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教会暦・聖書日課による説教

2024.3.17.受難節第5主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書14章15-24節『 神の国に招かれる 』

菅原 力牧師

 受難節の第5の主日を迎えました。今朝は教会暦の聖書日課によって示された聖書箇所に聞いて、神を礼拝してまいります。

 主イエスはある時、一緒に食事をしていた人に向かってたとえ話を話し出されました。ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人たちを招いたのです。宴会の時が近づいたので、僕を送り、準備が整ったのでおいでください、と丁寧に再度のお招きを知らせたのです。これは当時の宴会を開くような人々の間では習慣として行われていたことでした。

 ところが招かれていた人々は、次々とその日、その時になって招待を断ったのです。ある人は畑を買ったので、見に行かなければならないと言い出し、またある人は牛を買ったので調べに行かなければならないと言い、また別のある人は妻を迎えたばかりなので、行くことができないと言って、それぞれが招きを断ったのです。

 しかも断ったのは、その宴会の当日ですよ。

 僕たちは帰って直ちに主人にそのことを報告しました。すると主人は怒り、僕に命じたのです。「いそいで町の広場や路地に出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見ないもの人、足の不自由な人をここに連れてきなさい。」僕は主人の言うとおりにしました。しかしまだ席が空いていたので、そのことも主人に伝えました。すると、主人は「通りや小道に出ていき、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれ。」と言ったのでした。これがたとえ話の内容です。

 主イエスはこのたとえ話で何を語ろうとしておられるのでしょうか。これまでにもお話ししてきたようにたとえ話の多くは、神の国、神さまの支配、救いの完成の時、終末の約束の神の国を語ろうとする譬なのです。しかも、その場合、「たとえ話」は必ずしも何かをわかりやすくするために語られるのではない、ということを知る必要があります。何かをわかりやすくするのではなく、むしろたとえ話を通して、あれこれ考えさせ、固定観念や常識を揺さぶり、覚醒させようとする、そういう働きがたとえ話にはあるのです。

 このたとえ話も、不思議な内容の譬話です。宴会に招いていた人たち、その人たちが次々に断ってくる、というのも変な話です。第一、その断る理由が、畑を買うだの、牛を買うだの、前からわかっていた話なのではないか、と思えるのです。妻を迎えたばかりなので、という理由に至っては、それと宴会とどう関係があるんだ、と言いたくなるような理由です。ところが驚くのはその後です。招いていた客が断ってきたからといって、見ず知らずのような人を招くということは、しないことです。見ず知らずの、誰彼構わず、広場や路地で声をかけて、呼んでくる。そんなことは普通しないですよ。そもそも宴会を開くということは、何らかの目的とか、意図があってのことです。そのためのふさわしい招待客だったはずです。しかし招待客が断ってきたからといって、誰彼構わず呼ぶというのは、常軌を逸している。僕たちの中にはご主人は頭がおかしくなったのではないか、と思った者もいたのではないか。

 この招き方が異常です。そしてこの異常な招きが、このたとえの本体です。中心にある部分です。たとえには、何らか強調された部分、常ならざる部分があるものが少なくないのですが、このたとえにおいてはこの主人の招き方がその部分になるのです。そしてそれが神の国を何らか例えているのです。

 とすれば、神の招きは驚くべき招きであり、わたしたちの目から異常とも思える招きだということです。神の招きはわたしたちの想像を遥かに超えている。常識を超えている。神の招きの前でわたしたちの理屈など通用しない。だからこの神の招きにわたしたちの言葉でもっともらしい理屈をつけることはできない。神の招きの基準は、と説明することができない。むしろこのたとえで大事なことは、神の尋常ならざる招きの前で驚くことそのもの、なのです。

 わたしは神の招きにふさわしくない、と真顔で言う人がいます。しかしその人は神の招きを自分で判断してしまっている。まるで自分が神の招きの判断基準を知っているかのように。神の招きは、神ご自身の自由な判断と意思によるもので、今わたしたちにはわからない。だからわたしたちにとって必要なのは、神の判断基準を探ることではなく、神の招きの前で謙遜であることなのです。

 このたとえによって示されているのは、主人の招きは招く人に根拠がない、ということです。わたしたちの招きはその人が招くに足る人だから招くのです。この宴会にふさわしい人を招くのです。結婚式の招待は、親戚縁者だから、友人だから、お世話になった方だから、とお招きする根拠がその人にあるのです。だから呼ぶのです。しかしここでは広場にいた人、路地にいた人、通りを歩いていた人、小道を歩いていた人、無理にでも連れてきなさい、という不思議な招き方です。呼ばれた方も、なぜこの自分が招かれたのか全く分からない、という招き方です。

 なぜこのわたしが神の恵みに与る招きに入れられたのか、わからないということです。例えばわたしたちは自分が神に招かれたのは、クリスチャンホームに生まれたからとか、親や友人が教会に行っていたからとか、ミッションスクールに行っていたからと理由づけをしたり、原因を探ろうとしたりします。確かに、それは大事な要因の一つかもしれません。しかし簡単に言うと決定打ではない。わたしたちが神の恵みへと招かれたのは、どんな人間的な理由や原因があるにせよ、その根底に神の招きがあるのです。そしてその神の招きの基準はわたしにはわからないし、知る必要もないのかもしれない。

 今日の聖書箇所は14章の冒頭から続くひとまとまりの話の一部です。安息日に主イエスがファリサイ派の議員の家に入ったことで起こってきた一連の話の中でのことでした。このたとえ話もファリサイ派の人たちに向けて語られた話でもある、といっていいと思います。

 この人たちは平たく言えば、神の招待を既に受けていると自任している人たちでした。律法を最も厳格に守り、生活を律している人たち、それがファリサイ派の人々でした。この人たちはもう自分は神から招待状を受け取っていると自任していた人たちです。

 キリストが語るたとえ話は、この人たちに対して、それは誤解だ、と語っているのではないでしょうか。神の招きは、招かれる理由がわたしたちの側にはない。根拠がないのです。それなのに自分はこれこれの理由でもう招待状を受け取っている、というところに胡坐をかいているのは、誤解だ、といっておられるのです。

 このたとえ話には、招きを受けた人たちの応答の姿が描かれています。一方では招かれていたのに、間際になって断った人たち。招きに一旦は応えつつも、直前になって断った人たちです。招かれた、しかし自分からその機会を放棄してしまった人たちです。他方で、通りを歩いていて、訳も分からずに宴会に呼ばれた人たちがいます。わからないままに、呼ばれたのです。同じようなたとえがマタイによる福音書に出てきますが、実はよく読むと、微妙にアクセントは違います。この福音書ではあくまでも主人の招きそのものにアクセントが置かれています。ということは、このたとえ話は、あなたはこの招きにどうこたえるのか、静かにしかし強く問いかけているのだと思われます。

 しかし、なぜ、受難節にこの聖書箇所を読むよう定められているのでしょうか。そのことを思い巡らしながら、この聖書箇所を繰り返し読んでいくと、それは、キリストの十字架が神の招きに他ならないということにあらためて気づかされていきます。神のわたしたちに独り子を与えて、その独り子がわたしたち共に歩み、人間の罪人としての痛み、苦しみ、悲しみ、罪そのものを、キリストは負い、最後には十字架にかかっていかれる。その全部が神からの招きなのです。強烈な、神の招きです。あなたと共に在り続ける、あなたという存在を全て背負うという強烈な、熱情に満ちた招きなのです。あらためてなんという招きかと思います。

 尋常ならざる招きなのです。

 この招きの前で、鈍感なわたしはいないか。この強烈な、愛に満ちた、招きの前で、自分の事情を優先して、招きに応答することを後回しにしている自分はいないか。神の信実に対して鈍感で、突然降ってわいてきたかのような招きだと勘違いしている自分はいないか。

 キリストの十字架は、神の招きそのもの。受難節のこの時、わたしたちは神の招きに謙遜に応えるものとされたいと、思うのです。