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教会暦・聖書日課による説教

2025.3.23.受難節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書19章1-12節『 神の自由において生きる 』

菅原 力牧師

 主イエスは18章までのガリラヤでの活動を終えて、ユダヤ地方に行かれたと1節にありますが、それは具体的にはエルサレムに向かう歩みを始められたということです。「すると、大勢の群衆がついてきたので、イエスはそこで彼らを癒された。」主イエスの働きはエルサレムに向かう時も、継続されていったのです。

 そこにファリサイ派の人々がやってきました。この人たちは、イエスを試そうとして、質問を仕掛けてきました。試そうとは、上品な物言いですが、陥れようとか、罠にかけよう、と言った方がいいような質問です。

 ファリサイ派の人々の質問はこうでした。「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは赦されているでしょうか。」少しわかりにくい日本語です。新共同訳聖書はこう訳していました。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」元の文章には律法という言葉は入っていないのですが、わかりやすくするために挿入したのでしょう。どういう理由があれば、夫は妻を離縁することができるのか、という内容です。唐突な質問ですよ。人に会うなり、この質問は。

 当時の結婚制度ははっきり言って男性中心の男性に圧倒的に有利な制度でした。この話は長くなるので割愛しますが、わかりやすく言えば、、男性の側からは些細なことでも離縁できる制度だったということです。律法には申命記にあるように、「恥ずべきことがあれば」離縁できるとあるだけでしたが、それを不品行、不貞と言ったことからどんどん拡大解釈していって、焼き料理を焦がした、というだけでも離縁の理由にすることができるよう男性側からの都合のいい解釈がなされていました。反対に女性からの離縁はとても難しい現実もありました。ここでファリサイ派が問題にしているのは、そうしたユダヤ社会の現実を背景にした男性からの離縁のことを念頭に置いての質問でした。そうしたことを踏まえて3節を敢えて意訳すれば、「ある人にとってその妻を追い出すのは、いかなる理由によればふさわしいか。」と訳すこともできます。離婚を前提に、いかなる理由ならいいのか、と問うている、それが質問の真意でしょう。

 それに対して主イエスはたんなる律法解釈や、手続きの問題としてではなく、創世記の言葉を引用して、神の御心に立ち帰っていきます。

 「あなた方は読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。そして、こうも言われた。こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、もはや二人ではなく、一体である。したがって、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

 ここで主イエスは神が男と女を創造して父母を離れ、二人で結ばれ、一体となる関係へと招かれていることを語るのです。それは、結婚とは何か、を神に立ち帰って、神の御心の中で受け取る、ということです。そもそも結婚が持つ大きな意味、示し、そして招きの中にある出来事だということを語るのです。

 結婚も、離婚も、人間の出来事として、人間が作り出す関係として捉え、それをまた解くのも人間のわざだと理解することも当然できるでしょう。

しかしキリストはここで、結婚の意義を、その意味を神の創造に立ち帰って語っています。ファリサイ派の人々、この人たちはユダヤ社会の中で、律法に忠実で信仰深い人たち、と受け取られていた人たちです。しかしたとえそうであっても、結婚であれ、離婚であれ、人間が織りなす出来事としてしか見ていないことがこの質問にもよく表れています。これこれの理由があれば離婚できるのか、という問いは、結婚そのものを神の働き給う神の業として見る、ということが欠落している。キリストはここで、二人のものを出会わせ、結婚という関係に神が結び合わせ、神がそこで働いてくださるわざなのだ、と語る、それは結婚を人間のわざ、出来事として見る限りまったく欠落している視界です。キリストの言葉は、夫婦における根本の問題、なぜ今わたしはこの人と共に在るのか、ということに対する指し示しがあるのです。

神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない。主イエスの言葉は、ファリサイ派の質問に対する直接的な答えにはなっていない。

 ファリサイ派はすぐに食いついてきました。「では、なぜモーセは離縁状をわたして離縁するように命じたのですか。」モーセは離縁状に定めたことを記せば離縁していいと言っていますよね、あなたは我々の偉大な先祖モーセの言葉をどう受けとめているのですか、と言っているのです。

 それに対して主はこう応えられた。「あなた方の心が頑ななので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、はじめからそうだったわけではない。」確かにモーセは離婚を認めた。しかし、それは人間の心が頑固だからだ。人間の心が頑なで頑固だから、モーセは離婚を認めた。この頑なさというのは、人間の罪故のもの、罪の結果起こったこと。罪の結果人間はお互いを受け入れあうことができなくなり、神の結び合わせを損なってしまう。だからモーセは離婚を命じたのではなく、赦したのだ。

 キリストはここで神の業としての結婚を語ると同時に、その結婚が人間の罪故に離婚という結果を齎すことも語るのです。

 モーセが離縁状を渡して離縁するよう命じたのは、何の理由もないままに、男性の横暴で勝手に離縁するのを防ぐために、どんな理由で離縁するのかきちっとした離縁状を渡して離縁すべきだということでした。

 「言っておくがみだらな行いのゆえでなく妻を離縁し、他の女と結婚するものは、姦淫の罪を犯すことになる。」男性の側が自分の勝手な理由で妻を離縁して、他の女性と結婚するのは姦淫の罪を犯すことになる、おそらくこうしたことがしばしば横行していたのでしょう。離縁状を渡して離縁するというのは、当時の圧倒的に弱い立場の女性を保護するための掟であり、離縁状の規定は、妻を人間として解放し守るために最低限必要な規定だったのです。

 いずれにせよ、その根底には人間の罪の問題があります。神によって結び合わされ、向き合って共に生きるものとされた、その関係を損なっていく人間の罪の問題があります。

 

キリストは、神の業としての結婚を語られました。神による結び合わせ、神による向かい合い。それを人の安易な思いで離してはならない、ということも語られた。しかし同時に、だから、絶対に離婚を禁止する、というような掟を述べてはいない。法を語ろうとはしていない。神の恵みのわざを語り、同時にその神の恵みのわざをも損なう人間の深刻な罪も承知しておられる。見据えておられる。

 これは結婚とはかくあるべしという話では全くない。人間のわざとしての結婚が語られているのではない。神の業としての結婚が語られると同時に、罪人としての人間の問題が見据えられている、ということです。

 弟子たちはこのやり取りを聞いていて、「人が妻と別れてはならない理由がそのようなものなら、結婚しない方がましです。」と言い出したのです。おそらく弟子たちは、神が結び合わせてくださった結婚は、人が勝手に離してはならない、だが人間の罪は、その神の業も損なっていく、という主イエスの言葉を聞いて、それなら結婚しない方がいいです、と答えたのでしょう。

 主イエスはそれに対してこう答えられました。「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。独身者に生まれついた者もいれば、人から独身者にされたものもあり、天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れない。」

 主がここで言われているのは、結婚が神の業であるということを誰もが受け入れているのではない、ということ。恵まれた者だけ、という恵まれた者とは、授けられたものというのが元の言葉で、まさしく信仰でしょう。ただ授けられた信仰で見る時に、結婚は神の業なのだ、ということを受けとめ、受け入れるものとなるというのです。しかし同時に、信仰において人間の罪が深く認識されていくことにもなるのです。だから結婚の歩みは祈りになっていくのでしょう。

キリストはここで、当時の社会においては外に置かれていた独身者の事柄にも触れ、独身でいる人々のことを語り、結婚しな人々のことも語ります。天の国のために自ら進んで独身者となった者もいる。しかしここでキリストは律法を語るのではない。結婚か独身か、二者択一を語るのでもない。大事なことはその中で、神の御心に聞くことであり、神の御心に生きることであり、神の御心が生きて働くを信じて歩むことなのです。

 神は結婚という出会いへとあるものを招き導く。ある者を独身で生きるという場へと招く。そしてそこで罪人である人間が、自由に生きることを望まれるのです。どのように歩むかはそれぞれに委ねながら、一人一人が自由に生きることを望まれる。神ご自身の自由な意思において、わたしたちに自由に生きることを望まれ、罪人のひとりが神の恵みを受けて自由に生きることを望まれる。神は、わたしたちが生きて歩むその中に生きて働き、神の業の果たされていくことを信じて仰ぐ道を示され、わたしたちを招いておられる。わたしたちの重く深刻な罪を背負ってくださり、招いてくださっているのです。