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教会暦・聖書日課による説教

2026.5.24.聖霊降臨祭主日礼拝説教

聖書:使徒言行録2章1-11節『 聖霊に満たされる 』

菅原 力牧師

 2026年の聖霊降臨祭主日を迎えました。今朝は使徒言行録2章の聖書箇所を通して、聖霊降臨の出来事をあらためて受けとめていきたいと思います。

 さて、使徒言行録1章によれば、使徒たち、それは12弟子だけでなく他の弟子たちも含んだ表現ですが、使徒たちは復活した主イエスと出会い、主からの言葉を聞いていました。一つは、ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなた方は間もなく聖霊によって洗礼を受ける、ということ。もう一つはあなた方の上に聖霊が降ると、あなた方は力を受ける。そして地の果てまでイエス・キリストの証人となる、ということでした。これが主が昇天される前に語られた約束の言葉でした。

 この二つのことは互い深く関係しあっています。そしてのこのことが出来事となっていくのが、聖霊降臨の出来事でした。

 使徒たちは、主イエス昇天後、主の言葉を受けとめて、同じ場所に集まり、祈りつつ、聖霊が降るのを信じて待ちました。弟子たちは「聖霊」という言葉は主イエスから聞かされていましたが、それが実際どういう働きをするものなのか、主の昇天前に聞かされていること以外には何も知りませんでした。しかし使徒たち、弟子たちは主の言葉を信じて聖霊降臨ということを待ち望みました。

 主が言われたことの一つ、あなた方は間もなく聖霊によって洗礼を受ける、これも弟子たちのよくわからなかったことです。ヨハネの洗礼とどう違うのか。

 ヨハネによる福音書の3章に有名なニコデモと主イエスとの対話が記されています。ニコデモはファリサイ派の人で、ユダヤ教の指導者である人でしたが、主イエスが神のもとから来た人だ、と受けとめて主イエスの許を尋ねてきたのです。主イエスはこのニコデモに「よくよく言っておく、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と言われ、新たに生まれるとは「霊によって生まれることだ」と語られたのです。つまり聖霊によってわたしたちは新たに生まれるのだ、とキリストは言っておられるのです。ということは聖霊によって洗礼を受けるとは、新たに生まれることなのです。ヨハネによる洗礼は、水による洗礼、つまり、罪を洗う、清める洗礼だった。しかし主がニコデモに語ったのは、聖霊の働きによってわたしという人間が新たにされていくということでした。聖霊降臨は、人が新たに生まれることと深くかかわっている、ということなのです。

 「五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。」

 五旬祭というのはユダヤの過越の祭りから五十日目の祭りでペンテコステというのは、50という意味のギリシヤ語です。弟子たちはいつどんな状況で聖霊が降臨するのか、何も知りませんでした。まさにそれは突然起こったのです。聖霊というものが神から与えられる霊だとして、それはいつ与えられ、いつ去っていくのか、まるで分らないものです。先ほど紹介した主イエスとニコデモとの対話でも、主イエスは聖霊のことを「風は思いのままに吹く。あなた方はその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と聖霊を風にたとえて語られたのですが、もちろん聖霊は風ではない。風が吹いて音が聞こえる時もあるでしょうが、そうでない時もある。そもそも、風は吹いていることはわかるけれど、聖霊は今降臨している、ということが分からないことの方がはるかに多い。風にたとえているけれど、風と同じではない。

 しかし今は違う。突然、激しい風が吹いてくるような音が家中に響いたというのです。よく読むと風ではない。音なのです。これは人間の聴覚で受けとめられるもの。「そして炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」不思議な現象です。しかしここで大事なことは聖霊降臨という目に見えない出来事がここでは視覚化されて、そこにいる者皆の全身を揺さぶった、ということです。炎のような舌が一人一人の上にとどまった、というのですから、一人一人が自分に向かって働いているものを感じたでしょう。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した。」

 聖霊降臨の出来事は音が響き、舌がとどまり、一人一人聖霊に満たされ、霊の導きのままに、他の言葉を話し出した、という出来事なのです。そしてその話し出した内容は11節に記されているように、「神の偉大な業」なのです。

 聖霊降臨の出来事は、しばしば不思議な出来事、よくわけのわからない出来事と言われますが、確かに不思議な出来事ですが、そこで起こったことははっきりとした出来事、と言えます。激しい風が吹くような音、炎のような舌、それ自体は確か不思議な現象ですが、聖霊降臨を弟子たちに体で感じさせるものでした。そして、それと共に弟子たちは聖霊に満たされ、弟子たちは神の偉大な業、すなわちイエス・キリストを証しするものとされた、ということなのです。

 「聖霊に満たされる」、とはルカが福音書、使徒言行録を通じて書き記した大事な言葉です。ヨハネも聖霊に満たされ、エリサベトも聖霊に満たされた。そしてここで弟子たちは聖霊に満たされ、新しくされたのでした。新しくされるとは、ここで、復活の主と出会っていた弟子たちが、ただそれだけではなく、主イエスが生きて働き、このわたしを活かしてくださっている、ということを証しする者とされた、それが新しくされる、ということなのです。

 「舌」というギリシヤ語は「言葉」という意味と同時に、「異言」という意味を持つ言葉です。異言というのはパウロの手紙にも出てきますが、宗教用語で神に向かって語る言葉で、誰にもその意味が分からない言葉、宗教的な恍惚感、エクスタティクな言葉のことです。ここで弟子たちは聖霊に満たされて、異言を語り始めたのだ、と理解する人もいます。13節で「「あの人たちは新しい葡萄酒に酔っているのだ」と言って嘲る者もいた。」とあるので、異言のように聞こえた人たちがいたのかもしれません。さらに言えば、イエス・キリストの復活によって生かされている、ということ、それ自体がある人々からすれば、わけのわからない異言のように聞こえたということなのでしょう。

 

今日の聖書箇所にあるように、実に多くの地域からエルサレムに来て住んでいる人々、この人たちはディアスポラのユダヤ人、各地に散在していた信仰あつき人々がエルサレムに戻り住んでいた人たちなのですが、その人たちが、聖霊に満たされた弟子たちの話を聞いたのです。ですから、他国の言葉と言っても、ユダヤ人がもともと使っていたアラム語や、各地で住んでいる時の公用語であるギリシア語の言葉、また弟子たちの中にあったガリラヤ訛りの方言など、弟子たちはいくつかの言葉で、キリストを証ししたのでしょう。ここで大事なことは、弟子たちが聖霊に満たされてそれぞれがキリストを証しする者として語り始めた、ということに他なりません。

弟子たちは主イエスが十字架にかかる直前に逃げだした者たちでした。はっきり言えば、弟子失格の者たちでした。そしてその自分たちに復活の主はご自分の方から出会ってくださり、弟子たちは復活の主との出会いを経験しました。そこで弟子たちは、主は生きておられる、復活されて生きておられるのだ、ということを知らされました。しかし、そこまでのことでした。

冒頭で触れたように、昇天前の主イエスは弟子たちに二つのことを言いました。一つはあなた方は間もなく聖霊によって洗礼を受けるということ、一つは、聖霊が降ると、力を受け、地の果てまでわたしの証人になるということ。

弟子たちは、復活の主には出会っていましたが、それ以上のことではありませんでした。復活の主と出会って、聖霊を受けなければならない。聖霊を受けることは、新しくされること、主は生きておられる、復活されて生きておられるというだけではなく、その復活の主によって、キリストによってわたしは活かされている。キリストによって自分の罪が担われ、赦され、この自分が復活のいのちによって新しく生きる者とされる、そのことを証しする者となること、それが聖霊によって新しくされるということなのです。自分の言葉で、キリストを証しするのです。

聖霊によって力を受けるということは、曰くいいがたいことなのでもなければ、自分の中の信仰心、信心が増してくるというようなことでもなければ、立派な信仰者になるというようなことでもないのです。復活の主イエス・キリストによって生かされている自分に気づかされていくことです。十字架にかかって自分の罪を背負ってくださった主の赦しと、復活された主のいのちによって、この自分も生かされている、そのことを証しする、証しして生きる者とされる、それが聖霊降臨によって与えられる力です。

教会は聖霊降臨によって生まれていきました。聖霊降臨によって新しくされた者によって担われ、一人一人がキリストを証しするキリストという体の肢となって、教会の歩みは進められていきました。

聖霊の働きによってわたしたちはイエス・キリストを信じる者とされた、とよく言われます。その場合の信じるとは、たんにイエスが救い主であることを自分が承認するとか、了解するということに留まることではありません。このわたしがキリストに活かされ、今ここにあり、今ここで用いられ、キリストの恵みを証しする者として罪赦され、復活の光の中におかれ、いのち生かされている、ということを感謝のうちに受けとること、それが聖霊の働きによってわたしはイエス・キリストを信じる者とされた、ということなのです。

聖霊降臨のこの日、わたしたちは、あらためてこの恵みと主から託されていることを受けとめ信じる者とされたいと思います。