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教会暦・聖書日課による説教

2024.5.19.聖霊降臨祭主日礼拝式説教

聖書:ヨハネによる福音書14章15-27節『 聖霊が与えられる 』

菅原 力牧師

2024年の聖霊降臨祭主日を迎えました。2000年前に弟子たちに、教会に聖霊が与えられた、そしてその聖霊は今もわたしたちに与えられ続けている、ということを記念し、感謝し、神を礼拝するそれが今日の礼拝です。

今朝は教団の聖書日課に従い、ヨハネによる福音書の14章の15節から27節の聖書箇所からみ言葉に聞いてまいりたいと思います。ここは主イエス・キリストが弟子たちに聖霊を与えると約束してくださった聖書箇所です。ここには聖霊が与えられることや、それによってどういうことがわたしたちに示され、明らかになっていくのか、ということがヨハネ独特の凝縮した言葉遣いで語られています。

このヨハネによる福音書の14章は主イエスが十字架にかかる前に弟子たちに語った決別説教と呼ばれる非常に長い話の一部です。

つまり弟子たちの地上での歩みの別れにあたっての言葉です。そこでキリストが言われたことは、「わたしは、あなた方をみなしごにはしておかない」ということでした。孤児にしてしまうようなことはしない、と言われた。このヨハネによる福音書が書かれたのは、紀元90年代後半。この福音書を読んだ教会の人々は、ユダヤ教共同体の強い勢力下にあって排斥され、この世の多くのものたちからは受け入れられず、最初の弟子たちや、パウロ世代の人たちも天に送り、四面楚歌、周囲を反対者たちに囲まれ、厳しい状態にありました。その中で、「みなしごにはしておかない」という主イエスの言葉を聞き、胸に染み入るものがあったでしょう。

「わたしは、あなた方をみなしごにはしておかない。あなた方のところに戻ってくる。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなた方はわたしを見る。」キリストはここで、わたしはあなた方のところに戻ってくる、というのです。しかしそれは世には見えないが、あなた方は見る、というのです。世というのはここで、キリストの反対勢力のことです。キリストを救い主として受け入れない勢力のことです。その人たちには、見えない。しかしあなた方はわたしを見る、というのです。「かの日には、わたしが父のうちにおり、あなた方がわたしの内におり、わたしもあなた方の内にいることがあなた方にわかる。」かの日というは、聖書では普通終末、救いの完成の時を指す言葉です。そのときには、キリストが神の内におり、あなた方キリストを信じる者たちが、キリストの内におり、キリストもあなた方の内にいることがわかる、内にいるというのはヨハネの独特の言葉ですが、深い一体感の中にあること、神とキリストが相互に内住している、その中にわたしも招き入れられ、神とキリストと共にわたしも住み続ける、そういう関係のことです。このことはまた後で触れることなので、先に進みます。それがはっきりと、目に見える形がわかるのが、「かの日」、終末の救いの完成の日なのです。けれど、注意してみてほしいのですが、先ほどの19節で、世はもうわたしは見なくなるが、あなた方はわたしを見る、と言っている。

終末の救いの完成のときには、すべてのことははっきり見える形で顕わになる、しかし、それまでの期間は、世はキリストを見なくなるが、あなた方キリストを信じる者は、わたしを見る、と言っているのです。

それはどうやって見るのか。ただたんに肉眼が見えるのであれば、世もキリストを見るでしょう。しかし、この見るは、信仰において受けていく「見る」なのです。

そしてそれが「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなた方にすべてのことを教え、わたしの話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と26節で語られている聖霊の働きによる「見る」なのです。

聖霊は、この福音書では弁護者とも呼ばれています。弁護者と訳されている言葉は、パラクレートスという言葉なのですが、後見人とか、助けぬし、という意味の言葉で、もともとは傍らに呼ばれたもの、支援のために呼び寄せられた者、という意味を持った言葉で、キリストその方を指す言葉として用いられている箇所もあります。だからここでも16節では「別の弁護者」と言われている。つまりキリストがまことの助け主なのですが、そのキリストをあらわすもの、そのキリストの恵みを受けとらせるもの、として傍らに呼ばれたもの、それが聖霊だというのです。

この聖霊こそが、わたしたちを「みなしご」にしないのです。今ここで、わたしが生きている現実において、イエス・キリストが生きて働いて、共にいてくださることを明らかにしてくださるからです。キリストは十字架にかかって、十字架上で死なれ、三日目によみがえった。そして昇天して、神の御許に帰っていかれた。だからもう地上におられない。だがここでキリストは「あなた方のところに戻ってくる」と言われておられる。それは、聖霊が降ることで、聖霊が与えられることで、今生きて働くキリストを顕わにするだけでなく、キリストがあなたと共にいてくださり、あなたの内に住んでくださることを聖霊が示してくださる、というのです。かつ聖霊そのものがずっとあなたと共にいてくださる、というのです。

16節で「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」とキリストは言われました。つまり聖霊は、ある時ある時期に神から与えられたというのではなく、ずっと一緒、ずっと働き続けているというのです。17節「この方は、真理の霊である。」このパラクレートス・傍らに呼ばれた助け主、はわたしたちに真理を明らかにする霊だというのです。真理ということでヨハネが語っているのは、主イエス・キリストがまことの救い主だ、ということです。この真理を受けとらせる力、働きこそが聖霊の働きだというのです。

つまり聖霊は、わたしたちとずっと一緒にいて、イエス・キリストがまことの救い主であることを、その時々、折々に、受け取らせてくださるのです。

あなた方は、すでにこの聖霊の働きによって自分がキリストを信じる者とされたことを知っている。それはあなたの力や知識や、信念で知ったことではない。ただ聖霊の働きによる。この霊が、あなたと共におり、これからもあなた方の内にいる。だからあなた方はみなしごではないのです。

聖霊がわたしたちに明らかにしてくれるのは、イエス・キリストがわたしたちの救い主である、ということにとどまらない。キリストと神が深い一体性の中にあること、先程申し上げた、神とキリストが共に内住しているということ、相互内在性ということ。それだけなく、イエス・キリストの中にわたしたちがいるということ、キリストもわたしたちの内にいてくださるということ、キリストとわたしたちの相互内在性、ということを聖霊は明らかにしてくださるのです。23節では「一緒に住む」というまことに平明な言葉で、語っていることです。それはどういうことなのか、一つの事をお話しします。

ヨハネ福音書には「とどまる」という言葉が繰り返し出てきます。わたしの愛にとどまりなさい、とか、わたしの言葉にとどまりなさい、というふうに、印象的に語られています。皆さんよくご存じの15章のぶどうの木の譬、わたしにつながっていなさい、あなた方も、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない、というあの箇所ですが、あの繋がっているという言葉は元の言葉はとどまるという言葉です。しかも葡萄の木の譬では、わたしにつながっていなさい、と言われ、わたしもあなた方につながっている、と言われているのです。

それにしてもこの「とどまる」とはどういうことなのでしょうか。キリストが葡萄の木の譬で言われたわたしにつながっていなさい、とどまっていなさい、とは具体的にどういうことなのでしょうか。

それは今日の聖書箇所に即して言えば、まず聖霊がわたしたちに与えられる。その聖霊の働きに気づかないことも、わからないこともあるでしょう。しかしわたしたちがその聖霊の働きの中でキリストを信じる者とされ、キリストの恵み、キリストを愛を知る者とされていく。聖霊はあなた方と共におり、という17節の言葉はとどまるという言葉です。聖霊はわたしたちの内にとどまって忍耐強く働き続けてくださるのです。それが先行している。わたしたちが気づかないだけで、聖霊はわたしたちの内にとどまって、今日も、今も、働き続けてくださっている。

そしてわたしたちはその聖霊の働きの中でキリストの愛を受け、感謝し、応答し、歩んでいく。そしてわたしがキリストの内にいることがわかるようになる、というのは、愛されている自分であることがわかるようになることであり、キリストの愛に応答する自分であること、それこそがヨハネの言う「とどまる」ということなのです。キリストとの愛の関係性の中に生きることが「とどまる」ということなのです。身近な言葉に敢えて置き換えていくなら、親の愛にとどまる、というような、ことです。親の愛の中で活かされてきた自分を受けとめながらその愛に応えようとする。愛の関係性の中で生きているそれ自体が「とどまる」なのです。

キリストは、葡萄の木の譬で、「わたしにつながっていなさい」と言われた。わたしの愛にとどまりなさい、と言われた。だがそれにはキリストの方から「わたしもあなた方につながっている」という言葉が与えられているのです。わたしは穴型への愛の中にとどまり続けている。このキリストのとどまり続けてくださる愛を、聖霊は明らかにしてくださる。聖霊自身わたしたちの内にとどまって、どんな時も働き続けてくださって、キリストの愛をこのわたしに受けさせ、キリストの愛に応答していきさせようとするのです。なんという深い、豊かな、信実な、神の恵みのわざか、と思わされるのです。そしてこの聖霊は、「永遠にあなた方と一緒にいるようにしてくださる」神の業なのです。聖霊の働きに信仰によって眼を開かれつつ、生きていきたいと思うのです。