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教会暦・聖書日課による説教

2025.4.6.受難節第5主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書12章1-8節 『 浪費に生きる愛 』

菅原 力牧師

 今朝もまたヨハネによる福音書を通して、み言葉に聞き、受難節のこ の日、主を礼拝してまいりたいと思います。

 さて、過越祭の六日前、主イエスはベタニアに行かれました。そして そこで夕食の招待を受けて、食事の席に着いておられました。誰の家に 招かれたのか、ヨハネは書き記していません。するとその食事の席に、 このヨハネ福音書の11章に登場するラザロも来ていました。またきょ うだいのマルタも給仕の手伝いに来ていました。

 今日の聖書箇所は四つの福音書全てに記されている出来事で、とても 大切に読まれてきた箇所です。マタイ福音書では、この出来事の最後に 主が「世界中のどこでも、この福音を宣べ伝えられるところでは、この 人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とまで言われている のです。

四つの福音書は、一人の女性したことを、それぞれの視点から報告し ています。それらを合わせ読むことが大事で、その上でヨハネの語りに 聞いていきたいと思います。主イエスが食事の席に着いておられた、そ こに一人の女性が入ってくる。マタイ、マルコでは「一人の女が」とあ るのに、ヨハネでは「マリア」と特定されています。

 他の福音書ではラザロのことも、マルタのことも一切触れていない。 ヨハネだけが、この家族のことに触れているのです。

 マリアは突然入ってきて、持ってきた純粋で非常に高価なナルドの香 油1リトラを、イエスの足に塗り始めたのです。塗るというよりも注い だ、と言った方がいいような行為だったかもしれません。その場に居合 わせた人々は驚きました。食事の席で、足に香油を注ぐ、それだけで驚 きの行為なのに、マリアはたくさんの、それも高価な、香油を一気に注 いだ。

 それは当時の労働者の約1年分の収入に匹敵する額の香油、しかも、 その香油は通常オーデコロンのように、数滴垂らす程度の香油、それを 一気に注いだのですから、驚くのは当然です。

 この場に居合わせ、この光景を見ていた一人の者がマリアのとった行 動に対して不平を言い出しました。「なぜ、この香油を三百デナリオン で売って、貧しい人に程来なかったのか。」これだけの香油、売れば三 百デナリオンになる、なぜこんな無駄遣いをするのか。貧しい人に施せ ばいい、そう言ったのです。発言者はイスカリオテのユダで、あったこ とをヨハネは書き記しています。

 そしてヨハネはユダがこういう発言をしたのは、貧しい人たちのこと を思ってのことではなかった、彼自身お金をごまかしていたのだから、 という注釈をつけているのです。他の福音書を見ると、特定の人物は指 定されておらず、居合わせた人々や、他の弟子たちが何でこんな無駄遣 いをするんだと言っています。つまりユダに限らず、この光景を見た人 たちが一様に感じたことが、この発言に込められているのです。これは あまりにもったいない無駄遣いだ、ということです。

 マリアはなぜこんな行動をとったのでしょうか。聖書には何も書かれ ていません。他の福音書もその点は同様です。突然入ってきた女性が、 高価な香油を惜しげもなく注ぐ。しかもマリアは自分の髪でその香油を 注いだ足を拭うのです。何も書かれていませんが、推測することはでき ます。彼女の行動は主イエスへの感謝に溢れています。マリアは、自分 のきょうだいラザロが病に倒れ、死んでしまったとき、主イエスに対し て激しく詰め寄りました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、 わたしの兄弟は死ななかったでしょう」そういって涙を流していたので した。一方姉妹のマルタはルカ福音書が描く姿とは違い、主イエスを出 迎え、そこで主イエスと向き合い、対話するのです。主がマルタに「わ たしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生き る。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。この ことを信じるか。」と尋ねると、マルタは「はい」と答え、主イエスが 救い主であることを告白するのです。けれどマリアはと言えば、涙を流 していた、とあるだけだったのです。

 しかしこの12章では、その涙流していたマリアが主イエスに香油を 注ぐ。主イエスに不平を言って涙を流していたマリアが、溢れるほどの 香油を注ぐのです。そこにはラザロを甦らせた主への感謝があったので しょう。主が死んだものを生き返らせるという奇跡をなさったことの不 思議については、別の機会にゆっくりこの福音書から聞きたいと思いま すが、いずれにせよ、マリアはその奇跡に出会った。そしてその時、そ してきょうだいラザロのために涙を流し、その死に痛み、「ラザロ、出 てきなさい」と大声で叫ばれたこと、すべてが繋がっていった。それは 、ラザロを愛する愛、キリストが一人の人間を愛する愛、それは人の生 と死を貫いて、愛し続けられるものなのだ、ということです。わたした ちの生と死を貫いて、生きて働いてくださる救い主イエス・キリストに 彼女は出会った。そして、マリアはここで、自分の受けた愛と恵みとを 、喜びと感謝のうちにこのような行動で現したのです。

ユダはその行動を無駄遣いと見たのです。当時の社会の庶民であれば 、長い間かかって貯めたであろう高価で貴重な香油。それを一気に使う なんて。無駄使いだ、と思ったのです。

しかしその無駄遣いだと思った人たちが気づいていなものがあるので す。

 それは、主イエスの溢れ出る愛、という外ないものを我が身で受けた 人の思いです。溢れ出る主イエスの愛が、ラザロに、マルタに、そして マリアに今与えられている、ということに満たされた者の思いです。ラ ザロに向かう愛、一人に向かう愛、その死に涙し、その死に痛み、そし てラザロ、出てきなさい、と叫ばれる愛。その愛の中にいる自分をマリ アは受けとめたのです。

わたしたちは今受難節の時をすごしていますが、キリストが十字架へ と向かわれるその歩みの中で我々は何を受けとるのでしょうか。イエス ご自身の痛み、苦しみ、悲しみがその歩みにはあるでしょう。弟子たち が十字架への道を理解せず、ただ一人、十字架へと向かわれる孤独があ ったことも、感じられるのです。弟子たちによって裏切られていく悲し みもあったでありましょう。キリストご自身の苦しみ、悲しみが福音書 を読む者に、伝わってくるのです。しかし十字架への道を辿られる主イ エスを見る時、さらにその苦しみや悲しみの奥に貫かれている、キリス トのわたしたちへの愛、わたしたちを最後の最後まで担っていこうとさ れる愛、十字架に向かっているということはまさしくそういうことであ り、マリアはこのキリストの愛に出会ったのです。ヨハネによる福音書 には「世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」とい う言葉が記されています。文語訳では「極みまでこれを愛し給へり」と 訳されていましたが、極みまで愛する愛が、十字架へと向かうキリスト から示されるのです。

マリアはそのキリストの愛を受けとっているのです。ラザロを甦らせ てくださった、それはただただ感謝するほかない出来事です。しかしそ こで、生死を貫く神の愛、ラザロに叫ばれたキリストの愛、その愛の充 満を受けとったのです。受け取ったというよりもその充満の中に自分自 身を知らされたのです。それは何となく感じられる、というようなもの ではなく、溢れ出てくる、充ちていく愛、という外ないようなキリスト の内から溢れる愛なのです。そしてその愛は、ラザロへの愛であり、一 人の罪深い女への愛であり、ザアカイへの愛であり、シモン・ペトロへ の愛であり、マルタへの愛であり、マリアへの愛なのです。その愛はご 自分を罪人一人一人のために献げる愛です。罪人に仕える愛です。いの ちを差し出していく愛です。その愛を受けとるときに、自分自身に向か う愛として受けとるときに、マリアのように溢れ出る愛に応える溢れ出 る愛が生まれるということでしょう。

 この愛は、ただたんに自分に良いものを与える、というのではない、 この愛はわたしを担い、わたしを負い、わたしに救いをもたらす愛なの です。生死を貫くとは、生きていても死んでもその愛の中にあるという こと、その救いの中にあるということです。この愛の中にある喜びに全 身が包まれるのです。わたしはここで救われている、わたしはここで満 たされ、恵みのうちに抱かれている、その喜びに包まれるのです。だか ら、この方へ感謝の応答をと願うのです。「ありがとうございます」と いうこと、それがこちらからも溢れ出るのです。

 キリストの愛が人間に対する浪費をいとわない愛であることを知らさ れ、感受したものは、自ら持てるものを差し出してキリストに応えよう とするのです。

 四つの福音書にすべて記されているこの出来事、最初に申し上げたよ うに、「世界中のどこでも、この福音を宣べ伝えられるところでは、こ の人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とキリストによっ て語られる出来事です。それはキリストへの献身ということの原型がこ こにあるからだとも言われています。キリストの愛に応えて、自ら持て るものを惜しみなく注ぎだして、差し出して、応答する。献身というこ とはそういうことなのです。キリストご自身の浪費をいとわない愛が、 その献身を生み出していくのだ、というのです。

 ユダはこの愛における関係がわからない。見えていないのです。そこ までする必要はないだろうというのです。しかし、わたしたちとキリス トとの関係は、わたしのために浪費をいとわない愛を受けることから始 まり、その応答へとわたしたちを招き入れるものなのでありましょう。