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マタイによる福音書連続講解説教

2023.11.26.奉献礼拝式説教

聖書:ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節 『 身を献げられたキリスト 』

菅原 力牧師

 朗読されたガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロという人は、フィリピの信徒への手紙の中で自分のことをこう言っています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。」これはとても勢いのある文章です。ユダヤ人としては最高の出自、毛並みのよさ、エリート中のエリート、ということであり、ユダヤ教徒として、最高の教育を受け、律法の遵守は当然として、ユダヤ教に敵対するものとは、果敢に戦う、文字通り、模範的なユダヤ教徒としての自己紹介です。もともとユダヤ教は古代の多くの宗教がそうであったように、掟を守る、掟を実行する、ということが信仰の眼目でした。さらにユダヤ教という民族宗教においては、出身だとか、どの部族に属しているか、というような生まれ、育ちの環境が大事で、パウロはそのすべての点で、文句の付けようとないユダヤ教徒でした。パウロは自分の行為行動において、自負と自信をもって生きてきたのです。パウロは神を信じる人でしたが、その信仰は、自分の努力と実践力によって構成されていたのです。自己充足の人でした。

 そのパウロがある時、イエス・キリストの啓示を受けるのです。イエス・キリストの啓示とは、この方こそあなたのまことの救い主だ、という示し、それが神の働きによって知らされることに他なりません。パウロは驚く、というような言葉では表現しきれない、驚天動地の経験をします。そこで経験したことをパウロはこのガラテヤ書でも書いているのです。

 「わたしは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」これはキリストに出会う前の話を敢えて書いているのです。律法によって義とされる、自分がどれだけ掟を守ったかで、神からよしとされる、わたしはそういう義人だったというのです。16節以降新しい協会共同訳聖書の方を読みます。「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」人が義とされる、これは日本語からもわかるように、受け身の言葉です。受動態。自分で自分を義とするのではないのです。つまり義とされるのは、わたしではなく神によってです。自分ではない力、自分の外からの働きによって義とされる、ということです。それが新共同訳聖書のように「ただイエス・キリストへの信仰によって」と訳されていると、結局自分の信仰という行為行動によって義とされることになって、矛盾するのです。ここは、協会共同訳が訳しているように、「ただキリストの真実によるのだ」と訳して初めて意味が通るのです。パウロはそのことをこそここで語りたかった。自分の掟を守る行為行動、実践で義とされるのではない。ただイエス・キリストの真実によってだけ、わたしたちは神から義とされる、救われる、とここでパウロは語っているのです。そのイエス・キリストの真実、神の恵みを知って、わたしたちもイエス・キリストを信じました、とパウロは書き記したのです。

 わたしの行為行動、わたしの信仰が先にあるのではなく、まずキリスト・イエスの真実が与えられ、そのことによってわたしの信仰が生まれる、と言っているのです。これはパウロがこれまで経験してきた信仰とは全く違うものでした。自分の努力、自分の行為行動、自分の律法遵守行動態度、それこそが神に喜ばれる、神にふさわしい人間的な態度だと思ってきたのです。しかしキリストの啓示によって知らされたのは、あなたの行動実践がまず大事なのではない。むしろそういう在り方そのものが神の恵みを受けるのを邪魔している。

 決定的なことは、イエス・キリストの真実に何よりまず出会うこと、キリストのまことに出会い、その中に自分がすでにいることを感謝して受けることなのです。このガラテヤの信徒への手紙の背景には、ガラテヤの教会において、ユダヤ教的な信仰の受けとめ方に引き戻そうとする勢力がパウロの反対者として具体的に活動していました。だからパウロは自分の過去についても敢えてはっきりと語り、ガラテヤの信徒の人々に、イエス・キリストの真実から生きるよう呼び掛けているのです。

 19節「わたしは神に生きるために、律法によって律法に死にました。」神に生きるためにとは、キリストの信実によって、神に義とされて生きるということで、律法によって律法に死ぬというのは、キリストによって与えられた律法、これはある意味不思議な言い方ですが、パウロはあえてキリストが与えてくださる律法、つまり人は自分の立派な行動で神に義とされるのではなく、ただキリストの信実によって義とされるという律法、この律法によってユダヤ教の律法に対しては、死んだのだ、というのです。死んだとは、かつてパウロが一生懸命生きてきたそういう生き方を完全に終えて、死んだのだ、と言っているのです。「わたしはキリスト共に十字架につけられました」という文章はまさにそのことを語っているのです。それはユダヤの律法に生きる生き方に死んだ状態のことです。

 そして20節なのですが、後半から読んでいきます。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の子の真実によるものです。」そのユダヤ教律法に死んだわたしが、今こうしてこのからだ生きているのは、キリストの信実によるのだ、とパウロは語ります。キリストの信実とは何か、ということでパウロはここで端的に語っています。それは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の子、という言葉です。

 キリストの信実とは、キリストの愛だ、とパウロは言うのです。さらにその愛は、わたしのためにご自身をささげる愛だというのです。パウロはここでキリストの愛を受けたのはわたしだということを語ります。わたしという一人の人間、弱さや脆さや強さを持った一人の人間、しかしそれだけでない、神からの義を自分の努力や行為行動で勝ち得ることができると思うほどに傲慢な罪人。神の働きを払いのけてまで、自分の我の中で生きようとする罪人。律法を守ることで義人になれると思う罪人。そして罪の自分を自分ではどうしようもない罪人。キリストはこの罪人のわたしのもとに来てくださり、わたしと共に歩み、わたしの痛みや苦しみを負い、最後には罪人であることの重荷を全部背負って十字架にかかり、罪人の受ける罰を受けて、わたしに代わって死んでくださった。パウロはイエス・キリストの愛を知らされ、自分のためにその身を献げられたキリストの信実に打ち貫かれた。

 わたしたちはこの地上の歩みの中で、自分を愛してくれる人に出会ったら、それだけで幸いです。父や母、つれあいや友人、どんな人であれ、自分をまこと愛してくれる人にこの世界で出会った人は幸いです。愛されることで人は自分という存在が共にある存在であることを知らされていきます。

 パウロはイエス・キリストの愛に出会って、この愛が自分に仕え、自分の重荷を負い、自分のために、わたしのために身をささげる愛であることを知らされた。十字架に向かう愛の意志、贖罪死を負う愛の意志、パウロはこの方は自分のために身をささげて、わたしと共にいてくださる主、生も死も、共にい続けてくださる主であり、このわたしを活かしてくださる救い主だということを知ったのです。それがキリスト・イエスの信実です。この信実の中にわたしはいる。この信実の中でわたしは生き活かされている。

 20節の前半、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」これはキリストの信実の中にある自分を知ったパウロの言葉です。

 このわたしのうちに生きておられるキリスト、この方の信実がわたしの中で生きて働き、人間の信実(つまり人間の信仰)へと導くのです。

 21節「わたしは神の恵みを無駄にはしません。なぜなら、もし義が律法を通して得られるならば、キリストの死は無駄になってしまうからです。」神の恵みを無駄にはしない、ということは、キリストの信実を感謝のうちに受け、この信実に生き活かされる、ということで、神の義が人間の行動実践、宗教的な戒律遵守によって得られる、ということはあり得ないことだが、もしそうなら、キリストの信実は無駄になると最後に語るのです。

 今朝は主の日の礼拝を奉献礼拝として、神にささげています。奉献ということは、神に献げ奉るということで、献げるものはさまざまですが、今朝はとくに、わたしたちの教会が新たに設置したオルガンを神に献げて、いよいよわたしたちの教会が神を讃美し、ほめたたえていく群れとなるよう、祈りつつ神を礼拝に献げています。そこで大事なことは、わたしたちが献げるより前に、キリスト・イエスの信実がわたしに対してささげられているということです。このキリストの恵み、キリストの信実の中で活かされている自分に気づかされていくことの大事さを思います。そしてわたしのために身をささげるキリストに対して、わたしも神に、キリストに対して、自分の信実、信仰をささげ、身をささげていく。からだをささげていく。生活の全体をお献げしていく、それが神の恵みを無駄にしないことだということを心に深く受けとめていきたいと思います。