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教会暦・聖書日課による説教

2024.11.10.聖霊降臨節第26主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書15章21-28節『 あなたの信仰は大きい 』

菅原 力牧師

 一つの書物を繰り返し読んでいると、小さなことが気になってくる、ということがあります。そしてそれがここでもあそこでもと広がり、全体として大きな疑問になっていき、ひいてはその書物の受けとめ方に大きく影響していく、ということがあるものです。

 気づいたときは小さなことでも、その視点で書物をずっと読んでいくと、これはとても大事なことなのではないか、ということもあるのです。

 今日の聖書箇所はそういう箇所の一つともいえます。

 主イエスがガリラヤでの働きの後に、ティルスとかシドンという町、ガリラヤから言えば異邦の地に退かれたとき、一人のカナンの女性が主イエスの御許に出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」彼女の娘が悪霊によって、心なのか、身体なのか、苦しめられている状態だった。主イエスの噂を彼女は聞き及んで、やってきたのです。カナンの女、ということはイスラエルの女性ではなく、異邦人だったということです。しかし主イエスは彼女に何もお応えにならなかった。弟子たちは「この女を追い払ってください」と主イエスに願った。執拗に彼女が主イエスに願い求める様子があったからでしょう。すると主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と応えるのです。けれども彼女は構わず、主イエスの前に来てひれ伏し、「主よ、どうかお助け下さい。」再び懇願するのです。すると主は「子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない。」と言われる。彼女はその言葉にすぐに応答して、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」すると主は、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」と応答される。その時娘の病気は癒された、と聖書は報告するのです。

 不思議な話。女性と主イエスとの会話のやりとりについて行けてない自分がいて、読み終わって置き去り感が残るような、そういう会話です。

 しかし。会話の中身にもかかわってくるのでしょうが、読んでいて素朴な、疑問が湧いてくるのです。それは主イエスの伝道、宣教というのは、イスラエル限定なのか、という素朴な疑問です。これまでのガリラヤ地方では、主イエスは多くの人を癒された。だがここで主は異邦人の女性を退けておられるようにも見える。そうなのだろうか、という疑問です。

 これが冒頭で申し上げた、小さなことが気になっていく一つの事例です。それで、安易な聖書の解説書を開くと、マタイはユダヤ人優先の考えがあったのだ、というようなことを書いている。

しかし、この同じマタイ福音書の28章には復活した主イエスの言葉がこう記されています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」いわゆる主の大伝道命令と呼ばれる言葉がはっきりと記されているのです。しかし、一方10章では主が弟子たちを伝道に遣わすにあたって「異邦人の道に行ってはならない」という言葉もあり、読んでいて素朴に戸惑うのです。しかしそういう視点でマタイを読むと、もっとわからなくなることもたくさんあるのです。例えば、マタイは福音書の冒頭でイエス・キリストの系図を書き記しているのですが、そこにははっきりと、異邦人の、しかも女性の名前が記されているのです。マタイがただ単純にユダヤ主義者であるなら、こうした系図は改変したのではないか。さらにマタイのクリスマスの出来事には、東方の博士たち、学者たちが登場するのですが、彼らは異邦人なのです。こうしたことを上げていくと、たくさんのことが出てきて、マタイはユダヤ人と異邦人のことをどう記そうとしていたのか、他の福音書と比べても格段に複雑な構成になっているのです。

 このユダヤ人と異邦人ということ、実はこれはマタイ福音書の大事な大事なテーマであり、このことを1回の説教でお話しすることはできませんが、今日の聖書箇所は、そのことを考えていく上で、きわめて重要な箇所の一つなのです。

カナンの女が主イエスに自分の娘のことで訴えてきたとき、主は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。その際、主が言われたイスラエルの失われた羊、とはいったい誰のことなのでしょうか。この言葉は、一方でイスラエルの中で、飼うもののない羊のように彷徨う者たち、困り果てている群衆を指す言葉であったでしょう。しかしそれだけでない、主イエスはこのマタイ福音書最初にガリラヤ伝道を始める時に、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」、と言われた。それはまさに異邦人の住むガリラヤという意味であって、その人たちへの伝道は主の中に初めからあったと言えるのです。マタイによる福音書を丁寧に地理的に、読んでいくと、主は伝道の対象をイスラエルの人々だけに限定していないことはよくわかるのです。主はおそらくは、終末が遠くはない、近い将来というの中で、イスラエルの人々にキリストの福音が語られていくことの必要はもちろん感じていました。しかし同時に、異邦人のガリラヤの伝道も、ひとしくなされていかなければならないと考えておられた。さらに主イエスが言われるイスラエルとは、民族としてのユダヤということを超えて、神を尋ね求め、神に聞き従おうとする、民のことであって、ユダヤ人が必ずしも皆、それであるということではなかった。だから異邦人のガリラヤとは、救いを求めつつも彷徨っている民、であり、イスラエルの失われた羊とは、そのような者たちのことを語っているのです。

今日の聖書箇所のカナンの女と主イエスの間に起こった出来事は、マタイ8章に出てきたカファルナウムの町での百人隊長の出来事と深く重なり合っている話です。共に民族的に言えば、異邦人です。百人隊長は自分の僕の病で主イエスに懇願する。主イエスはすぐに行く、新共同訳聖書はそう訳していますが、元の文章は疑問文にも読め、「わたしが行くのか」、主が尋ねる。百人隊長はそれを断り、あなたの言葉が欲しい、というのです。一方カナンの女も娘のことで懇願する。けれど、今はわたしは失われた羊のところへ行く、と言われる。だがそれでも彼女は懇願する。主は再度拒絶する。こどもたちのパンを取って子犬にやってはいけない、ところが彼女はその主の言葉を受けとめたうえで、しかし子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです、と応える。この二つの話にははっきりとして共通点がある。それは主イエスには主イエスの福音伝道の道筋がある。神の民イスラエルに福音を語り、イスラエルの失われた羊に福音を届け、異邦人のガリラヤにも語る。今ここでこの女性は、自分が異邦の民であることを自覚している。だが彼女はそのことに関わらず主イエスのもとに来て、主イエスに懇願し、神を尋ね求める。百人隊長と同じ態度です。何が同じか、主イエスを信頼し、その福音伝道の道筋というものを受け入れているのです。今主イエスは失われたイスラエルの羊への伝道に向かおうとしている。それを受け入れてなお、そして彼女は、たとえわたしが何者であれ、神の恵みを、食卓から零れ落ちたものであってもいただく、と言って、主イエスの恵みの中にある自分を語るのです。

百人隊長も同じです。彼は主イエスが自分の家に来ることをそれには及ばない、というのです。ユダヤの律法の遵守ということが背後にあったのでしょう。彼は一人の異邦人として、律法の秩序を受け入れている。しかしそうであっても、あなたの御言葉をいただきたい、というのです。二人の主イエスに向かう態度は驚くほど共通しているのです。

そして主イエスのこの二人に対する言葉は深く重なるのです。百人隊長に対して主は「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」女に対しては、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」立派と訳されている言葉は大きい、という言葉です。それぞれの信仰に対する最大級の評価なのです。本来神に導かれ、神の言葉を聞き続けてきたイスラエルの中のものこそが、異邦人より優れているはずなのに、この異邦人の信仰を見よ、ということです。

 繰り返しますが、主イエスはイスラエルへの福音宣教も、異邦人伝道も進めていくという思いがあった。そこにはいろいろな障壁となるものがあり、ユダヤ人の中にも大きな壁が合ったでありましょう。その中で主イエスは福音伝道の道筋を持って、歩んでいかれた。しかしそれはユダヤ人と異邦人の区別を無視したり、あたかもないかの如く振舞っていくというようなことでもなかった。事実いろいろな壁があったのです。しかしその中で、百人隊長や、カナンの女性のような人々が与えられていく。それは、イスラエルと異邦人の間に壁があったとしても、それを自覚して尚、求め続け、主イエスに信頼し、主イエスに向かい、尋ね求めていく。主よ、ダビデの子よ、と呼びかけて、イスラエルの主としてのイエスを受け入れてなお、あなたの福音の恵みをいただきます、というこの信仰。

 主イエスはこの信仰を高く評価した。なぜなら、主イエスの福音がイスラエルはもとより、イスラエルの失われた羊たち、そして異邦人へと、世界伝道へと広がっていくとき、福音はまさしく神のイスラエル、血統によるのではなく、み言葉に聞き、主イエスに信頼し、神の言葉に聞き従おうとする民に宣べ伝えられていく。そのイスラエルとは、まさしく百人隊長であり、カナンの女性、だからなのです。