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ルカによる福音書連続講解説教

2026.7.5.聖霊降臨節第7主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書3章21-38節『 主イエスの宣教のはじめ 』

菅原 力牧師

 今朝の聖書箇所は日本語の聖書では二つの段落に分けられていますが、これはもともとないもので、ここは、この二つを合わせ読むことがとても重要です。

 21節から22節には主イエスが洗礼を受け、祈っておられるときに、天が開け、聖霊が降り、天からの声、神の御声が聞こえた、という事柄が記されています。短いので、右から左に読み進んでしまいがちですが、大切な箇所です。ここではじめて成人した、大人になった主イエスが登場します。主が洗礼を受けられたことが記されているのですが、四つの福音書を読み比べると主の洗礼の扱いがみな違うことに気づかされます。細かいことは今は触れられませんが、マルコ、マタイとは違い、ルカは主イエスがヨハネから洗礼を受けたとは記されていません。ヨハネ福音書は、そもそも主イエスが洗礼を受けた記述そのものがない。そこにはそれぞれの理由と背景があるのですが、ルカでは主が洗礼をお受けになったことは書かれたうえで、その後祈っておられたことにアクセントが置かれています。その祈りに対して、天からの声があった。天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降ってこられた。「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた。」聖霊はすでに主に対して受胎告知の時に降っています。この天からの声も、ここで主イエスが神の子であることを定めた、というようなことでは全くありません。むしろここで語られているのは、主イエスの公の働き、公生涯の始まり、すなわち宣教のはじめを示す神の言葉なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」さあ行って、福音をこの世界に宣べ伝え、救いの業を示しなさい、という宣教への言葉なのでしょう。

 このルカ福音書を丁寧に通読していくとわかるように、主イエスは折々に祈り、祈り続けています。主イエスが公生涯のはじめに祈り、十字架上において祈って地上の生涯を終えられたことをルカは丁寧に書き記しています。まさに祈りの中で歩まれた主イエスがおられる。

 そして系図へと続いていくのです。系図の前に文章が記されています。「イエスご自身が宣教を始められたのは、およそ三十歳のときであり、人々からヨセフの子と思われていた。」というものです。

イエスの公生涯の始まりはおよそ三十歳のときであったという極めて貴重な証言です。全福音書の中で、ここにだけ記されている貴重な証言です。この三十というのは古代社会において一人の人間の成熟がおよそ三十歳、と考えられていたことと深く呼応します。いわゆる今の日本でいう成人は古代においてはもう少し早く、十五歳ぐらいで成人となる。それを思うと三十の成熟というのは、よくわかるのです。ちなみにダビデが王になったのは三十。創世記のヨセフが三十で活動をはじめ、エゼキエルは三十で神の召命を受ける、祭司は三十でその任務に就く、ということです。

人々からはヨセフの子と思われていた、という記述は処女降誕による誕生物語を書き記しているルカ福音書固有の表現だと考える人たちもいます。処女降誕とは神によるイエスの生誕、そして一方でヨセフを父とするこの世の肉の繋がり、それを慮ってこのような表現が出てくるのではないか、ということです。しかし、ルカはそもそも処女降誕と、系図とが矛盾するとは思っていなかった、と思われます。神の働きによってマリアは身ごもり、主イエスはこの世の肉の繋がりの中に身を置いたのであって、ルカはこのことを受けとめているがゆえに、ここに系図の伝承を組み入れているのです。

この系図には77人の人名が記載されています。マタイにも系図がしかも冒頭に記載されていることはよく知られていることですが、実はルカとマタイの系図を比較するとずいぶん違うことが分かります。ルカはイエスからアダムに至る計77人を遡及的(そきゅうてき)に、つまり現在から過去にさかのぼって人名を挙げていきます。一方マタイの系図はアブラハムから始まる系図で、古い方から新しい方へと順次書き記していきます。

主イエスから遡って42代、ダビデに至る系図は、マタイと名前も人数もほとんど一致しません。一方、ダビデからアブラハムまでの14名はマタイの系図と一致しています。こうした違いを見て、どちらが正しい系図、ということではなく、それぞれの受けとっている伝承の違いを受けとめていただければいいと思います。ルカに特徴的なのは、マタイの系図がアブラハムから始まっているのに対して、ルカはアブラハムからアダムへと遡っているということです。これはとても大事なルカ固有の視点で、マタイがアブラハムから系図を始めているというのは、ユダヤ民族の系図、ということであり、ルカの系図がアブラハムからさらにさかのぼることで、一ユダヤ民族を超えて、人類のはじめとの繋がり、つまり人類全体とのつながりをこの系図で物語っているということになるのです。イエスはたんにユダヤ民族の中の一人というだけではなく、人類全体とのつながりの中にある方なのだ、ということです。

 そして興味深いことにルカの系図はアダムの後「そして神に至る」という最後の言葉で系図を締めくくっているのです。実は神に至る系図というのは、旧約聖書でも、ユダヤ教文献にも全く見られない、ルカ固有の視点なのです。

 そして神に至る、それは系図として何を語っているのでしょうか。それは、イエスは神の子、ということなのです。もともと主イエスは神の独り子、御子なのです。その御子がイエスとしてこの世においでくださった、そしてそのことはこの系図は、ただたんに肉の繋がりを語るだけの系図ではなく、神による、神が働き給う、神の救いの歴史をあらわす系図と言っていいのです。

 この系図は言うまでもなく、最初と最後が大事な系図です。イエスから遡及する系図、そして神に至る系図。この主イエスと神との間に挟まれた人間の系図、歩みは神の働き給うの歴史であり、すなわちこの系図に出てくる人々は、そしてさらに言えば世界の人々は、皆神の御手のうちにある人間であるということを物語っているのです。

 系図というのは、もともと素性とか、血統の正当性を示すものとして古代社会において特に重要視されたものでした。この系図においても主イエスがダビデの子孫、アブラハムの子孫ということを示すことはイスラエルの歴史の、歩みの只中にお生まれになったということであり、その繋がりの中にあるということ自体、大切なことなのです。しかし同時に、主イエスは一民族の系図という枠の中に収まりきる存在ではない、ということもこの系図が物語っているのです。

 系図の前の段落で、祈っておられる主イエスに対して、天が開け、神の声が聞こえてきた、とありました。

 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の御言葉は、主イエスこそが、神の独り子であり、救い主であることの告げ知らせであるとともに、公生涯に向かう、宣教の歩みへと向かう主イエスへの促しでもありました。その文脈で系図を読むならば、この系図は神の御子、人となったイエスの、系図であり、神の子が神によってこの世界に降り、人間の歴史の中で、人としての繋がりの中にあることを指し示す系図なのでしょう。

 二つのことをここでわたしたちは信仰において受けとめていきたいと思うのです。一つは、主が祈りの中で、祈りつつ、その公生涯を始められていき、その後の歩みも祈りの内に進めていかれたということです。祈る主イエスにしっかりと目を向けるということです。そして主イエスは、祈る中で、聖霊を受け、神の御言葉を受けていかれたのです。わたしたちは信仰生活を見くびってはならない。こんなものなのだ、と自分で勝手に決め込んではいけない。どんな時も自分の存在を神に向け、心と魂を神に向け、神に尋ね求め、神に聞き続け、聖霊とみ言葉とが与えられることを信じて、謙虚に生きることが主イエスによって示されているのです。

 二つは、わたしたち一人一人もこの系図の中に活かされているということです。神が御子イエス・キリストをこの世にお与えくださった。それはわたしたち人間の世界に、歴史の中に、独り子が人となってお生まれになったということです。それは民族とか、国家を超えて、わたしたちすべての人間の中に身を置き、この世界を、人間を負って、わたしと繋がってくださったということ。そしてわたしは神とイエス・キリストによる救いの歩みの中に置かれているということ。神につながる系図の中にわたしも置かれているということ、なのです。

 そのことを受けとめながら、祈りつつ、この存在を神に向けて開き、神を尋ね求め、み言葉にしっかりと聞き続け、聖霊の働きを信じて今日を生きることが大事なのだ、ということを心に刻んでいきましょう。