マタイによる福音書連続講解説教
2026.4.12.復活節第2主日礼拝式説教2026.4.5.復活祭主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書28章11-20節『 世の終わりまで共にいる 』
菅原 力牧師
今朝朗読された聖書箇所は、マタイによる福音書の終わりの箇所です。
11節から15節までには墓の番兵であったものが、事態を報告するため祭司長のもとに行ったことが報告されています。知らせを受けた祭司長たちは長老たちと相談し、主イエスの弟子たちが夜中にやってきて、死体を盗んでいった、という話で口裏を合わせることとし、番兵たちに賄賂を与えたことまで記されています。しかし寝ている間に盗んでいったという報告は、報告とはとても言えない、苦しい話ですが、空の墓ということの中で、事態をこのように受けとめようとした人々がいたことが伝わってくるのです。
さて、11人の弟子たちは、あの二人の女たちが天使から聞いた言葉に従って、ガリラヤへ行きます。そして主イエスが指示された山に登ったのです。その山というのは主イエスが悪魔に誘惑された山なのか、山上の説教の山なのか、変貌の山なのか、それ以外の山なのか、わかりませんが、山が大事な場所となっていることは、この福音書を読むと伝わってくるのです。そこで11人は主イエスと出会うのです。その次の文章なのですが、「ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」となっています。この日本語だと、ひれ伏した者もいたが、疑う者もいた、というふうに読めます。しかし原文は「ひれ伏した、しかし疑った」と訳せるものです。
マタイはここをさらりと書いているわけではない。ここで疑うという言葉のもとの言葉は「二つの方向に歩む」という意味の言葉です。人間の中に二つの思いがあり一方はこちらに、他方はあちらへと分裂した状態をあらわす言葉です。この言葉は新約聖書の中でもう一度、しかもマタイ福音書に出てきます。14章です。主イエスが湖の上を歩いているので、ペトロは主の「来なさい」という言葉に導かれて湖の上を歩き出すのです。ところが吹いてきた風にこわくなり沈みかけていく、という場面で、主がなぜ疑ったのか、と問われる、そこに出てくるのです。ペトロは一方で主の招きに応えて、主を信じて歩みだす。しかし一方で現実に吹いてくる風の中で恐れをなしていく、まさに「二つの方向に歩む」という姿です。
弟子たちはここで復活の主が出会ってくださり、その主を喜び、感謝して、ひれ伏した。しかし一方で疑った、というのです。マタイはここで単に弟子たちの信仰の弱さ、脆さを改めて語りたかったからではないだろうと思います。そうではなくて、復活という神のなさったわざの前で、人間は信じるという面と、疑うという面の両面を持っているということをそのままに書き記しているのでしょう。
しかし主イエスはそのような弟子たち、わたしたちに「近寄って来て」くださるのです。キリストの方から近づいて語りかけてくださるのです。
この18節から20節までの主イエスのマタイ福音書における最後の言葉、これは記憶してほしい言葉です。
「私は天と地の一切の権能を授かっている。」この言葉には大事なことが詰まっています。というのも、もともと主イエスは神のもとにおられた、神の御子です。その御子が人となってこの世界にお生まれになった。血と肉を持った生身の人間になられ、わたしたちの罪を負い、罪の罰である死を無力なままに、受けて死んでいかれた。その主が神によって甦らされて、天と地の一切の権能授かっている、ということは、地上の生涯を終えて一切の権能を授けられる神の子の座に再び就かれたということなのです。さらに噛み砕いて言えば、キリストがこの世界を、人間を救う力があり、それが実現した、ということです。弟子たちはまだここで再びの主を見て、復活の主の存在に現わされる神の力、神の働きはまだよくわからなかったでしょう。弟子たちは、地上のイエスは知っていた。地上を歩むイエスは知っていた。けれど、その主イエスは十字架上で無力に死んだ。復活という神の御わざによる、神の力による、御手の業を弟子たちはどれだけこの時受けとめられたのか。ひれ伏して、しかし、疑う、弟子たちだったのです。
しかし主は、その弟子たちにこう語り告げる。「あなた方は行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父・子・聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方に命じたことをすべて守るように教えなさい。」
あなた方は行って、すべての民をキリストの弟子にしなさい、これが主の命じられたことでした。ユダヤ人だけでもない、ギリシヤ人だけでもない、すべての民をイエス・キリストの主権のもとで生きるものとしなさい。キリストの救いによって生きるものとしなさい。との命令です。キリストの弟子にする、そのためには、イエス・キリストと対面し、向き合い、一人一人がこの方の言葉を聞いて、一人一人が決断するのでなければなりません。この恵みと信実に出会い、それに一人一人が応答するものでなければならない。そして父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。そう命じられるのです。
復活の主と出会うということは、どういうことなのでしょうか。
もう一度主の言葉を確認したいと思います。私は天と地の一切の権能を授かっている、その方と出会うということです。人間にとって最も根本的な救い、恵み、いのち、その権能者、わたしたちに与えてくださる方イエス・キリストと出会うということです。ここで弟子たちは、宣教へと遣わされる。復活の主と出会った直ちに、です。それは今ここで、弟子たちが主の救いの力の全体を受けとめているから、わかっているから、派遣されるということではない。この方に出会いながら、この方の言葉に聞きながら、この方に従っていくのです。
弟子にしなさい、と洗礼を授けなさいとは深く関係しています。弟子となる、とはキリストの救いに出会い、その恵みを受けて、キリストに従っていくことです。洗礼はキリストの体の枝となることです。キリストのからだに繋がれていくこと、教会の枝となることです。
しかし、弟子となることも、洗礼を受けることも、それで何かが完結することではない。むしろ、そこから始まるものです。
「あなた方に教えたことをすべて守るように教えなさい。」
あなた方に教えたこと、それがまさにこのマタイによる福音書に書き記されている主イエスの言葉、態度、行動、主の働きなのです。あなた方に教えたこと、それは主のみ言葉です。その一つ一つの言葉に、しっかりと聞いて、従いなさい。
弟子となり弟子であり続けること、洗礼を受け、キリストの体の枝として、キリストに繋がって生きること、それが大事なことなのです。そしてその根底には、主のみ言葉に聞き続けるという生きる態度が求められているのです。み言葉に聞いて生きる、とはわたしたちの人生の根本的な態度のことです。この根本の上で人生のあれこれをするのです。逆ではない。ご飯を食べることをやめないように、み言葉に毎日毎日、聞き続けること聞いて生きること、それがここで主が命じておられることです。そのみ言葉に聞き、従う中で、くり返し、復活の主に出会うのです。天と地の一切の権能を授けられたキリストに出会うのです。
これは主の宣教命令と呼ばれている箇所です。ただそれは、宣教するもの、されるものという単純な図式を示されているのではない。
わたしたち復活の主に出会った者が、宣教する、伝道する、キリストの弟子へと、洗礼へと招き入れる。それはもちろんわたしたちの力によるのではない。主のみ言葉の力によるものです。主のみ言葉にこそ、救いの権能があらわされていく、恵みの力がみ言葉によって与えられていく。そして宣べ伝える者もそのみ言葉に聞き、従い、生かされ、主の権能に触れていくのです。私たち自身聞いて語り、語って聞き、その中での主の恵みの力を受けとめていくのです。復活の主に出会い続けていくのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」世の終わりとは、終末の完成の時を指す言葉です。神が救いの完成をなさるその時まで、いつもあなた方とわたしは共にいる、主はそう語られるのです。これがこの福音書における最後の言葉です。ルカによる福音書や、ヨハネによる福音書には復活された主との出会いがいくつも詳しく書かれており、ルカは昇天に至るまで記述しています。しかしマタイは、この主イエスの言葉が与えられたことで、この福音書の記述を終えている。マタイの知る伝承はこれであり、これで十分だったのでしょう。世の終わりまで、終末の完成に至るまで、キリストはあなた方と、わたしたちと共にいてくださる、それは風のようになっていつもどこか吹いているというような話ではない。み言葉において出会ってくださるのです。み言葉に聞き、そのみ言葉を宣べ伝え、証しし、生きる中で、復活の主との出会いが与えられていく。インマヌエルの主の出会いが与えられ続けていくのです。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」その主が、「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」、と宣言してくださっているのです。約束してくださっているのです。この恵み、この信実を感謝して受けつつ、み言葉に聞いて生きていくのです。宣教し、証しつつ、み言葉に聞いて生きる、と宣言してくださっているのです。約束してくださっているのです。この恵み、この信実を感謝して受けつつ、み言葉に聞いて生きていくのです。宣教し、証しつつ、み言葉に聞いて生きる、という生きる根本の態度を見失うことなく、復活の主と出会いつつ歩んでいきたいのです。