ルカによる福音書連続講解説教
2026.5.3.復活節第5主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書1章5-25節『 ヨハネの誕生告知 』
菅原 力牧師
ルカによる福音書は冒頭の序文に続いて、1章5節から本文に入っていきます。この本文の最初に記されているのは、後に洗礼者ヨハネと呼ばれる人物の誕生の物語です。洗礼者ヨハネのことは四つの福音書全てに描かれています。そのこと自体、この人物がどれほど大事な役割を担ったか、物語っているともいえます。ただ、この洗礼者ヨハネの公の活動、成人して洗礼者として活動する、それ以前のヨハネのことを語っているのは、ルカによる福音書だけなのです。ルカ福音書だけが、ヨハネの誕生の物語が詳しく語られている福音書で、それはルカ福音書固有の視点によるものと言えるでしょう。
「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトと言った。」
ヨハネの両親である二人のことが簡潔に紹介されてこの物語は始まっています。当時ユダヤの祭司は、二十四組から成る神殿祭司の組織があり、年に二度、その二十四組のうちの一組が神殿祭儀のつとめに従事し、民のために神殿で犠牲の献げものを献げ、祭司が祈り、執り成しの祭儀の務めを果たしていました。その二十四組のうちの第八組アビヤ組の祭司でザカリアという人がいた。妻はアロン家というやはり祭司の一族の出身で、祭司に連なる家系の二人。「二人とも神の前に正しい人で、主の戒めと定めとを、みな落ち度なく守って生活していた。」やはり簡潔に記していますが、二人はともに、神の前に打ち砕かれた、神に向かって生きる人物であったのです。「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子がなく、二人ともすでに年をとっていた。」この時代の人々にとって子どもがいない、ということはいろいろな意味でつらいことでした。
祭司ザカリアはアビヤ組の祭司でしたが、この年、神殿祭儀の当番にアビヤ組があたり、さらにくじを引いた結果、彼が主の聖所に入って香をたくことになりました。多くの祭司がいる中でこの役に選ばれることは大変名誉なことで、一生に一度しか許されないことでした。ザカリアが香をたいている間、多くの民衆が外で祈り、主の聖所から出てきた祭司から祝福を受けるために待っていました。
ザカリアが主の聖所に入り、香をたいているときに、主の天使が現われ、祭壇の右に立った。ザカリアは天使を見て、うろたえ、恐れに襲われた。
天使はザカリアに語りかける。「恐れることはない。ザカリア、あなたの祈りは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」天使は神の使い。神の言葉、神の働きを告げるもの。聖書の時代の人々は旧約聖書を通して、天使の存在は感じていました。けれど実際に天使に会う人は実際には限られていました。ザカリアは自分の目の前に天使が現われ、うろたえた。恐れた、というのはよく伝わってきます。天の使いのザカリアへの言葉は、不思議です。あなたの祈りは聞き入れられた、と言って妻の出産を語る。けれどザカリアは民のための祈る祭司です。もちろん自分たちの夫婦の願いはあったでしょう。しかしそれも高齢故に今も願い続けていたかどうかはわからない。それよりも今はユダヤの民のための祈りを献げていたでしょう。それなのに、あなたの祈りは聞き入れられた、と天使は言うのです。つまり天使が告げるのは、ザカリアとエリサベトに子どもが与えられるのは、民全体に関わる喜びなのだということです。あなたにとっても喜びであり、多くの民にとっても喜びの出来事なのだということです。
天使は言葉を続けます。「彼は主の前に偉大な人になり、葡萄酒も麦の酒も飲まず、すでに母の胎にいる時から聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らをその神である主に立ち帰らせる。彼は、エリヤの霊と力で、主に先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」天使が語っているのは、ザカリアの妻エリサベトが生むその子は、主の前に偉大な人物となる。酒も飲まずとは、主に仕える者として歩みをなす、ということであり、聖霊に満たされ、神の働きを受けて、人々を神に立ち帰らせる、その大事な役割を担うものとなる、と天使は語るのです。
ザカリアはこの主の使いの言葉に対して、疑問を挟みます。「どうしてそれが分かるでしょう。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」ザカリア天使の言葉の前で混乱したのでしょう。どうしてこんな老人夫婦に子どもが、と言っている、と受け取れます。さらにこのザカリアの言葉は「何によってわたしはそのことを知ることができるでしょう」と訳せますから、ザカリアはなんらかの徴の求めた、とも理解できます。天使は生まれてくる子どもの将来のことも語っているのに、ザカリアは子どもが生まれる、ということに焦点を当ててそこで混乱している様子です。ザカリアはここで神の言葉を聞く信仰を見失ってうろたえている。
天使は、「わたしはガブリエル、神の前に立つもの。あなたに語りかけ、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。」と語ります。ガブリエルというのは天使の中でも天使長と呼ばれるもので、わたしはあなたに神の言葉を伝えるために遣わされたのだ、ということ、そしてその言葉は喜ばしい知らせ、すなわち福音を伝えるために神から遣わされたのだ、ということを明確に語るのです。
天の使いの言葉、それは神の言葉です。人間の言葉ではない。神の言葉は信仰なくしては聞けません。わかる、わからないを超えて、その言葉に包み込まれていく自分を受けとる信仰がなくては、聞くことはできない。ザカリアはただ人間から語られた言葉のように、自分たちに子どもが生まれるなんて、と自分の常識や頭でだけ受けとめようとして混乱している。
ザカリアのこの信仰において神の言葉に聞こうとしない態度に対して、天使は「あなたは口がきけなくなり、このことの起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」と語る。天使ガブリエルは、神からの告げ知らせを信仰において受けとめようとしないザカリアの態度に対する罰まで語り伝える。この罰は口がきけなくなるというものでした。しかし不思議にもそれがザカリアが求めた「しるし」でもあるのです。
「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と天使は語るのです。ここでまた1節のところで出てきた「実現」という言葉が出てきているのですが、これは約束に対する実現という意味で、成就と訳すべき言葉です。天使が伝えている神の言葉はすべて約束です。子どもが生まれることも、その子がどのような人となるのか、すべて神による約束です。その約束をザカリアは受けとめられなかった。その約束と成就の徴が口がきけなくなる、ということだとも受け取ることができるのです。ザカリアはこのことが成就するまで、自分からは言葉を出せない。つまり聞くことに集中する時を与えられた、ともいえる。与えられた天使の言葉を、自分の中で何度でも反芻して聞き続ける時が与えられたのです。喋れない現実の中で、聞くことに専心するということ、そういうしるしであったのではないでしょうか。
民衆はザカリアが主の聖所から出てくるのを待っていました。ザカリアはなかなか出てこず、ようやく出てきたと思ったら、ものが言えない。天の使いの言葉、神の言葉を聞いたというのに、神の言葉を信じて聞くことがなかったので、それを誰にも語れなかったのです。示唆深い話です。
人々は、聖所でザカリアが幻を見たのだろうと推測したけれど、なぜ口がきけないのかまではわからなかった。
ザカリアはやがて務めの期間を終えて、家に帰った。妻エリサベトは天使の言葉の通り身ごもったが、五か月の間は身を隠していた。なぜ身を隠していたのか、その理由はいくつか考えられますが、おそらく夫が口がきけなくなったそのことを神からのしるしとしてエリサベトも何らか受けとめて、彼女も神のみ心に聞くときとして過ごしたのではないか、と想像するのです。
私たちもザカリアに語られた天使の言葉を信仰を持って、かみしめていきたいと思うのですが、これは不思議な約束の言葉です。ザカリアは子どもが生まれるということに焦点を当てて聞いたのかもしれないけれど、天使の言葉は生まれてくる子がやがてどのような神からの役割を担う人間になるか、ということを大胆に語っているのです。
あなたたちに与えられる子どもは将来大きな働きをするだろうとか、優れた者となっていくだろう、というような一般論ではない。この子において神が働いて、明確な神からの使命を担う人となる、イスラエルの多くの子らを神である主に立ち帰らせる、というのです。これは普通のことではありません。生まれる前から神の明確な使命が与えられ、その使命に生きる人となる、と言っているのですから。「エリヤの霊と力で主に先だって行き、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の思いを抱かせ、整えられた民を主のために備える。」当時ユダヤの人々は預言者エリヤが救い主の到来に先立って現れることを期待していたけれど、生まれてくるこの人物はそのエリヤの霊と力を託されたもので、人々を主のもとに立ち帰らせる、というのです。
ルカによる福音書は、他の福音書には記されていない洗礼者ヨハネの誕生物語をここに書き記しています。それはただたんに主イエス誕生の前にヨハネというすぐれた人物が生まれたのだ、ということの紹介ではない。キリストの降誕、イエス・キリストの救いの業に先立つ神の御計画と神の意思とがここに在ることを語っているのです。ここに一組の夫婦が登場し、この夫婦に子どもが与えられていくという出来事の中に、神の大きな御意志が働き、二人はこの御意志の中で用いられていく。ザカリアはそのことにまだ気づいていない。しかし二人やがて少しずつであっても神の御意志の中にある自分を受けとめていく。それがこの物語が語り始めていくことです。
わたしたちはザカリアではないし、エリサベトでもない。洗礼者ヨハネの親でもわたしたちはない。しかし、わたしたちも神の御計画、神の御意志の中に置かれているものであり、それを信仰において受けとめていくことが求められている。神は教会において働き、神はわたしたち一人一人を用いて働き給う。その不思議な御業の中に自分が置かれていることを、このヨハネの誕生物語に聞きつつ、受けとめていきたいと思います。