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マタイによる福音書連続講解説教

2025.11.23.聖霊降臨節第25主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書26章1-13節『 葬りの準備 』

菅原 力牧師

 マタイによる福音書の26章から舞台は主イエスの受難物語、復活へといよいよ進んでいきます。1節「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。」これまで21章から25章までずっと聞いてきましたエルサレムでの主の教え、それを語り終えたのです。そしてこう言われた。「あなた方も知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は十字架につけられるために引き渡される。」キリストはここであらためてご自分がこれから歩まれる道を語られる。それはたまたまとか、偶然の出来事ではない。キリストご自身の意志としてこの道を歩むということです。

何度も申し上げてきたように、「人の子」というこの呼称は、やがてやってくる救い主、ということと、苦難を受ける神の僕という二つの意味が込められた呼称です。主はここで、これまで話してこられたようにやがて迎える終末の救いの完成の時を仰ぎ見つつ、ご自分の再臨の時を仰ぎ見つつ、十字架に進んでいかれる。二日後には過越祭を迎えるこの時、わたしは十字架につけられるために引き渡される、と言われたのでした。

過越祭はユダヤ教の大事な祭りで、神がエジプトに捕らわれていた民を解き放ってくださったこと、苦しみが過ぎ去ったことを記念する祭りでした。ご自分が十字架に向うことは、わたしたちすべての者の解き放ちのためでした。罪に捕らわれている者の贖いのためでした。そしてわたしたちが新しいいのちに生きるためでした。主イエスは明らかにこの過越の時を贖いのため、罪からの解き放ちのための時として、受けとめ、に十字架に向う、と言われる。

 そして3節からは、祭司長たちや長老たちが主イエスの逮捕、殺害を相談していたことが記されていますが、十字架はどれほどユダヤ教の指導者たちによる策略がそこにあろうとも、また事実、それが彼らの手による逮捕、殺害であって、十字架を主導するのは、神の御意志に聞き従う主イエス・キリストの御意志であることが、ここで語り告げられているのです。

 さて、その主イエスの御意志が語られた後、主がベタニアでシモンという人の家におられたときの出来事が記されていきます。

 一人の女性がとても高価な香油の入った壺を持って、食事の席に着いている主イエスの頭に香油を注ぎかけたのでした。マルコ福音書によればこの香油は三百デナリオン、つまり当時の労働者の一年分の給与に等しい額だったというのです。名前も紹介されていないこの女性のことを思うと、有り余るもののうちから香油を注いだとはとても思えず、大事な時のために苦労して貯めた香油を一気に頭から注ぎかけたのでしょう。見ている弟子たちの方が驚いた。そしてやがて驚きから憤慨へと変化し、こう言ったのです。「何のためにこんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」確かに香油というのは少し体に塗るもので、王のような特別な人でもない限り頭から香油を注ぐというのはありえない、無駄使いだ、という弟子たちの意見は真っ当な意見ともいえます。しかもそれほどの香油売れば相応の金額になり、貧しい人たちに与えることもできたのに、というのは普通の感覚と言えることでした。

 主イエスはこの弟子たちの言葉、その言葉に込められた思いに気づいて、こう言われたのです。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はわたしの体に香油を注いで私を葬る準備をしてくれた。」

 

主イエスはここで、まず、「なぜ、この人を困らせるのか」、と言われた。この言葉の意味はじっくり考えたいのですが、先に進むと「わたしに良いことをしてくれたのだ」これをどう受けとめるか。確かに、貧しい人たちに施すという行為も、よいことなのです。しかし、彼女が主イエスにしてくれた行為もよいことなのだ、と主イエスは受けとめて言っておられるのです。つまり一方がよくて、一方が悪いことなのではない、と言っておられる。どちらもよいこと。なぜそのことに心を向けないのか、と言っておられる。さらに主イエスは彼女のした行動を「私を葬る準備」として受けとめておられることを告げています。確かにキリストはこの後十字架に架かって葬られる。この女性は、当時死者が葬られるときに遺体に香油を塗る習慣があったのですが、それを先取りしてくれたのだ、とキリストは言われたのです。

 彼女はなぜ香油を主イエスの頭から注ぐという行為をしたのか、何も語っていません。香油を注いだこと、たくさんの香油を頭に注いだこと、彼女は何も語っていないし、弟子たちから攻撃的な言葉を投げかけられても、何も応えない。だからわからない、ということではない。彼女は自分の思いを言葉にすることがこの場ではできなかったのかもしれないし、言葉で表現することは誰もが得意というわけではない。

 ただこのことからわたしたちが受けとるのは、彼女の主イエスへの感謝ということです。一年間の収入に匹敵する高価な香油を惜しげもなく注ぐ彼女の行為は、弟子たちがいみじくもいうように、無駄使いです。しかし無駄遣いを承知で香油を注いだのは、この女性が主イエスの言葉、わざ、行動を通して、その大きな恵み、溢れる恵み、豊かな愛に出会い、触れたからでしょう。その愛に応えた彼女の業だったのです。キリストの愛が溢れる恵みだったからこそ彼女の応答も溢れ出たのです。弟子たちにはここで、その想像力が欠けている、というほかなく、彼女の応答を無駄遣いと言ったのは、まさにその表れだったのです。

 彼女がこれほどのことをしたのは、キリストの愛の大きさに呼応してのことだ、ということが弟子たちにこの時、受けとめられていなかった。そもそも愛はなんらか無駄使いなのです。親が子に注ぐ愛であっても、莫大を時間や、思いを注ぎだしていくのです。まして、キリストが十字架に架かっていかれるということは、神の人間に対する惜しみない愛、無駄使いとしか言いようのない愛なのです。彼女はその愛に触れている、出会っているのです。だからこそ、その応答がこの香油注ぎとなったのでしょう。

 貧しい人たちに施したらいい、というのは確かに善いことでしょう。しかしここでキリストはたんなる倫理的な善い行いの話をしている訳ではなく、どのような愛に出会って応えようとする愛に生きているか、ということ話をしてくださっているのです。無駄使いというのは別の言葉で言えば、浪費です。愛は浪費に生きるという面を色濃く持っています。彼女はキリストの惜しみない愛、このわたしに向かって浪費に生きる愛を受けとめて、今香油を注いだのです。それは、受キリストの愛に出会い、その愛に感謝している人にしかわからないものなのです。

 彼女はあるいは、主イエスの葬りの準備をしようと思って、ここに来たのではないのではないか。そもそも彼女は、主イエスが二日後には十字架に架かるということすら知らないのではないか。弟子たちですらわかっていないのだから。

 とすれば、葬りの準備だ、とキリストが言っておられるのは、キリストご自身がそう受けとめておられるということであって、彼女がそう思っていたかどうかはわからない。しかしたとえそうであっても、キリストがそのことを受けとめてくださっているということが大事なことなのです。彼女のしたことがどんな業であってもそれをよいこととして受けとめ、葬りの準備とまで言ってくださるキリストがおられる、つまり、キリストの愛に応える人間のわざをよいこととして受けとめてくださるキリストがおられるということなのです。そして事実、彼女の香油注ぎは主イエスの葬りの準備となったのです。

 ここで、福音書が明らかにしているのは、主が十字架に架かる告知をしておられるのに、何の反応も示さず何もしない弟子たちの姿と、持てるもの良きものをすべて注ぎだした女性の姿との対比なのではないでしょうか。

 「よく言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」よく言っておくというのは、アーメン、ということです。まことにまことに汝らに告ぐ、と文語訳で訳された主イエスが大事なことを言われるときの表現です。世界中どこでも、この福音がと言われているのですが、「この」とは何なのでしょうか。いろいろ議論のある箇所ですが、これまでの文脈では福音とは、神の国の福音ということなのですが、ここであえて主が「この」と言っておられるということは、主がこれから向かおうとして十字架、受難の福音と読むべきであろうと思います。

 イエス・キリストの十字架への受難の歩みはそれ自体福音です。わたしたちの救いである主の十字架は紛れもなく福音です。そしてわたしたちはこの十字架の主こそが、復活の主であり、栄光の主であることをこれから示されていくのですが、主はここで十字架へ向かう受難の歩みをこの福音と言われた。この福音が宣べ伝えられるところ、この人がしたことも記念として語り伝えられるだろう、と言われたのです。弟子たちはこの時、主の言葉をほぼ全く受けとめられなかったのではないかと思います。

 なぜキリストはこの言葉を語られたのか。わたしはこのキリストの言葉をしっかり受けとることこそ、この聖書箇所の要、だと思います。

 十字架はキリストの存在をいわばわたしたちに与える愛の行為です。それはさきほどから繰り返し語っている無駄使いともいえる、浪費ともいえる溢れ出るキリストの愛です。彼女は未だ十字架を知らずともキリストの愛に出会って、持てるものを差し出した、つまりキリストの献身に彼女は献身で応えているのです。一方で弟子たちは善きわざについて語っているが、キリストの献身には何ら応えていない。キリストはご自身の十字架への道を語り、わたしたちのための献身の意志を語られた。そしてこの女性は、キリストの自己献身を示した、ここには献身の交流があるのです。だから、キリストの受難の福音が語られるところ、彼女の自己献身が記念され、語り伝えられるだろうというのです。

 受難のキリストの歩みに聞き続けていくわたしたちですが、彼女のことを、記憶しつつ、わたしたちもそれぞれの仕方でキリストに向かって献身していくものでありたいと願うのです。