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マタイによる福音書連続講解説教

2024.6.30.聖霊降臨節第7主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書10章34-11章1節『 十字架を担う 』

菅原 力牧師

 聖書を読み進んでいくと、「これは厳しいな」「つらいな」と思う箇所が出てきます。自分の現実を思い浮かべて読むと、「厳しい」という言葉が思わず出てくるような場面です。

今わたしたちが読み進んでいますマタイによる福音書の10章というのは、「弟子」に関する主の言葉が集められている箇所です。というのも、新共同訳聖書の小見出しの下に小さく書かれている他の福音書の箇所を見ると、この10章に書かれていることはマルコやルカではもっとバラバラ。つまりマタイは、弟子に関する主イエスの言葉をここにまとめて、一気に読むよう編集したのでしょう。

最初に主が呼び寄せられた12人の弟子のリストがあり、それに続いて、5節から15節まで「派遣される弟子」ということが書かれ、16節から23節には「迫害を恐れるな」、と語られる。そして24節25節では「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」つまり弟子と師の一致ということが語られ、34節から42節で再び、「派遣される弟子」ということが語られるのです。それがマタイ福音書10章の構成です。弟子に関する伝承をマタイはただ寄せ集めたというのではなく、とても美しい構成で、主イエスが言わんとされたことを浮き彫りにするような形にまとめたのです。

弟子ということはもう少し別の言い方をすれば、キリストに従うもの、ということです。キリストの言葉と「わざ」を宣べ伝え証しするものとして従っていく、そういう存在のことです。

先週聞いたところでは弟子として派遣されること、それは狼の群れの中に羊を送り込むようなものだ、と表現されました。そして「迫害」に遭うことが語られていました。わたしたちが今経験している世界でないだけに狼の群れの中の自分も、迫害を受けている自分も想像できないものにとっては、「厳しい」という感じと「違和感」のある聖書箇所と言えるかもしれません。

しかしここで語られていることの中心にあるのは、「派遣される弟子」ということです。キリストが福音を宣べ伝え、さまざまなわざをなさった。そのことを弟子たちも宣べ伝えていく、証ししていく、そのことがここでの中心にあります。

今日の聖書箇所のはじめ34節に「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」というキリストの言葉が記されています。これはアフォリズムというか警句になっている言葉ですが、なにもキリストがこの世と喧嘩しに来たというようなことではなく、キリスト降誕の際には天使たちが「地には平和」と歌ったように、主は平和の君なのです。しかしキリストの平和はただ争いごとがない、というようなことではなく、人間の罪があらわにされ、神と人間との関係が人間によって捻じ曲げられ、壊れかけている。その人間の罪の罰をキリストが人間に代わって受けることで与えられる平和・和解です。ですから剣をもたらすとは、人間の現実に福音の真理が示す切断面が顕わにされるということです。キリストの福音に出会うことによって、人間の罪が、罪人としての人間があらわにされていくということです。人間は神から良いものを受けたいと願っています。それはしばしば自分にとって都合のいいもの、甘美なもの、自分を満足させるものです。しかし福音は、わたしの罪を明らかにします。悪を明らかにする。驕りを明らかにする。それは、パウロのように一生懸命律法を守り、自分なりに努力して信仰の生活をしていると思っていたものにとっては、とんでもないこと、承服できないことだったでしょう。そしてその罪や悪は自分の力ではどうしようもないものだという福音の告知はさらに納得できないものだったかもしれない。神からの赦しなくしてはどうにもならないものであって、ただ恵みによって活かされる、という福音の告げ知らせは、努力や精進で救いに至ると思い込んでいる人々にとって、剣のように身を裂かれるものだったのです。

「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない」とは穏やかでない言葉です。しかしここで言われていることは、わたしたちのこのいのちは、血縁よりももっと確かな、もっと深いつながりの中にあるということです。それはイエス・キリストの体の枝となる関係、キリストという葡萄の木の枝となる関係であって、その関係の中で、血縁関係を受けとめ直していくことこそ大事で、まず、血縁関係ありきで、これよりも深いつながりはない、ということではない、ということです。

神の愛の中で、父や母とも関係も受けとめていくということです。

「自分の十字架を担ってわたしに従わないものはわたしにふさわしくない。」自分の十字架という言葉は誤解して受けとられやすい言葉ですが、自分の運命とか、自分の困難とか課題というようなことを十字架と言っているのではありません。キリストの十字架、そこへと向かうキリストの歩みをわたしもキリストに従うものとして担っていく、それが自分の十字架を担うということです。キリストを宣べ伝えていく、証ししていく、そうやってキリストの十字架をどんな形であれ担っていく、それがキリストの弟子としての歩みなのだ、と語っているのです。

従って39節の「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失うものは、かえってそれを得るのである。」という主の言葉は、弟子となる文脈で聞くべき言葉です。自分の力で、自分の満足を求め、自己充足を得ようとする者、神でさえ自分の利益のために利用し、神から自分の都合でよいものを受けていこうとするもの、その者はいのちを失い、キリストのために自分を献げ、キリストに従う故に自分を明け渡していくものは、いのちを得るのだ、と言っているのです。

あえて言えば、自分のためだけに生きようとする者は、いのちを失い、キリストに従って、キリストに自分を差し出していくものは、いのちを得るのだ、というっているのです。

10章で語られていることは、わたしたちにとって人生の方向性と言ってもいいことです。自分自身に向かって生きるのか、キリストに従って、キリストに向かって生きるのか。

そしてキリストに従って生き始める時に、はじめて気づかされていくことがわれわれにはあるということを、10章は語っているのです。福音を宣べ伝えていこうとするときに、人間の中にある福音を受け入れようとはしない思い、神に抗おうとする力、自分の力でやっていこうとする力、人間の罪ということにまともぶつかっていくのです。福音を証しする中で、神がわたしたちをキリストにおいて如何に愛し、どのように恵みの中においてくださっているかを知らされていく中で、その中で、人と人の関係もあらためて受け直していけるのです。

そしてわたしたちの人生の方向性が自分自身に終始向かって生きる時、いのちを失い、キリストに向かって、キリストに従って生きる時に命を得る、という言葉も、少しづつであって感じ取ることができるようになっていくのです。

40節から42節には受け入れるという言葉が短いところに6回も出てきます。こういう流れです。キリストの弟子たるもの、キリストの言葉を宣べ伝え証しするものを受け入れるものは、キリストを受け入れるのだ。キリストを受け入れいる人は、わたしを遣わされた方、つまり神を受け入れるのだ。神、キリスト、弟子、というつながりが語られている。そして後半には、報いという言葉が3回出てきます。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さなもののひとりに、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」この当時、冷たい水というのは、とても貴重だったと思います。キリストの弟子と言われても、多くの人は何の反応もなかったかもしれない。反応のある人も、敵対したり、攻撃したり、という人も多かった。しかしそういう中でもキリストの福音を受け入れていく人がそこで生まれていく。その人は報いを受けるとは、まさしく福音に聞いて福音によって生きるようになることそのものが報いなのです。幸いなのです。人生における恵みなのです。語るものも、それを聞いて受け入れていくものも、恵みに溢れるのです。

最初に申し上げたように、この聖書箇所は「これは厳しい」という印象を持つ箇所です。読み進んで尚、それを完全に拭うことは難しい。人生の方向転換を含むからです。愉しい話を聞いて、笑いながら右から左へ、ということではないからです。わたしという人間の根本の在り方に関わるキリストの言葉だからです。結局自分充足というか、自己満足に向かう道なのか、キリストに従う道なのか、ということがここにはあるからです。けれども、これを厳しい道と受け取るのか、それとも恵みに溢れた道と取るのかは、自分の判断によるのではなく、み言葉に聞き続けていく中で、導かれ、示されていくことだろうと思います。キリスト遭い、キリストの信実、キリストの恵みに活かされていく中で、キリストに従うものとされていく、ということなのです。宣べ伝え、証しすると言っても一人で何もかもするわけではなく、キリストの体なる教会のわざであります。そこでキリストの体の枝であるわたしたち一人一人は、自分の従う道を、形を求めていけばいいのです。ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を牧者、教師とされた、あるように、みなが教師なのではない。しかしキリストを証しする弟子として、一人一人はキリストに従う道へと招かれ、そこでキリストに仕える形を求めていけばいいのです。キリストは一人一人を用いて、伝道のわざを進めてくださる。そのことを信じて、キリストに従う道を一歩、さらに一歩と歩んでいきたいと思うのです。