マタイによる福音書連続講解説教
2024.6.23.聖霊降臨節第6主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書10章16-33節『 恐れることはない 』
菅原 力牧師
主イエスは山上の説教において神の国の福音を語り、神の恵みを説教されました。そして主イエスは癒しのわざをなされ、苦しみ困難の中にある人と出会っていかれた。主イエスは弟子たちを呼び寄せ、飼い主のいない羊のように弱り果てている群衆のため、弟子たちを派遣された。この世において弟子たちに使命を与え、遣わされた。
けれど、弟子たちを遣わすことは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ、と主イエスは語られた。主イエスに従い、主が言われたとおり、主の福音の言葉を宣べ伝え、穢れた霊を追い出すその働きを歩みだせば、さまざまな困難に直面するというのです。地方法院に引き渡されたり、会堂で鞭打たれたり、総督や王の前に引き出され、キリストを貶めるための証言を強要されるだろう。肉親との間にトラブルが起きる事も避けがたく、イエス・キリストのために、人々に憎まれ、迫害をも受けるだろう、とまで言うのです。すごい話ですよ。ちょっとした困難があるだろうという話ではない。
しかし少し考えればわかるように、主イエスが伝道活動をしたとき、主イエスのもとに多くの人が集まってきたけれども、同時に、主イエスを排斥し、中には殺そうとした人たちがいたことも、わたしたちは知っています。キリストの福音が語られるところ、そこでは必ず反発や、それを抑え込もうとする力が生まれるということです。だからこそ主は受難の道を歩み、十字架にかけられていったのです。今弟子たちが、主の言葉を伝え、主イエスのわざをなすべく遣わされていくその時に、ある意味では当然、主イエスに倣う歩みをするわけですから、そこには当然キリストの歩みに連なる受難の歩みがあるということになるのです。
けれども。わたしたちは今この主の言葉を文字通りに感じるというところからは遠いところにいると、感じている人は少ないのではないでしょうか。確かに主イエスが伝道なさった時代、また最初期の弟子たちの伝道した時代と今とは、さまざまな違いがあるのは当然です。表立った迫害も、組織的な攻撃も今の時代はない。だからこれは、この時代の中での主の言葉なのだ、という読み方をする人もいるでしょう。
もちろん、ここで語られていることと同じことがわたしたちの身の回りに起こるかどうか、それはわからない。しかしだからと言って、ここで語られていることは、わたしたちに無縁な言葉とはとても言えない。
26節に「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなた方に言うことを、明るみで言いなさい。」覆われているもの、隠されているもの、と言われているのは、神の国の福音、神の救いの完成のことでしょう。それは今覆われているように見える。隠されてもいる。だが最終的には明らかになる神の救いのわざ、わたしたちはその福音を語るのだ、ということです。暗闇であなた方を言うことを明るみでいう。暗闇というのは夜の闇の中、ということが言いたいわけではなく、わたしたちが一人一人の胸のうち、心の奥深くを指す言葉で、一人一人自分の心奥深くで受けとめた主の言葉を、明るみで語る、人々に向かって語りなさい、と主は言っておられるのです。
人は誰もが自分が受けとめ、聞きとっているものを表現することが巧み、というわけではありません。まして、受けている神の恵み、信実、それを表現するのは苦手です。苦手というか、表現できない、とすら思っている。自分では語っているつもりでも、それが実はとても的外れ、ということもしばしばあるでしょう。しかしそれを語りなさい、と言われているのです。しかもそれを語ることで、歓迎されるのならともかく、反対されたり、攻撃されたり、憎まれたりしたら、多くの人は口を閉ざしてしまう。キリストは信じる。主イエスの福音には感謝以外の何ものでもない。しかしそれは自分の内に秘め置くものだというふうに自分の内に引き取ってしまう。
イエス・キリストの福音は、この世に在っては異質なものなのです。異質というのは、この世のものではない、ということです。この世のものの延長線上にあるものではないからです。キリストの福音は人間の罪を明らかにします。それはわたしたちの改良や、補修や改善ではどうにもならない「罪」を明らかにします。それはただ神の独り子というこの世にとっては異質な、キリスト・イエスによる救いに与る以外にはない、という福音なのです。だから王であろうが、宗教的な権力者であろうが、親であろうが、子であろうが、罪人であることは免れ得ず、イエス・キリストによる救いを得る以外にはない、という福音は、その福音自体によって、この世に在って、激しく攻撃されたり、憎まれたりするのです。
主イエスは今日の聖書箇所でいろいろなことを語っておられますが、ここで言わんとしておられることは、多くはないのです。
一つは、恐れず、わたしから聞いたこと、受けたものを宣べ伝えなさい、ということ。その場合、わたしの中にある何かを語るのではなく、キリストから受けたものを語るのです。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」とは、わたしたちはただ師であるキリストから受けたものを語るのである、という単純なことを言っています。しかし単純なのですが、それが難しい。
キリストから受けたもの、聞いたこと、それを語る、証しする。そこで起こってくる状況は、時代や、環境の変化の中で、変わっていくでしょう。日本においても、明治時代におけるキリストの証しと、戦争に突入していく時代の中、また戦後の高度成長期、そして現代、と並べてみただけでも、大きく状況は変化していきます。しかし福音が宣べ伝えられていく、ということの中には、変わっていく部分もあれば、変わらない部分もあるのです。どんな時代であれ、どんな環境の中であれ、キリストの十字架を、キリストの復活を証しし、宣べ伝えていくことは、困難に直面する。誰もが福音を歓迎するわけではないし、無視という通過もある。家族だからこそ難しい局面もある。夫婦故の困難もある。どんな場所で、どんな場面で証しすべきなのか、迷っているうちに時間が過ぎていく、というここには書かれていない困難もある。
何をどう語ればいいのか、いつもその最初の場所で戸惑っている人もいるでしょう。聖書のことはよく知らないから、わからないから、何も語れないという人もいるかもしれない。しかし最初の弟子たちは、何かの専門教育を受けた人たちではなかった。何度でもいうことになるけれど、キリストから受けたもの、与えられたもの、キリストから聞いたもの、キリストから示されたことを、わたしたちは証しする。わたしたちは人々を恐れる、しかし自分も恐れている。この自分では証しはできないと、自分を恐れている。
しかし「何をどういおうかと心配してはならない。その時には、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなた方の中で語ってくださる、父の霊である。」わたしはこの主イエスの言葉が聞こえているのでしょうか。素通りしているのではないか。この言葉はわたしたちの理解を超えています。むしろわたしたちは、自分がしゃべることで、福音を宣べ伝えるというよりも、人を福音から遠ざけている、という思いに駆られることも少なくない存在です。日曜学校でお話しするというような原稿を用意する場面なら手直しすることもできない。しかし人と人の話の中で、自分の口から出た言葉が、後から振り返って、福音的ではなかった、と反省させられることは少なくないだろうと思います。あの言葉は余分だったとか、あれはたんに自分の考え、意見にすぎず、福音とは何の関係もないものだった、ということを後になって反省後悔する人もいるでしょう。なぜそんな自分であるのに、この自分において父の霊が語ってくださるなどと言えるのか。
しかし。父の霊、聖霊はわたしたちを超えて働いてくださる。わたしたちの理解を超えて、活きて今、働いてくださる。
大事なことは、キリストと出会い続ける、ということなのです。
キリストとの出会いを過去のものとせず、今の自分が、今キリストに聞き、今キリストの恵みを受け、今キリストの言葉をどう聞けばいいのか思い巡らし、どうキリストの言葉に従えばいいのか祈り求め、今キリストの言葉をこの自分がどう実行したらいいのか、求めていく。過去の自分のキリスト理解に、固執せず、もう一度新たに聞き直していく。
その歩みの全部を神は用いてくださる。証しを人前で喋ることだけと捉えているのは、明らかに誤解で、証しとはその人の生活の全部であり、生涯の全部なのです。しかしだからと言って、わたしたちは一挙手一投足何かぎこちないものになるというようなことではなく、キリストと出会い続けながら、わたしを生きるということ、そしてそこで聖霊は働いてくださるということを信じて歩むということなのです。困難はある。あるというよりも、福音宣教は困難と背中合わせなのです。けれどもわたしたちは、絶望も失望も過大評価しない。父の霊が働いてくださることを知っているからです。
教会を出た途端に、今日の聖書箇所箇所の細かい部分は忘れてしまうかもしれない。しかし、大事なことは、今、このわたしが、キリストと出会い続ける、ということなのです。そこから従う道も、証しの歩みも、拓かれていくのです。