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マタイによる福音書連続講解説教

2024.1.14.降誕節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章1-6節『 人を裁くな 』

菅原 力牧師

 7章の冒頭は「人を裁くな」という言葉で始まっています。いきなり、というか、はじめに結論、という感じで強烈です。ですが、人を裁くな、ということは一般的な倫理や道徳としても、それ自体よくわかる話で、誰でも考える話です。だから一般的な倫理として読まれやすいのです。

 ところが主の言葉はこう続いています。「あなた方も裁かれないようにするためである。」この場合の裁かれない、というのは終末の裁きを語っているのでしょう。神によって最後の裁きを受けないよう、人を裁くな、と1節は言っているのです。つまり主がここで語り始められた話は、ただたんに人を裁くなという一般倫理、道徳としての話ではない。あくまで信仰の話なのです。しかし、そうはいっても自分の中でそのことはぴんと来ていない、ということは少なくありません。

 

 マタイによる福音書の18章にわたしたちがよく知っている譬があります。それはある王様に一万タラントン借金している家来がいたという譬話です。家来は返済ができないので、ひれ伏して、「どうか待ってください」と哀願した。王様は憐れに思ってその家来の借金を帳消しにしてやった。ところがその家来はその帰り道、自分から金を借りている仲間に会うと、仲間が「待ってくれ、返すから」というのに、赦さず、その仲間を牢に入れた、というのです。譬はそれで終わりではなく、この様子を見ていたほかの仲間たちは王にその一部始終を告げたのです。王はその家来を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言って帳消しにした借金を元に戻し、すっかり返済するまで、刑の執行官に引き渡した、という譬です。

 莫大な借金を赦されているのに、仲間の少しの借財を赦さなかった家来のたとえです。裁くなという話と繋がっています。裁くことと、赦すこととが表裏一体で繋がっているからです。譬に登場する家来は、自分に莫大な借金があることをもちろん自覚していた。そして赦されたのです。にもかかわらず自分に借財のある人を赦せなかった。家来は、王から裁かれなかった。だから自分の仲間を裁くべきではなかった。裁けないはずだった。にもかかわらず家来は仲間を裁いた。だから王は家来を裁いた、というたとえ話なのです。このたとえにおいて急所となるのは、赦されて今自分はある、自覚です。もっと言えば今自分の存在は赦されたからこそある、という自己理解です。これがあるのかないのか、ということです。家来は、赦されて今ある存在だということを、他者との関係の中で忘れていたというか、そのことがそっくそのままずり落ちていた。だから違和感なく仲間を裁き、牢にぶち込んだのです。

 1−2節には裁きの基本が語られ、3節から5節で、比喩を通して、この問題を主イエスは語っていかれます。1節2節だけでは十分ではない、と思われたからともいえます。特に2節は「尺をもって尺に報いる」という言葉にあるように、それ自体一般的な倫理として流通しているものです。しかし主イエスはそうした話ではなく、信仰の事柄として語られていくということが3節から5節でも明らかにされていくのです。

 「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」これはウルトラな比喩ですよ。他人の目にある小さなおが屑は見えるのに、自分の目の中にある丸太には気づかないのか、丸太というのは梁のことです。家の屋根を支える梁、それが目の中に入っているということ自体、極端な比喩です。それを取り除いてこそ、他人の目のおが屑をとらせてくださいと言えるのだ、というのです。目の中に入っている丸太、梁、ここにはあの家来と同様の比較を絶する違いがある。王様が赦してくれたのは、1万タラントン、家来の仲間の借財は百デナリオン、他人の目の中にはおが屑、自分の目の中には丸太。丸太が目の中に入っていたら、何も見えない、という人がいます。そうです。実際何も見えない。自分で気づいていないということでもあります。しかもそれを自分でとることなどできない。家来の話も、丸太の話も、わたしの罪の大きさを物語っているのでしょう。自分ではどうしようもできない借財、自分ではどうしようもない目の中の丸太、あまりに大きな罪、深い罪、自分ではどうしようもできない罪のことです。家来の場合、王様がそれを赦してくれた。目の中の梁は、キリストが十字架において取り除いてくださったのです。そこに気がつく以外、この話は前に進まない、そういう話を今キリストはここでしておられる。自分の目の中の梁が自分の罪として「はっきり見えて」それがキリストによって取り除かれていることも「はっきり見えるようになって」はじめて、「人を裁くな」のスタートラインに立つような、そういう話なのです。

 その際、自分の目の中にある梁が見えたとき、兄弟の目の中にあるおが屑をとろうとするだろうか、ということは思わないわけにはいかない。そのとき、兄弟の目の中のおが屑はどう見えるのか。わたしたちはそのとき、裁く側にいるかどうか、そのことをもこの比喩は問いかけているように思えます。

 

 そうして読み進んできて、6節に行きつくのですが、この6節は何を語ろうとしているのか。これもまた、信仰抜きの話なら、常識の範囲でよくわかる話なのです。聖なるものを犬に与えるな、真珠を豚に投げるな。それは無駄というだけでなく、踏みにじるだけでなく、食べることができないと知って、?みついてくるだろう、という話で、事実豚に真珠は、広く一般に知れ渡っているのです。

実はなぜ6節の文章がここにあるのか、研究者の間でも長い議論があります。そもそもあまりに文脈にそぐわない、ということがあり、何が言いたいのかわからない、なので、例えば当時のことわざのようなものをここに編集者が置いたとか、いろいろ意見が錯綜しています。しかし、そうした議論があることを承知したうえで、いま、一つの事をここで申し上げたいと思うのです。

 犬とか、豚というのは、当時忌み嫌われていたもののことですが、これを異邦人だとか、特定の人々を指す、というように読むべきではないでしょう。マタイはこの福音書の全体で、すべての民に福音を宣べ伝えることを語っているのですから。マタイ福音書が主イエスの言葉をして聞き取っているのは、「人を裁くな」という教え、それは信仰において聞く、ということがなければ、豚に真珠なのだ、ということです。信仰において聞く、という一点を欠くならば、それは犬に聖なるもの、ということになるのだ、と言っておられるのです。

 以前祈祷会でサムエル記を読んだ時に、ダビデ王の物語に聞きました。ある時ダビデは人妻であるバテシェバを強引に自分のものにしたとき、預言者ナタンが彼のもとに来て、ダビデにこういう話をしたのです。ある金持ちが客をもてなすのに、自分のたくさん持っている羊を屠るのではなく、隣りの貧しい人が我が子のようにかわいがっていた羊をとって用いた、という話をします。ダビデはナタンの話を聞いて、そういう不正は断じて許せない、といって叱ると、預言者ナタンは、それはあなただ、と言ったのです。ナタンはそのような形でダビデの罪を明らかにしようとした。さらに言えば、罪の自覚の問題を語ろうとしたのです。聡明で、優れた王としてイスラエルを治めていたダビデ王でしたが、自分の罪がわからなかった、兄弟の目にあるおが屑はよく見えていたのです。ナタンの話を聞いて、すぐにその不正は赦せないと言ったダビデは他人のおが屑はよく見えていた。だが、自分の目の中にある丸太がわからない、という話です。どうしてそういうことが起こるのでしょうか。それは他人は厳しく、自分には甘い、という話では済まない。もっと深刻なものです。自分の罪に気づく、自分の罪を自覚する、ということがこのことの根本にあります。逆に言えば、自分の罪を自覚していないところでは人は何でも言えるということです。他人を裁くことも、他人を断罪することも、何でもできるし、やってしまう、ということです。

丸太が見えていなければ、他人のおが屑が気になってしょうがない自分がいるということです。

 主イエスがここで語っておられること、これまで聞き続けてきた山上の説教と呼ばれるものも、主の祈りも自分の目の中にある丸太がわからなければ、真実説教として聞けないのです。主の祈りも祈れない。丸太がわかり、しかもその丸太がどなたによって取り除かれているのかが分かったときに、今日の主イエスの「人を裁くな」はわたしにとっての福音になり、説教になり、祈りになるのです。

 自分の罪に気づく、実はそれも自力ではできないことなのです。自分の罪に気づくことそれ自体、キリストによるのです。キリストの十字架に照らし出されて、自分の罪に気づかされていく以外ないのです。そしてその罪がキリストの十字架によって赦されていることも、キリストによって気づかされていく以外にはないのです。家来の譬で、赦されていることに本当に気づかず「お前を憐れんでやってではないか」と語りかけてきたのは王様でした。ダビデに罪を気づかせたのは預言者ナタンでした。それは皆、自分の力によるのではなく外から、つまり神によって気づかされていくほかない人間の姿を描き出しています。

 「人を裁くな」という日常どこででも聞けそうなこの話、それは倫理や道徳の話ではない。キリストはそのような話として話しておられるのではない。罪人が罪赦されている、そこに立って初めて拓かれていく話なのだ、とキリストは語っておられるのです。この話を聞くあなた自身が、そのことに目も心も開かれていかないと、キリストの山上の説教も、結局は何も聞いたことにならない。豚に真珠の話にしてはならない、キリストはそう語りかけておられるのです。