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マタイによる福音書連続講解説教

2023.11.12.降誕前第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章16-18節『 隠れたことを見ておられる方 』

菅原 力牧師

 マタイによる福音書6章の前半には大きく言えば三つのことが語られています。順に、施しの話、祈りの話、断食の話です。祈りの部分で主イエスの祈りについて教えておられる「主の祈り」が間に入っているので、そこが膨らんでいるのですが、この三つのテーマは均整の取れた構成になっているのです。施しと、祈りと、断食。これらはユダヤ教において大事に行われていた、よきこと、信仰者の宗教的な実践でした。

 もちろんこれ以外にもさまざまな宗教的な実践はあるわけですが、この三つを主イエスは取り上げて、弟子たちをはじめとする聴衆に語りかけられたのです。この三つのことに関して、主は同じことを繰り返し語っておられます。つまりわたしたちは同じことをもう既に二度、聞いている。今日の聖書箇所が三度目なのです。6章の1節で、主はこう言われました。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」この文章の直訳は、「自分の義を人々の前で見せようとして、行うことのないように」という文章で、善行というのは、義という言葉だというお話を、以前申し上げました。自分の義、自分の正しさを人に見せようとする、これをわたしたちはどんなに形を変えて行っているか、というお話もしました。確かに施しをするときに、ラッパを吹いて、わたしはこんなに施しをしました、という人は稀でしょう。しかしだからと言って、人の評価などまった顧慮しないかと言えば決してそうではなく、自分のしたことを誰かが見ていて、それを評価してくれたり、他の人に語ったりしたら、うれしかったり、まんざらでもなかったりするのです。以前も申し上げたように、良いことをして、それを見せびらかすようにして、自己宣伝をするのはいやらしいし、下品だ、と思う気持ちと、でもほんとのところ人からも評価されたいという気持ちの二つがわたしたちの中に混在している。しかも両方とも、人の視線を気にしている、という点で、同じことでもあるのです。

 さて、今日の聖書箇所なのですが、断食がテーマになっています。当時のユダヤ人の多くは、宗教的な実践として断食を行っていました。文字通り、その日は食を断つのです。断食するときに、主が言われるように、沈んだ顔つきをしたり、顔を見苦しくする人がいたようです。顔を見苦しくするというのは、顔を隠すという言葉で、断食していることのアピールのしぐさだったようです。わたしはいま大変な思いをして断食しています、ということを人前で強調するのです。これはとても分かりやすいアピールの仕方です。ラッパを吹き鳴らすのと同様です。しかし、あらためて思うのは、どうして人に見られるように断食してはいけないのでしょうか。人の評価はそれぞれでしょうから、アピールしたいなら、好きなようにやったらいいとも思います。

 なぜ人に見せようとして断食したらいけないのでしょうか。主イエスの言葉を続けて聞きます。

 「はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。」この言葉、施しの時も、祈りの時も出てきた言葉です。これで三度目。

 すでに報いを受けている。人前で、自分の義を示す、宗教的な実践をすることは、それに対する人の評価を受けて、報いを受けてしまう、というのです。報いとは報酬です。応報です。人からの報いを受けてしまうので、ダメだ、と言っておられるのです。

 そもそもここで言われる義とは、たんに自分の正義などではない。神さまと自分との関係における正しさ、義なのです。施しすることも、神さまから与えられている恵みに対する応答ですよ。祈りはまさに神さまの関係そのものであり、断食は神への悔い改め、というそれぞれ大事な神との関係における応答行為、でした。ところがその義を、人間の評価、人間の報いをまず受けてしまう、ということがここで問題になっているのです。

 「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。」ここで語られている頭に油をつけ、顔を洗う、と言った所作は普通の身だしなみということです。断食するからと言って、沈んだ顔つきをして、さらに顔を隠すしぐさを大げさにするのではなく、普段と変わらない状態で、普通に過ごしなさい、というのです。それは、隠れたところにおられる父なる神に見ていただくためだというのです。

 神との関係における応答行為として施し、祈り、断食であるにもかかわらず、人にアピールする行為として、行ってしまう。それもそうしようというより、気づいたらそうしている。それは神との関係における応答行為だということを忘れてしまっていることに他ならない。だが、これは神への応答行為なんだ、とキリストは繰り返し語っておられるのです。施しのように、実際には人に対してする行為行動であっても、それはまさに神に向かってする行為だ。だから神からの報いより、人間からの評価、例えばお褒めの言葉というような報いを受けてしまったら、神からの報いを必要としなくなってしまう、というか人の報いを受けて、神からの報いを本当に真摯に求めないわたしになってしまうのです。人からの評価に一喜一憂して、人からの評価に終始する。人からの評価、ということの中には自分の評価も入っています。他人の評価に一喜一憂して、最後に自分で自分に言い聞かせるようにして、これで良しとしよう、という形で決着させて、本当に神からの報いを仰ぎ望むということがなくなってしまう。「あなた方に言っておく。彼らはすでに報いを受けている」という主の言葉の「既に受けている」という言葉は「領収書を書いてしまった」という言葉で、領収書を受けたということは、これで十分で、これ以上もう何も受けるものはない、ということなのです。

 しかしキリストが三度も繰り返しこの6章で語っているのは、神からの報いを受けなさい、ということです。人間の報いではなく、神の報いを受けなさいということです。そもそも、わたしたちはこの世に生まれて、「人生は報われるのか」という問題に行き当たるのです。わたしという人間が生きて、本当にこの人生において報われるのか、という問題です。

 偽善者という言葉が出てきます。これはもともとの意味は演技する人、という意味の言葉です。役者です。役者は自分を演じるのではなく、役柄を演じるのです。人がそれをどう見るか、観客がそれをどう評価するか、それこそが大事なことなのです。しかしそれが偽善だ、というのです。人がどう判断するか、観客がどう判断するかではなく、神がこのわたしをどう見ていてくださるのか、それこそが大事なことであり、そこに本当のわたしがいる、という自覚がこの言葉に込められている。神にわたしの視線が向いた時こそ、偽善から解き放たれるのだ、ということです。神はわたしの隠れたことを見ておられる方です。わたしの罪も悪も見ておられる。それが独り子イエス・キリストの十字架に繋がっているのです。わたしの罪も悪も、わたしではどうしようもない、と神が見ておられるからこそ、キリストはおいでくださったのです。十字架にかかられたのです。そのわたしの罪も悪も見ておられる方が、わたしたちに対して、「心の貧しい人々は、幸いである」とお語りくださったのでした。霊において貧しい者たちよ、悪の霊に取り憑かれて苦しんでいる者たちよ、自分の罪に絡み取られて苦しんでいる者たちよ、あなたたちは幸いだ、とキリストは語られたのです。天の国はその人たちのものだ、と語りかけてくださったのです。いま罪に苦しみ、悪にくるんでいる者たちよ、あなたたちが神の支配の中に入れられるのだ、そうわたしたちを見ていてくださるのです。隠れたことを見ておられる神の御心ですよ。

 その御心に聞くことそのものが父の報いなのです。そこでわたしはわたしを見出すのです。あなたという一人の罪人が、神の救いの御支配の中に入れられるのだ、ということを信じて聞くことそのことが報いなのです。それは逆説的ですが、どんな施しをしようが、どんな祈りをしようが、どれほどの断食をしようが、罪人であることには変わりなく、神の前では無一物、何も持たないもの、しかしそれにもかかわらず、神の支配に入れられるのです。それは人があなたを評価し、人があなたを報いるのとは全く違うのです。全然違うのです。

 この神の報いこそが「人生は報われるのか」というあの根本的な問いに対して、唯一、かつ信実に応え得る神からの報いなのです。

 わたしたちはこの神の報いをこそ受け、この報いを信じて生きるよう招かれているのです。神の報いが全き形で示されるのは、終末の時、終わりの時の向こうです。使徒パウロはフィリピの信徒への手紙でこういっているのです。「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものとなっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捉えられているからです。兄弟たち、わたし自身はすでにとらえたとは思っていません。為すべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」お与えになる賞、というのは、救いの完成ですよ。わたしたちが完全な形で救われる、その完成です。それこそ罪人にすぎないこのわたしの最大最高の報いです。わたしたちはその救いの時を仰ぎ見ながら、自分が何者であるかということを知らされながら、ひたすらに走り続けていく、歩み続けていく、それが人の報いではなく、神の報いを信じて地上の生を生きるわたしたちの歩みなのです。