マタイによる福音書連続講解説教
2024.6.19.聖霊降臨節第5主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書9章35節-10章15節『 弟子たちの使命 』
菅原 力牧師
今朝はマタイによる福音書の9章の35節から10章の15節という比較的長い箇所に聞いて、神を礼拝してまいりたいと思います。
9章の35節「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された。」この一文は山上の説教からの主イエスを端的に要約した文章になっており、5章からの主イエスの言葉とわざあらためて語り、ここから始まる弟子たちへのメッセージへの橋渡しになっている大事な文章です。なぜなら、ここで主イエスはご自分のなさってきた「教え」、「宣べ伝え」、「癒された」という働きを、弟子たちの使命として託していかれるからです。
さて、主イエスは町や村を回って人々を、群衆をつぶさにそのようすをご覧になられました。そして主イエスの目には群衆の姿は、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」存在として映ったのです。人々が自分たちがどう受けとめ理解しているかということではなく、主イエスから見て、ということです。羊にとって飼い主がいないということがどれほど不安なことか。人間も自分ではしっかりやっているつもりでも、まことの飼い主である主を、神を見失っているとき、それは弱り果て、打ちひしがれている。その様子を見て、深く憐れまれたのです。そしてその人々のために、主イエスは弟子たちを派遣されるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」収穫というのは、終末、救いの完成の時に神の国に集められるものということが暗示された言葉でしょう。その時を目指して、福音を宣べ伝え、神の恵みを与える働き手、その働き手となるよう弟子たちに語り始めたのです。
そこで「主イエスは12人の弟子を呼び寄せ」、というのですが、マタイによる福音書には12人の弟子がいつどこで選ばれたのか、書いてはいないのです。マタイは12人の選任ということよりも、この12人の弟子たちを用いて主の言葉が語られ、主の御業がなされていく、12人に委託された主からの使命にこそ、関心があったということでしょう。主が権能をお授けになったということこそが大事なのだ、ということなのです。言うまでもないかもしれませんが、主イエスの弟子たちは「精鋭」とか、えり抜きのすぐれた集団、というわけではない。ペトロから始まって、信仰的にも抜きんでた人々が集められたというわけでもない。そもそも選ばれた根拠や理由など何一つ書かれていないのです。さらに12人の最後はイスカリオテのユダの名前が記されているのですが、イエスを裏切ったユダ、と記されているのです。弟子の条件としてもっともあってはならない裏切りがこんなにはっきりと書かれている、それがこの12人なのです。しかしそれでも主はこの集団に権能を授け、この12人という集団を用いて伝道のわざを、癒しのわざをなさるのです。ここに神の選びというものの姿、原形があるのです。そして、ここには後の教会がイメージされていると言っていいでしょう。
もう一つここで受け取っておかなければならないことは、主イエスによって呼び集められた弟子集団、すなわち教会は、ただ主イエスを心の中で信じ、祈りをささげるという集団ではなく、主イエスのなさったこと、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、癒しのわざをなす、そのような形で、主に従う群れだということです。キリスト教信仰とは、自分がただ心の中で信じるということに終始し、収まっていくものではなく、キリストを証しするものとして歩む、つまりそのような形でキリストに従う、ということまでのつながりを含めた信仰なのです。弟子集団は、まさしく主の言葉と御業とを継承し、ここで神が働いてい下さるということを信じてその働きを負っていく集団なのです。もちろんこの時には後の時代に形成されていった、職制やさまざまな制度はない。しかし12弟子という集団がイエス・キリストの呼びかけに応えて歩む群れであり、まさしく教会の原型があるのです。主のわざに用いられる群れであり、そこでその弟子たちが用いられる中で、イエス・キリストが働き、神が働いていく、そのことを信じて従う群れである、ということがここで明らかにされているのです。
「主イエスは弟子たちを派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』」なぜ主はここで、宣教への派遣をイスラエルに限定されたのか。この福音書の最後では、「だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子としなさい」という全世界に向かう宣教命令が語られています。これは、神の言葉がイスラエルにまず語られ、そして世界へという広がりが主イエスの中にあったことを示すものです。
伝道は、神の民であるイスラエルから。主イエスご自身がそうであられたように、拒まれ、疎まれ、殺そうとされても、まず、神がその歴史において導いてこられたイスラエルの民に、神の御言葉を宣べ伝える。
それはわたしたちにとって、まずわたしたちのこの社会に生きる者たちに、身近なものに、わたしたちの足元で、主のみ言葉を宣べ伝えるということ。そこからみ言葉が広がっていくということなのです。
「ただで受けたのでだから、ただで与えなさい」あらためて思い知るのです。神の恵みは、神の信実はただなのです。ただでわたしたちはこの恵みを受けたのです。弟子たちはこのただで受けたものを、ただで与えるのです。
そして主イエスは「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」というのです。極端な物言いです。着た切り雀の手ぶらでいけ、ということです。予備のものも持たずに出かけろというのです。無茶な話です。実際後には、誰もがこのような形で伝道の旅には出かけてはいない。事情は変化していくでしょう。しかし主がここで語ろうとしておられることは何なのでしょうか。
それは、わたしたちが普通に旅に出ようとするときに、あれもこれもと言って鞄の中に詰めていくように、伝道のための備えを持っていくことはできない、ということを言っておられるのです。
自分の持ち物や準備が役に立たない、ということを思い知らされるからです。その何もないという経験の中で、主の働きを仰ぎ見るのです。主の働きをまこと祈るのです。主が弟子たちに言われているのはそのことです。神の御国を宣べ伝えるのに、自分は何もないということを知るその場所で神の働きを仰ぎ見、神の働きを祈るのです。そしてそこから語るのです。そこから語り始めるのです。
「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」もちろんこの言葉もいろいろに解釈されています。そもそも9節10節の言葉から、中世の修道院の生活を生み出されていくという面もあり、この主の言葉はさまざまな広がりを持っています。
しかし今受けとめたように主の言葉を聞くのなら、この10節後半の言葉は、主の委託において働くのなら、必ず主が養い育ててくださる、ということに他ならないでしょう。
「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなた方の願う平和は彼らに与えられる。もしふさわしくなければ、その平和はあなた方に返ってくる。」福音の宣教はただ闇雲に行われるのではない。ふさわしい人はだれかをよく調べとあるように、こちらの調査や努力も必要なのです。どこでどのように福音を語るのか、そしてこの人は脈あり、と判断したら、そしてその人も受け入れてくれるのなら、そこで腰を据えて語りなさい。平和があるように、とは神の恵みがあるように、ということです。神の恵みが素晴らしい事であっても、誰もがそれを受け入れるわけではない。その恵みに心を開く人もいれば、閉ざしたままの人もいる。またわたしたちの力で相手の心をこじ開けれるわけでもない。あなたが祈るその恵みが受け入れなくとも、その恵みはあなたに返ってくるというのです。つまりこういうことです。弟子たちが福音を宣べ伝えて、そこで収穫が与えられなくても、信じる者が生まれなくとも、それは無駄骨だったのではない。それは福音を語るあなたに返ってくる、あなたはそれによって恵みに満たされるというのです。
14節の言葉は福音を宣べ伝える者の潔さ、ということを語っています。御国の福音を宣べ伝えて、受け入れられないのなら、後は主にお委ねて、次の町へ、ということでしょう。実際ここでは後の教会のように定住するとか一箇所で長期にわたって、ということが視野に入っていたわけではなく、点々としていく伝道が考えられていたわけです。しかし現在のような教会においても、受け入れる人、受け入れない人、また受け入れたけれど去っていく人、さまざまある。しかしわたしたちは語るべき言葉を語って、後は主にお委ねする、という潔さが必要です。しばしば人が勝手にイメージするようなすべての人を招き入れ、すべての人が福音を歓迎する、ということはわたしたちの知るところではない。ただ大事なことを語り続けていくこと、神の御業を宣べ伝えていくことなのです。15節の言葉は、確かに終末の裁きということを示唆する言葉です。けれどわたしたちにとって大事なことは、弟子集団としての歩み、教会の歩みというのは、すべて、終末の主に委ねつつ、今日わたしたちのすべきことをする、ということに他ならないのです。主イエスのここでのメッセージは、キリストを信じ、キリストと共に歩む弟子たちの使命を語っています。それは一人でするものではない。弟子集団においてなされていくもの。同時に、一人一人のキリストの証人としての歩みも、そこで活かされていく、そういう性格のものです。そのことを今日のみ言葉に聞きつつ思いを寄せて、教会のこととして、我が事として、思い巡らしていきたいと思います。