ルカによる福音書連続講解説教
2026.6.7.聖霊降臨節第3主日礼拝式説教
聖書:ルカによる福音書2章1-21節『 主イエスの誕生 』
菅原 力牧師
今朝の聖書箇所は皆さんよくご存じの聖書箇所ですが、大きく三つの部分から構成されています。一つは1節から7節。ここには主イエスの誕生の出来事が記されています。二つ目は8節から14節。ここは羊飼いたちへの天使の告げ知らせ、告知が記されています。そして三つめは15節から20節。羊飼いたちの幼子の訪問が語られ、21節は八日後のイエスの命名が記されています。
最初の部分1節から7節にはルカ特有の記述、皇帝アウグストゥスや総督キリニウスの名前が記されて、住民登録のためヨセフとマリアがガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへと短くはない旅をし、ベツレヘム滞在中に出産したことが簡潔に報告されています。ここには、ヨセフの思いだとか、マリアの心のうち、といった記述は一切なく、客観的な事実が書き記されています。ルカは皇帝や総督の名前を記すことで、主イエスの誕生を世界史の中に位置づけていきます。と同時に、皇帝という当時のローマ帝国の頂点にある権力者と、飼い葉桶に寝かされている幼子とを対比的に書き記しています。ここにはこの幼子が世界に与えられた意味は、書かれておらず、ただ客観的な事実が記されているのです。
二つ目の部分、8節から14節には最初の部分とはまさに対照的に幼子の誕生の意味が天使によって羊飼いたちに告げられています。この幼子はどのような方なのか、その存在と意味が天使たちによって告げられていきます。
「今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」それと同時に、天使たちは、救い主である幼子が飼い葉桶に寝ている乳飲み子であること、それがあなたがたへのしるしである、と語り神を讃美して天に帰っていくのです。
そして三つ目の部分を迎えます。ここでは天使が去った後の羊飼いの行動が語られています。すなわち、今日の聖書箇所においてルカは、最初に主イエスの誕生の出来事、次いで、その出来事の意味、そして最後にその出来事の意味を聞いた者たちの行動を描く。ルカはこの三部の構成でわたしたちに大事なことを伝えようとしていきます。
この三つ目の部分15節から20節には、伝えること、報知に関する言葉がたくさん出てきます。まず15節に「主が知らせてくださったその出来事」という箇所、17節に「天使から告げられたこと」18節には「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を」ここは直訳すると羊飼いたちが自分たちに語ったこととなり、続く20節には天使の告げた通りと、報知に関する言葉が連続しています。
中でも大事なのは、15節の「主が知らせてくださったその出来事」という言葉です。この「知らせてくださったその出来事」、という言葉、元の言葉はレーマという一つの言葉で、日本語に一語で該当する言葉がない、言葉です。主が語って出来事となった言葉という意味の言葉です。天使を通して、神が語り事実出来事となった言葉、ということです。それが15節と17節に繰り返される。
羊飼いたちは、天使の言葉を聞き、それが神から告げ知らせであることを受けとめた。さらに、神が語られた言葉だから、もうすでに出来事となっているのだ、ということを受けとめていた。だから羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と言ったのです。敢えて直訳すると「ではベツレヘムに行こう。そして主が我らに告げ知らせた、出来事となっている言葉を見ようではないか」となります。羊飼いたちは出来事となっていることを受けとめている。羊飼いたちは、野宿していたにもかかわらず、羊を連れての夜間の移動という凡そあり得ない行動に出ています。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。」探し当てたのです。言葉通りになっているのか、確認しに行った、ということではなく、出来事となっている神の言葉を探しに行き見つけたのです。
羊飼いたちの行動はそれで終わりではありません。17節「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。」と続くのです。ここで天使から告げられたこととある「告げられたこと」これがレーマです。語られて出来事となっている言葉、です。これを羊飼いたちが人々に知らせた、というのです。この人々というのが誰なのか、ここには書かれていません。ただ想像するに、羊飼いたちがこれから出会う人々のことであることは確かです。
けれど、どうして羊飼いが人々に天使から告げられたことを知らせるのでしょうか。それは天使の言葉にあった「恐れるな、わたしはすべての民に与えられる大きな喜びを告げる。」その言葉のゆえでしょう。この告げ知らせは、すべての民に与えられる大きな喜びなのです。羊飼いたちは自分たちになぜ、こんなメッセージが与えられたのか、まったく分からなかった。よく言われるように羊飼いは当時の社会において貧しい階層の人々、どちらかと言えば蔑まれていた人々でした。その自分たちになぜこんな大事な、まだ誰も知らないようなメッセージが示されたのか、まったく分からない。しかし羊飼いたちはそこでうずくまってただ自分が聞いたということに終始したのではなかった。この告げ知らせはすべての民に神から与えられる大きな喜びなのだ。さらに天使の言葉は「今日ダビデの町に、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」あなた方とは少なくとも、自分たちだけという意味ではないことは羊飼いたちははっきりと受けとめていた。あなた方とは、すべての民のことなのですから。
羊飼いたちは、なぜ自分たちがこのメッセージの受けとり手になったのかわからなかった。それだけでない、自分たちがわざわざその幼子が生まれた場所へ足を運び、さらにその告げ知らせを自分たちが人々に知らせるのか、ここには自分の中の理由を探そうとすれば、わからないことが連続している。しかし羊飼いたちは、自分を納得させる自分の中の理由を探すことよりも、ただ神が、天使をとしてわたしたちに語りかけてくださった、ということに心を向けている。そしてそれは、レーマなのです。神が語ったことは出来事となる、そのような告げ知らせの言葉なのです。だから、自分たちは幼子誕生という出来事となった言葉を探し当てるだけでなく、他の人々に、神が語ったことは出来事になる、あなた方のために救い主がお生まれになった、その言葉を人々に知らせなければならない、と思ったのです。すべての民に与えられる大きな喜びを告げ知らさなければならない、と受けとめていくのです。
「聞いたものは皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」羊飼いの話を聞いた人々は、不思議に思った。天使の言葉を聞いたということも、その言葉が語ること、飼い葉桶に寝ている乳飲み子が救い主だの、大きな喜びだの、わけがわからない。まさに不思議な話なのです。生まれたばかりの乳飲み子が救い主と言われて、戸惑うの普通でしょう。むしろこんな話を語りだす羊飼いたちの存在そのものが不思議だった。
神から与えられる救い主。しかもそれは一人の乳飲み子となってこの世に「人の子」として生まれてこられる。ルカはその告げ知らせの前での人間の態度は一様ではないことを書き記しています。それはヨハネの誕生の時も同様でした。一つの出来事を巡って多様な受けとめがあるのは当然でしょう。しかしルカはここで、神が語りかけてくださる言葉、出来事となる言葉の前で、その出来事の背後にある、その出来事を起こされている方の意思に聞こうとする人々がいたことをここに書き記しているのです。それは信じられないというところから始まり変化していったザカリアがそうでした。エリサベトも神の出来事となる言葉を信じて受けとめていった。そして羊飼いたち。
今、人々は、羊飼いの告げ知らせを不思議と受けとめた、話としては、不思議な話だからです。神の働きなど考えずに聞けば、ただの不思議な話ですよ。
「しかし、マリアは、これらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。」これらのこと、と訳した言葉、これはレーマで、神が語られ、出来事となった言葉、それをすべて心に留めて、思い巡らしていた、というのです。
わたしたち一人ひとりにも、神の言葉は語りかけられています。その言葉は、たんに真理の言葉、というような床の間に飾るような静的な名言なのではなく、生きて働く、という意味においてレーマなのです。出来事となっていく言葉なのです。出来事となっていく、という意味は広がりのあるものです。
それは預言者イザヤが言うように「わたしの口から出る私の言葉も空しくわたしのもとに帰ることはない」、神の言葉は、わたしにおいて、わたしという器において、生きて働き、このわたしを用いて、神の言葉が出来事となる、という広がりのあるものです。
マリアは今、この自分という存在を用いて、生きて働く、神のレーマを心に留めて思い巡らしているのです。このわたしを用いて、生きて働く神、神の意思。クリスマスの出来事は、このレーマを受けとめた人々によって担われていった。神の御わざの連鎖が神の言葉ここで具体化していることをわたしたちも見るのです。わたしに語りかけられている神の言葉をしっかりと聞きたい。そしてそのみ言葉の背後にある神の意思を受けとめて、神に向かって歩んでいく私とさせていただきたい。羊飼いたちのように、告げられたみ言葉によって歩みだすわたしとさせていただきたい。