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マタイによる福音書連続講解説教

2023.11.5.聖徒の日礼拝式説教

聖書:ヨハネの黙示録21章1-8節『 すべての涙が拭い去られるとき 』

菅原 力牧師

 2023年の聖徒の日を迎えました。これまでも何度かお話ししてきたように、聖徒というのは、イエス・キリストの恵みと信実によってキリストに繋がれ、神の僕とされた人のことです。地上の生涯においてキリストに出会い、神の僕とされた者たち。そして地上の生涯を終えて、神のみ許に召された聖徒たち。その方々を覚えて、神を礼拝する。わたしたちの教会も昨年から今年にかけて、3人の方々を神のみ許にお送りしています。またそのほか、先に召された多くの先達を覚えて、祈り、神を礼拝したいと思うのです。けれども聖徒の日というのは、ただ地上の生涯を終えた方々を記念する日なのではない。今地上生きて、キリストに繋がれ、神の僕とされた者は皆聖徒なのです。とすれば、すでに地上の生涯を終えて神のみ許にある聖徒たちと、地上を今生きる聖徒たちが、共に神のみ前にあって、神の約束の言葉に聞き、神の救いのみ言葉を聞き、神に感謝し、神を讃美する、それこそが聖徒の日なのです。

 さて、聖徒の日にわたしたちが共に聞くみ言葉は、ヨハネの黙示録21章のみ言葉です。ここには、まさに地上の生涯を終えた者たちにも、地上を今生きる者たちにもともに与えられている、神の約束のみ言葉が語られているのです。聖徒の日にこそ共にこのみ言葉の前に立ちたい、そういうみ言葉なのです。

 黙示というのは、キリスト教以外でも使われる言葉ですが、聖書でいう黙示とは啓示ということで、隠されていた信実を神が顕わにすること、という意味で使われる言葉です。このヨハネの黙示録では隠されていることとは、終末のこと、終末のさらに向こう、その信実を神があらわにするということです。黙示は旧約聖書の時代にもさまざまな形であったのですが、ヨハネの黙示録は最大、最深の黙示録なのです。

 黙示録の著者はヨハネという人物なのですが、一般的な意味で著者というよりも自分が神によって見せていただいた、聞かせていただいたものを書き記した、というべき書物なのです。その意味では旧約聖書の預言書の系列に属するものともいえるかもしれません。ヨハネは次から次へと将来の光景を神によって見せていただく。その最後に見聞きする光景が、御声が黙示録の21章22章に描かれているのです。

 「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった。」ヨハネはこれまでもたくさんの光景を見聞きしてきました。しかしここで彼が経験するのは、まったく新しいことです。なぜならここで最初の天と最初の地は去っていった、というのです。最初の天と最初の地とは、今わたしたちが暮らしている地、これまで人類が、被造物が歴史を刻んできたこの地上のことです。この天と地が去っていったというのです。そして全く新しい天と地が現れているのをヨハネは見たのです。それは誰も知らない、誰も経験したことのない、光景です。もはや海もなくなったというのは、象徴的な言語なのですが、海とは人間を誘惑したり怖れへと突き落とす獣が生まれてくる場所なのですが、その海もなくなったというのです。そして聖なる都、新しいエルサレムが天から下って来るのを見たのです。新しいエルサレムというのは、今あるエルサレムとは全く無縁の神の都です。そして天の玉座から語りかけを聞くのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

 

 万物の更新、新たな創造が起こるという。そしてそこに新しいエルサレム、神の都が降ってくる。その都では住まいがあり、神が人と共に住む、というのです。人は神の民となり、神は人と共に在り続け、人間の神であり続けてくださる、というのです。それがヨハネの見た終末の光景です。

 終末という日本語では語弊があるかもしれません。終末はたんなる終わりです。しかし黙示録が語っているのは、最初の天と地が去るという終末と、その後はじまる新しい創造の光景であり、神の約束される新しいエルサレムなのです。そこは、神が人と共にいてくださるのだ、と語られる。わたしたちは、聖書を通してインマヌエルの神を知らされている。神我らと共に、ということを知らされてきている。だがここでヨハネが見た光景は、その「共に」ということがすべて満たされ、現実そのもの、存在そのものが神と共に在って、「共に」がすべて満たされていく光景なのです。神はわたしたちの神であり続け、わたしたちの目の涙をことごとく拭い去ってくださるのです。

 わたしたちの地上の生は、悲しみや、苦しみ、叫び、そして別れ、死、のある世界です。それらは避けようもなくやってくる。理由のわからないつらい出来事も経験していく。不可解なことにも取り囲まれている。6節にあるように生きることは渇くこと。何に渇いているのかもわからず渇いていることも少なくない。

 そして涙。その涙がすべて拭い去られる、それは死も、悲しみも、嘆きも、労苦もない、それが新しいエルサレムだというのです。最初の地は過ぎ去った。わたしたちが経験しているこの時間を舞台とする世界は過ぎ去ったというのです。

 また玉座からの声が聞こえる。「見よ、わたしは万物を新しくする。」おそらく多くの人は、涙が拭い去られ、死も、苦しみも、嘆きもない世界、は想像できない。実感がないし、わからない、と思う人は多いでしょう。ヨハネ自身理化しつつ、わかりながらこの光景を見ているわけではないでしょう。呆気にとられながらも、しかし神が見せてくださる光景を目に記憶させていたのでしょう。声の主は、おそらくは神で、ヨハネはこの時始めダイレクトに神の声を聞くのですが、万物を新しくする、つまり新たな創造をおこなう、というのです。つまりヨハネが見ている光景、新しい天と新しい地は、新しいエルサレムは神の新たな創造によるものだ、というのです。

 神は死も苦しみも嘆きもあるこの世界にイエス・キリストを与えてくださった。そして、苦しむ人間と共に歩み、人間の苦しみも嘆きも、死も担ってくださり、十字架にかかり、罪を担い、負い、贖ってくださった。そして神は、キリストを死から甦らせて、復活させられた。

 キリストの十字架と復活は、わたしたちは救いであり、贖いです。しかしそれは同時に、約束の出来事と言っていい。事実わたしたちは罪赦されたものとして、罪の中にいる。復活の体を生きているわけではない。わたしたちは地上の生を生きて、皆死んでいく。しかしキリストの復活によって、新しいエルサレムにおいて、わたしたちはキリストの復活と同じ形に変えられる。わたしたちも神によって新たにされる。それが万物を新しくするということです。そしてそれは救いの完成ということなのです。

 「書き記せ、これらの言葉は信頼でき、また真実である。」「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得るものは、これらのものを受け継ぐ。わたしはそのものの神になり、そのものはわたしの子となる。」

 ヨハネは自分が今見ている光景を十分に理解するとか、わかる、ということはなかったでしょう。ただヨハネは、この歴史は初めがあり、終わりがあることを知らされていたでしょうし、神がこの世界を創り、また神がこの世界を終わらせるということも知っていた。そして神が与えてくださる約束の世界があることも知っていた。けれど、それがどんな世界で、どんなものなのか、もちろん知る由もなかった。確かにヨハネは約束の光景を見聞きしたのです。だがそれは今ある地上の世界を見聞きするのとはわけが違う。未知の世界だからです。足を踏み入れたことのない場所だからです。神の幕屋と言って、それがどんな建物なのか、ヨハネは知らない。ただヨハネは新しいエルサレムで神と共に在ることを知らされたのです。すべての苦しみ悲しみから解き放たれて、神と共に在る世界。すべての苦しみからと言えば、自分自身の罪からも解き放たれる世界。それが想像できないのです。罪から自由なわたし、それはわたしたちには今、この地上で生きるかぎり、わからない。それはちょうど時間の中で、時間に拘束され、時間に追い回されて生きているわたしに、時間のない世界が想像できないように、実は私たちは、ヨハネの黙示録の語る将来はわからないことに満ちている。

 しかしそうであってもいいのです。「わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる」という言葉を信じて、その約束の言葉を信じて、地上の世界を生きればいい。すでにイエス・キリストにおいて、わたしたちは神が救いを与えて下さっている恵みの中にいます。その恵みの完成の時があることを仰ぎ見て、神との全き共存、共にある喜びの世界を仰ぎ見て、歩んでいけばいい。8節の言葉は誤解されやすい言葉ですが、脅しの言葉ではなく、この将来の約束の言葉を信じて歩む者は、臆病なものにも、不信仰なものにも、忌まわしいものになるのではなく、歩んでいけるのだ、という励ましの言葉なのです。

 わたしたちが地上の生の終わりが、終わりなのではない、ということは知っています。戦争が度重なり、地震が起き、飢饉も騒乱も絶え間ない。しかしだからと言ってそれが世界の終わりなのではない。終わりは神が与えるものだからです。そしてその終わりの向こうに、神が与えられる約束の世界がある、わたしたちキリスト者はそのことの証人なのです。すでに地上の生涯を終えて、神のみ許にある一人一人、その人々もまたこの神と共に在る約束の世界を待ち望み、招かれている。わたしたちは神のみ許にある聖徒たちと共に、この約束の言葉、約束の世界を信じ仰ぎ見て、今を生き、希望のうちに歩んでいきたいと願うのです。