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マタイによる福音書連続講解説教

2024.6.2.聖霊降臨節第3主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書9章18-26節『 あなたの信仰があなたを救った 』

菅原 力牧師

今日の聖書箇所はそう長くはないところなのですが、ここに二つの出来事がサンドイッチのように挟まる形で物語られています。

 そもそもこの話は主イエスがマタイという徴税人の家で食事をしていた、そこへ他の徴税人や罪人と呼ばれている人々も大勢やってきて、みんなで食事をした、その食事の席での話が続いているのです。主イエスがそこで食事をしているというので、いろいろな人たちがその席にやってきて非難したり、問いを投げかけてきたりした。さらには、いろいろな人が主イエスに願い事を持ってやってきたという場面です。

 ある指導者が主のもとやってきて、「娘がたった今死にました、でも、おいでになって娘に手を置いてやってほしい」と言ってきた。主は立ち上がり、その人の求めに応えようとして歩みだした。弟子たちも一緒に歩みだした。するとそこへ一人の女が近づいてきたのです。彼女は12年もの間出血が続いている病を抱えた女性でした。この病が今日の医学で何なのか特定することは難しいのですが、いずれにせよ、12年もの長きにわたり、彼女は病に苦しんでいたのでした。その彼女が自分の方から主イエスに近づいてきたのです。これは決して普通の場面ではないのです。驚きの場面と言っても大げさではない。 

というのも、出血を伴う病の場合は、古代社会においては、またとくにユダヤ社会においては、汚れた者として社会的に忌避され、はじき出されていくのです。

 彼女は、その病を負ったことで、人々からのあの女は穢れた女だ、という視線と向き合わなければならなくなった。さらに律法による規定が彼女を苦しめた。人に近づくこともまして触れることも、相ならぬと規定され、宗教的、社会的に社会の外に置かれていく。そして何より彼女を拘束し、重荷になっていたのは、自分の思い、自分の心、自分の観念だったのではないか。自分は穢れた女だから、人前に出るのはふさわしくない、人としゃべるのもふさわしくない。自己肯定感を奪われて、いつも不安や、自虐に襲われていた。その彼女が、自分から主イエスに近づいていくのです。

これはだから驚きの光景です。わたしたちはそのことをこの聖書箇所を読む場合理解しなければならない。

イエス・キリストはこの近づいてきた女性に対してこう言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そして、「その時、彼女は治った」とマタイは報告するのです。不思議な話です。あなたの信仰があなたを救ったと主は言われている、しかしここで彼女の内からの力で彼女の病の癒しが起こったわけではないでしょう。明らかに主イエスの力、主イエスの人を救う力、いのちを与え癒す力によって彼女は癒されたのでしょう。しかし主イエスはあえて、「あなたの信仰があなたを救った」、と言っておられる。それは彼女が主イエスの力を感じ取り、受け取ったから、ここで癒しが起こっているということです。キリスト教信仰というのは、イエス・キリストの言葉、恵み、わざ、行動、それを自分のこととして受けとり、感受していくことだと言ってもいい。彼女がいろいろな壁にぶつかりながら尚、イエス・キリストのもとに近づいたことそれ自体、キリストの言葉、恵み、わざをこの身で受けたいという強い思いの顕れです。

彼女は、主イエスに出会うためにさまざまなハードルを抱えていた。自分の中だけでなく外にも、ハードルがあった。人々の目であったり、律法の掟であったり、自分自身の中のものだったり。主イエスにお会いするには自分はふさわしい人間ではない、自分にはそんな資格はない、罪人のひとりにすぎない、というたくさんのハードルです。しかし彼女は、それらの重荷に押しつぶされそうな自分を抱えながら、主イエスに出会うのです。それはなぜか。それは彼女の強い意志というような話ではない。なぜなら彼女の意志というようなものはこれまでさんざん踏みつけにされて、ずたずたにされてきたからです。だからそれは自分の中の意志というのではなく、イエス・キリストからの光、伝え聞いたイエス・キリストの言葉、業、行動が彼女を掴んでいるのです。わかりますかこの感覚。キリストから一条の光が差してくる、それを彼女は否定できず、その光に向かっていくのです。彼女は近づいて、後ろからイエスの服の房に触れています。正面からは会えない、直接声をかけることもできない、それが彼女を取り囲んでいたものの重荷でしょう。しかし彼女はそこで「この方の服に触れさせすれば直してもらえる」と思っているのです。それがキリストからの光を受けているということです。彼女はイエス・キリストに捉えられていた。この方は自分を受けとめ、この方は自分に力を与え、直してくださる方だ、受けとめ捉えられていた。何かが明確にわかっていたとは言えないとしても、彼女は、キリストがわたしに生きて働いてくださるという信じ、捉えられていた。その思いの中でキリストに近づいてきた。それをキリストは彼女の信仰ととらえてくださっていた。「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスの言葉は、あなたの信念や、あなたの内にある力があなたを救った、という言葉ではない。信仰という言葉は、これまでもお話ししてきたように、キリストの信実のことです。わたしの信念や信仰心のことではない。しかしキリストの信実がわたしたち人間にキリスト向かう姿勢を、行動を、思いを与えてくださるのです。キリストの信実、光を受けとり、感受し、その力をこの身に受ける、その思いを与えてくださる。そこにわたしたちの信仰が生まれる。彼女は今ここでキリストに出会い、キリストの信実と彼女の信仰の出会いの中で、キリストの恵み、キリストの力、キリストを癒しを受けるのです。それが病気の癒しという奇跡になっているのです。

 最初に申し上げました。主はこの時、徴税人、罪人たちと食事をしていたのです。それはユダヤ社会の中で、はじき出されていた人たちです。その人たちがいたらみんな避けて通るような人たちです。誰からも声をかけてもらえず、自分たちは、神の救いからも除外されている、と思っていた人たちです。その人たちが主イエスのもとに自分たちの方からやってきているのです。病気の彼女と全く同じ。驚きの光景なのです。この場面は。そしてそれはイエス・キリストが放つ光のゆえなのです。主イエスの地上での歩みというのは、罪人の赦しへと向かう歩みです。その罪人とは、徴税人であり、罪人と呼ばれた人々であり、わたしであり、あなたなのです。その一人一人がかけがえのない一人として神に愛されている、そのことがイエス・キリストの地上の歩みにおいて語られ、行為され、わざとしてめぐみとしてあらわされている。罪人とイエス・キリストが共に食事をしているという光景は、まさに神による奇跡の光景なのです。

 もう一人の登場人物。ある指導者と呼ばれている人物、彼は、娘が死んだ、という現実に遭遇していた。それは人間の可能性としては、終わりの宣告を受けたということです。しかし彼は主イエスのもとに来て、ひれ伏して「でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」でも、と言うのです。そしてキリストに願うのです。

この指導者の彼と、病気の彼女とには、共通するものがあります。それは人として行き詰まっている、ということです。行き詰まっている。しかしそれ以上に共通しているのは、行き詰まっているという自分の見ている現実ではなく、キリストからの光に存在を向けているということです。イエス・キリストの恵み、イエス・キリストの力、に捉えられているのです。この方において人間の力ではない力が、恵みが働く、そのことを受けとめて、この場所に進み出ているのです。その意味では彼女と全く同じ。

 だから主イエスはこの指導者の行動に対しても、「あなたの信仰があなたを救った」と呼びかけるのではないか。

 主イエスは彼の家に行き、葬式のために集まり笛を吹く者たち、泣き女のように葬儀に参加しようとしている群衆に向かって、「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」と言う。人々は主イエスのことを嘲笑うのです。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をおとりになった。すると少女は起き上がった。

 主イエスが手を伸ばして少女の手をとる、その手は、主イエスの恵みのうちにその人もあることを示す手です。少女は死んだのではない、眠っているのだ、というのは何か少女が実は仮死状態だった、というようなことを言っているのではなく、キリストにとって少女の死は決定的なものではない、ということでしょう。最後のものではない、ということです。イエス・キリストがこの世に来られたのは、わたしたち一人一人の罪の赦し、それと同時に、人間の生も死も神の御手のうちにあって、神は死をも、支配される方であること、その神の恵みのうちに人は活かされているということ、キリストの復活こそまことの希望であること、そのことを示されたのです。

 死んだ娘が生き返るという奇跡はまさに、イエス・キリストにおいてあらわされた神の働きです。この奇跡自体驚くほかないものですが、わたしたちは皆、この神の恵みの中に、働きの中に置かれている、という奇跡的な事実をこの出来事は物語っているのです。

 行き詰まっている二人が、自分たちを捕えているキリストの光に存在を向けて、キリストの御業の中に、働きの中に身を置こうとした信仰、キリストの信実によって生まれていく信仰、その信仰によってキリストに近づき、キリストの恵みを受けたことを、心に深く止めて、わたしたちも二人に続くものであり続けたいと思うのです。