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マタイによる福音書連続講解説教

2026.1.11.降誕節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書26章47-56節『 聖書の言葉の実現 』

菅原 力牧師

 ゲツセマネでの祈りを終えた主イエスは、「時は近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた。」そう言われて歩みだされました。この言葉から伝わってくるのは、主はこの時、これから起こる出来事のすべてを知っておられ、それを受けとめながら、ご自分の歩むべき道を歩き出された、ということです。ゲツセマネでの祈りを経て、主はこれからの出来事の中で、ご自分の意思を最後まで貫いていこうと決意しておられるということです。

 今日の聖書箇所には弟子の一人であるユダの裏切り、それに続く逮捕、そしてその直後の出来事と主の言葉が記されています。「イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダがやってきた。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。」時間はまだ深夜と言っていい時間だったでしょう。祭司長、長老、そして大勢の群衆と記されていますが、そこには神殿警備隊と呼ばれる人々が含まれており、剣や棒を持って、というのはその人たちのことを指しています。それ加えて彼らが連れてきた群衆。この大勢の人々がおそらくユダが先導する形で主イエス逮捕のためにやってきたのです。

 「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ』と前もって合図を決めていた。」

 主イエスを捕らえる人々は松明(たいまつ)をかざして群衆と共にやってきたわけではない。そんなことをしたら逃げ出すに違いと思っていたでしょう。闇の中で逮捕しようとした。しかも逮捕する人々自身は主イエスの顔を知らない人もたくさんいたでしょう。だからこそ、目印となるものが必要だったのです。ユダはそれを愛する者同士の所作である接吻で印としたのです。

 「ユダはすぐにイエスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した。イエスは、『友よ、しようとしていることをするがよい』と言われた。その時、人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」

 ユダがなぜ主イエスを裏切ったのか。積極的に主イエス殺しを願う者たちの手に引き渡しのか。その理由はよくわかりません。想像していろいろに語ることはできても、それは想像であって聖書からはよくわからない。ただいずれにせよ、ユダ自身の中にあった救い主像とイエス・キリストの救い主像とがかけ離れていた、ということはいえるのでしょう。主イエスに従っていったということは、やはりユダはユダなりに救い主を求めていたし、信じようとしていた。しかし主イエスの歩みと言葉は、ユダが思うそれとは違っていた。

 接吻が主イエスを裏切って引き渡すしるしである、という何ともやりきれない思いがする人もいるでしょう。事実このユダヤの接吻というのは多くの絵画を生み出していますが、虚偽と不誠実の頂点として捉えられてきた歴史もあります。

 ユダは「先生、こんばんは」と言って主に近づきます。弟子たちは主イエスのことを先生とは呼ばない。ユダだけがここで先生、ラビと呼んでいる。これはユダが自分から線を引いていることの証しでしょう。主ではない、たんに先生なのです。主イエスはそれに対して「友よ」と呼びかける。そして「しようとしていることをするがよい」、と言われるのですが、この言葉の翻訳は難しい。事実いろいろな聖書を見ると、ずいぶん訳が違います。「あなたはこのために来たのか」と疑問文に訳すものもあれば、あなたはこのために来たのだ、と断定する訳もある。元の文章がいろいろ省略してあるので、意味がよくわからない。しかし協会共同訳はかなり意味を汲み取って「しようとしていることをするがよい」、と訳しています。主はユダのすることを止めるのではなく、むしろユダの罪の中でもご自分の意思を貫徹させる、という主の思いが溢れた言葉として受けとめられるのです。

 主イエス逮捕の直後一つの事件が起こります。主イエスと一緒にいたもの、弟子なのかどうなのかもここには書かれていないのですが、そのうちの一人が剣を抜いて、大祭司の僕(神殿警備隊の者かどうかもわかりませんが)に打ちかかり、片方の耳を切り落としたのです。どういう状況でこうなったのかはわかりませんが、それを見た主イエスは「剣を鞘に納めなさい。剣をとるものはみな、剣で滅びる。」と言われた。そして主はご自分が父なる神に願えば、12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるだろう、と言うのです。12軍団というのは1軍団がおよそ5600人のほどの兵から成るものでしたから、7万の天使たちに助けを呼ぶことができる、と言っているのです。12とか、7という完全数が出てきていますから、具体的な数字が問題なのではない。「しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」

 この出来事、主イエスと一緒にいた者の一人が主を逮捕した人々に対して、暴力をもって対抗しようとした。力で対抗しようとした、という事件です。

 主はそれに対して直ちに、剣をとる者は剣で滅びると言われた。これはある意味受難の歩みを象徴するきわめて大事な主の言葉と言えます。逮捕する側は、大勢の人を引き連れ、おそらく神殿警備隊のような剣や武具を身につけた人々を連れてきていた。だから剣を抜いて、対抗しようとしたのでしょう。それは古代社会でいうところの同害報復にあたる態度です。向こうが武力ならこちらも武力で、というものです。目に目を歯には歯を、ということです。ここで主が言われておられるのは、もし、大祭司たちがたくさんの人々連れてやって来たからと言って、天使の大軍を呼んでそれに対抗するということをしたら、同害報復になるというだけでない、それは聖書の言葉が実現しないということになる、ということを言われたのです。

 力には力、という論理が貫徹されるなら、悪には悪、ということになります。罪人には罪で報復。ということになります。イエス・キリストに対して、人間が力を振るい、逮捕し、十字架にかけ、殺すというのなら、同害報復で言うなら、神は人間に力を振るい、殺すということにもなるのです。そうではない、と主は言われるのです。十字架というものがすでに人間の罪に対して、報復とは全く違う方向性のものなのです。背負うこと、負うこと、痛みを負うことを指し示しているのです。

 聖書の言葉がどうして実現されよう、というその聖書の言葉は特定されていません。しかし特定されなくてもわたしたちは聖書の言葉に流れる神の意思をすでに知らされています。

 「彼はわたしたちの背きのために刺し貫かれ、わたしたちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによってわたしたちに平安が与えられ、彼が受けたうち傷によってわたしたちは癒された。」罪人の罪を罰する。しかしそれは、罪人を罰するのではなく、罪人の罪を罪人に代わって背負い、罪人に代わって罰を受けていく、聖書の言葉が語るのは、神の僕が人間の罪を負うのです。それ以外には罪人の救いはないからです。

 もし罪人に同害報復が行われるのなら、わたしたちは皆、悪には悪によって、罪には罪によって、殺しには殺しで、滅びるしかない。実際ここにいる人々、ユダであれ、大祭司であれ、キリストが12軍団以上の天使を送り、武力で対抗するのなら、直ちに滅びることになるのです。

 大祭司や長老たちが引き連れてきた群衆は剣や棒をもって主を逮捕しようとしていたのでしょう。主イエスは毎日エルサレムの神殿で座って教えておられた。そこで捕まえようと思えばいくらでも捕まえることができたにもかかわらず、真夜中に武装して逮捕のためにやってきたのです。

 ユダが先導し、力を背景にやってきたのです。この力に対して力で抵抗しようとしたものに対して、主は剣を鞘に納めなさい、と言われたのです。主イエスはこの人たちのためにも、十字架に架かっていかれるのです。

 「『すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためである。』この時、弟子たちは皆、イエスを見棄てて逃げてしまった。」短い場面で主は二度も、聖書の言葉の実現、預言者たちの書が実現、と同じことを語っておられます。それは神の意思の成就、と言い換えていい言葉です。

 神の独り子、イエス・キリストの歩みの中でも、人間の罪は我が物顔で傍若無人に振舞う。キリストの受難の歩みをたどることは人間の罪を見続けることでもあります。しかしたとえ人間の罪が猛威を振るう中においてであっても、イエス・キリストは十字架の主であることをやめないのです。

 人間の罪がいよいよ大きくなるから、それを力で制圧するとか、悪には悪で対抗するというのではない。御子イエス・キリストが罪人の一人になってくださるのです。罪人の一人になって罪人の罪を背負い、その罰をお受けになるのです。そして罪人を救い、罪人を新しいいのちへと招かれるのです。

 「弟子たちは皆、イエスを見棄てて逃げてしまった」力で迫って来る者たちに対して何の力も示されないイエス・キリストをみて、逃げてしまった弟子たち。しかし主はこの一人一人のためにも十字架の主であることをやめようとはされなかったのです。