ntent="text/html; charset=utf8" /> 大阪のそみ教会ホームページ 最近の説教から
-->

ルカによる福音書連続講解説教

2026.7.26.聖霊降臨節第10主日礼拝式説教

聖書:ルカによる福音書4章31-44節『 権威に満ちた言葉 』

菅原 力牧師

 故郷ナザレで福音を語った後、主イエスはガリラヤの町カファルナウムに戻り、ここで安息日ごとに人々に福音を語られました。人々はその教えを聞いて驚きました。その言葉に権威があったからです。権威という言葉が出てきていますが、今ここでは主イエスの語った言葉を聞いていた者たちが、この言葉に聞き従っていきたい、と思わせる威力があった、と受けとめ先に進んでいきましょう。

 「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、構わないでくれ。われわれを滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ。』」悪霊についてはこれまでもお話ししてきましたが、さまざまな働きをしつつ、福音書においては、人間と神の関係を分断したり、人間を神から疎外させる働きをする、人間の中に入って、病気や障害を起こしていく働きを担うものでした。当然悪霊自体は、主イエスの存在を他の誰よりも熟知しており、敵対するものとして自分に対して力を振るう存在として主イエスを恐れたのです。

 つまりカファルナウムの人たちは主イエスの教えに驚き、権威を感じたのですが、悪霊はイエスに脅威と怖れを感じたのです。主イエスがこの男の中にいる悪霊に向かって、「黙れ、この人から出ていけ」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出ていったのでした。注目してほしいのは、主イエスが腕力ではなく、言葉の力で悪霊を追い出している、ということです。人々はまさにそのことに驚いたのです。「一体、この言葉は何だ。権威と力を持って穢れた霊に命じると、出ていくとは。」人々がこういったのも無理ない。言葉で悪霊を追い出していかれるのですから。

 同じようなことが続いて報告されています。主イエスが会堂から出て、シモンの家に行かれた。このシモンとはおそらくペトロのことで、このときにはまだ主イエスの弟子にはなっていなかったのですが、シモンの姑がひどい熱に苦しんでいたので、人々が主イエスにその治癒を願ったのでした。ということはもうこの段階で主イエスはなんらかの治癒行為や奇跡行為をする人と人々から認知され始めていた、ということでしょう。主イエスは彼女の枕元に立ち、熱を𠮟りつけると、熱は引き、彼女はすぐに起き上がって一同に仕えた、というのです。

 熱を𠮟りつける、不思議なことです。しかし、悪霊が働いて人を病へと引きずり込んでいる、という理解を背景にするとこの言葉は悪霊に対する言葉だということはわかります。

 「この人から出ていけ」という先の悪霊に対する退去命令の言葉に続き、シモンの家では悪霊に対する叱責の言葉。言葉によって悪霊を退去させる。ここには言葉によって悪霊を向き合い、言葉で悪霊を退ける主イエスの姿があります。

 「日が暮れると、いろいろな病気に悩む者を抱えた人が皆、病人をイエスの許に連れてきた。イエスは一人一人に手を置いて癒された。また悪霊も「あなたは神の子だ」と叫びながら、多くの人から出ていった。イエスは悪霊を叱って、ものをいうことをお赦しにならなかった。」主イエスの許にはたくさんの病人が連れてこられた。主は一人一人に手を置いて癒された。悪霊は自分がその病人から追い出されるのですから、主イエスの正体を、主イエスが何者かということを見抜いていて「あなたは神の子だ」と叫ぶ。これは言うまでもなく、信仰の告白とは全く違う。お前の正体はわかっている、神の聖者だ、というあの物言いと同じ、自分を滅ぼすものを知っている者の叫びなのです。しかしここで特徴的なのは、手を置いて癒す、その行為に続いて、最後は言葉によって悪霊を追い出していく主イエスの態度、姿なのです。

 主イエスはここで悪霊のお祓いをしているのではない。悪霊祓いの儀式や呪術的な呪文を唱えているのでもない。ただ神の言葉を宣べ伝えている。その言葉に権威があり、力があると言っているのです。

 わたしたちは今日の聖書箇所と向き合ってあらためて「言葉」というものの持つ力を考えさせられるのです。

 

 そこで、わたしたちがもう一度振り返っておく必要があるのは、主イエスの宣教開始の最初の言葉、福音を告げ知らせた言葉です。

 主イエスは先週の聖書箇所でナザレの会堂で、こう語られた。

 「主の霊がわたしに臨んだ。 貧しい人に福音を告げ知らせるために。 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 囚われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、 打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

 この主イエスの最初の言葉を改めて噛み締めたいのです。主はこの世界で神との豊かな関係を失っている貧しいわたしのために、福音を語るためにおいでくださった。そのために神から油注がれて遣わされた。主イエスは何ものかに囚われているわたしのために、まことの解放を与えるため、囚われの鎖を解き放つため、神を見上げて生きることから遠ざかっているわたしのために、神を見つめて、神の愛を見て生きるものへと、打ちひしがれているわたしのために、まことの生きる勇気と力を与えてくださるために、そして何よりも罪の赦しと新しいいのちを与えるために、福音を告げ知らせてくださる。貧しく、何者かに囚われている、見えなくなっている、打ちひしがれている者のために、言葉を与えてくださる、告げ知らせる、と語っているのです。

そこにわたしたちは微妙な違和感を覚えるのではないか。というのも、主イエスのうわさを聞きつけてやってきたのは、病人を連れた人々であって、福音の言葉を聞こうとしてやってきたのではなかった、ということが今日の聖書からも伝わってくるからです。人々が求めていたのは、言葉であるよりも、力ある業、行為、奇跡、治癒、だった。だから人々は福音の言葉に驚くけれども、その言葉によって信仰的な回心が起こったわけではない。

わたしたちはどうか。福音の言葉を、その力を信じて聞こうとしているのか。確かに人々も、わたしたちも福音の言葉を聞いている。その場合、聞くとはいったいどういうことなのか。

 ここで、人々は率直に言えば、その言葉の力の気配を感じている。まだ十分にキリストの言葉の力を受けとめてはいないかもしれないけれど、その気配は、感じ取っている。「人々はその教えに驚いた。その言葉に権威があったからである。」信じて、主の言葉の前でひれ伏したわけではない。驚いたというのは、信じてあなたはキリストです、と告白したということではない。しかしその言葉の力は感じ始めている。

 むしろ悪霊の方が主イエスの言葉の力の前で強くたじろいでいる。恐れをなしている。その言葉の威力を感じている。しかし悪霊が「正体はわかっている。神の聖者だ。」と言ったところで、それはあなたこそわたしたちの救い主、キリストです、と喜びのうちに信仰の告白をしたわけではない。キリストの力に怖れをなしての捨て台詞のようなもの。「あなたは神の子だ」との悪霊の言葉も同じ。だからこそ主イエスは悪霊を叱って、そのようなことをこれ以上言わせなかったのでしょう。

 朝になって主イエスは寂しい所へ出ていかれた。これは祈るためというよりも、多くの人が多くの病人を連れてきたため、主イエスが一旦退こうとされたということでしょう。「群衆はイエスを捜し回って、御許に来ると、自分たちのもとを去らないように、何とか引き留めようとした」というのです。

 この群衆の態度と言葉は、主イエスから福音の言葉を聞き続けたいというよりも、主イエスの治癒行為や、悪霊の追い出しという業を、この場所で続けてほしいという理由からだったのでしょう。それは主イエスの語る言葉に向かう態度ではなく、自分のたちのために主イエスを利用しようとする態度です。

その人々に向って、主イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」そう言われた。この言葉から受け取るのは、主イエスがこの世に来られた使命は神の国の福音の告知であり、福音の告げ知らせなのだということです。主のわざは、行為はそこからなされるものであって、その逆ではない。はっきり言えば、キリストの十字架も復活も神の国の福音の告げ知らせであって、その福音の言葉の結実なのです。

主イエスの語る言葉と、主イエスのなさる業との関係はこれからこの福音書を通してていねいに見ていきたいことなのですが、言葉と業との関係が、主の言葉の力を考えるうえでも大事なことなのでしょう。

 言葉の力ということで、今朝は一つの事を申し上げたい。それは、イエス・キリストの言葉が力を持ち、権威を持ち、威力を持っているのは、その言葉が神から来る言葉だから、ということ。神の意思と、神の御業を受けた言葉だから、ということです。当たり前だと思う人がいるかもしれませんが、そのことの意味を受けとるのは、とても重要なことです。キリストの言葉は、神の愛を受け、神の恵みに活かされ、神の真実の中にご自分があることを知っているものの言葉だから、そこに天来の力が、威力が働くのです。キリストご自身が神にある豊かさの中にあるから、キリストご自身が神にあって解放され、自由であるがゆえに、その語る言葉は神から来る権威と力が漲るのです。

 わたしたちはキリストの宣教の開始とともに、そのような神から来る権威の威力ある言葉を告げ知らされていくのです。その福音の言葉を聞きたい。ただ驚くだけでなく、怖れるためでもなく、わたしを活かすまことの恵みと力の言葉として、イエス・キリストの福音の言葉に、今日も、明日も聞いていきたい。