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マタイによる福音書連続講解説教

2024.7.7.聖霊降臨節第8主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書11章2-19節『 イエスと洗礼者ヨハネ 』

菅原 力牧師

 洗礼者ヨハネについては、これまでも何度かお話ししてきましたが、もう一度ここで振り返っておきましょう。このヨハネは、父ザカリアという祭司と母エリサベトの間に生まれました。そのことはルカによる福音書に詳しく記されています。そして大人になったヨハネはヨルダン川のほとりで独自の宗教運動を展開し、多くの人を惹きつけていました。

 彼の教えはマタイによる福音書の3章によれば、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。」という説教によく表されていました。一つは彼は差し迫った神の怒りとあるように終末を受けとめ、終末の神の裁きを受けとめながらその裁きの前で真摯に生きることを語ったのです。二つはそれは具体的には神の前での罪の悔い改め、そしてそれふさわしい実を結べ、という教えでした。ヨハネはこの二つの教えによって生きるしるしとしての洗礼を受けるよう促す、洗礼運動を展開していたのです。それで洗礼者ヨハネと彼は呼ばれたのです。しかもヨハネはこの働きをヨルダン川のほとりで行っていた。それはどういうことかと言えば、当時信仰の営みの中心はなんといっても神殿だったのですが、それをヨルダン川のほとりで行うことで、祭司や律法学者のような神殿勢力以外の者が在野で指導したわけです。そこに、さまざまな階層の人々が集まり、ヨハネから洗礼を受けていたのです。ヨハネは旧約聖書の預言者、例えばエゼキエルとか、ヨエルの言葉を継承しようとしていた。彼のいでたちはエリヤのコピーと言っていいのですが、そこに彼の生き方が示されていました。ヨハネのことを祭司や律法学者は当初無視していましたが、彼の周りに今でいえばフォロワーとか、支持者がたくさんいたのです。やがて領主アンティパスは彼を民衆を扇動する危険人物とみなし、逮捕、投獄したのです。

 主イエスはこのヨハネから洗礼を受けています。ということはヨハネの語る言葉に耳を傾け、その言葉を受けとめ、共鳴していたということでしょう。この二人に交流があったということがとても興味深いし、意義深い。

 実際には主イエスの活動はヨハネの活動時期とはずれている、ヨハネが逮捕、殺害されてから、主イエスの活動は広がっていくからです。しかしヨハネと主イエスの神への信仰の受け取り方は重なる部分も大きかったと思います。主イエスの最初の宣教の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というものでした。終末のおとずれを受けとめつつ、悔い改めを語るその宣教の言葉は、ヨハネの言葉と響き合うものです。

 今日の聖書箇所はその洗礼者ヨハネが捉えられて獄に入れられているときに、弟子たちを主イエスのもとに送って「来たるべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねさせたことから始まっています。「来たるべき方」というのは、やがてやってくるとヨハネが信じていた救い主のことです。しかし。洗礼者ヨハネは本当にこういう疑問を持っていたのだろうか、彼は主イエスこそまことキリストであることを誰よりも受けとめていたのではないか、という意見の人もいます。ではなぜ、この疑問を弟子たちに尋ねさせたのか。それはヨハネの弟子たちの教育のためだ、という理解をするのです。

 興味深い理解ですが、穿ちすぎのようにも思われます。ここでヨハネは文字通りの疑問を持っていた、と解する方がいいのではないかと思います。

 洗礼者ヨハネは主イエスの活動、働きもほぼ知らないのです。まして、十字架も、復活も知る由もないのです。しかしそれだけでなく、ヨハネ自身は裁き主なる救い主の到来を待っていたかもしれない。ヨハネがそのような救い主を待ち望んでいたとしても不思議ではない。だからこそこのヨハネの問いかけは額面通り、文字通りの疑問を主イエスにぶつけたのでしょう。

 それに対して主イエスの応答は、「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。」と言われて「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と言われたのです。

 4節の言葉なのですが、細かいことのようですが、見聞きしていること、というのは元の文章では「聞いたこと、見たこと」、となっています。つまり主が言われておられるのは5章からの山上の説教で語られたこと、8章からの主イエスがなさった業、そのことを聞いたこと見たことと言っておられるのです。主イエスの語られたみ言葉、そして主イエスのなさった業、実は洗礼者はヨハネは獄においてそのことを聞いていたのです。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。」聞いたからこそ、尋ねた、ということなのでしょう。当然と言えば当然なのですが、ヨハネは自分が思い描いていた救い主と、イエスのなさったこととは、同一のものではないどころか、違っていたからです。

 ところが考えてみると主はここで不思議な応え方をしておられます。

 「わたしがキリストだ」とか、「わたしこそが神の独り子救い主だ」というような言い方ではなく、ご自分の語ったこと、なさった業を語ることでヨハネの問いかけに応えておられるからです。なぜヨハネにストレートにお答えになられずに、こういう答え方をされたのでしょうか。

 それは、主イエスとは誰なのか、主イエスとはどのような方なのか、そのためには、ヨハネであれ、誰であれ、主の語る言葉に聞くことなしには何も始まらない。主イエスの語る山上の説教を、その語られる一つ一つの言葉を自分で聞いて、その言葉と向き合い、主イエスのなさった業を見て、それをあなたはどう受けとめていくのか。そこで神の働きを見るのかどうか、自分において聞いたこと、見たことを判断していく信仰が問われるのです。

 マタイ福音書の構成から言えば、5章から7章までの主の言葉、8章から9章の主のわざ、その前に一人一人立つほかない。

 主イエスはヨハネに対しても、他の人に対して、同じことをここで語るのです。主は6節で「わたしに躓かないものは幸いである」と言われた。それは躓く者もいることが含意されている。誰もが主の言葉とわざを聞き、見て、それで救い主と信じるわけではない。むしろ信じない者も多い。しかしそれでもなお、聖霊の働きの中で、主の言葉とわざを見て、キリストであることを信じる者も生まれていくのです。

 そしてさらに不思議なのは、その後の主イエスの言葉です。ヨハネの弟子たちが帰った後、主は群衆に向かってヨハネのことを語り始められるのです。

 7節から10節の言葉です。「何を見に荒野に行ったのか」と問いかけるのです。この問いは三度繰り返される。風にそよぐ葦か。しなやかな服を着た人か、と。まさかそんなものを見に行ったわけではあるまい、という否定的な言葉を述べた後に、預言者か、と問いかけるのです。しかし洗礼者ヨハネはあなた方が思う以上、考える以上の預言者なのだ、と主イエスはヨハネを評価するのです。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは生まれなかった、と最大限の評価をするのです。預言者の時代を締めくくり、救い主の時代へと橋渡しをするその端境期に立った預言者、主イエスはヨハネという存在を、その役割を高く評価するのです。しかし不思議なのはその次の言葉「しかし、天の国で最も小さなものでも、彼よりは偉大である。」という言葉です。何を言っているのでしょうか。ここで言われているのは、天の国で最も小さなものも、天の国に入れられているのは、イエスをキリストと信じる者、主イエスを救い主と信じる者のことです。大きな働きをした洗礼者ヨハネであっても主イエスをキリストと信じることがなければ、天の国にはいった者よりも小さい、と言っているのです。ここには大事なことが語られている。ヨハネは一人の人間として、宗教活動家として偉大な働きをした。しかし、天の国は、人間の働きの偉大さによるのではない、その功績によって測られる世界ではない、ということ、ただキリストを信じる信仰によるのだ、ということです。

 女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大なものは現れなかった、主イエスはそう高く評価された。実際彼の生き方は、主の受難の歩みに重なるような歩みだったのです。そして、洗礼者ヨハネが「来たるべき方はあなたなのでしょうか」と尋ねたことを含めて、ヨハネは救い主の道備えをなした。まこと卓越した預言者であった。彼の生涯はキリストを指差す生涯として神に用いられた。

 16節以下で主が語っていることは、今の時代の人々は、ヨハネの生き方を見て、あれは禁欲的であって悪霊に取りつかれていると言い、主イエスを見れば、好き勝手飲み食いしている大食漢で徴税人や罪人の仲間だ、という。傍観者的、批評的な生き方を主が批判しているめずらしい箇所です。

 ヨハネの生き方は、ある意味体当たりで求道していく姿であり、神の裁きの前に真剣に立って、今を生きようとする態度が貫かれている姿です。一方でキリストの姿は、神の招きと愛と、そして赦しの姿が自由な交わりの内に現わされていく姿、神の招きの豊かさ深さを指し示す姿です。

 しかし知恵の正しさは、その働きによって証明される。この最後の言葉がわたしたちに告げているのは、ヨハネの生涯を語るもの、主の招きが指し示すもの、それを知恵と呼んでいるのです。そしてそのまことの知恵の正しさは、キリストのなさる全てのわざ、十字架と復活のわざによって示されるのだ、ヨハネの歩みもこのキリストのわざによって、神によってどのように用いられたか示されていくのだ、そのことを信じ、仰ぎ見て、いくのだ、そう語っているのです。