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マタイによる福音書連続講解説教

2024.1.7.降誕節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書6章25-34節『 空の鳥を見るがよい 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所なのですが、新約聖書の中でもとくに有名な、聖書箇所です。ただ有名というだけでなく、聖書の中でも親近感を持って受けとられている箇所と言えるのもかもしれません。その一つの理由が「思い悩むな」ということにあるのでしょう。

 この「思い悩む」という言葉は今日の聖書箇所だけで6回も出てきます。繰り返し「思い悩むな」と語りかけているのです。そして、空の鳥を見るがよい、とか、野の花を見なさい、と言われていて、まるで自然を見て、くよくよ思い煩うのやめなさい、と言われているようで、それもまたこの聖書箇所が親しまれる要因にもなっている。

 しかしこの聖書箇所が語っていることは、どういうことなのか。よく読んでみると、この聖書箇所はわかりやすいとはとても言えない箇所です。仮に語られていることはわかったとしても、この主イエスの言葉が本当に自分の中で、力となっているか。まこと慰めの言葉となっているか、そう思うととても心許なく思えてくる、そういう人もおられるのではないでしょうか。

 まず考えてみたいのですが、「思い悩むな」と言われているのですが、そう言われたからと言って思い悩むことをすぐにやめることができるのでしょうか。例えば歯が痛いというような一過性の思い悩みなら、歯を治療すればなくなるかもしれない。しかし自分の性格が嫌で好きになれないということであったり、自分をうまく受け入れられない、まして他人を受け入れるなんて難しい、というようなことで思い悩んでいる人にとって思い悩みは悩むなと言われてやめれるようなものなのでしょうか。そもそも生きることは思い悩むことだともいえるのです。どんな時でも思い悩む種は尽きない。人間が自分の考えに囚われている限り、悩みは尽きないともいえます。

 25節の言葉も、決してわかりやすい言葉ではない。「だから言っておく。自分のいのちのことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。いのちは食べものよりも大切であり、からだは衣服よりも大切ではないか。」普通に考えていのちは食べものより大切だとか、からだは衣服よりも大切だというようなことなどわかっているのです。命が大事だから、食べているのです。からだが大事だから、衣服で保護しているのです。当たり前のことです。しかし当たり前のことをわざわざ言われたということは、ここに大事なことが込められているということでしょう。ここでキリストが言われる「いのち」とは、わたしたちが日常的に使う「いのち」ではなく、神が与えたいのちという意味が込められているのです。神があなたに与えたいのち、そのいのちにおいて神が託されたものがある。そのいのちにおいて神から与えられた恵みを受け、そのいのちと与えられた体で、神の恵みを受け、応え、神に応答して生きる使命に生きるいのち、それがここで言われているいのちなのです。

 そのことを受けとめて読み進んでいく必要がある。空の鳥と、野の花が出てくる。空の鳥は蒔かず、刈らず、納めない。だが神はその鳥を養ってくださる。あなた方は鳥よりも価値あるものではないか。価値あるというのは訳しすぎで、すぐれたという言葉です。なぜ人間は鳥よりも優れているのか。何も語られていないのです。何も語られていない時、わたしたちが人間が鳥より優れている理由をあれこれ勝手に想像するのではなく、神がそのように見ておられる、ということだけで十分だと思います。むしろそれだけが大事。そして神は、わたしたちがその与えられたいのちとからだとで、一人一人に神から託された働き、使命が与えられているのです。そのことを受けとめながら、ここで空の鳥、野の花のたとえを聞く必要があります。

 空の鳥は蒔かず、刈らず、納めない。それなのに天の父は鳥を養ってくださる。あなた方は思い悩んだからと言っても寿命をわずかでも伸ばすことができるのか。栄華を極めたソロモン、ユダヤの王の中でも経済的に富んだ王ソロモン、そのソロモンが着ていた服ですら野の花の一つほどにも着飾ってはいなかった、というのです。丹精込めて鉢植えで育てた花ではないのです。明日は誰かに踏みつけられて、枯草と共に炉に投げ込まれてしまう野の花、ソロモンの服はこの野の花に及ばなかった、と言っているのです。その野の花ですら神はこのように装ってくださる。

 

 この二つのこと、何を例えられているのかと言えば、人の力と神の力の圧倒的な違い、ということです。けれども主イエスがここで語ろうとしておられるのは、人の力と神の力の違いが言いたいのではない。それほどの力の違いのある神が、「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。」というほどにわたしたちを養ってくださる、という事実そのもののことです。主イエスがここで語ろうとしておられるのは、このことです。あなたは神にどれほど深く、豊かに、真実の愛で養われていることか、わかっているか、ということです。

 もうずいぶん前の話です。まだわたしが牧師になって日の浅いころ、先輩の牧師のところに相談というか、悩みを打ち明けに行ったことがあります。その時先輩の牧師はわたしの話を黙って聞いてくれた後、なにか励ましの言葉を語る、というのではなく、聖書を持ってきて、わたしにも聖書をわたして、聖書の解き明かしを始められた。具体的にはこの聖書の箇所を1節1節話し始めたのです。そして、「君、この30節の「まして」という言葉の意味が分かるか、」と聞いてこられた。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」文語訳で「まして汝らをや」。「この『まして』にはキリストの特別な思いが込められていると思う。神のわたしたちへの愛と働きがここに溢れているのではないか。鳥や野の花を養う神が、「まして」あなたを養わない、というようなことがあろうか。そんなことはありえない。思い悩む時、悪戦苦闘するとき、自分にばかり人は見ているけれど、まさにそこでこそ、まして、あなた方を尚更深く愛し養ってくださる神を信じ仰ぎ見ることがどうしても必要だ」と語ってくださったのです。

 この聖書箇所は「思い悩むな」という人生訓や、倫理的な勧めをしている訳では全くないのです。思い悩むな、ということで、わたしたちの心持ちや、努力を問題にしている訳でもないのです。キリストが「思い悩むな」と言われるのは、信仰の事柄、神を信じ仰ぎ見ることなのだ、ということを語っているのです。わたしたちの思い悩みや悪戦苦闘しているその場所で、神がこのわたしをどれほどの愛と信実で養ってくださっているのか、知らされていくのです。受け取るのです。

 「だから、『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と言って思い悩むな。」これらは皆わたしたちの日常の業です。日々のことです。そして大なり小なり、こうした日常の思い悩み、思い煩いの中で生きているのです。しかし「あなた方の天の父は、これらのものがみなあなた方に必要なことをご存じである。」ご存じなのです。それをあなたは本当にご存知でしたか。知らなかった、という人もいるでしょう。神がわたしたちの衣食住、必要なものを御存知なのだ、ということをあらためて、受け直していきたいのです。

 ここで主のみ言葉は、だからすべてを主に委ねて、思い煩いから解放されなさい、とは言っておられない。そうではなくて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言われるのです。委ねてただ待機しなさい、とは言われない。

 ここで大事なのは、「まず」ということです。第一に、はじめに、何よりも先に、という意味の言葉です。何よりも先に、神の国、と神の義を求めなさい、と言われているのです。今ここでは神の国、神の義ということでむずかしいことは考えずに、神さまの支配と神さまの義ということでイエス・キリストによる救いの御業、そして約束されている救いの完成、ということ、それを求めなさい、と受け取っていきましょう。そしてそれが先程読んだ「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と重なっていくのだということを受けとりましょう。

 神さまはわたしたちは必ず養ってくださる。わたしたちを根本から愛してくださって、救いへと招き入れ、救いの業を与えて、み言葉を与え、救いの完成のときへと導いてくださる、そのことをまず、求め、受けとめていきなさい。「そうすれば、これらの者は皆加えて与えられる。」この「まず」を本当に求めていきなさい、受け取っていきなさい。そのとき、わたしたちの思い悩みは、神の御業の中で、神の働きの中にあるわたしの「思い悩み」になる。神の救いの業の中での「何を食べようか」「何を着ようか」になるのです。

 34節はそう受けとめて初めて腑に落ちてくるのです。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」思い悩むな、という話だったのですが、キリストが語る「まして」と「まず」の中で、この「まして」を受けとめ、「まず」を求めていく中で、今日のことは今日思い悩め、と言われているのです。この神の養いの中で、この神の救いの業の中で、神が生きて働いてくださっているという恵みの中で、今日の思い悩みを悩んだらいい、と言ってくださっているのです。明日のことはまた、主の恵みのうちに明日悩んだらいい、と主は言われるのです。

 このキリストの言葉をわたしたちは自分に語られている福音として、聞いて、信じて、従って、一日一日を歩んでいく、そういう一年としていきたいと思います。