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教会暦・聖書日課による説教

2023.12.3.アドヴェント第1主日礼拝式説教

聖書:ヨハネによる福音書7章25-31節『 主の来臨の希望 』

菅原 力牧師

 2023年のアドヴェントを迎えました。今朝は日本基督教団の教会暦聖書日課によって示された聖書箇所にご一緒に聞いて、神を礼拝してまいりたいと思います。

 今日の聖書箇所はヨハネによる福音書7章のエルサレムでの場面です。なぜアドヴェントの第1主日に、この聖書箇所を読むよう教会は定めてきたのか、そのことも思いつつみ言葉に聞いてまいりたいと思います。

 「さて、エルサレムの人々の中には、次のように言う者たちがいた。」そういう始まりなのですが、これは少なくとも二つの意味が語られています。一つは、エルサレムの人々ということで、祭りのためにユダヤ全土からやってきた人々とは違うエルサレム在住の人々、ということ。もう一つは、エルサレムの人々の中にはということでエルサレムの多くの人々・群衆と敢えて分けて、数人の人々、を指しています。彼らは彼らなりのアンテナを持ち、エルサレムの支配層の意見も知りつつ、必ずしも支配層たちの意見に同調しているわけではない数人の人たちでした。

 当時、主イエスのことはエルサレムでもある程度の話題に上っていたのでしょう。当のイエスがエルサレムの町にきているのを見て、この人々は「これは、人々が殺そうと狙っている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当は認めたのではなかろうか。」

 議員と訳されている言葉は、支配者という言葉で、ユダヤの支配者層はイエスを捕らえるわけでもなく、ある意味手を出しかねていた。「本当に認めたのではなかろうか」という言葉は、支配者層はこの人が救い主だということは認めるはずもないのにね、というニュアンスの文章です。認めたのではなかろうか、という純粋な疑問文ではなく、ありえないよね、という否定形の文章です。

 そしてこのエルサレムの人々、自分たちなりの救い主論、つまりキリスト論を語るのです。それはどういうものかというと、「わたしたちはこの人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、誰も知らないはずだ。」この人たちはイエスに対して、たんなる風評とか、噂だけでなく、それなりの情報があった人たちのようで、イエスがどこの出身か知っている、というのです。それは単に生まれ故郷を知っている、というだけのことではなく、家族や兄弟、育った環境など、およそのことを知っていたのです。そもそもユダヤ人の多くは、ナザレのような辺境の場所からすぐれた人は出ない、とも思っていました。そして興味深いのは、救い主は、どこから来られるのか、誰も知らない、それがメシア(救い主)なのだ、という受けとめをしていたということです。神秘めいた理解があったのでしょう。本当のメシアは、登場した時にはじめてメシアということがわかるのだ、それ以外は誰も何も知らない、それがこの人たちの理解なのです。

 それに対して主は大きな声で応答されたことが記されています。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなた方はその方を知らない。わたしはその方のもとから来たものであり、その方がわたしをお遣わしになった。」主はエルサレムのこの数人の人々の話を聞いた。そして彼らがイエスのこと、情報として知っていることは分かったのです。だがそれは、地上の情報にすぎない。人間の知恵が考えた、人間の理解ですよ。このエルサレムの数人の人々というのが、どういう人たちなのか、わからない。しかしこの人たちが言っていることは、人間の考えた知恵です。自分たちが考え出したキリストのイメージです。どこの出身だとか、神秘のヴェールに隠されているだの。そういうことを全部含めてこの人々の考えは地上的です。しかし、主イエスここで、大きな声で語る。わたしは自分勝手に来たのではない。つまり自分から来たのではない、自分の考えで来たのではない。わたしをお遣わしになった方がいるのだ、この方の意志によってわたしはこの地上にきているのだ、と語るのです。

 「派遣」ということを主は語るのです。これは、人間の理屈ではない。地上のことでもない。お遣わしになった方、神から遣わされているのだ、ということを主イエスは語り始めるのです。天からの派遣です。イエスが地上に来られた、それは神の意志による、神からの派遣によるものなのだ、という地上を全く超えた、かつ地上へと働きかける神の意志について語るのです。この言葉は、エルサレムの人々にとって、不思議な、まるで分らない言葉だったのではないか。そういう回路がない、と言ってもいい。ヨハネ福音書では、この7章に至るまでに、すでにイエスを巡って、この方は誰なのだ、メシアなのか、という議論はいろいろな形でなされてきました。しかし議論がかみ合うというよりも、主イエスの言葉を聞いて、悪霊に取り憑かれているとか、こんなひどい話は聞いていられない、という人々が多く出てきました。このエルサレムでも、それほど事情が違うわけではない。ヨハネはそれらの出来事を通して、地上の人々は天上の話を、キリストへの信仰なくしては聞くことはできない、ということを物語っているのでしょう。人々は言うまでもなく、地上の話を、人間の知恵で、理屈で語ることはあっても、天から遣わされる、という話など、ひどい話だ、ということになってしまうのです。しかしこのヨハネによる福音書はまさにこの遣わされた方をはじめから語っているのです。

 「派遣」という言葉は、現代の日本語では独特の意味合いを帯びていますが、もともとギリシア語では遣わすという言葉は、派遣するものが自分の意に添うものに、委任し、働きを託し、送り出すことで、この言葉が使徒、という言葉になっていくのです。派遣というのは、使い走りというようなことではなく、派遣するものと派遣される者との信頼性の中で、大事な役割が担われていくことなのです。

 キリストはこの「遣わされる」という言葉をヨハネ福音書の中で繰り返し語っておられる。

 「神がお遣わしになったものを信じること、それが神の業である。」「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方のみ心をおこなおうとするからである。」「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方のみ心をおこなおうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているかわかるはずである。」イエス・キリストの自覚は、自分が遣わされたもので、お遣わしになった言葉、託された業、行動、それをお遣わしになった方の意志のままに語り行う。わたしを信じることは、わたしをお遣わしになった方を信じることであり、わたしを通して、お遣わしになった方を知るのだ、ということです。

 ここでキリストはこう言われる。「わたしをお遣わしになった方は眞實であるが、あなたたちはその方を知らない。」とても強い断定です。あなたたちはこの世の知恵や、知り得たことを、たくさん持っている。しかし、わたしをお遣わしになった方を知らない、と言われる。それは、主イエスを知ることなくして、主イエスをお遣わしになった方、父なる神を知ることは、ありえない、ということです。イエス・キリストがこの世界に遣わされた、それは、以後、神を知ることは、この遣わされた独り子を通して、独り子において、独り子の言葉、わざ、働きにおいて、神を知ることになるのであって、それ以外ではない、ということなのです。イエス・キリストにおいて、神は人間をどのように救われ、どのように導き、どのようないのちに活かそうとされておられるのか、知ることができるのです。

 旧約聖書のことは今朝は直接触れることはできませんが、あえて言えば旧約時代に断片的に、部分的に、知らされてきた神の意志が、この神から遣わされた御子によって神の「歴史を貫く御意志」があらわにされたのです。それは今要約して言えば、イエス・キリストが地上においでくださって語られた言葉、行動、わざ、そして地上で起こった出来事、十字架と復活、そしてそれに続く昇天、そして約束された主の再臨、救いの完成の時、その全体が神の御意志です。

 わたしたちはキリストが遣わされたことによって、イエス・キリストと出会い、この出会いを通して、お遣わし下さった方と出会うのです。

 アドヴェントの時、わたしたちはイエス・キリストのご降誕をあらためて心から受け入れ、お迎えするときとして、また終わりの時の再臨の主を待ち望む時として、この時をすごします。しかしイエス・キリストは自分から来たのではなく、遣わされてきたことの意味の深く知らなくてはならない。神の意志としてクリスマス、神の意志としての救いの業。わたしたちは、イエス・キリストと日々出会うことによって神と出会い、神を知り、神の信実に出会うのです。神はイエス・キリストにおいてわたしたちの神でいてくださるのです。ヨハネによる福音書は聖霊についてもイエス・キリストが語ります。イエス・キリストに出会うことで、神と、イエス・キリストと、聖霊の働きに出会うのです。

 31節にイエスを信じる者たちが多くいたこと、この人ほど多くのしるしをなさるだろうか、と言っていることが記されています。人々はまだしるしに目を奪われていて、しるしが指さすものに目を向けていないことをヨハネは記しているのです。地上のもの目を奪われているのです。

 アドヴェントの時、わたしたちは地上の生を送りながら、この地上に神がお遣わしになったイエス・キリストと出会い、この方をこの地上に、救い主であるイエス・キリストをお遣わし下さったことに、出会っていきたい。神の御意志に触れていきたい。このわたしも神の御意志の中におかれ、神の救いの歴史の中に置かれていることを信仰によって知らされていきたい。そして神の偉大な働きに目を向けて再臨の主を待ち望みたい、と願うのです。