ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

ルカによる福音書連続講解説教

2026.10.25.聖霊降臨節第23主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書7章1-10節『 主の癒し 』

菅原 力牧師

 「イエスは、民衆の聞いているところでこれらの言葉をすべて話し終えてから、カファルナウムに入られた。」平地の説教と呼ばれる説教を語り終えて主イエスはカファルナウムという町へ入っていかれました。「ところで、ある百人隊長に重んじられている僕が、病気で死にかけていた。」百人隊長というのは、文字通り兵士百人を率いる軍隊の長でした。おそらくこの百人隊長はローマ人ではなく、周辺の国の出身者でユダヤから言えば異邦人でした。この百人隊長の僕が死に瀕するような病で苦しんでいたのです。主イエスの噂、評判を伝え聞いたこの百人隊長は「ユダヤ人の長老たちを使いにやって、この僕を助けに来て下さるように頼んだ」というのです。不思議な話です。外国人である百人隊長のためにユダヤ人の長老たちが助けを求めに主イエスの許に来るのですから。ここでのユダヤ人の長老たちというのは、エルサレムの最高法院のメンバーというような人たちではなく、地域の会堂の指導者であった長老を指しているのですが、それにしても、なぜ、という疑問が湧いてきます。しかしそれは4節5節での長老たちの言葉を聞くとわかってくるのです。長老たちが主イエスの許に来てこう願ったのです。「あの方はそうでしていただくのにふさわしい人です。わたしたちの国民を愛して、会堂を建ててくれました。」

 この百人隊長はヘロデ・アンティパスというローマの支配下にあるユダヤの王の軍隊の兵士だったと思われますが、ユダヤと敵対するのではなく、ユダヤの人々と深く交流し、ユダヤの人々を愛し、ユダヤの会堂にも通い、聖書の教えにも触れ、その地域の会堂建設にあたって今でいうところの多額の献金を献げた人だったのでしょう。それでユダヤの長老自らこの百人隊長のために、この人が望む主イエスのところに出向き、彼の重篤の僕を助けてほしい、と願ったのです。

 このこと自体とても稀有なことだったと思われます。百人隊長の人柄、そして信仰というものが人々にも伝わっていたということでしょう。

 主イエスはその長老たちの願いを受け入れ、百人隊長の家に向かったのです。ところが百人隊長は主イエスが近くまで来たとき、友人たちを主のもとに送ってこう告げたのです。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたをわが家にお迎えできるようなものではありません。それで、私の方からお伺いすることもいたしませんでした。」そもそも百人隊長が直接自分で主イエスの許を尋ねなかったのは、一つには自分が非ユダヤ人、外国人である、ということがあったのでしょう。ユダヤ人は他の国の人との接触をできるだけ避けようとする宗教的な慣習があります。外国人もそのことをよく承知していました。だからこそ、ユダヤ人の長老たちに願って、依頼をしたのでしょう。それと同時に、もう一つ、この百人隊長の謙遜さ、自分は主イエスを招き入れることのできるような存在ではない、という謙りの思いがあったのでしょう。百人隊長が二度にわたって主イエスとの直接的な接触を避けたのには、そうした理由があったのです。

 しかしそれだけではなかった。もっと別な理由もありました。

 百人隊長は友人にこう伝えたのです。「ただ、お言葉をください。そして、わたしの僕を癒やしてください。わたしも権威の下(もと)に服している人間ですが、わたしの下(した)には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、その通りにします。」

 彼はここで権威ということを語るのです。たんに軍隊の中での命令、伝達機能としての上下の関係ではなく、権威のもとに服している人間として自覚を持ち、そこでの言葉の大事さを語っているのです。権威というのは従わせていく威力、その人の言葉に従っていくことを意志させる力です。百人隊長自身、権威のもとで与えられた言葉に従い、服従してきたのです。自分もまた、部下たちに言葉を語り、部下たちもその言葉に従って行動してきた。

 他の者がどうであれ、彼自身はそのことを信じ受けとめて歩んできた。だからこそ彼は言うのです。主イエスという方のことはまだ十分にはわからなくとも神から遣わされた、神の権威の中で歩んでいるこの方の、わたしの僕に対する言葉をいただきたい、そう彼は語ったのです。そしてその言葉には力が備わっているがゆえに、その言葉によって癒しが与えられる、そのことを信じて受けていきたい、と百人隊長は語ったのでしょう。だから言葉をいただければ、それで十分です、というのが彼の思いだったのでしょう。

 古代の社会にあって、何らかの癒しは、癒す側が病んでいる人に直接に触れる、接触する、ということが中心でした。もちろんそれだけではありませんでしたが、中心的にはそうでした。そうした中にあって、この百人隊長は言葉による癒し、というものを信じて受けとめていたのです。それは驚くべきことです。もちろんユダヤの民は神の言葉を信ずる民でした。けれど、その民の中にあってもこの百人隊長の言葉に対する信仰は驚くべきものでした。主イエスはもうそこまで来ているのです。ということは待っていれば、自分の家まですぐにでも来て下さるところにいるのです。そして直接お会いして、直接僕の顔も見ていただき、様子も見ていただき、直接僕に触れていただき、そして癒していただける。「直接性」ということはそれ自体わたしたちの拠り所やほとんど信仰対象になるようなものです。

 しかしこの百人隊長はそうではなかった。自分が、権威のもとにあるという自覚の中で、主イエスの権威のもとにあること、神の権威の中にある者として自分を受けとめるがゆえに、どうぞ、お言葉をください、それで十分です、と言い得たのです。

 その言葉には力がある。人間を活かし、人に真の勇気や、信じる力を与え、人癒す力があると受けとめているから百人隊長は「お言葉をください」といったのでしょう。

「イエスはこれを聞いて驚き、付いて来た群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない。』」

主イエスが人間に対して驚嘆されるのはこの福音書の中でここだけです。それほどにこの百人隊長の言葉に、信仰に目を見張った、ということです。その際、百人隊長の信仰とは、人格的な深さとか、人となりが素晴らしい、ということとは違うのです。もちろんそれを否定することもないのですが、何より主イエスはこの人と直接会っていないのです。人格も人となりも長老たちの話を聞いた程度です。大事なことは彼の言葉への態度なのです。この人が主イエスと直接に会わず、二度使いの者を通して、自分の意思を伝えているのは、最初にも言ったように、異邦人として直接会うことは避けている、宗教的、文化的な背景があると思います。しかし彼がここで主イエスに願っていることはそうしたユダヤ人と異邦人ということを超えて、あらゆる時、あらゆる場において生きて働く神の言葉を主イエスにおいて与えていただく、という信仰のゆえなのです。主ご自身がこの百人隊長の言葉に向かう態度に驚いておられるのです。

 そしてそれはただ驚くということではなく、この言葉への態度、信仰をあなたたちも受け取ってほしいという願いが込められているのです。

 事実、この後、イエス・キリストが十字架にかかり、罪の贖いの死を死んでいかれ、復活し昇天された後、人々は主イエスと直接会うことはできなくなるのです。そしてそこで大事なことは、主イエスの言葉に生きることなのです。わたしたちは教会において主イエスの言葉に聞く。そして主イエスの言葉において神の働き、導きを受けていくのです。言葉によって生かされていく信仰がわたしたちの信仰、ともいえるのです。その意味でこの百人隊長の信仰は、その後に続くキリスト教信仰の先駆けともなっているのです。

 さらにこの主イエスの言葉から示されるのは、主はここで「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」と言っておられるのですが、それはもちろんイスラエルの人々を貶(おとし)める発言ではない。そうではなく、神の言葉に聞くイスラエルの人々の中にあっても、この百人隊長の言葉に対する態度は、稀有だ、というのです。それをもう少し敷衍すれば、イスラエルの人々をはじめ、わたしたちも、このような言葉に対する態度を持ち得ていないことが多い、ということです。確かにわたしたちは、この百人隊長のような言葉に対する態度をいつも持ち得ているわけではないですし、他の多くの言葉同様、聖書の言葉も、右から左に流してしまうことも少なくないのです。しかしそれでもなお、わたしたちも主イエスの一つの言葉に対して、こだわり続け、その言葉の語ること示すことを思いめぐらし、自分の歩みを主の言葉の中で考え続けていくこともあるのです。主の言葉に聞き従えない自分にあきれたり、戸惑いを覚えたり、主の言葉の前で立ち尽くしている自分に気づかされても行きます。しかしその全部を通して、わたしたちはキリストの言葉の前に立っているのです。そしてそこで神様どうか、このわたしがあなたの言葉に、キリストの言葉に立ち続け、聞き従うことができるように導いてください、祈る自分でありたいと思うのです。

 今日の聖書箇所の最後には「使いに行った人たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。」という主の言葉によって癒しの業が起こったことが記されています。主の言葉によって力を得、いのちの漲りを与えられ、活かされていくことが簡潔に記されています。わたしたちが聞き、聞こうとし、聞くことが赦されている主の言葉とは、そのような力ある、いのちに溢れた言葉である、ということを、信じていくものでありたいと思います。またそのような言葉を信じて受けて、生きるものでありたいと思うのです。