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マタイによる福音書連続講解説教

2023.10.29.聖霊降臨節第23主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章14-15節『 神の赦し 』

菅原 力牧師

 マタイによる福音書によって「主の祈り」に聞き続けてきました。マタイ福音書の主の祈りは祈りそのものとしては、13節で終わりです。しかし主は祈りの最後に、あえて14節15節の言葉を主イエスの言葉としてマタイは記しています。主の祈りは、ルカによる福音書にも記されています。しかしルカとマタイとではもちろん重なる部分も多くあるのですが、細部はいろいろ違っています。今日読んだ14節15節はルカにはありません。おそらく、マタイはマタイ独自の伝承を持っていて、それがここに記されている、ということであり、マタイはこの主イエスの言葉を大事なものとして受けとめていた、ということに他なりません。しかもこの2節が主の祈りの直後にある、ということは、この14節、15節の主イエスの言葉が、主の祈り全体の理解に関わる言葉だと、伝承は伝えているとマタイは受けとめ、書き記したのです。

 さて、主の祈りをもう一度振り返っておきたいのですが、最初に主は、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけられます。祈りは呼びかけで始まっている。そしてそれは父よ、アバ、パパ、という呼びかけでした。親密な、愛情に満ちた関係の中で、呼びかけているのです。しかし言うまでもなく、神は天におられるのです。わたしたちを超えて、この世界を超えて、存在しておられる神。その神を父よ、とキリストのゆえにわたしたちも呼びかけることができる、そういう親密な関係へとわたしたちは招かれている、ということです。

 それに続けて「御国が来ますように。」と主は祈られます。これまで繰りかえし申し上げてきたように、主イエスの福音のメッセージは「悔い改めよ、天の国は近づいた」ということから始まりました。神の国、神の支配は近づいている、それが福音の内容でした。大事なことは、その言葉がただ始まりの言葉だ、ということにとどまらない、主イエスの言葉、わざ、行動、態度、その根本にあるものが、この最初のメッセージに込められている、ということなのです。天の国は近づいた、それは時間的な近さということではなく、神さまの約束なさる終末の時、救いの完成の時は必ず来る、というメッセージなのです。

 天の国は近づいた、と語られた主イエスは事実、天の国のたとえを数多く語られた。わたしたちはこの福音書で天の国のことを聞くのだ、と言ってもいいのです。マタイ福音書の25章には主が語られた天の国のたとえがあり、そこでは、主人が僕たちに自分の財産を預けた話が語られていました。あるものには五タラントン、ある者には二タラントン、また別のものには一タラントン預けて旅に出たのでした。そしてその預けた主人が帰ってくるという話でした。それは、この世界を創造した神が人間に多くのものを託して委ねておられるが、やがて神が来られて清算の時が始まる、という物語でした。

 このタラントンのたとえと呼ばれる話は、いろいろな視点から見ることのできるたとえですが、このたとえで決定的なことは、主人は必ずやってくる、ということです。清算の時が始まるということは、神が決着をつける救いの完成の時、約束の時は必ず来る、ということです。そしてわたしたちはそれまでの時を、主人から託されたこの時と財を十分に生かして、約束の時を仰ぎ見つつ生きよ、ということになるでしょう。

 実際、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」、というあの祈りは、あなたのみ心をこの地上で行う器としてください、という祈りだと、申し上げましたが、たとえに即して言えば、託されたものを、託してくださった主人の意志に従って、与えられたものを用いて生きる者としてください、という祈りです。そうすると主の祈りの全体の構造がはっきりしてくるのです。

 天の国がやがて来るその時まで、わたしたちを神の御心に聞き続け、御心に従って歩む者とさせてください、ということが主の祈りの骨格です。

 つまりこの祈りは、終末の完成を仰ぎ見る信仰において祈られる祈りで、このことを欠いて、この祈りの真意を受けとることはできない、ということなのです。

 続く「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、神さまから今日生きるのに必要な、パン、今日生きていくのに必要ないのちの糧をいただいて、あなたのみ心に従って歩ませてください、と祈る祈りなのです。終末の完成を仰ぎ見る視点と、今日を生きる視点、それがこの祈りに込められているものです。必要な糧とは、み言葉です。神の御心である主イエスの言葉に聞きながら、自分に託されたものを活かして生きる。と同時に、必要な糧とは、終末を仰ぎ見る信仰のことでもあります。神が終わりの時に、救いを完成してくださる、それだからこそ、今日一日を生きる、ということです。

 キリストが福音書でなさった業、罪人を赦し、病人を癒し、失われたものを探し出し、罪人ともに食事をされる、それらはすべて、到来する神の国のしるしであり、前兆なのです。まさしくキリストご自身が、御心が行われるように、地の上で福音を宣べ伝え、祈り、奇跡をなさり、行動したのです。

 終末の救いの完成を仰ぎ見る、終末においでくださる神を仰ぐ、そこからこの主の祈りは始まっていると言っていいのです。

 そのことを受けとめつつ、受けとめながら、この祈りを祈ることで、主の祈りの方向性は定まってくるのです。

 今日の聖書箇所は「もし人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方をお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しにならない。」

 この主の言葉はただ額面通り読めば、あなたが赦すなら、神もあなた方を赦す、もし赦さないなら、神も赦さない、という話です。しかし本当に額面通りなら、それだけの意味なら、わたしたちは立ち往生してしまいます。

 この言葉の背後には終末の主の救いの完成を仰ぎ見ている主イエスがおられます。終末において神はわたしたちの救いを完成してくださる。終末はまた神の全き赦しが示される。神は人と共に住み、人は神の民となる。彼らの目の涙をことごとく拭われる。なぜ終末は神の全き赦しが与えられるのか。それはイエス・キリストの十字架が、終末のしるしだからです。予表、予め現わしているものだからです。十字架においてわたしたちの罪は担われ、赦された、まさに終末はその十字架の赦しが完全な形で、十全な形で顕わになり、現実となるのです。終末は神がイエス・キリストの十字架において現れた赦しが、全き形で具現され現実となる、そのことが終末の約束です。その神の恵みの成就の時を仰ぎ見ながら、わたしたちは、一日一日を生きる。そこでこの言葉も聞くのです。神の終末の大きな愛と赦しの中に招き入れられることを受けとめ、あなたは人を赦しなさい。神の赦しへと招き入れられることを受けとめながら、この地上の生を生きなさい。神はわたしたちを全き赦しの中に招き入れてくださるのだから。

 もう一つ大事なことがあります。それは、主イエス・キリストのこの言葉は、わたしたち人間の姿を知っておられる方の言葉だということです。先週の説教でも聞いたように、キリストはペトロの誘惑の中で弱さを知っておられました。誘惑に打ち負かされるペトロのこと、そういうところもあるというのではなく、そういう存在であるということをよくよく知っておられました。そのキリストがわたしたちに赦しなさい、と言われるのです。その赦しがいかに破れ多く、中途半端な赦しであり、赦せないものを抱えながらの赦しであるかを、キリストは知っておられます。それでもいい、それでもいいから、赦しに向かっていきなさい、と言われるのです。今ここで赦しなさい、と言われるイエス・キリストは、わたしたち一人一人の罪を負って、その罪の赦しのために十字架にかかられたキリストです。だからキリストここで、わたしたちに向かって、あなたは赦しの中にあり、そして天の国においては、全き赦しの中に置かれるものなのだから、赦しに向かって歩んでいきなさい、と語りかけてくださっているのです。「もし赦さないなら、あなた方の父もあなた方の過ちをお赦しにならない」というのは、脅しの言葉ではない。キリストたとえ話によくある、強い呼びかけなのです。

 赦しとは、愛と言い換えていいことです。愛する関係を生きる者となりなさい、ということです。あのタラントンのたとえでいうなら、わたしたちは主人から多くのものを託されている。その最も大きなものが人を愛すること、人と共に愛の関係の中に生きること、なのです。それを活かして用いて歩んでいきなさい。なぜならあなたはキリストに愛されているのだから。キリストの十字架の信実な愛の中にあるのだから。そしてキリストの十字架によって予表された、神の国の救いの完成、それは神の愛の全き現実、あなたはその中へと招き入れられる。だから、あなたは、愛の関係を形づくりながら生きていきなさい、赦すものとして歩んでいきなさい、それを、主の祈りを祈りながら、生きていきなさい、イエス・キリストはわたしたち一人一人にそう語りかけておられるのです。