ルカによる福音書連続講解説教
2026.6.14.聖霊降臨節第4主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書2章22-40節『 あなたの救いを見る 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所は生後間もない幼子イエスが両親に連れられてエルサレムに行ったその時の出来事が記されている聖書箇所です。
「さて、モーセの律法に定められた清めの期間が満ちると、両親はその子を主にささげるため、エルサレムに連れて行った。」実はこの部分、ユダヤ教の慣習との関連で、いくつかの食い違いというか、当時の慣習とは違うことを書き記しています。ですが、今はその議論には入らず、ルカが語っていることをそのまま受けとめて読み進んでいきたいと思います。清めの期間とは誰の清めかと言えば、母マリアの清めです。そして主イエスの奉献、主のためにイエスが聖別される、神のものとされる、という律法に従ってエルサレムに行ったのです。マリアは天使ガブリエルの言葉を聞いたとき、「生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と言われていました。主に献げる、主のために聖別される、ことを受けとめていたのでしょう。主の両親が、律法に忠実であろうとしたことが、この記述からひしひしと伝わってくるのです。
さて、エルサレムにシメオンという信仰あつく、正しい人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいる人がいました。イスラエルの慰められる、とはイスラエルがまことの救いを受けるということで、シメオンはそれを待ち望んでいる人で聖霊が彼にとどまっていたというのです。聖霊というのはここで、救い主のことを明らかにする霊と言っていいもので、シメオンがイスラエルの救いを望みつつ、その救い主を受けとめていく力が聖霊によって与えられていた、ということでしょう。「また、主が遣わすメシアを見るまでは死ぬことはない、とのお告げを聖霊から受けていた」のです。「この人が霊に導かれて神殿の境内に入った。そして、両親が幼子イエスを連れてきて、その子のために律法の定めに従って生贄をささげようとしたとき、シメオンは幼子を抱き、神をほめたたえた」のでした。
シメオンが神殿境内で幼子イエスに出会ったことも、そしてこの子が救い主であることが分かったのも、聖霊の導きと働きでした。幼子を抱いたシメオンはすぐに神をほめたたえたのです。
シメオンのほめたたえ、讃歌で自分のことを「僕」と呼んでいます。神の僕である自分が今こそ、安らかに、平和のうちにこの世の生涯を終えることができます、平和とは一つには囚われている状態からの解放です。罪に捕らわれている人間が救い主のゆえに罪負われ罪赦されていくことを、シメオンは詠うのです。
「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」シメオンはイスラエルの慰められるのを待ち望んでいた人でした。しかしそれは同時に、異邦人の救いも、すべての人の救いを待ち望む人でもあった。だからこそ、彼は聖霊に導かれて、すべての人の救い主が与えられることを受けとめていた。シメオンは、この救い主が万民のための救い主であること、異邦人を照らす啓示の光であること、そしてそれはイスラエルにとってもまことの救いの栄光であることをここでうたうのです。
さらにシメオンはこのほめたたえを聞いて驚いている両親に対して、二人を祝福するとともに、この子は、イスラエルの人たちを、あるものを倒し、あるものを立ち上がらせる、すなわち激しい抵抗者が出てくるとともに、福音によって立ち上がらせるものを生んでいく。この救い主の現れによって、人は神の前で、誰もが罪人であり、その罪は深く、神の子による贖いを必要とする存在であることを知らされ、この神の救いの業を信じる信じないか、各自が問われていく、というのです。シメオンの讃歌、預言と言ってもいい、その言葉は精確に主イエス誕生の意義を語るのです。
マリアに対しては、剣があなたの魂さえも貫くでしょう、と語るのですが、それは、主イエスの生涯が苦難への歩み、十字架の死によって親子の関係を切り裂かれていく苦しみをシメオンは預言している。つまりシメオンはこの救い主主イエスは受難の歩みを身に受けていく、苦難の僕であることを聖霊の働きの中で知らされていたのでしょう。
さてヨセフ、マリア、イエスの家族は、エルサレムでもう一人、アンナという女性の預言者に出会います。彼女は非常に高齢で、7年間夫と暮らした後、死別し、やもめとなって84歳になっていました。ここの記述、実はやもめとなって84年たっていたとも読めるので、実際の年齢は100歳を超えていた、というカウントの仕方も可能です。彼女は夜も昼も断食と祈りを持って神を礼拝し、神殿を離れることがなかった。文字通り神殿と共に在り続けて、神を礼拝し続けた女性でした。「ちょうどその時、彼女も近づいてきて神に感謝を献げ、エルサレムの贖いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを語った。」アンナもまたこの幼子が救い主なるキリストであることを示されていたのです。彼女は幼子に近づき神に感謝を献げ、エルサレムの贖い、救いを待ち望んでいる人々皆に、この幼子のこと、イエス・キリストの誕生を語ったのでした。
主イエスの両親は律法の定めに従い幼子を連れてエルサレムに行き、神殿に向います。その際、二人の老人と出会います。二人には共通点がありました。それは、二人とも、救い主が与えられる約束を信じて待ち続けていた人だったということです。ただ漠然と神の約束を信じていた、というのではなく、救い主が与えられることを待ち望んでいた。シメオンは、その救い主を見るまでは死ぬことはない、という告げ知らせを受けていた。二人は、神の導きと聖霊の働きを受けていた。シメオンは霊に導かれて神殿に入り、幼子イエスと出会い、この子が救い主であることを見定めるのです。アンナも同様に、この子が救い主であることを受けとめて、神に感謝をささげているのです。
神を仰ぎ、神を礼拝し続け、神の言葉を聞く中で、二人はそれぞれの仕方で神からの約束を与えられ、それを信じて待ち続けた。シメオンは預言者だとは書かれていないのですが、預言の讃歌、預言の言葉を語る。それは的を得た、確かな言葉でした。一方のアンナは預言者であると紹介されながら、ここでは預言の言葉は語らない。しかし、彼女は幼子を見て、この子がまことの救い主であることを受けとめ、かつそれを他の人々に宣べ伝えていく。これもまた深い預言的行動と言えるのです。
シメオンは主イエスと出会い、この幼子を抱いて、神を讃美します。この子によって齎される救いこそ、万民に備えられた救い、異邦人を照らす神からの光。それはイエス・キリストの救いの業が民族を超えた、すべての人々に示される神の業なのだ、ということ。シメオンはその事実を受けとめていた。そして今自分が抱いているこの幼子、この幼子こそ、神と人とを真実に繋ぐ救いの結び。シメオンは幼子を抱いて、神と罪人である人間を繋ぐ救い主が与えられたことを人々に先んじて知らされているのです。
一方でシメオンはこの方の存在こそ、人間の罪が顕わになり、人間の神に対する態度が顕わになり、神に逆らおうとする者と、神に従って歩もうとするものを引き起こしあらわにしていく、と示されたのです。まさに主イエスの地上での生涯を預言する言葉です。
アンナはこの場面では何も語らない。だが彼女は、幼子が与えられたことを神に感謝し、人々に救い主のことを語り始めるのです。これは先ほども申し上げたように、初代教会の歩みを先取りする預言者的行為、行動と言えます。
神殿での主イエスの家族と二人の老人、二人の信仰者との出会いは、主イエスの生涯を見通す預言の言葉と、預言者的な行動に溢れたものでした。シメオンの年齢は書かれていないものの、高齢者であったことは十分伝わってきます。二人は神の言葉に聞き続ける人でした。神を礼拝し続け人でした。そして神の約束の言葉を信じて待ち続ける人でした。そして二人は、その約束の成就をその目で見ることのできた幸いな人でした。
シメオンの語る讃歌の言葉、預言の言葉、聖霊に導かれ神の働きの中で語られたこの言葉を、深く、味わい、聞いていきたいと思います。
アンナのとった行動、預言者的な行動、彼女は高齢者であるにもかかわらず、主の恵みに応えて歩みだしていく。神殿を離れず、断食と祈りの日々を送っていた彼女が、エルサレムの町に出ていくのです。主の大きな恵みに応えて、歩みだしていくのです。この彼女の姿を記憶したいと思います。
そして、二人の言葉と行動に示される神への信仰を、わたしたちもしっかりと受けとめて、かみしめていきたいと思うのです。