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マタイによる福音書連続講解説教

2024.5.26.三位一体主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書9章14-17節『 新しい葡萄酒は新しい革袋に 』

菅原 力牧師

主イエスのもとにヨハネの弟子たちがやってきました。このヨハネとは洗礼者ヨハネのことで、当時すでにその弟子集団は大きなグループになっていました。その弟子たちが主イエスに問いかけてきたのです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。

ヨハネのグループとファリサイ派の人々ではずいぶんと立ち位置が違います。しかしこの断食という点では両者は共通していたのです。ファリサイ派の人々は断食を宗教的な功徳として熱心に取り組んでいました。そしてヨハネのグループはもともと禁欲主義的な傾向が強いですから、断食に対しても積極的な姿勢でした。断食というのは、律法で定められたものではもともとなかったのですが、懺悔とか、悔い改めとか、を表現する宗教的な習わしになっていました。

ヨハネの弟子たちはフィリサイ派のことも持ち出して、「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねてきたのです。尋ねたというよりも批判したということでしょう。神を信じ、神の言葉に聞こうとするあなた方がなぜ断食しないのか、と批判してきたということでしょう。

すると主イエスはこう応えられたのです。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし花婿が奪い取られるときが来る。その時には彼らは断食することになる。」これは言うまでもなく譬話です。花婿が一緒にいる時に、披露宴に招かれた客が悲しんで断食するだろうか、という話です。そんなことする人なんかいない、誰にでもわかる話です。だが、花婿が奪い取られるときが来るというのです。ここでたとえ話は急に思いがけない方向に話が進みます。その時には婚礼の客も断食することになるだろう、というのです。

そしてキリストは続けて、織りたての布と、古い服の話をされる。これ自体は当時の人はよくわかる話です、古い服・生地に新しい織りたての布を継ぎに当てれば、晒していない布が後日洗うと縮んでしまい、古い布を破いてしまうことを指して言っているのです。誰もが知っていること。だから新しい葡萄酒は新しい革袋に、と主イエスの話は繋がっていく。

しかしこの主イエスの話は、全体としてどう繋がっているのでしょうか。そもそも主はここで何を語ろうとしておられるのでしょうか。話のもつれを解きほぐしたいのですが、ヨハネの弟子たちは、なぜ断食しないのか、と言ってきたのでした。断食することはいいことだ、というところに立っての発言です。ということはヨハネの弟子たちは、断食ということを巡って、するのがいいことで、しないのは悪いことだというごく単純な二分法に立っているのです。そこから世界を見ているのです。だから主イエスとその弟子たちは、断食しない悪い人たち、というふうに見えるのです。

けれども、主イエスとその弟子たちは断食しないと言っているわけではないし、主イエスご自身、断食することもあったのです。つまり主イエスと弟子たちは、断食が一方的に必要ない、悪いことだと思っているわけでもないし、逆に断食はいいことだから毎週決められた時間にやりましょうという態度でもないのです。断食はしようと思えばするが、それをルーティンに規則化しようとも思わない、ということです。一言で言えば自由ということです。断食に対して絶対にするべきとも思わず、断食必要なしとも思わない、ケースバイケース。自由。つまり二分法でみていない。二者択一でもない。だが、ヨハネの弟子たちにもこの考えがわからない。良いか悪いかの単純な世界観なのです。だから主イエスが言うような断食に対して自由、という捉え方があるということがわからない。わからないというよりも、自分たちの考え方以外の考え方が見えなくなっているのです。壺の中に入ってしまったようなものです。なぜ断食という善い事をしないのだ、という世界観の中に嵌まり込んでいるのです。ファリサイ派の人々はユダヤの宗教的な習慣の中で、洗礼者ヨハネのグループは神の前で身を律していくことが必要だ、という考えの中で、両者は断食は善だ、という壺の中に入り込んでしまっている。これはわたしたちにとっても、笑い事ではない。何か自分がこれが良いことだと思い込むと、そこから世界を見てしまって、それ以外の考え方が見えなくなってしまうということはわたしたちも経験していることだからです。

主イエスがここで語っている譬話の骨子は、断食に対してケースバイケースだ、という話です。花婿が一緒にいる時、つまり花婿も花嫁も揃っている結婚披露宴の席で、断食する人はいないだろう。だが、花婿が奪い取られるというような、緊急事態になったら、その状況を悲しみ断食することになるだろう、という話です。断食、断食と持ち上げているけれど、神との関係においてそれはケースバイケースでしょ、と語りかけているのです。この話の仕方それ自体が、それはヨハネの弟子たちが、宗教的にいいことだからやるべし、という壺の中に入り込んでいることで見えなくなっている彼らを壺から出す、もっと言えば壺を割ってでも、気づいてほしいことがある、ということなのです。

断食は、懺悔とか悔い改めということでしばしばなされていました。しかしそれは断食という自分にとってある種の苦行、つらい修行のようなものを科すことで、功徳というか、功績になっていくということもあったようです。だから断食は少しつらいけれど、それによって神の報いを受ける行為であると受けとめていたのです。

しかしイエス・キリストがこの世においでくださって、わたしたちの努力や、苦行や、修業で何らか自分の罪が軽減されるということではなく、ただキリストの恵みにより、真実によって、罪赦され、生かされていく、という福音が宣べ伝えられていく。もちろん主イエス以後でも、断食はしたでしょうし、最初のキリスト教会、例えば、この福音書の著者のマタイの背後にある教会においても、断食は行われていたと思われます。しかしその場合の断食はすでに、ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちが行っていた断食とは意味の違うものになっていったのです。それによって赦してもらったり、罪を軽減されるものではなく、悲しみの表現だったり、祈りの表現だったりしたのです。つまり、したい人はすればいい、というものになったのです。

主イエスの到来によって、ユダヤ教の人々や、ヨハネの弟子集団のようなグループの人々が、これこそ救いのためにどうしても必要だと思って実行していたものが相対化されたのです。もっと平明に言えば、神の前での人間の行動として最も大事なことが、キリストによって明らかにされたのです。それは、人間の宗教的な修行のようなものでも、功績を示すことでもない。それは人間単独の行為行動なのではなく、キリストと共に生き、キリストによって生き、キリストの恵みの中で生きること、そのものが大事、キリストとの関係性の中で生きること、それこそが最も大事なことだ、ということ示されたのです。

このたとえで花婿はキリストです。婚礼の席で、花婿と客とはその喜びの時を共に過ごすことこそ大事なこと。つまり、キリストが一緒にいてくださるその時を、キリストと共に生きることそのものが大事なのです。キリストが共にいてくださるのに、断食するという滑稽さをこのたとえ話は語りたいのです。そして、キリストという花婿が奪い取られるとき、それは十字架のときですが、その時には悲しみ嘆き断食もするだろう。それもまたキリストとの関係性の中に生きているからこその行動です。しかしキリストは天に昇られた後も、わたしたちと共に在り続けてくださることを聖霊は明らかにしてくださる。だから、わたしたちはその聖霊の働きの中で、キリストと共に生き、キリストによって生き、キリストの恵みの中で生きればいい。そのことにこそ全力を注ぎ、歩んだらいい。その中で断食したい人がいるなら、断食したらいい。する必要を認めない人はしなければいい。断食はあなたの救いの条件でもなければ、必須条件でもない。あなたの罪が赦されるためにはそうしたことは必要なく、あなたはすでに救われている。

これがキリストに在るものの新しさです。それは、自分の努力や修行で救われようとする古い生き方とは根本的に違うものです。それは共存するようなものではなく、キリストによる生き方へとすべてのものが招かれる、そういう新しさの中にあるものです。だから、この新しい織りたての布は、古い服を引き裂くことになると言っているのです。古い生き方を脱ぎ捨て、キリスト共に生きる新しいいのちを生きなさいと主は言われているのです。

このマタイ福音書の9章9節以下の箇所で主イエスは収税所に座っている徴税人に呼びかけられました。そして徴税人や罪人と呼ばれる者たちと一緒に食事をしました。だがファリサイ派の人々はそれを見て、弟子たちに向かってあなたたちの先生はなぜこういう連中と一緒に食事をするのか、と糾弾しました。ファリサイ派も洗礼者ヨハネの弟子たちも自分たちの善悪の基準ですべてを見ていた。徴税人や罪人は悪い人々。そのものたちと一緒に食事をするのは悪い人。そのような視点、世界観そのものが古い服なのです。キリストがおいでくださった世界においては、徴税人であろうが罪人であろうが、キリストと共に生き、キリストによって歩み、キリスト共に食事を楽しみ、キリストとの関係性の中で生きる。9章は根底に同じテーマが語りかけられている。そして、あなたはどう生きているのか、相変わらず古い生き方に固執しているのか、キリストとの関係性の中で今生きているのか、わたしたち一人一人、問いかけられています。