マタイによる福音書連続講解説教
2024.7.14.聖霊降臨節第9主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書11章20-24節『 キリストの叫び 』
菅原 力牧師
福音書を通してずっと読み進む、聞き続けるということは、与えられたその聖書箇所で毎回、立ち止まってその聖書箇所で語られていることを思い巡らすということです。中には、自分に語りかけてくることがないように思われるところもあります。でも立ち止まって思い巡らしたり、前後を読んで考えてみたりする。それ自体、とても大切な時間なのかもしれません。
主イエスはこれまで何度も聞いてきたように、山上の説教を語り、さまざまなわざ、奇跡、いやしをなさってこられた。そして弟子たちにも、主イエスの語った言葉を宣べ伝え、主の権能を授けて、主のわざをなす力を与えられて派遣されるのです。しかし、その主の宣教のわざにも、弟子たちの伝道の歩みにおいても、迎え入れず、耳を傾けようともしない人たちがいることを主はあらかじめ語っておられます。それだけではない。ただ伝道の働きが無視されるというのではなく、逮捕されたり、裁判にかけられたり、福音を阻止しようとする力が襲ってくることを主は語られるのです。それは、生半可な敵対勢力ではないことが語られるのです。主イエスは10章で、「誰でも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表すものは、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」、と言われた。それは厳しい状況の中で、わたしはキリストを信じ、従うものだ、と告白する者、その者はわたしのまことの僕だ、という意味です。
それほどに福音を語るものに対して、反対する勢力がある、ということです。
今日の聖書箇所で、主イエスはご自分が福音を宣べ伝え、さまざまなわざをなさったにもかかわらず、悔い改めることがなかった町々、つまりその町に住む人々ということですが、叱り始められた、というのです。𠮟るという言葉は非難する、という言葉です。コラジン、お前は不幸だ、ベトサイダ、お前は不幸だ。コラジンとかベトサイダというのは町の名前で、ガリラヤ湖の周辺にある町で、主イエスにとって地元と言っていい、ガリラヤ地方の町です。この町の人々が主の言葉、主のわざを聞き、見ても悔い改めなかった、そのことを非難しているのです。もしお前たちの町で行われた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町の人たちは、とうの昔に悔い改めたに違いない、というのです。
ティルスとかシドンというのは、イスラエルよりも北にある町、異邦人の地です。イスラエルの民が主イエスの言葉やわざを見て、悔い改めず、異邦人の地の方が主が福音を宣べ伝えたら、悔い改めたに違いない、というのです。
この主イエスの言葉をわたしたちはどう受けとめればいいのか、どう聞いたらいいのか、と思います。
そもそも最初の20節、「𠮟り始められた」、非難し始められたという意味だと申し上げました。言葉の意味はそうだとして、主イエスはここで何をどう問題にしておられるのか。怒りの感情も、悲しみの感情もここにはないまぜになっているような思いがするのですが、それをどう感じていったらいいのか。
神の福音に聞こうとしない、イスラエルの民の前で、「お前は不幸だ」と言っているのです。ここで改めて確認するのなら、イスラエルとは、神のことを知っている民のことです。それもいささか知っているという程度ではなく、よく知っている民なのです。にもかかわらず、主が語る福音に聞こうとしない。その民に対して不幸だと言っているのです。先週の聖書箇所に「笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」という主の語った言葉がありました。これは旧約聖書の引用ではなく、当時のこどもたちの歌を主が用いて、洗礼者ヨハネの言葉にも、主イエスの言葉にもまともに向き合わない人々の姿を非難しているのです。ここには主イエスの叫びがある。神との民として導かれ、支えられ、神の御声によって活かされてきた民、その民が主イエスの語る神の福音に聞こうとしない。悔い改めようとしない。その人間の姿に悲痛な叫びをあげているのだと思います。
不幸だ、という言葉は、元の意味は、災いあれ、ということです。この災いあれ、といういい方は新約聖書にも少なからず出てきますが、文字通りの意味というより、まちがっているものに対する強烈な呼びかけ、立ち帰ってほしい、という叫びが込められた言葉です。このままでは滅びだ、このままでは罪の沼だ、という現実に対する、それでいいわけはない、という呼びかけを含んだ言葉です。ある意味、悲痛な叫びです。神の救いの福音を受けないということは、どんな不幸なことか、どれほど災いなことか。実はイスラエル自身が、福音によって救われなければ、自分たちはどんな状態なのか、どのような人間なのか、わかっていないのではないか。
わかっていないから、このキリストの悲痛な叫びが自分たちに向けられたものであることがこの時わかっていなかったのではないか。
救われないまま、罪の奴隷として生き、死んでいくことに他ならず、福音を受けずに生きる人間へのキリストの叫びがここに込められているのです。
パウロはローマの信徒への手紙でこういうことを言っています。
「「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体のうちにある罪の法則の虜にしているのがわかります。わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこのからだから、誰がわたしを救ってくれるのでしょうか。」
わたしの中には、神の律法、神の言葉を聞いて、それによって生きたいと願う自分がいる。しかしわたしの中には、やっかいな法則があって、神の言葉から自分を遠ざけ、神の言葉に耳を塞ぎ、自分の思うように生きる、という法則で、その法則の虜にわたしをしている、とパウロは言うのです。よくよくわかる話です。わたしはなんと惨めな人間だ、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪をおこなっている。」神の言葉に聞いていきたい、と願っている。嘘ではない。しかし結果的にわたしはわたしの思いを優先し、わたしの我を通して望まない悪をおこなっている、とパウロは言うのです。
パウロは自分の不幸に気づいた人です。かつてはそうは思わなかった。自分は自分で頑張っているし、信仰には何の問題もない、と思っていた人です。
だから、おそらく、パウロが洗礼者ヨハネの言葉「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」を聞いても、主イエスの「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、を聞いても、なんとも思わなかった。悔い改め、何ぞという前にもっと自分自身努力しろ、精進しろ、と思ったでしょうし、民を惑わすろくでもない奴ら、と思ったでしょう。
イエス・キリストの福音に聞いて生きる、それは、自分という存在の延長線上にある生き方ではない。自分を少し豊かにしていくとか、神さまの言葉を聞いて、今よりも少し自分を立派な、まともな人間にして、生きていく、ということではない。律法へのまじめさだけで解決するような問題ではない、パウロはそのことに気づかされていくのですが、それはただ、神の信実に出会うこと、イエス・キリストにおいてあらわされた信実、愛と赦しと恵みの信実に出会うことによってなのです。そこでパウロは初めて本当に、罪の自分を知らされる。神の前でアウト、と言われる自分に出会うのです。しかし罪人であるその自分を愛し赦し、生かしていく、神に同時に出会わされていくのです。そしてそこで悔い改めということが起こっていくのです。そこで神と共に歩みたいと願い、歩みだす。キリストはこの福音に聞き、生きてほしいと願っている。そのために、この地上に来て、この福音のゆえに人間に仕えて、人間にこの福音を語るだけでない、自分の身を差し出して、ご自分の身体で、人間の罪を負い、罪の罰を受けて、この福音に生きよと呼びかける。そのキリストの叫び、そのキリストの悲痛な叫びが、今日の聖書箇所にあるのです。
今日の聖書箇所は同じことが地名を変えて二度繰り返されています。キリストの叫びが繰り返し響いているのです。わたしたちはこのキリストの叫びをわたしたち自身に対する叫びとして、聞きたい。そしてわたしのためにこのような叫びをあげ続けてくださる主がいらっしゃることに心から感謝したい。主よ、ありがとうございます。あなたの御声に聞いて、悔い改めて福音を信じていくことができます、導いてください、その祈りつつ歩んでいきたいと願うものです。