変化してきています。ここでいう試みとは、新共同訳聖書にあるように、「誘惑」という意味です。あるいは「試練」という意味です。

 試練とか、誘惑とか、そもそもどういう内容を持った言葉なのでしょうか。最近はそうではないのかもしれませんが、かつて「試練」という言葉は教会の中でよく使われた言葉の一つでした。これこれの経験はわたしにとって大変な経験で、一つの試練だった、とか、病気になったことも今思うと、わたしにとって神が与えた試練の時だった、という具合に。つまり試練というのは、何らか教育的訓練の時、経験、というような理解です。一方、誘惑と言えばよくないことに誘い込まれていくこと、という否定的な理解をする人がいます。けれど、いったい何が試練で、何が誘惑か、ということになると、この二つを区別、識別することは実のところ難しいのです。

 あの苦しみは自分にとって試練だった、と言っている人も、苦しみを乗り越えて自分のことをいささかでも誇り始めると、その人は誘惑にさらされている、と言っていい。聖書はそうした人間の現実を問題にしていく。

 主イエス・キリストがここで祈っておられる誘惑とは一体何のことでしょうか。最初に結論を言えば、ここでキリストが言われている誘惑とは、わたしたちが神に従わず、神から離れて生きるように誘うもの全部です。

 誘惑という言葉は、わたしたちの日常でもいろいろな形で使います。別に深刻なものだけでなく、たとえば、お店の前を通って、つい甘いものの誘惑に負けて、ケーキを衝動買いしてしまった、というように。

 誘惑というのは、ここでは、神に従わず、神から離れて生きるように誘いこむもの、だから、どんな小さなことでも誘惑となるのです。例えば苦しむことで、困難に直面することで、神に従わなくなることもあるでしょうし、幸せで、順調にいっているから神から離れていくこともあるのです。すべてがうまくいっていることで神に従わなくなることもある。だから誘惑というのは、なんでも誘惑になると言えばいえるのです。

 聖書を読まなくなる、それは普通に考えて、神から離れていく誘惑と言えます。しかし聖書を読んでいれば、誘惑から免れるかと言えば、自分の都合に合わせて理解したり、自分の気に入ったところだけつまみ食いのように聞いているのであれば、それは神に聞くのではなく、自分の思いに聞くことになり、神に従うことから離れていく誘惑の中にあると言えるのです。

 誘惑というのはわたしたちの日常のどこにでも、どういう形ででも存在している。いやもっと言えば、わたしたちが生きるということは誘惑の中で、誘惑ずぶずぶの中で生きているともいえるのです。

 しかしそうだとして、この主の祈られた祈りの第六祈願は不思議です。「わたしたちを誘惑に遭わせず」と祈るのですが、わたしたちは誘惑の中でずぶずぶで生きているのですから、誘惑に遭わせずというのは、誘惑のない世界に連れていってください、というような祈りなのでしょうか。しかし、そもそも誘惑のない世界などというものがあるのでしょうか。なぜなら誘惑は自分の外からやって来るだけでなく、自分の内からやってくるからです。つまり誘惑はわたしが生きている限り、ずっとあり続けるものなのです。それなのに、「誘惑に遭わせず」にと祈る祈りはいったい何を祈っているのでしょうか。

 あらためて、この祈り、誘惑に打ち勝つものにしてください、ではないことに気づいてください。誘惑に遭ってもそれに打ち勝つ強い信仰を与えてください、でもないのです。

 どうしてなのでしょうか。わたしたちが誘惑に取り囲まれ、外にもうちにも誘惑があるのなら、誘惑に打ち勝つ信仰こそ、求められているのではないのか。これではあまりに消極的のようにも聞こえます。信仰も経験を積んで、鍛えられていくのなら、百戦錬磨とは言わないまでも、多少の誘惑なら打ち負かすことができるようになる、そう信じて、そういう信仰を与えてください、と祈ってもいいし、祈るべきではないのか。けれど、この主イエスの祈りは、そうは祈ってはいない。ただ、誘惑に遭わせないでください、と祈っているのです。どうしてそういう祈りではないでしょう。

 それは、結論から言うと、わたしたちが誘惑に打ち勝つ信仰など持てないからです。そういう信仰はわたしたちには不可能だからです。信仰が深まれば誘惑に打ち勝つことも可能だと思っている人がいますが、それは誤解です。その人の思い込みです。ある人がいうように、わたしたちは誘惑に、負ける。自分で誘惑に打ち勝ったと思っていること自体、誘惑の力に引きずり込まれている、ということなのです。誘惑に打ち勝ったと思わせること、それが悪魔の高等戦術ともいえるのです。

 イエス・キリストの公の生涯を福音書においてみる時、その最初と最後が誘惑との戦いであったことに改めて驚かされます。主の公の生涯は、荒れ野の誘惑で始まりました。それは悪魔とのバトルでした。そして生涯の最後、十字架の直前には、ゲツセマネの出来事が記されています。それは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という誘惑との戦いの中の祈りだったのです。

 荒れ野の誘惑からゲツセマネ、それは最初と最後が誘惑の時だった、ということではないでしょう。主イエス・キリストの生涯においても、絶えず誘惑に晒され続けていた、ということに他ならない。イエス・キリストの生涯が、誘惑の中にあったということは、人が生きるということ、この地上にあって、人の子として生きるということはすなわち、誘惑の中を生きるということだ、ということです。キリストが人の子になってこの世界を生きられたということはわたしと同じように誘惑の中で生きる者となってくださったということです。それがキリストご自身が誘惑の中で生きるわたしを負ってくださった、ということであるとともに、わたしたちが気づかずに通り過ぎている誘惑との戦いをわたしたちに見せてくださっている、ということでもあります。わたしたちはしばしば誘惑に出会っていることにも気づかず、知らぬ間に誘惑に敗北している、まさに瞬殺されていて、切られたことにも気づかない。その誘惑との戦いをキリストは生きて、わたしたちにその身を通して、示してくださった。

 だからある人はこの主イエスの祈りの第六祈願は、悲鳴だ、と言いました。悲鳴なのです。誘惑に遭わせないでください、誘惑の深みに引き入れないでください、お願いです、という悲鳴の祈りなのです。

 なぜならわたしたちに取って生きることそのものはすでに誘惑の連続なのですから。楽しいことも、苦しいことも、平凡な日常も、どれもこれも、わたしたちにとっては誘惑になるのです。そして誘惑には、わたしは負け続けるのですから。連戦連敗。じゃあわたしはいったいどうしたらいいんだ、そういう悲鳴なのです。それがこの祈りの中にあるのです。悲鳴と呻きがあるのです。

 しかしこの祈りは、悲鳴で終わるのではない。神に向かってたとえ悲鳴であっても祈れるのなら、それはただ悲鳴では終わらない。この祈りは、「悪いものから救ってください」と続くのです。悪いものとは、悪魔、サタン、悪、その力が働いて、わたしのうちにあるものと相俟って、誘惑に敗北していくのです。  

 主イエスが十字架にかかる直前、弟子のペトロに、あなたはサタンの誘惑を受ける、と言った後こう言われる。「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ここで主イエスはペトロが誘惑に遭って、その誘惑に打ち倒されてしまうことを前提にして語っています。誘惑に負けることが必至のこととして語られている。だから、誘惑に打ち倒されたあなたのために信仰がなくならないように祈っている、と語ってくださっているのです。そして、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい、と言われているのです。ここでキリストが言われているペトロの誘惑というのは、キリストを裏切る、キリストのことを知らないと三度否認する、あの誘惑ですよ。小さなことではない。その誘惑にペトロがあっさり負けて、打ち倒されていくことを必至なものとしてキリストは受けとめておられる。そして誘惑に負けていくペトロのために祈っている、と言われる。

 ここを読むと、悪魔の力のすさまじさを感じる。と同時に、誰より信仰熱心なペトロですら誘惑に引き込まれていく力のすさまじさも感じるのです。ペトロは誘惑の前で完敗しています。しかしキリストはペトロが誘惑に打ち倒されても、彼を見棄てない。ペトロがキリストを見棄てても、キリストはペトロを見棄てず、彼のために祈り続けてくださる。わたしたちは、ペトロのように誘惑に打ち倒されても、なおそこで祈ることができる。神に悲鳴を上げることも、悪から救い出してください、と祈ることもできる。そしてそこで、主イエス・キリストがわたしのために祈ってくださっていることも知ることが許される。キリストの祈りの中にある自分を受けとるのです。キリストに負っていただいている自分を知るのです。誘惑に完敗しても、立ち直って歩みだしていく道が示されているのです。わたしたちがキリスト教信仰に生きるとは、誘惑に負けない強い自分になることではないし、それは無理なことです。そして人間が自由なものとして生かされている以上誘惑が絶え間なくあることも必死なことです。しかしそのただ中で、わたしたちは主イエスと共にこの祈りを祈るのです。そして誘惑に打ち倒されて尚、主と共に、主の導きの中で活かされていく道を与えられていくのです。

 誘惑に負けてなお、キリストと共に生きる、それこそが、悪魔が最も忌み嫌うことであり、神の悦び給う道であると思うのです。