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教会暦・聖書日課による説教

2023.12.24.降誕祭主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書1章18-25節『 神、我らと共にいます 』

菅原 力牧師

 2023年のクリスマスを迎えました。この朝、マタイによる福音書のクリスマスの出来事に聞いて、神さまを礼拝してまいりたいと思います。

 さて、マタイによる福音書のクリスマスの物語、すでにわたしたちにとっても何度も読まれ続けてきた、よく知られた物語です。クリスマスの話となると、マリアのことはよく語られるのに、ヨセフは影が薄い、というふうによく言われます。実際ヨセフは今日の聖書箇所でも一言も語っていないし、マリアと違って、何の役割をも担っていない、と言われるのです。しかし本当にそうか。聖書をじっくり読むと、ヨセフの果たした役割はむしろ大きかったのではないか。

 「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」聖霊によって身ごもるというような前代未聞のことは、ヨセフには知る由もないことです。彼はただ、妻となるべきマリアが自分の知らないところで身ごもっていたという事だけを知るのです。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」婚約は当時すでに法律的には結婚と同じで、ヨセフは夫と呼ばれています。彼が正しいというのは、法律的に、律法の掟に従う人だったということで、彼は婚約者が不倫の罪を犯したと思い、離縁しようとした。ひそかにというのは、マリアのことを表ざた、晒しものにしたくなかったからだというのです。しかしどんなひそかに離縁したとしても、子どもが生まれればいずれにせよひそかにはできない。「このように考えていると」この部分をある聖書は「悶々として思い巡らしていると」と訳しています。翻訳としては反則ですが、ヨセフの気持ちをよく表している訳です。そう思い巡らしていると、「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、怖れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。』」夢で天使が現われて、という夢の中で、という言葉がマタイ福音書1章2章には4回も出てきます。夢の理解は多様ですが、今ここで語られている文脈から読むと、ヨセフの考えや思い、悶々と思い巡らしていた、というヨセフの思いからではなく、ヨセフに働きかけて語りかけてくる声に聞いた、天使が現われて語りかけてきた、というのです。恐れず妻マリアを迎え入れなさい、結婚しなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである、と語りかけられたのです。彼は離縁するという決心をしたのでした。しかしその彼に語りかけてくる声を彼は聞いたのです。しかもそれは彼の決心に抗うものでした。しかも驚くべきことにその胎の子は聖霊によって宿ったのだというのです。誰が聞いても納得できるような言葉ではない。天使の言葉はさらに続く。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」マリアから生まれる男の子、その子は聖霊によって生まれる子ども、神の働きによる子ども、その子にイエスと名付けよ、イエスという名は神は救い給うという意味なのですが、この子は自分の民、神の民を罪から救うからだ、というのです。22節から天使の言葉ではなく、この福音書の著者マタイの言葉が続くのですが、この出来事は預言者を通して言われていたことの実現であり、この男の子こそインマヌエルなのだ、とマタイは書き記すのです。

 「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」ヨセフは夢の中で天使の言葉を聞いてどう思ったのか。何も福音書には書かれていません。しかし彼は眠りから覚めると、主の天使から語りかけられたこと、命じられたこと、マリアを迎え入れることと、生まれる子にイエスと名付けること、それに聞き従ったのです。ヨセフは天使の言葉に納得して、妻を迎え入れた、というわけではないだろうと思います。そもそも納得できるようなことではない。それはヨセフの寛大さ、というようなことでもない。聖霊によって身ごもる、というようなことはわたしたちの許容量、キャパシティを超えています。

 ヨセフは問題が解決したから聞き従ったわけではない。彼はたじろいでいる。自分の出会った偶然に圧倒されている。だがその中で起こったことにも耳を傾けているのです。夢の中の声を払いのけることなくその声に聞くのです。自分の声しか聴けない人ではなかった。天使が語りかけ、この出来事が神の働きかけによる出来事であるということに出会っていくのです。今、この現実の中で神は働いてくださっている、という声に出会うのです。この出来事の中で、神は共におられる、ということに触れたから、ということなのです。

 誤解のないように言えば、ヨセフの信仰がこの天使の言葉を受け入れた、ということではないのです。ヨセフの信仰はそれほど偉大なものではなかったし、そんな偉大な信仰など誰も持ち合わせていないのです。彼は、わからないことだらけの中で、自分の思いとは違う、語りかけてくる、神の御声に聞いたのです。

 その子をイエスと名付けなさい、この子は自分の民を救うからである、ヨセフはこの時天使の言葉を意味と広がりを受けとめたのでしょうか。この子の救いの御業がどれほど大きく深く豊かなものか、知る由もなかったと思います。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」生まれてくる子どもが自分とマリアとの子になる我が子が、インマヌエル、神我らと共にいます、と呼ばれる子である、ということがヨセフにこの時どれほど分かったのでしょうか。ヨセフがわかることは限られていました。

 そもそもクリスマスの出来事は、神による、神だけがなしうる、神の秘儀、神のみ業です。したがって、クリスマス出来事そのものは、人間の協力も、参与も必要としない、神のみの業です。聖霊によって身ごもることも、この子が神の救いを実現成就するのも、すべて神とイエス・キリスト、聖霊による三位一体の神のみ業です。しかしヨセフもマリアも、この出来事の中で役割を与えられていくのです。なぜ自分なのか、ヨセフもマリアもわかるすべもなく、役割を与えられていく。

 そしてヨセフは、混乱の中で自分に語りかける声に聞き、この出来事の中に神は共におられ、共にいてくださることに出会わされていったのです。それは自分の声にだけ聴き続ける人には叶わないことなのです。ヨセフは神の起こされた神の出来事の中に立たされていくのです。イエス・キリストの誕生は神の御意志です。神の御計画による神の御意志です。つまりヨセフは神の御意志の一端かも知れない何かにそこで出会っていくのです。そして彼は自分の声ではなく、語りかけてくる声に聞いて、従っていくのです。ヨセフの中で混乱が続き、偶然のあらしの中にいても、この出来事において神は働き、神が共におられることに出会っていくのです。

 繰り返しになりますが、それはヨセフの中にある信仰が受けとめたのではなく、彼の外から語りかける声に彼が出会わしめられた、その出会わされたことそのものに、彼が従ったということです。そしてそれが聖書が語る信仰というものなのでしょう。

 マタイは以前にも申し上げたように、この福音書を貫いているものを、文学的に言えば、囲い込みという手法で表しています。それは、この1章と最後の章である28章で出てくる言葉、あなた方と共にいる、という言葉、インマヌエルという言葉です。神、我らと共にいます、という言葉がこの福音書の最初と最後を囲い込んでいて、この福音書の主題を明らかにしているのです。イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことで、わたしたちの罪からの救いが成し遂げられる。それが神の御意志なのです。と同時に、わたしたちを罪から救う神こそ、わたしたちと共に在り続けられる神に他ならない、という神の御意志がクリスマスにあらわされる。

 ヨセフはクリスマスにおいて何の役割も担っていない、という人がいることを冒頭申し上げました。そうではありません。ヨセフは、神の御意志の実現、クリスマスという驚くべき神の御業の中で、役割を担っていったのです。ヨセフは人間としての混乱の中で、天使の語りかけに聞き、このクリスマスの出来事が神の働きによるものであることを最初に受けとめていく人となったのです。マリアと共にこの出来事のまことの主(あるじ)を受けとめて、従う人となった。このクリスマスの中で、インマヌエルの事実を知らされていく最初の人となっていったのです。そして、イエス・キリストの父となり、母マリアと共にその子を我が子として迎え入れ、育て、共に歩んでいったのです。どうしてこれが小さな役割などと言えるでしょうか。

 わたしたちも、それぞれの現実の中で、天使の声に聞く者とされていきたいと思います。わたしたちを罪から救うためにこの独り子がお生まれ下さったことを、聞く者とされていきたいと思います。そしてこの独り子によって、わたしたちの中にインマヌエルが実現したことを、わたしたち聞く者となっていきたい、そう願うのです。