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マタイによる福音書連続講解説教

2024.3.3.受難節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書7章21-23節『 神の御心を行う者 』

菅原 力牧師

 山上の説教をずっと読み進んできていますが、この説教にこんな厳しいことが書いてあるのか、と思われた方もいらっしゃると思います。

 しかも、その内容が厳しいというだけでなく、語り口というか、物言いが厳しい。前回読んだ偽預言者の聖書箇所以上にここでの主イエスの語り口は厳しい。なぜ主イエスはここでこんなにも厳しい物言いをされているのか、その主イエスの思いを思い巡らすことも大事です。

 21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』というものが皆、天の国に入るわけではない。」前回読んだところは偽預言者を警戒しなさい、ということから始まっていました。とすれば単純に考えると、偽預言者の中には『主よ、主よ』と呼びかける人がいたのだろうと思えます。口先では「主よ、主よ」と呼ぶのだが、そういうものが皆天の国に入るわけではない、というのであればよくわかります。しかし先週も言ったように、この偽預言者をある特定の一部の人々のことだと、決めつけるわけにはいかない、とすれば、主が言われたのはもっと根本的なことなのではないでしょうか。

 『主よ、主よ』主イエスに向かって呼びかけること、それ自体悪いことでも、咎めることでもないはずです。しかしそれが問題となるとすれば、「主よ」と呼びかけることが形だけのことになったり、キリストへの信仰もないままに、なんの中身もない習慣のようなものになったり、ということが問題なのでしょう。ところが主イエスはここで、「わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」と語ってこられるのです。どんなに主に呼びかけても、天の父のみ心をおこなわなければ、天の国には入れない、と言われるのです。これは誰が読んでも胸に応えます。

 ここにはかなりの飛躍があるように感じます。いきなりのジャンプのようなものです。主よ、主よ、というものが皆天の国に入るわけではない、と言われて、その主よという呼びかけに、その人の信仰からの呼びかけがあるのかどうか、という話になるのならわかります。しかしいきなりそれを飛び越えるように、「わたしの天の父のみ心を行う者だけが入るのである」と語られるのですから。

 これは正直抵抗を覚える人もいると思います。なぜならわたしたちは行いなしに救われたからです。何かをしたから、立派な行動をしたから、立派な人だから、キリストの十字架で救われたのではないのです。何もしないでも、罪人のまま、救われたのです。それなら何か特別なことはしなくとも、主よ、主よ、と呼ぶことができるのではないか。そう思うからです。主イエスは山上の説教の最後でどうしてこういう言葉を弟子たちに語られたのでしょうか。

 ところがこの短い聖書箇所を読んでいくと話はさらにややこしい展開になっていきます。主イエスが問題にしておられるのは、口先だけで主よ、主よと呼びかける人だけではない。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。

 つまり、主よ、主よと呼ぶ人々の中には、終末の審判の時に我々は、イエス・キリストのお名前によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡をおこないました、と言って自分の行為、こんなことも、あんなこともしました、と言って誇る人がいるというのです。

 それはそうでしょう。天の父のみ心を行う者だけが天の国に入れるというのですから、わたしたちはキリストのお名前によってこんなに善い事をしました、という人々が続々と出てくる、というのです。わたしたちもこれほど露骨ではないとしても、あの人は信仰的に立派な行いをした人がいたら、あんなに善い事をした人だから、まちがいなく天国行きだ、というような考えをしているかもしれません。

 ところが驚くべきことに、主イエスはその人たちに向かってきっぱりとこういう、と言われるのです。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」一蹴するような言葉でこの人たちを退けるというのです。いったいこの人たちの何がいけないというのか。

 手掛かりとなるのは、不法を働く者ども、と主がその人たちのことを読んでいる、ということです。この場合の法はユダヤの律法のことです。主はユダヤの律法を廃棄するために来たのではなく、成就するために来た、と言われましたが、その律法の中で何が大事なのですかという問いに対して主は神を全力で愛することと、自分を愛するようにあなたの隣人を愛することだ、と言われたのでした。つまりどんなに律法を守っていても、神と人とを愛することがないのなら、それは根本不法だと主は言われるのです。

 それはすなわち、行いが大事だと言っても、それはたんなる業績主義とは違いということでしょう。どれだけ世のなかに、人々に貢献したかが計られるというのでもない。預言とか、悪霊の追い出しとか、奇跡とか、おそらく当時の宗教的な行動行為としては、もっとも人々に訴える力のある、大きな力だったでしょう。まさに実績とされやすいものだったでしょう。事実人々は、自分の行為行動は棚に上げて、悪霊を追い出したり、奇跡をおこなったりする人々を絶賛したのではないか。

 しかしキリストのまなざしは、行為の大きさや力に向いていたのではない。

 神の愛に活かされ、キリストの愛の中にある自分を知って、その愛から生きることこそ大事なことなのです。

 先週わたしたちは「わたしはまことのぶどうの木」という主のみ言葉に聞きました。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方に繋がっている。ぶどうの枝が、木に繋がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方もわたしにつながっていなければ。実を結ぶことができない。」その際、つながるというのは、内にあるということだというお話をしました。内にあるとはキリストの愛が、わたしのうちに染み入って、わたしの内部の最も深いところに到達したとき、そしてその愛がわたしのうちにとどまる時、それが内にあるということなのです。そして、そのとき人はその愛によって生きる、というお話をしました。わたしの内部の最も深いところ、というのはわたしという人間が根本罪人であって神の前で、まこと貧しい罪人にすぎない、ということ、そこにキリストの愛が、十字架の愛が到達する、ということです。

 つまりわたしの中にあって、この貧しい罪人のひとりにすぎないわたしを今ここで、キリストの愛が、恵みが、信実がわたしを負って支えて活かしてくださっている。そのことが染み入ってくるのなら、感じられているのなら、キリストの愛はわたしの最深部に来てくださっているのです。届いているのです。その事実にとどまる、その事実を受けとめ続けていく、それがキリストにつながるということです。その時その人の歩みは、この貧しいわたしがキリストの愛に活かされて、恵みに応えて貧しくても神さまに用いられて歩んでいく、というものになっていきます。

 預言をした人、悪霊を追い出した人、奇跡をおこなった人、当時の社会にはさまざまな形で、そうした人たちがいたのでしょう。しかしそこに、わたしがやったという思いが頭をもたげてくる、「行ったではありませんか」といういい方はすでにそうなのでしょう。そのとき、どう立派な行いをしたのか、力あるわざをしたのか、その人はそこにアクセントを置いているかもしれないけれど、キリストは違うのです。神に繋がり、キリストに繋がる中で、その人が実を結んでいくその実をキリストはご覧になるのです。立派な行い、偉大な仕事、それ自体が今ここで問題になっているのではない。もしそれがキリストという気に繋がっていないのなら、それはただ自分の木から生まれた自分の実なのです。キリストに繋がって結ばれた実ではない。自分の力で作り出された実は、その人の実なのであって、キリストに繋がって結ばれた実ではない。だからその人のことは知らない、とキリストは言われるのです。

 かの日に審判者がご覧になるのは、キリストに繋がって結ばれた実なのです。それはわたしたちから見て、大きなわざでも、行為行動でもないかもしれない。むしろそれは小さなわざなのかもしれない。例えばわたしたちは教会でも成果が上がることをよしとする傾向があります。しかし、成果より大事なことがあることを忘れてはならないでしょう。キリストに繋がり、生きること、小さなわざ、日常の業、成果がなかなか上がらない業、どんなことであっても、あなたとしてキリストの愛から押し出されて生きて自分なりに行っていく。そこでわたしたちには測りがたいキリストによって結ばれる実があることを信じて生きることが必要です。主よ、主よ、と呼ぶ話から、とても大事な話が展開されていきました。しかしこれが山上の説教全体にかかわる大事な話なのです。キリストの言葉を聞き捨てにしない、ということです。聞いて、結局、その言葉がどこかに行ってしまう、そういう聞き方生き方ではない聞き方にキリストはわたしたちを招いておられる。キリストの言葉を聞き捨てるような生き方はダメだ、と言っておられるのです。それが強い語り口になっておられる。

 主イエスの言葉に聞いて、キリストに繋がって今日一日を歩んでいきたいと思います。