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マタイによる福音書連続講解説教

2024.2.25.受難節第2主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章15-20節『 よい実を結ぶ木 』

菅原 力牧師

 主イエスの山上の説教に聞き続けていますが、前回申し上げたように、5章から始まり7章で終わる山上の説教ですが、7章の12節までが説教の本体で、13節からは説教の結び、纏めの役割を果たしています。

 今朝ご一緒に聞きます15節からの部分も、山上の説教の全体と深くかかわりながら、語られています。

 15節「偽預言者に警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなた方のところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」今日の聖書箇所はこう始まっています。主イエスのもとに集まっていた弟子たちに語られた言葉ですが、マタイによる福音書が編纂されたときには、弟子たちへの言葉は同時に信徒の群れ、教会に語られた主の言葉として聞いていたと思います。

 こういう語りかけからわかるのは、弟子たちの群れ、信徒たちの中にも偽預言者が入り込んできたということです。

 主イエスが地上におられたときも、十字架にかかり甦って天に昇られてからも、弟子たちの群れは、そして教会はさまざまな指導者によって導かれもし、惑わされてもきたのです。わたしたちは偽預言者と聞くと、まちがった教えを語る悪い人、と思い浮かべるかもしれない。確かにそれとわかる質の悪い偽指導者もいたでしょう。しかし、本人はいたって真面目、大事なことを伝えていると思っている偽預言者もたくさんいたと思います。自分が偽物だと思っている人はともかく、自分は真実に仕えていると思っている人であれば、これを見きわめるのは難しい。教会は長い歴史の中で、こうしたことのためにも職制というものを整え、福音を正しく宣べ伝えるための制度、教職制度のみならず、長老制度や監督制度というものを整えてきたのです。しかしそれでもいろいろな課題はあります。まして主イエスの時代、キリスト教が生まれていく草創期、いろいろな人が指導者と自称して、信じる者たちの群れの中に入り込んできたのでしょう。

 そうした偽預言者に警戒しなさい、と主イエスは言われる。しかしどの預言者が偽で、どの預言者が偽でないのか、わたしたちが思う以上遥かにその識別はむずかしいのです。悪魔はいつも悪魔の顔をしてくるとは限らない、という言葉がありますが、まさに羊の皮を被った狼として、やってくるのです。

 そのことで主イエスはこう言われた。「あなた方は、その実で彼らを見分ける。」木ではなくその木から生じる実で見分けていくのだ、と主は言われた。「茨から葡萄が、薊から無花果が取れるだろうか。すべてよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」言われていることはわからなくはないのですが、いろいろな疑問が湧いてくる主の言葉です。

 まず、実とは何なのか。これは一種の譬話でしょう。わたしたちは木ではないし、茨でも薊でもない。いうまでもなく一種の比喩です。偽預言者を実で識別するというけれど、それはもちろんわたしにもかかわる事柄です。わたしもキリストの言葉に聞いた者として、実が問われるということです。つまり、人はその存在を実で問われるということです。いろいろな仕事をした、いろいろ勉強をした、いろいろな人生経験を積んだ、しかしその人が結んだ実、その実でその人という存在が本当のところわかる、ということでもあります。じゃあいったいその人から生じる実とは何なのか。実という言葉で何を言わんとしているのか。今日の聖書箇所には、そのことの直接的な説明はない。無いために古来、この「実」を巡ってはさまざまな議論があります。無いということは、前後の関係から読み取る、ということになりますが、ここで最初に申し上げた山上の説教全体との関連性の中で理解していく、という視点が重要になってきます。

 山上の説教は、イエス・キリストの恵みを受けること、救いを受けること、そのことがまず語られ、そしてキリストの恵みを受けたものの歩み、恵みに感謝し歩みだしていくその歩みを語りかけています。心の貧しいものは幸いだ、天の国はその人たちものである、悲しむ人たちは幸いだ、その人たちは慰められる、というキリストから与えられる福音による幸いが語られ、福音によって神さまの恵みの支配の中に置かれることを語った後、平和を実現する人々は幸いだ、義のために迫害される人たちは幸いだ、福音を受けたもの、福音によって活かされていくものの歩みが語られていました。その部分と、今日の聖書箇所は深く呼応しているです。

 わたしたちは弟子たちと共に、この山上の説教で何よりもまず、主イエスの祝福の言葉、福音の言葉に聞くのです。そしてキリストの救いの出来事そのものによって救われている自分を知らされるのです。そして恵みを受け救われている自分を生きるのです。けれど、その恵みに活かされ、み言葉に聞いた者として、恵みに応答して歩んでいるか、と言えば、心許ない。ましてや「実」という言葉を聞くと、イコール「実践」と思い込んで、わたしの応答としての実践なんてとても貧相だ、と思ってしますのです。

 ここでの話は偽預言者を巡っての話です。しかしそれは他人事ではない。実で彼らを見分けるということは、わたしもそうだということです。さらに驚くのは、「すべてよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」という言葉です。そもそも自分が良い木だというような自覚はない。けれどここで言われるように、悪い木は悪い実を結ぶと断定されると、良い木とは言えない自分がいる以上、わたしからは悪い実しか結べないのか、と思わざるを得ないのです。

 

 最初に申し上げたようにこの箇所は山上の説教全体の結び、纏めです。そうであるならば主イエスはここで、福音に聞くこと、恵みを受けることと、それによって活かされて歩むことの関係性を、繋がりをもう一度改めて語っておられるのでしょう。もう一度、そして何度でも受けとめさせられるのは、偽預言者だけでなく、弟子たちもそしてわたしたちも、自力ではよい木になれない、ということです。わたしは一人の罪人です。内に悪を抱えた人間です。内側にどん欲な狼と言えるかどうかは別として、なにかを抱えている存在です。悪い木がよい実を結ぶことができない、ということは自分の人生を通して経験知としても身に沁みてわかるのです。

 しかしわたしたちはイエス・キリストに背負われているのです。担われ、十字架においてキリストがわたしの罪も悪も、わたしに代わって負ってくださったのです。そして赦され活かされているのです。このキリストに繋がっていることによって、わたしたちはよい実をキリストによって結ばせていただくのです。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方に繋がっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」ヨハネによる福音書のキリストの言葉です。キリストに繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができない、とキリストご自身が言われておられるのです。その場合の実はまさしくここでいうよい実です。自分の力では、よい木になることも、よい実も結ぶことができないわたし。しかし、キリストに繋がっているなら、豊かに実を結ぶことができるのです。

 キリストにつながる、とヨハネ福音書でキリストが語っておられること、それはどういうことでしょうか。「わたしにつながっていなさい」とある繋がるという言葉は、元の言葉で、内にあるという言葉です。キリストの内にある枝、内在ということです。

 内にあるとは、キリストの愛が、キリストのみ言葉が、わたしのうちに染み入ってわたしの内部の最も深いところにその愛が到達したとき、そしてその愛がわたしのうちにとどまる時、人間はその愛によって生きるのです。それは、キリストの愛がわたしのうちにあって生きるということであり、同時に、わたしがキリストの内に生きる、ということなのです。キリストの愛がわたしの最深部にとどき、その愛にわたしがとどまる時、わたしはキリストの愛に生きる。それは同時に、わたしがキリストという方の愛の中で生きることであり、相互に内在するということであり、それが繋がるということなのです。

 キリストは今日の聖書箇所でよい木はよい木であり、悪い木はしょせん悪い木なのだ、そして悪い木からは悪い実しか結ばないのだ、というただたんに宿命を語っているのではない。そうした人間の現実を知りつつも、その人間の現実を全て負って、十字架にかかり、罪の赦し、新しいいのちへと招き給う主イエス・キリストの愛、信実がわたしたちの根底にあること、そこにこそわたしたちは招かれ、そこでこそまことわたしたちも生かされていくこと、その呼びかけが、この聖書箇所の底に流れているのです。だから、切り倒されて火に投げ込まれる、というような表現は、それ自体を強く訴えているということではなく、だからこそ、あなたは主イエスの恵みに立ち帰り、キリストに繋がって、実を結んでいきなさいと語りかけているのです。

 古来、「実」とは何か、ということでさまざまな議論があると申し上げました。あれだ、これだ、とさまざまに言われます。しかし大事なことは実とは何か、という議論ではなく、キリストに繋がって生きることなのです。あなたはあなたとして、キリストに繋がって精いっぱい生きればいい。そこで神さまは何らかの実を結んでくださると、信じて歩めばいいのです。