マタイによる福音書連続講解説教
2024.7.21.聖霊降臨節第10主日礼拝式説教
聖書:マタイによる福音書11章25-30節『 わたしのもとに来なさい 』
菅原 力牧師
今わたしたちが読み進んでいる聖書箇所は、主イエスが言葉を語り、わざをなし、そしてその主イエスを言葉とわざを伝えるべく弟子たちを伝道に遣わしていく、主の証人として歩んでいく、そのための言葉を語っている、そういう場面です。その際、派遣される中で、迫害に遭うことも、敵対する勢力に出会っていくことも予め語られ、その中で証しすることの大事さを弟子たちに伝えていくのです。
さらに先週の聖書箇所ではユダヤの人々、主によって招かれ導かれてきたイスラエルの人々が主イエスの言葉に聞こうとせず、悔い改めないことが叱責されるのです。つまり弟子たちは、迫害とか敵対というようなことばかりではなく、福音に対しての無理解とか、不信仰という壁にもぶつかっていくというのです。こういう流れの中で、今日の主の言葉があるのです。
主は弟子たちへの言葉を語った後、祈られました。どこまでが祈りなのか、わかりにくいかもしれませんが、25節26節は主イエスが祈られた祈りです。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」ここで主は父よ、と二度も繰り返して祈っておられます。主イエスが神に祈る時、「父よ」と呼びかけておられることはとても有名ですが、これは聖書の時代にあって稀有なことでした。しかし主イエスはその呼びかけを最も自然に、自由にできた方でした。それは言うまでもなく主イエスが神の独り子だったからに他なりません。キリストの祈りは、神への賛美、ほめたたえでした。
不思議なことです。なぜならここまで、福音の宣教が困難にぶつかるとか、敵対する者たちに遭遇するとか、福音に聞こうとしないイスラエルへの叱責の言葉を語ってきた後だけに、驚くのです。どうして人々は福音に聞こうとしないのか、という愚痴や不満でもない。神をほめたたえているのです。
25節の「これらのこと」というのは、主イエスの語る福音の言葉、主イエスのなさったわざ、その全部を指す「これらのこと」でしょう。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して幼子のようなものにお示しになったことを、主は御心に適うことでした、と言っているのです。すなわち福音は知恵ある者にではなく、幼子のようなものに示されるのは、神の御心、意思だというのです。ここで言われている知恵ある者とは、律法学者のような特定の人のことというよりも、自分の知恵や人間の力に結局のところ頼っていく者、救いとか信仰の問題も最後には自分の努力や自分の信仰心というもの頼っていく者、という意味でしょう。
一方、幼子のような者とは親にすべて身を任せて生きる幼子のように、自分の力ではなく、与えられるものを受けて、歩んでいくもの、ただ神の恵みを受ける者、そういうもののことです。
つまり福音は、自分の知恵や自分の力に頼ろうとする者には隠されていき、自分には何もないことに気づいてひたすら神に頼ろうとするもの示されるというのです。それが神の御心だとキリストは天地の主である神をほめたたえているのです。キリストは弟子たちを派遣するにあたって、伝道というものの困難を語りました。福音というものの無理解に取り囲まれている、という現実を主は語っている。しかし、この困難は、偶然とか、たまたまではなく、むしろ神の意志の中に置かれているということだと言われる。なぜなら、福音は自分の知恵や自分の力に頼る者に隠されるからだ、というのです。
「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかには子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」
噛み砕いていえば、神を知ること、それは子であるイエス・キリストを知ることに他ならない。神からの人間への啓示、指し示し、福音の内容はすべてイエス・キリストにおいてあらわされる。父なる神の救いのわざはすべて子であるキリストにおいてあらわされる、ということ、そして父である神のことを本当に知る者は、子なるキリストであって、その子なるキリストが父なる神を示そうとされる方が、神を知るのだ、と言っておられるのです。
ここは、主イエスご自身の口で、ご自分が神の独り子であることを語っておられる稀有な、数少ない聖書箇所です。
イエス・キリストが神の独り子である、ということそれ自体、自分の知恵や力に頼るものには、隠されている。幼子のようにただ与えられるものを受けていくように、神から与えられる福音を受ける者、つまり、信仰において受ける者のみに示されていくものだ、そう主イエスはここで弟子たちに語られたのです。
そして28節からのよく知られた言葉を語られるのです。「疲れた者、重荷を負うものは、誰でわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」とても有名な主の言葉です。よく教会の掲示板や、教会のホームページのトップページなどに引用される聖句です。
しかし、実際読んでみると、わかりやすいものではなく、具体的にどういうことを言っているのか、むしろむずかしい。
疲れた者や重荷を負っている者はだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう、というのはわからないではない言葉です。キリストのもとに行ったらキリストが休ませてあげるというのですから。ところが、その後、わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い[なさい]、と言われる。軛というのは、わたしたちの日常の言葉ではないと思うのですが、牛や馬を農作業で用いる時に、二頭の牛・馬の首を繋ぐ横木のことです。そこから制約するもの、という意味になっていきました。何か繋がれている状態、軛を負うということは。つまり、重荷を負っている者が、その重荷をおろして主イエスのもとで休むという話か、と読んでいくと、キリストからの軛、キリストによって与えられる制約を受けていきなさい、と言われているのです。わたしたちの実感から言えば、そんなことで休みになるのか、という思いを持たされる人が多いのではないか。休むと言えば、何もしないこと、と考えますよね。
なぜキリストの軛を新たに負うことが安らぎになるのか。
29節で主は「わたしは柔和で謙遜なものだから」と言います。これは明らかにキリストの十字架をあらわす言葉です。フィリピの信徒への手紙にあるように、「キリストは神の身分でありながら、・・・人間の姿で現れ、謙って、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」というあのパウロの言葉が指し示している、柔和と謙遜さです。ということはわたしが十字架を負って、あなた方を負っていくから、あなたも自分の力に頼るとか、自分の知恵に頼るという軛から、キリストの恵みの軛へと軛を転換しなさい、と言っているのです。
具体的にどういうことかと言えば、パウロがガラテア書で言っていることです。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷の軛に繋がれてはならない。」さらにそれに続けてこう語るのです。「兄弟たち、あなた方は、自由を得るために召しだされたのです。ただこの自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」パウロがここでいう自由を得るため召しだされた、というのは直接的には律法からの自由ということですが、内容的に言えば、自分の知恵や自分の力で救いに至ろうとする拘束からの自由ということです。奴隷の軛とは、そういうことです。しかし自由へと召しだされたものは、神の恵み、神の導きのうちに、キリストによって背負われている自分を受けとめて、キリストに愛されている自分を受けとめて、その愛の中で他者を隣人を、そして自分を愛していきなさい。それがあなたの新たな「使命」なのだということ、キリストに繋がれた生き方だ、とパウロは語っているのです。
主イエスは「父よ」と呼びかける祈りの中で、神をほめたたえた。それは福音というものが、人間の知恵においては隠され、ただキリストの信実を受けて、信じる信仰において受けとめられていく、そのような神の御業をほめたたえているのです。この福音は子なるキリストの恵みと信実においてあらわされていく。それ以外ではない。そして神の子なるキリストにおいて神の恵みはすべてあらわされていく。キリストの十字架と復活において神の信実はあらわされていく。
今重荷を負っている者、生きることに疲れている者、だれでもわたしのもとに来なさい。わたしはあなたたち一人一人をまことの安らぎの中に招き入れる。十字架によって背負われ、赦され、神との新たな関係へと活かされ、わたしとのつながりの中におかれ、新たないのちに生きる。そこにおいてまことの安らぎを受けとめてほしい。わたしとのつながりは、十字架のつながりであって、愛のつながりであって、神から与えられる新しいいのちのつながりに他ならない。わたしのもとに来なさい。イエス・キリストは弟子たちにこう語り、わたしたち一人一人にも語っておられるのです。