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教会暦・聖書日課による説教

2024.3.24.枝の主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書19章28-44節『 主がお入り用なのです 』

菅原 力牧師

 棕櫚の主日を迎えました。今朝は教会暦の聖書日課に従って、与えられたみ言葉に聞いて神を礼拝してまいりたいと思います。

 さて、今日与えられた聖書箇所、ルカによる福音書の19章には、主イエスがエルサレム入りしたそのようすが記されています。主イエスがエルサレム入りしたこの時のことをエルサレム入城といいます。エルサレムを一つの城郭都市として捉えて、入城と呼ぶのですが、いろいろな意味が重層的に込められているようで、そのことについては、後ほど触れたいと思います。

 主イエスが十字架にかかる前にエルサレムに入られた、その入城の場面は四つの福音書全てに記されていますが、よく読むとそれぞれに記述は違いますし、視点が異なるものもあります。ところがしばしば、主のエルサレム入城はそれぞれの聖書箇所の内容をごっちゃにして記憶されているという面があります。ちょうどクリスマスの出来事もマタイ福音書と、ルカ福音書ではそれぞれの視点と特徴があるのに、博士も出てくる、羊飼いも出てくる、そういう一つの物語として記憶されてしまう、ということと似ています。しかし、今日は与えられたルカ福音書に即して、主イエスのエルサレム入城という出来事に心を向けて聞いてまいりたいと思います。

 ルカ福音書の19章には、この入城の記事の前に王の位を受けるために遠い国に旅立ち、帰ってきた人の譬が語られています。

 どうして主イエスはご自分がエルサレム入りされる直前にこのようなたとえを語られたのか、あるいはルカはどうしてこのように構成したのか、そのことを考える必要があります。このたとえ話、マタイによる福音書にはタラントンの譬として出てきますが、実はこの二つの譬はよく似た語り口のようで、内容的には全く違う譬話です。マタイの方は、託されているものを活かして用いよ、という話ですが、ルカのここに出てくる話は、先ほども申し上げたように、「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために遠い国に旅立つ」ということから始まる話です。わたしたちにはすぐにはぴんと来ない話ですが、聖書の時代、王の位を授けるのは、ローマ帝国の判断によるものでした。したがって誰が次の王位につくか、ということは、その国の人間が決めるのではなく、ローマの判断を仰ぐ必要があり、そのために王家の人々の間ではさまざまなバトルが引き起こされたのです。自分からローマに王位を授けていただきたいと言いに行く、しかし一方、国民の中からは、この人を王にしてほしくない、という陳情が出されることもあったのです。まさにこのたとえの中にそのことが出てくるのです。

 このたとえの中の人物は国民から嫌われていた。しかし彼は王位を受けて帰ってきた。そして帰ってくると金を渡しておいたものを呼び、貪欲に請求するのです。そして自分が王位につくことを反対した者たちを打ち殺せと命ずるのです。マタイのタラントンの譬とは、明らかに違う内容を持った譬話であることはよくわかるだろうと思います。これは貪欲で復讐する王の物語です。しかもこの人が新しく王位についた、そういう話なのです。

 そしてこのたとえ話の後に主イエスはエルサレムに入城するのです。ルカは明らかにこの二つの話を並べて読むようにわたしたちを招いているのです。一方で人々を収奪し、自分の利益のために人々を支配し、自分に反するものは殺そうする王。

 一方で子驢馬にのり、人々の痛みを負い、罪を負うために十字架に向かっていくために弟子たちと共に入城する王。このコントラスト・対比をルカはここに描き出すのです。もう一つ、これは最初に申し上げた入城、ということに関わることなのですが、古代の記録によれば、この時代、王や軍の将軍が古代都市に入城する、というのは、戦いに勝利して、城・都市に入ることで、そこで動物の犠牲を払ってその都市が、自分の支配に属するものであることを示すデモンストレーションであったわけです。それが入城ということで、人々が知っているイメージだったのです。それしか知らないと言ってもいい。そういう支配者である王の入城というものと、一方で主イエス・キリストの入城。その強烈なコントラストがここに描かれているのです。よく読んでみる必要があるのですが、マタイでは主イエスのエルサレム入城を多くの群衆が迎えています。自分の服を敷き、木の枝を敷き、ダビデの子にホサナ、と叫んで主イエスを歓迎したのです。マルコもヨハネも同じように歓迎しています。しかしルカではエルサレム入城で自分の服を敷き、主を讃美したのは、弟子たちだけだったのです。ルカは王たちの入城と、主イエスのエルサル入城との違いを際立たせているのです。

 古代の王たちの入城。それは力でねじ伏せて、暴力という戦いで勝利して、占領した地域に入城する王とその軍隊。そしてそれを迎え入れる群衆。それは喜びに満ちているとはとても言えない。しかしそうしなければならない、支配されていく者たちの苦悩が王たちの入城、ということの中にあったでありましょう。しかし今エルサレムに入城しようとしている王は、人々が知ることも無い「王」なのです。確かに弟子たちが旧約の言葉をなぞって、王と呼んでいるのですが、果たして王としてイメージできたのか。

 そもそも、ルカ福音書によれば、エルサレムの住民は誰も主イエスのことを王とは呼んでいないのです。確かに十字架上で苦しむイエスを見て兵士たちがユダヤ人の王と、揶揄した、言うまでもなくそれは、貶めていったのです。エルサレムの入城の際、声高らかに神を讃美したのは、弟子たちだけで、エルサレムの人々は何も語らない。沈黙なのです。それはそうでしょう。子驢馬にのって、ふらふらして入ってくる、護衛の兵も一人もいない、そんな人を誰が王と認めようというのか。何も古代だけではない。現代を生きるわたしたちも、王とか、民を治めるものとは、力があり、権力があり、軍事力で相手と対峙する、そういうイメージを払拭できていないのです。

 

 主イエスがエルサレム入りされる際に、弟子たちに入城のための準備を指示されています。旧約の言葉の実現、成就という意味で、旧約聖書にしるされた手順を踏んでいるのだ、と言われています。しかしそれはどういうことなのかといえば、神の御意志のままに、ということです。旧約のみ言葉に沿ってということは、神の御意志のままにエルサレムに入城されたということです。

 そして神の御意志のままの王とは、世の王とは全く似ても似つかぬ形の入城であり、人々が全く知らない王であり、この王の姿こそ、十字架を遥かに指差すものであったということです。

 弟子たちは、こぞって自分たちがこれまで見た主による奇跡のことで喜び、声高らかに神を讃美しました。『主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光』。弟子たちは旧約聖書の言葉を引いて、主イエスが王であることを讃美したのです。そして主が降誕されたとき、天の大群が讃美したあの言葉で神を讃美した。弟子たちもこの時イエス・キリストがいかなる「王」であるのか、見誤っていたのではないか。どうかで、力「王」を弟子たちも待ち望んでいた。

 

 この入城の様子を見ていた群衆の中には、ファリサイ派の人々もいて、主イエスに対して、弟子たちを叱ってほしい、と言ったのです。ファリサイ派の人々がこういうことを言った理由はいくつかのことが考えられますが、一つには、イエスを王などと呼ぶな、ということです。それはユダヤの王を刺激することであり、ひいてはローマを刺激することになる。そうでなくてもユダヤとローマの関係は緊張しているのに、ローマが何の判断をしていない、訳の分からない男を王と呼ぶことは宗教的な混乱だけでは話は済まなくなる、やめてくれ、ということだったのだと思います。

 しかし、主イエスは、そのファリサイ派の言葉に対して、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」と言われたのです。この主イエスの言葉はいろいろな意味がこめられ言葉です。旧約聖書の引用ということもあり、洗礼者ヨハネの言葉「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちをつくり出すことがおできになる」に重ねた言葉でもあり、やがてエルサレムが崩壊することをご存じで、その瓦礫となった中からでも、キリストが王であることを讃美するものが生まれてくる、ということでもあったり、重なり合っている言葉です。

 

 エルサレムに入城された主イエスは、都を見て、泣かれたというのです。この涙は、この福音書において主が十字架をまさに背負って、ゴルゴダに向かって歩いていかれるとき、それを見て嘆き悲しむ女性たちがいた、その時主がその女性たちに言われたこと、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ自分と、自分のこどもたちのために泣け。」という言葉と繋がる涙です。

 エルサレムは神の都。神を礼拝し、神をほめたたえる都です。しかしその都は、神の独り子、まことの救い主、信実の王をわきまえることがない。わきまえると訳されている言葉は、知らない、知っていないという言葉です。今は、それがお前に見えない、と言われるのです。真実の王の入城がわからない、知らない。神の愛が、神の恵みが、神の信実が、神の御意志がイエス・キリストにおいて具現し成就しようとしている、ということが見えない、と言っておられるのです。そのエルサレムのために涙されたのです。やがてエルサレムは敵に囲まれ、四方から攻められ、陥落し、崩壊し、瓦解するときが来る。それはローマによるエルサレム陥落を指していると読むこともできます。しかしもっと深く、神の救いの業を、神の信実を見ようとしない者は、自らの滅びを招くことになる、救いのないままに歩むことそれ自体が滅びとなっていく、ということを主は語る。キリストはエルサレムをただ断罪するのではない。痛み苦しみ、そのエルサレムのためにも十字架にかかっていくことを知ってほしいと願っておられる。

 主イエスのエルサレム入城は、終末の救いの完成の時、主イエスが天の国に再臨してくださるその何らかのしるしだ、そう受けとめてきた教会の歴史があります。

 

 受難週の始まりの朝、わたしたちはもう一度、わたしたちのまことの王として受難の歩みを歩みぬかれた主イエスを仰ぎ見て、キリストの示され、与えてくださったまことに対して、感謝と喜びとを献げながら歩んでいきたいと思います。