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教会暦・聖書日課による説教

2023.12.17.アドヴェント第3主日礼拝式説教

聖書:ヨハネによる福音書1章19-28節 『 洗礼者ヨハネの証 』

菅原 力牧師

 アドヴェントの第3主日を迎えました。今朝はヨハネによる福音書の聖書箇所からみ言葉に聞いてまいりたいと思います。毎週のように申し上げていますが、教会暦による聖書日課で示された聖書箇所なのですが、どうして今日、このアドヴェント第3主日にこの聖書箇所を読むのだろう、という素朴な疑問があります。それを考える、思い巡らすのも、とても楽しい。そのあれこれ考えること自体がアドヴェントのときをすごす大事な時なのではないかと思います。

 さて、ヨハネによる福音書の1章というのは、とても不思議な、かつ興味深い構成になっています。ヨハネによる福音書はマタイやルカのように主イエスの誕生物語は記されていません。しかしヨハネは他の福音書とは全く違う形で、主イエス・キリストのことを冒頭で語り始めます。それが1章1節からの「はじめに言葉があった。言葉は神と共に在った。言葉は神であった。」に続く文章です。ところが、とても不思議なのは、その主イエスのことを語る文章を中断するようにして、6節から9節まで、ヨハネという人物のことが挿入されているということです。福音書の冒頭でイエス・キリストのことが語り始められていく。しかもそれは、言葉があった、いのちである、光である、と続いていくのです。読者は当然、その続きを期待するのです。ところが、そこにいきなりヨハネのことが出てくるのです。

 「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなく、光について証しするために来た。」読者はここで、ヨハネとはいったい何者なんだ、ということになるのです。しかもこのヨハネなる人物のことは、この1章でずっと続いていくのですから、この人は何者なのだ、ということはただ事ではないのです。

 このヨハネは神から遣わされた人であり、証しをするために来た、というのが6節7節に書かれています。ヨハネは証しをする人、証言者だ、というのです。

 そして今日の聖書箇所19節へとつながるのですが、「さて、ヨハネの証しはこうである。」このヨハネはマタイ、マルコ、ルカすべての福音書に登場し、それぞれの福音書の視点でこの人物が描かれているのですが、ヨハネ福音書には大きな特徴があります。それは、他の福音書が皆、洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼者としてのヨハネを描いているのに対して、ヨハネ福音書では証しする人、証言者ヨハネということに語っているという点です。もちろんヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼者として活動していたことは事実で、彼のもとには多くの人々が集まっていました。「エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させた」

 エルサレムのユダヤ人という表現は明らかにエルサレムの当局者、祭司やレビ人とあるので、最高法院の人々が調査に来た、ということです。「あなたはどなたですか」と訳されていますが、「お前は誰だ」という上から目線だったでしょう。

 お前は何者なんだ、人々を悔い改めさせ、洗礼を受けさせ、大きなグループが形成されている、何者なんだ、と聞いてきたのです。

 それに対してヨハネは「公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した」。この公言という言葉は、誰の前であっても告白する、認める、という意味の言葉です。と同時に、ここでは証言という意味合いを持っています。ヨハネが公言した、それは自分はメシア・救い主ではない、ということでした。ヨハネのこの時、飛ぶ鳥落とす勢いの人でした。ヨハネのもとに続々と人々が集まってきました。今の言い方で言えば、民間人として、もっとも人々から期待されている人でした。ユダヤには祭司や律法学者という政府公認の宗教者がいました。ヨハネは違う。民間人です。しかし多くの人々の支持を受けていた。だからこそ、最高法院が調査に来たのです。脅威だった。ヨハネは宗教的な教祖になることも、力ある指導者になることもできた。しかし彼は「公言して隠さず、『わたしは救い主ではない』と言い表したのです。それはわたしにはまことに稀有なことに思えます。奇跡的な出来事と言ってもいい。自分に添えられた称賛の声や、期待の渦の中でヨハネは自分が何者でないかが言えたのです。「その人は、わたしの後から来られる方で、わたしのその履物の紐を解く資格もない。」ヨハネがわたしは救い主ではないと公言しえたのは、救い主とはどなたなのか、ということを知っていたからです。見るべき方を知っていたから、そしてその人のことを見ていたから、なのです。

 エルサレムから来た人々はさらに問い続けました。「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と言った。さらに、『あなたはあの預言者なのですか』と尋ねると「そうではない」と答えた。エリヤというのは、イスラエルの人々がその再来を待ち望んだ終末のおとずれを告げる預言者であり、あの預言者というのは、モーセのような預言者ということで、質問者はヨハネに対して、おそらく当時の人々が抱いていたヨハネへの期待をそのまま尋ねた。しかしヨハネは言下に「違う」と応えたのです。

 「それではいったい、お前は誰なのだ。われわれをここへ遣わした人々に報告しなければならない。お前はいったい自分のことを何者だというのだ。」するとヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて、「わたしは荒野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。

 エルサレムから来た人々は、ヨハネにお前は誰なんだ、何者なんだ、と尋ねた。それに対してヨハネはわたしは荒野で叫ぶ声だ、と応えたのです。これはエルサレムから来た人々には何のことなのか、まるでわからなかったのではないか。荒野で叫ぶ、何を叫ぶのか。キリストを世に向かって証しする声となる、この世の荒野の中で、救い主イエス・キリストを証しする声となる、とヨハネは言っているのです。主の道をまっすぐにせよとは、主イエスの歩むの道備えをする、その道を整える、わたしはその役割を担っていく、ヨハネはそう語ったのです。質問者たちは「お前は誰だ」と尋ねている。それに対して、ヨハネは、自分とはつまりキリストを証しし、キリストの道備えをするそういう役割を生きるものだ、と答えた。つまりヨハネは自分をキリストとの関係の中でしか見ていない、ということです。この関係の中でわたしはわたしだ、と言っているのです。ヨハネはこのキリストなる方を何らかの形で指差し、証しし、この方の恵みと真理をこの世界の中にあって声として証言する、それがわたしに与えられた役割であり使命であり、わたしである、と自覚していたのです。すなわち自分だけでは何ものでもなく、キリストにあって生きるものなのだ、という自覚です。

 それがエルサレムから来た人々にわからない。お前は何者だ、という問いに終始するのです。

 彼らはさらにこう尋ねたのです。「お前は救い主でもなければ、エリヤでも、あの預言者でもないという。何ものでもないお前が、ではなぜ人々に洗礼を授けるのか。」この質問はある意味、よくわかる問いです。メシアではない、預言者ではない、あれでもこれでもない、ならばなぜ、洗礼を授け、人々を巻き込み、宗教活動しているのか、と問うているのです。しかし問うている者たちにわからないものがあるから、ヨハネの語ることは、わからなかった。ヨハネはこう言っているのです。「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物の紐を解く資格もない。」

 エルサレムからの人々は、救い主の存在など認めないし、そんなものは知らない。だからヨハネのイエス・キリストを証しする生き方などわかりようがなかった。キリストという存在と出会わなければ、わたしはわたし。わたしが何者であるかが重要なのです。わたしが何者かになり、わたしが思う自分を生きる、わたしはわたしとして生きる。それがわたしなのです。

 しかしイエス・キリストに出会った者は、違うのです。そもそも自分はイエス・キリストによって今在る、ということを知らされてきた。イエス・キリストに背負われ、イエス・キリストによって生き、活かされている自分を知るのです。つまり自分単独で自分を考えることをやめるのです。できなくなるのです。キリストの恵みの中で活かされている、キリストの十字架に背負われて生きている、キリストの信実によって自分がある、そのことに出会うのです。パウロの言葉でいう、キリストに在るわたし。さらに言えば、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです。わたしが今肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の子の真実によるものです。」ヨハネはそのことを証人、証言者としての自分、という自覚に立った最初の人と言っていい。ヨハネは自分の生涯は、キリスト証言に生きることだと自覚していたのです。

 アドヴェントのときに、どうしてこの聖書箇所に聞くのか。あらためて思い巡らします。わたしたちは、クリスマスの出来事に出会い、その喜びの中におかれ、その恵みの中にあることを知ったものです。わたしたちはもうすでにクリスマスに出会っているのです。そして、わたしたちはどう生きるのか。その原型となる姿をわたしたちはヨハネの姿に見るのです。キリストに在るわたしを知ったヨハネは荒野で叫ぶ声としての自分を自覚した。それがヨハネのキリストに在るわたしの生き方でした。わたしたちは、わたしはどう生きるか、それはそれぞれがその歩みの中で、判断していけばいい。ただそれは、たんにわたしがどう生きるかではなく、キリストに在るわたしをどう生きるという、主にある課題なのです。

 ヨハネによる福音書の著者は、ヨハネの生き方、その全体はあかしであると捉えています。キリストに在るわたしの生き方はどのような歩みであれ、証し、証言という根本を持つことをヨハネ福音書は語るのです。アドヴェントの日々、そのことに深く思いを寄せていきたいと思います。