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ルカによる福音書連続講解説教

2026.10.18.聖霊降臨節第22主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書6章39-49節『 主のたとえ話 』

菅原 力牧師

 今朝朗読された聖書箇所は「イエスはまた、たとえを話された」という言葉で始まっているように、主イエスがたとえ話、比喩を話されている箇所です。かつここでは五つのたとえ話が連続して語られています。この五つの喩えは深く関係し合ってここで語られています。ですから、その関係性に目を向けながら、全体としてわたしたちに語りかけていることに心を向けて読み進んでいきたいと思います。

 さて最初に「盲人に盲人の手引きができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」という話、比喩があり、それに続いて「弟子は師を超えるものではない。しかし、誰でも、十分に訓練を受ければ、その師のようになれる。」という話、比喩が出てきます。

 最初の話は古代世界において広く流布していた話でした。主イエスご自身が初めに喩えと言っておられるので、目の見えない人、盲人とは何の比喩なのか、考えながら読み進む必要があります。続く話が弟子の話であることを思うと、キリストに従っていくものたち、キリストから派遣されて、主の言葉を宣べ伝えていくものたち、が思い浮かべられます。キリストの僕たちが、もし大事なことが見えていないのなら、キリストを知らない者たちを導くことができるのか、とまず比喩で語っておられる。続く、誰でも十分に訓練を受ければ、その師のようになれる、という文章は「十分に訓練を受けても師を超えることはできない」とも訳すことのできる文章です。実際弟子たちは仮にどれほど訓練をしても主イエスを超えることなどできないわけで、大事なことは、師である主イエスにいつも導かれていくことだ、と語るのです。

 そしてその後に、「きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気づかないのか」という大変な有名な言葉が出てきます。ひじょうに極端な比喩です。他人の目にある、小さなおが屑・ゴミが見えるのに、自分の目にある梁(梁というのは建物の屋根や上部の重みを支え柱を支えるための水平材)に気づかないのか、という言葉です。実際人間の目の中に梁などはいるわけがない。それを承知の上での敢えて極端な比喩で、人の欠点や人の過失はよく見えるのに、自分の大きな欠点、自分の大きな過失には気づかない人間の姿を語っているのです。

 続いて語られていることは明快。「偽善者よ、まず、自分の目から針を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」それにしてもここで言われている梁とはいったい何の比喩なのでしょうか。一般的な意味はともかくとして、キリストがここで語っておられるということは、この梁はわたしたちの性格的な問題とか、人格的な欠点というようなことではなく、「罪」ということでしょう。自分の神の前での罪、それに本当の意味で気づいていない状態のことでしょう。すなわち、ここまでの三つの喩え、比喩は、キリストに遣わされ、人々に福音を宣べ伝えていくものが、自分自身の中にある罪に気づかないような目が閉ざされている状態なら、どうやって、まだ福音に目を開かれていない者たちを導くことができるのか、そう問いかけています。と同時に、偽善者よ、まず、自分の罪を自覚し、その罪がキリストによって担われ、赦されていることに気づいていきなさい、と呼びかけるのです。そのためには主に従い、主の弟子、主の僕としての歩みが大事だ。自分の梁に気づき、取り除いていく時、相手のおが屑に対するふさわしい対応ができる、と続いているのではないか。

 続く43節からは「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実でわかる。」という話が出てきます。

 悪い実とは腐った実という言葉で、よい木からはよみがなり、悪い木からは悪い実がなる、すなわち、木の良しあしは実でわかるとの意味なのですが、このたとえが語らんとしていることは、45節の最後の言葉が言い表しているものです。「およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである。」わたしたちは自分の口から出る言葉が、心をうまく反映していない、ということも知っています。思うことの半分もうまく言えなかった、ということも知っています。しかし、このたとえが言おうとしているのは、さらに踏み込んだこと、その人が出会っている本当に大事なこと、その人が受けとめている最も大事なこと、それがその人の言葉となり出てくるのだ、ということでしょう。

 続く46節以下では「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞いて行うものが皆、どんな人に似ているかを示そう。それは地面深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。」主イエスのたとえ話はさらに深く進んでいきます。

 45節のところでは、その人の口から出る言葉は、その人の本質、内実を示すのである、と語られた主が、ここでは一転、口では主よ、主よと呼びながら、主のみ言葉を実践しないのか、と、その人の言葉と行動の食い違いを指摘しておられるのです。つまりその人の言葉が、その人の本質、内実を示すものになっていない、と言われている。

 繰り返しになりますが、45節のところで主が語っておられるのは、主の弟子であるものが、主の僕であるものが、イエス・キリストとこの人生で出会って、キリストの言葉として聞いてきたもの、聞き続けてきたもの、それがその人の内実となって、よい実を生み出し、その人の口から出る言葉となっていく、ということです。ところが、46節で言っているのは、主よ、主よ、と口では言っているのに、主の言葉がその人の内実になっていない、ということでしょう。

 なぜそうなるのか、48節以下の喩えはそのことを語るのでしょう。

 「それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せてきたが、しっかり立ててあったので、びくともしなかった。」これはマタイに出てくる、岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人の話の喩えとは、似て非なる話と言っていい。ここで言われているのは、地面を深く掘り下げ、岩盤に行き着くまで、掘り下げて、そこに土台を据えて家を建てる人のことを語っている。地面を深く掘り下げ、という表現自体が比喩的なものでしょうが、自分自身や自分の信念や自分の理解のようなものを土台にするのではなく、あくまでもキリストの言葉に聞き続け、キリストの存在に出会い続けて、真の岩盤であるキリストの上に土台を据えて、生きようとする、それが地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てるということです。当時の地面を深く掘り下げという作業は、普通のものにとっては手作業、人力による労働による以外になかったように、キリストの言葉に聞き続け、キリストの業と存在に出会い続けていくのは、他の誰かが変わってやってくれるものではない。聖霊の働きを信じて、キリストの言葉に聞き続け、キリストの存在を受けとめ続けていく忍耐が必要であり、試練や困難に出会っても聞き続けていく真の勇気が求められる。その歩みの中で、岩の上に土台を据えて家を建てる、ということになっていくのです。

 しかしそれは難行苦行、というようなこととは違うことです。主のみ言葉に聞き続けることは、わたしたちにとってまことの希望です。神によって約束されていること受けとめつつ、真の希望に与りつつ今日を生きることです。

 キリストの言葉、わざ、存在、そこからわたしたちの生き方、歩みをいつも踏み出していくということです。それが岩の上に土台を据えて家を建てるということ、キリストの言葉の土台において生きるということです。「わたしの言葉を聞いて行う」とはそういうことで、今ここで言葉通りに生きられるというような話ではない。土台を据えて家を建てるということです。

 ここで語られた五つの喩え、比喩を振り返ってみると、キリストの弟子、キリストの僕として歩む道は、師を超える道を歩むことではなく、どこまでも師に従い、師であるキリストのみ言葉に聞き続ける歩み。聞き続ける中で、わたしたちは自分が見えていなかったことを、はっきりと見せていただく。見えていなかった自分の罪を見せていただく。そしてその罪が赦されていることも知らされ、見せていただく。

 わたしたちがキリストの言葉に聞き続け、キリストの存在に出会い続けているのなら、それはその人の内実を形成し、その人の口から出る言葉もそれによって生み出されていく。

 しかしそれが真実形成されるためには、わたしたちは聖霊の働きのもと、キリストの言葉に、地面を深く掘り下げて岩の上に土台を据えようとする者のように、聞き続けていかなければならない。それこそ表面的な、上っ面をなでるような聞き方ではなく、岩盤にぶち当たるまで、聞き続けていく忍耐と勇気が求められる。そこでわたしたちの内実は形成されていく。わたしの力によってではなく、み言葉の力によって形成されていく。そのみ言葉に聞き続けながら歩む歩みこそ、岩の上に土台を据えて家を建てることで、み言葉に聞いて行う、ということ内実を生み出していく。岩の上に土台を据えて建てる家がどのような家なのかは、千差万別。一人一人違う。けれど、ここで問題になっているのは、み言葉と向き合うあなたの存在の在り方が、どこに立って、どこに立ち続けて生きるのか、そのことなのです。

洪水になって水がその家に押し寄せ、びくともしない家と、たちまち倒れて壊れてしまう家が最後に語られています。最後まで主はたとえで、比喩で語られておられる。ここで主イエスが語られていること、深くかみしめ、自分に与えられた人生を歩んでいきたいと思います。