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マタイによる福音書連続講解説教

2024.2.4.降誕節第6主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章7-12節『 祈る喜び 』

菅原 力牧師

 主イエスの山上の説教に聞き続けて礼拝をまもっています。この山上の説教の後半には、思い悩むな、人を裁くな、というように、とてもストレートな、一種の勧告のような言葉が出てきます。今日の聖書箇所も「求めなさい」という勧めの言葉で始まっています。こうした一連の言葉は、ある面とても分かりやすく、それ自体一般的な倫理的な言葉として受けとられるという側面もあるわけです。

 求めなさい、そうすれば与えられる、文語訳聖書で「求めよ、さらば与えられん」と訳されていた言葉で知れ渡った聖書の言葉の一つです。

 そこだけ取り上げれば、いくらでも一般的な意味を付与することができます。頑張って求め、努力していけ、そうすれば必ず与えられ、道は開かれていく、というように。頑張らなければならない場面や場所のどこでも通用する言葉にも読めるのです。しかしこの聖書箇所はそういう一般的なことを語っているのではない。そもそもこれは主イエスの説教なので、信仰において聞き、信仰において読むことでしか聞こえてこない言葉として語られているのです。

 はじめに、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、という言葉が語られ、8節では「誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」とあります。この求めなさい、というのは何を求めるという話なのでしょうか。求めるものは受け、とありますが、何を受けるのでしょうか。ところがこの説教ではそうしたことはまずは語られず、ただ求めなさい、探しなさい、叩きなさいと語られる。

 7節に続いて8節以下を読んでいくと気づかされることがあります。それは求めるものには与えられるという主イエスの確信です。信頼。しかも11節まで読むとこの求めるものに天の父は良いものをくださる、とあって、これは祈りの話なのだ、ということに気づくのです。何か、一般的な意味で、求め続けて生きなさい、と言われているのではない。神に対する祈りの話なのです。

 つまり今日の聖書箇所は神に祈り求めなさい、と繰り返し語っているのですが、その根本にあるのは、天の父は祈るものに良いものを与えてくださる、ということ、そのことがあってわたしたちの祈りが求めの道が拓かれるのだ、ということです。昨年の1月に行われたこの教会の修養会で『祈りについて』お話ししましたが、その際最初に申し上げたことがあります。

 祈るというのは、それだけ見れば、人間の行為です。しかも人間の中には大なり小なり、自分を超えた存在に対する思いがあって、祈るということは小さな子どもも、大人もする。そういう人間の中にある宗教的な感情としての祈り、そこから祈りというものを考えていくアプローチもありますが、聖書はそういう祈りということは根本語っていないので、そういうアプローチはしません。というお話です。聖書が語るのは、主イエスによって示された、主イエスが語られた祈り、主イエスが求めなさいと言われたその祈り、そこから話をします、ということでした。これはわたしたちが祈りということを考える時に、とても大事なことで、ここでボタンを掛け違えると、後々全く違う話になってくる。

 今日の聖書箇所の背後には言うまでもなくキリストの祈り求めるものに神から良いものが与えられる、という確信があります。わたしたちはこれをまず受けとめる必要があります。キリストの父なる神への深い深い信頼です。「誰でも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる。あなた方の誰が、パンを欲しがる(求める)自分のこどもに、石を与えるだろうか。魚を欲しがる(求める)のに、蛇を与えるだろうか。このように、あなた方は悪いものでありながらも、自分のこどもには良いものを与えることを知っている。」9節と10節はある種の比喩、たとえです。パンを求める自分のこどもに石を与えたり、魚を求める自分のこどもに蛇を与えたりするだろうか、そういう疑問文になっている。それはないだろう、答えが前提の疑問文です。確かに親だって子供が求めているものがほんとのところよくわからず、全く違うものを結果的に与えるということはあるかもしれない。しかし根本のところで、こどもに良いものを与えたいと思うだろうというのです。そしてそれに続くのは、あなた方は悪いものでありながらも、自分のこどもには良いものを与えることを知っている、という主の言葉なのです。ある意味驚くのですが、わたしたちのことはストレートに悪いもの、とはっきり言っているのです。多少悪いとか、ちょっとはいいところがある、という話ではない。悪いのです。神の前でわたしという人間は悪いのです。どうしようもない罪人なのです。そんな悪いものでも、自分のこどもには良いものを与えるではないか、というのです。悪い人間でもそうなのだ、「まして、あなた方の天の父は、求めるものに良いものをくださるに違いない。」新共同訳は少し意訳してあるので、直訳すれば、「まして、あなた方の天におられる父は、求めるものに、よいものを与える。」違いないではない。良いものを与える、なのです。悪い人間においてすらこうだ、いわんや神においては、とキリストは語るのです。この「まして」は6章30節に出てきた「まして、あなたがたにはなおさらではないか」という時の、あの「まして」です。比較を絶した「まして」です。

 ここでキリストが語っておられるのは、まさに比較を絶した「まして」なのです。悪い人間だってこれだけのことをする、それなら神はわたしたちに対してどれほど良いものを、大事なものを、与えて下さることか、そのことを受けとめそこなってはならない、とキリストは強く強く語っておられるのです。このキリストの神のへの信頼こそがわたしたちの祈りの根拠なのです。わたしたちの信仰心から発せられるものではないのです。

 わたしたちの中には熱心に祈り求める時も、祈りは聞かれないと思う時も、祈ることは大事だと自分に言い聞かせながら祈り続けている自分もいるでしょう。自分としてみれば、そこに嘘はない。しかし、わたしたちのキリスト教信仰における祈りの根拠は、自分の中にはないのです。キリストが弟子たちに向かって、わたしたちに向かって、求めなさい、祈りなさい、と言われるから、そしてその背景には神は求めるものに、祈るものに良いものを与えてくださるからだ、という主の断言があるのです。そのキリストに信頼し、キリストの信実に促されて、わたしは祈るのです。

 そしてこの祈りは、わたしたちが求めることで、探すことで、叩くことで、はじめて神が動き出すというような性質のものではない。

 6章の主の祈りの前にキリストが言われたように「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ」、という神に向かう祈りなのです。つまり、わたしに必要なもの、わたしにとってなくてならぬもの、大事なこと、そのことを重々承知の方であり、事実与えてくださっている方なのです。

 わたしたちは、ふと思うのです。どうして私に必要なものを神がすべて御存知なら、わたしが祈る必要があるのか。求める必要があるのか、と。

 それは、わたしたちが神が差し出し、与えようとしてくださっていることに、気づき続けていく必要があるからです。

 ただ神が与えてくださるからそれでいいじゃないか、というようなものではない。少し難しい言い方をするなら、この与えられるものは、神との関係性の中で受け取る必要があるからです。最近の宅配便の中には家の前に荷物を置いて手渡さない、置き配と呼ばれるものがありますが、神から与えられる良いものは、置き配ではない。神との関係の中で、つまりわたしたちから言えば神と向き合い、神の恵みを受けとめながら、その与えられるものを受けとらなくてはならないのです。だから。求め続ける必要があるのです。祈り続けて、今この時私の生活の中で、あなたが必要と思われる良きものを与えてください、と祈る必要があるのです。探す必要があるのです。わたしたちに即して言えば、み言葉に聞き、み言葉において神が示される良きものを探し続ける必要があるのです。

 叩く必要があるのです。それは天の扉だ、という人もいます。終末の救いの完成の時の扉を叩き続けていく信仰を与えられていく必要があるのです。

 そうすれば、神はその関係性の中で、必ずあなたに良いものを与えてくださる。

 12節の言葉はここで唐突な印象を与えます。7節から11節と繋がっていないのでは、と思うのです。事実、12節だけ独立して読むという人たちもいます。しかし、7節から11節とのつながりの中でこの12節を読むと、あらためて大事な視点が示されます。それは、この7節から11節の根底にあること、キリストがわたしたちに確信として伝えておられること、神はわたしたちが悪いものであっても、罪人であって、神に叛き続けるものであっても、わたしを愛し、わたしがその愛の中で生きることを深く望まれ、このわたしの求め祈りを受けとめ、よいものを与えてくださる、そのような方としてわたしに関わっていてくださる、ということです。そのことにわたしがいささかでも気づいていくのなら、その良きものを受けとっていくなら、わたしたちの生き方、歩み方、生きている在り方は、たとえどんなに貧しくとも、神の愛に応えて相手を愛する方向へと向かうだろうということです。キリストがここで、「人にしてもらいたいと思うこと」は究極、神があなたのためにすでにしてくださっていること、が根本にあるのです。本当にわたしたちが相手からしてほしいことの信実は、神がわたしのために成してくださっていること、なのです。その愛を、その恵みを受けて、その方向に向かっていきなさい。それは祈りが、神の信実の中で、神の恵みを受けて為されるように、神の愛を受けてそれに応えていく、という意味で同じことなのです。

 12節の言葉は唐突ではなく、キリストの中で深く祈りと繋がっているのです。

 祈る時、ときにわたしたちは今日の聖書箇所のキリストの言葉を思い起こしたいと思います。そしてこのわたしに良いものを与えてくださる神がおられるという信頼と感謝の中で、祈り続け、求め続けるわたしでありたいと思います。