ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

教会暦・聖書日課による説教

2023.12.10.アドヴェント第2主日礼拝式説教

聖書:ペトロの手紙1章19節-2章3節『 あなたを照らす言葉 』

菅原 力牧師

 今朝は教会暦の聖書日課により、ペトロの手紙2のみ言葉に聞き、神さまを礼拝してまいりたいと思います。さてこのペトロの手紙2なのですが、古くからヤコブの手紙、ヨハネの手紙などと共に、公同書簡と呼ばれています。公同という言葉は、いろいろな意味を持った言葉ですが、ここでは特定の教会個人ではなく、広く教会一般、すべての教会に向けてのという意味で、公同と呼ばれています。つまりこの手紙は、ガラテヤの信徒への手紙のような、特定の教会、特定の状況に対する発言ではなく、すべての教会に向けてメッセージ、という内容を持った手紙なのです。それで、この手紙は○○への手紙というタイトルではなく、ペトロの手紙とか、ユダの手紙というタイトルになっているのです。ところが厄介な話なのですが、この手紙はペトロが書いた手紙ではなく、ペトロが語った福音に聞いた第二世代、第三世代が書いたものなのです。現代では人の名前で文章を書くというのは、問題行動ですが、古代においては、しばしばみられることで、悪いこととは言えないことで、むしろ積極的な意味もありました。それは、主イエスの最初の弟子であり、使徒と呼ばれるペトロが宣べ伝えた福音に聞いた者たちが、その福音に活かされ、伝道し、歩んでいく中で、今という時代の中にある教会に向かってペトロの名前において使徒的メッセージを諸教会に語る、ということです。この手紙が書かれたのは、2世紀に入ってから、つまり100年代です。ペトロはすでに御許に召され、ペトロの信仰とわざを継承する者たちが書いたものです。なぜこうした手紙を書く必要があったのか。それは教会が課題を負っていたからです。困難があったからです。だからこそ、今の教会に向けてペトロの語った福音を念頭に置きながらメッセージを書き記す必要があったのです。

 著者はこの手紙の冒頭で、神とイエス・キリストの義によって信仰を与えられ、信仰によって生きるよう召された者たちに対する勧めを語っていきます。神さまの力によって、信じる者とされたわたしたちは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、という具合に信仰によって歩むよう招かれていることを語ります。そして、こうして「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」と続くのです。そういう約束が与えられているのだ、というのです。

 今この手紙を教会で聞いている人たち、信徒たち、あなた方は今わたしが言ったことはよく知っているし、それに基づいて生活もしているけれど、今ある恵みと約束の中においてくださっている神さまの力と御業を何度でも、思い起こしてほしい、ということが15節までに書いてあるのです。

 

 そして16節です。「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。」元の言葉では、力に満ちた来臨ではなく、力と来臨、イエス・キリストの力と来臨を伝えるのに、わたしは作り話を用いたのではない、というのです。

 おそらく著者がこういうことを書いている背景には、キリストの来臨ということに関して、教会の中に、キリストの来臨を疑うというより、そもそもそれは作り話なのではないか、というような考えも入り込んでいたのではないか。キリストの力、キリストの来臨というようなことを自分の知恵で判断して、いくらなんでもそれはないだろう、というように値踏みしている人々がいたということです。キリスト教会が生まれて、ペトロや、パウロのような人たちも召され、教会は相変わらず、厳しい環境の中にいました。この手紙が書かれている100年代ということで言えば、終末の遅延ということが教会の中で問題とされ、救いの完成の時を待ち望むというようなことはせず、今を充実して生きればいいのだ、終末というような作り話に惑わされるな、という考えが教会の中にも入り込み、人々の心を揺さぶっていました。

 そういう中でこの手紙の著者は「わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。」と教会の人々に向かって語るのです。それはマタイ、マルコ、ルカの福音書に描かれている山上の変貌のことです。主イエスの姿が変わったというあの出来事です。わたしたちというのは、主イエスが山の上で変容したときに連れていかれたペトロとヤコブとヨハネのことです。ペトロはその目撃者なのです。「荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適うもの」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。」「わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声に聞いたのです。」ここを読んで、違和感を覚える方がいるかもしれません。この手紙を書いているのはペトロではないとすれば、この文章は説得力がないのではないか、と。しかしそれは、ペトロの証言を聞いた人たちによって書き記された言葉なのです。わたしたちもイエス・キリストの降誕も、十字架も、そして復活も直接には見ていないのです。しかし証言者たちの言葉を通して、神の御業に出会っていくのです。キリストのわざに出会っていくのです。これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、という声が栄光の中から語られた、その声をペトロの弟子たち、ペトロの語る福音を通して聞いた人々がこの手紙を書いているのです。

 ペトロたちは、あの山上の変貌の出来事を通して、何を受けとっていたのか。それはイエス・キリストが栄光に輝く、救いの完成の時、来臨の時が来るのだ、ということです。

 ペトロという人は、まさに主イエスによって弟子とされた最初の人でした。そして主イエスと共に伝道の旅を共にし、主イエスの傍らにあり続けた人です。と同時に、あやまちや、主イエスへの罪も重ねた人でした。にもかかわらず彼は弟子として、主イエスの招きの中でその生涯を歩みとおした人でした。彼は、神がお遣わしになった方と共に歩んだ者であり、さらに神がこのお遣わしになった方においてどのような将来の約束を与えてくださったのか、まさにその出来事を目撃し、神の声を聞いた人だったのです。

 神さまはこの世界に御子イエス・キリストをお遣わしになりました。罪人である人間を救うために御子をこの世界にお遣わしになりました。キリストの降誕、クリスマスの出来事がこの世界に起こったのです。そしてキリストは地上で人々共に歩み、十字架にかかり死んでいかれた。その死によってわたしたちの罪は赦され、贖われて、わたしたちは赦されたものとして、新たに生きる者として招かれたのです。それと同時に、イエス・キリストが十字架で死に、神によって復活させられたことによって、罪と死に対する神の勝利が示された。わたしたち人間を圧倒的に縛り付けている罪と死が神の勝利の中にあることを知らされたのです。わたしたちはイエス・キリストの出来事によって救われて生きる者とされたのです。

 しかし、神の人間に対する救いの御意志は、それで終わりなのではない。この世界とは依然として罪の中にあり、かつ死の力の中にあるのです。その完全な勝利、救いの完成は、「いまだ」なのです。けれど私たちはイエス・キリストにおいて、「すでに」キリストの十字架とキリストの復活において、神の約束、神の恵み、神の信実の中にあることを知らされているのです。

 この「すでに」と「いまだ」の間にあるのが、わたしたちです。地上の教会は、わたしたちは、この間の時を生きているのです。

 アドヴェントというのは、ラテン語ですが到来という言葉で、だんだん近づいてくることを表す言葉です。16節にある来臨と重なる言葉です。キリストはすでに、2000年前この世界に来てくださっています。そして復活して、今もわたしたちと共に在り続けてくださっている。み言葉に聞く中で、聖餐に与る中で、復活のキリストはわたしたちと共にいてくださる。その恵みを受けつつ、わたしたちはキリストの来臨を待ち望むのです。到来を、近づきつつある主イエスを待ち望むのです。ペトロの手紙はこう語る。「こうしてわたしたちには、預言の言葉は一層確かなものとなっています。」イエス・キリストにおける将来の約束は確かなものだ、というのです。「夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、暗いところに輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意してください。」著者は朝が来て、朝日がのぼってくる、というのではなく、「夜が明け、明けの明星がのぼる」と表現しています。明けの明星というのは、夜明け前に東の空に見える金星のことで、ここで夜が明けと書かれているのは、夜が明けようとするとき、という意味合いでしょう。だからまだ暗い、太陽は昇っていない。世界はさまざまな暗さの中にある。人間の罪、悪、痛みや苦しみ、たくさんの困難、呻きの中にあるのです。しかし明けの明星がのぼっている。それを見落としてはならない。それは真実な預言としてのイエス・キリストの存在であり、イエス・キリストにおいて神が約束してくださった救いの完成の時の到来なのです。「なぜなら、預言は決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。」

 アドヴェントのとき、わたしたちは神が与えてくださったクリスマスの出来事に感謝し、喜びを神にささげ、その恵みを全身で受けると同時に、神がわたしたちに与えようとしてくださっている「到来」の時を仰ぎ見て、希望のうちにその時を待ち望みつつ歩んでいきたい。その神が与えてくださる「到来」にこそ、この暗さの中にある世界を生きる真の希望と勇気が与えられることを信じて、歩んでいきたい。