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マタイによる福音書連続講解説教

2023.11.19.降誕前第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章19-24節『 富は天に積みなさい 』

菅原 力牧師

 今朝ご一緒に聞きますマタイによる福音書6章の19節から24節というのは新共同訳聖書がそうであるように、3つの部分から成り立っています。子細に見ればそれぞれポイントの違いがあるのですが、今朝はあえてここを1回で取り上げ、この箇所を貫いているものに思いを寄せながら聞いてまいりたいと思います。

 さて、19節から21節には地上に富を積んではならない、富は天に積みなさい、ということが語られています。これはとても有名な聖句で、ここだけ切り離すようにして、引用されたりもします。しかし、この主イエスの言葉が語っていることはいったいどういうことなのでしょうか。素朴な問いとしては、なぜ地上に富を積んではいけないのか、貯金もするな、というようなことなのか、もしそうだとしたら、無茶苦茶な話じゃないか、という疑問です。もう一つは、天に富を積むってどういうこと。天はわたしたちの手の届かないところ、そこにどうやって、富を積むのか、という問いです。聖書を読むうえで、そうした素朴な問いはとても大事です。適当にわかったつもりで読むということにならないように、疑問に思ったことをその文脈の中で、さらにもっと広く前後の関係で、福音書全体において考えてみるということが大事です。

 なぜ地上に富を積んではならないのか、ここで主が言われているのは、「虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする」、ということです。おそらく高価な衣類に虫が食ったり、金属の宝物がさび付いたり、泥棒が入ったりということなのですが、古代の人たちには痛いほどよくわかる話でした。それは安全でない、不確かだ、ということなのでしょう。しかし安全でないから、もっと安全な方法を富を積め、ということなのでしょうか。

 ルカによる福音書の同じ事柄を扱った個所を見てみると、主はそこで短いたとえ話をしています。金持ちが豊作だったので、今の倉を潰して、もっと大きな倉を建て、そこに穀物や財産を仕舞った。そして自分に向かって、これで大丈夫だ、将来への備えができた、楽しもう、というのです。ところが神は「愚かな者よ、今夜、お前のいのちは取り上げられる。」と言われる、そういうたとえ話なのです。そして最後に主イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこの通りだ。」と言われたのです。このルカの話は、示唆深いと思います。

 

 何度も言うように、このマタイの5章から続く山上の説教は、主イエスの語る救い、福音に聞いた人たちに向かって語られている。どんなにわたしが罪の中にあっても、悪に絡み取られていても、あなたは幸いだ、天の国はあなたたちのものだ、そう語られた主の言葉は、ただイエス・キリストの信実によって救われる、というパウロの言葉と通底するものです。

 そのイエス・キリストによって救われる人々に向かって、主は「あなた方は地上に富を積んではならない」と命じられる。ここで主が言われる地上に富を積むというのは、自分のために富を積む、ということです。自分を守るため、自分を支えるため、地上に富を積む。そして富というものはいつも誘惑と絡み合っている。神に救われたと言っても結局自分の身は自分で守らなければならない、そのためには、自分の持てるものを自分にささげよ、という誘惑があるのです。実際、生きていくにはお金は必要だし、生活するためには経済的な支えがいるのです。しかし地上に富を積む生活は、その人を誘惑の中で、お金によって富によって支えられている自分という自覚へと導いていくのです。

 地上に富を積んではならない、これは命令形です。キリストからの命令なのです。命令ということはそうでなければ、知らぬ間に地上に富を積んでしまうということです。

 しかしだからと言って、天に富を積む、というのはどういうことなのか。確かに天はあるとしても、その天はわたしたちの手の届くものでも、身近な場所でもないのです。ここで主が言われているのは、天という何かある場所ではなく、神に対して、という信仰の事柄として語られているのでしょう。そして天に富を積むと言って、そのための特別な富があるわけでもないのです。この箇所を、善い行い、善行、と読む人もいます。地上で善行をすることが天に富を積むことになるのだ、という理解です。しかし、ここで富と語られていることはそうした特別のことではない。もともとわたしたちが今地上で手にしているものは、神から委ねられているもの、託されているものです。このからだも、時間も、いのちも、さまざまな力も、あのタラントンを主人から預けられた僕のように、莫大なものを、富を神から託されているのです。託されたものを託されたものとして受けとめる、これこそ信仰の行為、判断ですが、その自覚の中で、それを用いて生きる、日常の歩みを生きる、それが天に富を積む、ということです。特別なことは何もない。天から託されたものを、自分のものだと言って握りしめて、自分の所有物のようにして生きるのではなく、神から託されたものを感謝して、用いて生きる、神に感謝して、最後は全部お返しするものとして、生きるのです。それが天に富を積むことなのです。地上に富を積む生活、それはしばしば富に仕える生活になるのです。わたしたちはこの地上で生きる中で、実は日々問われているのです。それはわたしはどこに向かって、何に仕えて、今与えられているものすべてを誰によって与えられたのか、という根本的な事柄です。地上に富を積む生き方は与えられたもの、託されたものの自覚も奪います。これは託されたものではなく、自分が獲得したもの、自分のもの、そして自分のものをクローゼットに洋服がたまっていくように、ためていくのです。

 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」という主イエスの言葉は富を積む場所、天に積むのか地上に積むのか、ということについても語っていますが、そもそも富そのものを、自分で獲得したと受け取るのか、託されているものとして富と受け取るのか、問いかけている言葉なのです。

 22節から23節には目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、目が濁っていれば、全身が暗い、という言葉が出てきます。何を言っているのか、と思うのですが、ユダヤでは目というのは、もちろんいうまでも肉体の目という意味のほかに、その人の性格、人となり、品性、という意味がありました、

 そこから目が澄んでいるというのは、二心のない、ひたすらな、という意味が生まれ、さらに興味深いのは、「物惜しみしない」という意味があるのです。だからここで言われている目が澄んでいるというのは、前の話を受けて、神に対して、まっすぐな、ひたすらに託されたものを用いて、与えられた時間を、からだを、いのちを、神に向かって生きていく。特別な生活でなく、自分の日常、しかし、神に向かって歩んでいく生活、すなわち、天に富を積む生活、それを目が澄んでいる、と呼んでいるのです。それは神に対して、物惜しみのない態度、生き方、生活と言えるのです。その生活は、その人は明るいというのです。それは性質が明るいとか、楽しいということではない。神へと向かう歩みが、神からの光を受け、その人のうちからも光を放つということでしょう。

 「誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」

 24節の主の言葉は、思うほどにはわかりやす言葉ではない。誤解されやすい言葉です。なぜならわたしたちは、二人以上の主人に仕えることは普通にあるからです。ある時は会社の上司に仕え、あるときにはお金に仕え、ある時は自分の考え、自分の思いに仕え、またある時はほんの少しだけ神に仕え、という具合に二人以上の主人に仕えている。二人の主人に仕えることはできない、ということが実はよくわかっていない。

 

 しかしこの主の言葉の背景にあるのは、奴隷として主人に仕えていた人たちのことです。仕えるとは奴隷のことだからです。奴隷は二人の主人に仕えることはできないし、ありえない。自分の主人にひたすら服従するのです。一人の主人に仕えれば他の主人には背を向けるのです。当たり前のこと、誰もが知っていることでした。主イエスはそのことを語って、地上に富を積むことと天に宝を積むこととをさらに語っておられる。つまり地上に富を積む生活と天に富を積む生活とは、同時に成り立つようなものではない。地上に富を積むということは、天に背を向けることであって、二つは同時に、成り立つものではない、と言っているのです。奴隷は主人を選べないけれど、あなたは今どちらを選ぶのか、選ぶことができるし、選びなさい、決断しなさい、ということを語っているのです。

 誤解のないように言えば、天に富を積む生活をしたら、地上の富を使わない、という話ではないのです。地上の生活は富、お金と無縁の生活ではありえない。どんな時もお金はついて回ります。だからこそ富にはさまざまな誘惑があるということもお話ししました。大事なことは、わたしたちの生活の方向性です。どこに向かって生きていくのか。そして今自分に「託されているもの」、この託されているものという受け取りがすでに、信仰的な自覚です。託されているものを託されているものとして心から受け止めて、与えられた今を生きるのです。神への感謝と神の約束されている新しい天地を仰ぎ見て、生きるのです。その時地上の富はどうでもいいものとして扱われるのではない。地上の富を大事に用いられる。貯金もするでしょう。使うべきものに有効に使う。だがそれは地上に富を積む生活ではない。神に向かって神から託されたものを感謝して希望のうちに歩む時、それは天に富を積む歩みとなる。「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」そうです。天に富を積む時、わたしたちは、富に仕えるものではない、神に仕え、富を使い、富をも生かすものとなるのです。主イエスからの言葉に一人一人しっかりと聞き、与えられた人生を生きていきたいと思います。