マタイによる福音書連続講解説教
2024.6.9.聖霊降臨節第4主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書9章27-34節『 主による癒し 』
菅原 力牧師
今日の聖書箇所には主イエスによる二つの癒しの出来事が記されています。山上の説教を終えて、8章9章を読み進んできたのですが、山上の説教では主イエスの「言葉」に聞いたのですが、ここでは主の「わざ」を「行為・行動」を見ることになっていきました。言葉とわざ、わたしたちはそれを併せ知ることによって、主イエスの全体像、主イエスという方の存在を知らされていくのです。今あらためて8,9章を通読すると、主イエスのわざの多くが癒しのわざであったことに驚かされるのです。つまり主イエスの「行為・行動」にとって、癒しのわざはたまたまとか、行きがかり上そうなったということではなく、癒しそのものが主の地上の歩みにおいて、大事な、使命に関わることだった、ということが8,9章を読むことでわかるのです。
指導者の娘の出来事、12年の患っていた女性の癒し、その二つのわざをなされた主がそこから歩み始めていかれると、そこに二人の盲人がやってきて、叫ぶのです。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」二人も主イエスのことを聞き及び、何らか主イエスの光を受けた。この光を感受して、この方こそ、という思いを与えられ、この方のもとにやってきたのです。二人は「ダビデの子よ」と呼びかけています。二人が「ダビデの子よ」と呼びかけたのは、小さなことではない。ユダヤの歴史の中で、この名前は特別な名前だからです。複雑な話は置くとして簡単に言うと、ダビデの子という呼び名は、イスラエルにとって、自分たちを救う王の呼び名です。力ある王、自分たちをまことの意味で支配し、栄光を回復させる王です。けれど不思議にもと言っていいことなのですがマタイによる福音書で、この名を呼ぶものはほぼ、病を癒す場面、もっと言えば盲人の癒しの場面で呼ばれているのです。つまりイスラエルの民の中にまことの王、まことの救い主とは病苦に悩む民、目の見えないものを憐れみ、癒すものであるという祈りと願いがあったということです。「憐れんでください」という叫びには、まさにこのわたしを救ってください、というキリストへの叫びがあるのです。
主イエスが家の中に入られると、二人もやってきたので、主は「わたしにできると信じるのか」と尋ねられます。イエス・キリストへの信仰を尋ねておられるのです。わたしたちもここではっと、とさせられるのではないか。あなたは願い事を持ってきている。これを助けてほしい、救ってほしいという願いを持ってきている。あなたは本当にわたしがあなたを救うことができると思っているのか、そう尋ねてきているのです。わたしを救い主として、助け主として信じているのか。主イエスにおいて神が働くことを信じているのか、そう問いかけられているのです。二人は「はい、主よ。」と答えるのです。主イエスは二人の目に触り、「あなた方の信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。主はここで二人の目を開いた。
わたしたちは福音書の中で繰り返される奇跡というものをどう受けとめたらいいのか、という素朴な疑問の前に立たされます。イエス・キリストにおいて神が働く、神の子であるイエス・キリストが神との深い一体性において、キリストの歩みにおいて、キリストのわざにおいて、行為行動において神の力が現れる。病の癒しも、悪霊の追い出しも、皆神の力が溢れ出る。それはわかる。しかしそのことは自分とどこでどう繋がっているのか。そう思う方もいるでしょう。
今この地上で、わたしたちはこの二人の盲人と全く同じような経験をするわけでは必ずしもない。癒しの奇跡は、神の力そのもので、それは終末の全き救いのしるしなのだ、という理解があります。そうだと思います。ただそれだけ、というのではないでしょう。先に言ったように、「ダビデの子よ」という呼びかけ、わたしたちの救い主よという呼びかけは、盲人の癒しと深く繋がり、呼びかけられていたという話を聞きました。それはなぜかということを考えると、閉じられていた目が開かれていくというこの奇跡こそ、主イエスがわたしたちの間でなさる奇跡そのものに他ならない、という信仰があったからに他ならないのです。二人の盲人が、キリストからの光を受けて、それを感受する信仰を与えられ、この方において神は働き給うという信仰を与えられて、キリストと向き合い、キリストとの交わりの中で、閉じられた眼が開かれていく、それが救い主、ダビデの子である主のわざなのです。今わたしたちは自分自身の困難や、病気や、苦しみの中で、キリストからの光を受け、それを感受しつつ、キリストに近づき、キリストから与えられる信仰によってキリストの言葉を、わざを、受けていく。そこでわたしたちもまた眼開かれていく。何かを一人一人見るものとされていく。これまで閉ざされていた眼が開かれ、キリストのわざをわたしたち見るものとされるのです。このわたしが生きているこの場所が神我らと共に在る場所であることを見るのです。
主はこのことは誰にも知らせてはならない、と言われた。その理由はいくつかあるのでしょうが、ここでは、それがイエス・キリストとその人との関係の中で起こる出来事であることを受けとめる必要があるのです。主イエスが奇跡行為者として、ただそのことだけが伝わっていくことは、もちろん本意ではないのですから。
二人の目が開かれて、その者たちが出ていくと、入れ替わるようにして、悪霊に取りつかれて口のきけない人がイエスのところに連れ来られました。
どういう状況で、どんな思いで連れてこられたのか、何も記されていません。
悪霊が追い出され、主イエスの癒しの行為がなされると、口のきけない人がものを言い始めたのです。主イエスの癒しのわざに対して、二つの声があったことをマタイ書き記しています。
一つは群衆の声。群衆は驚嘆し、「こんなことはイスラエルで起こったためしがない。」と言ったのです。群衆の声は、イエスを信じ、イエスをほめたたえる、というものではない。まさしく驚嘆なのです。驚いている。だから否定的なのではなく、肯定的ではあるのだけれど、信仰の言葉ではない。群衆の声は、イスラエルで起こったためしがない、というのです。それはダビデの子に即して言うのなら、ダビデのように力で支配し、王の権力で人々を導く、というのではなく、人々の困難の中で、不安や、苦しみの中で、そこに立ってわたしたちを憐れみ、救い、癒し、神の力をあらわしてくださる、こんなことは起こったことがない、というのです。
一方でもう一つの声は、ファリサイ派の人々の声であり、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という声でした。ファリサイ派の人々も、主イエスのなさった癒し、奇跡、その業が事実起こっていることを認めざるを得なかった。福音書に数多く記されている癒しのわざ、奇跡、主イエスのわざ、それをファリサイ派の人々も否定はできなかった。だからこそ彼らは彼らなりの主イエスのわざに対する解釈をしたのです。それが、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」という理解だったのです。このファリサイ派の解釈に対して主イエスはこの後、12章で論破されるのですが、いずれにせよファリサイ派はこの理解に固執する。ファリサイ派が固執したのはよくわかるのです。
主イエスのわざを否定できないとすれば、いずれにせよ、そこに人間の力ではない働きを認めざるを得ない。神の働きを少しでも認めるのなら、ファリサイ派は主イエスを神の子と認めないまでも神の使いとして、認めざるを得ない。
でなければ、悪霊の働きにするしかなかった。
マタイはこの二つの声をしっかりと書きとどめている。主イエスのわざが行動が行為が、こうした声が大きくなる中で、進んでいったことをマタイははっきりと書き記しているのです。それはとてもマタイらしい、冷静な記述と言っていいものです。群衆の驚嘆は、奇跡を歓迎する態度と言っていいものです。しかしそれがキリスト信仰へと導かれるかどうかはわからない。奇跡を驚嘆するだけでは信仰は生まれない。奇跡という一つのわざの中で、誰がどのように働いてくださっているか、ということを知ることがなければ、奇跡はただ驚嘆すべき事柄というだけなのです。だからこそキリストは目が見るようになった二人に沈黙命令を出されたのでしょう。ここで生きて働いておられる方はどなたなのか、そのことを奇跡を通して知ること、が大事なことなのです。
一方のファリサイ派の人々の声。それは主イエスのわざ、行為・行動を自分たちの理解の枠に納めようとする声です。主イエスの伝道の歩みは、そのような声の中で歩まれていった、マタイはそう報告するのです。
マタイはこの二つの声を書き記すことで、読者であるわたしたちに問いかけているのです。あなたは、イエス・キリストのわざの前で、癒しの出来事の前で、奇跡の前で、何を受けとり、何を感受しようとしているのですか。そしてさらに大事なこと、受け取ったもの、感受したものによって、どこに向かっていこうとしているのか、そのことを問いかけている、それが10章へと続いていくマタイの問いかけです。主イエスの言葉を与えられ、主イエスのわざの中にあることを知った私はどこに向かってどう歩んでいくのか、わたしたちは神から問いかけられているのです。