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マタイによる福音書連続講解説教

2024.7.28.聖霊降臨節第11主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書12章1-21節『 安息日の主 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所マタイによる福音書12章からは、舞台は変わり、主イエスとファリサイ派の人々の衝突の場面が描かれています。主イエスの歩みの中で、具体的に反対者たちとのぶつかりのあった場面が記されているのです。

 今日の聖書箇所では、「安息日」ということを巡ってのやり取りが描かれています。安息日というのは、ユダヤの人々にとって最も大事な掟、律法でした。この安息日というのは、創世記に記されているように、神さまが六日にわたる天地創造のわざの最後七日目に休まれ、この日を祝福した、とあるように、ユダヤの人々にとってこの日を厳守することは、神の創造のわざに参与し、すべての仕事を休み、神との交わり、今でいえば礼拝において真の安らぎを与えられる日でした。この日を守ることは、神によって選ばれた民としてのイスラエルの民の契約の民としての応答であり、恵みであり責務でありました。だから安息日を守ることは、ユダヤの民にとって何よりも優先すべきことであり、そのための細かなルールが定められていました。

 今日の聖書箇所には、このユダヤ人が厳守していた「安息日」というものに対して主イエスがどう向き合われたか、ということが書かれているのですが、それはもう少し広く言えば、「安息日」を含む律法ということに主イエスがどう向き合われたのか、ということなのです。

 しかしそれにしても、わたしたちの率直な感覚は「安息日」も「律法」もあまり馴染みがなく、関心が薄い、素通り、という感じです。確かにそうなのです。けれども、ここにはわたしたちが素通りしていい事が書かれているわけではなく、わたしたちに関わる大事なことがあるということを、み言葉に聞いて受けとめていきたいと思うのです。

 12章の1節から14節までのところで、二つの出来事がきっかけになって主イエスとファリサイ派の人々の間で議論が起こるのです。

 最初のところ1節から8節では主イエスの弟子たちは安息日に空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた、というのです。それに対してファリサイ派の人々は、当然批判してきたのです。批判というよりも反発と怒り、という感じでしょう。ユダヤの掟では空腹時に他人の畑で穂を摘んで食べることは許されていました。それは貧しい者への配慮であり、今の言葉で言えば、互助のようなルールがあったのです。しかしそれはあくまでも安息日以外の話で、安息日にはそれは許されていないのです。もう一つの出来事。それは9節から14節に記されている安息日に会堂で片手の萎えた人がいて、その人の手を癒し直した、という出来事です。これも確かに、11節以下にあるように、たとえ安息日であろうと、大事な家畜が危険にさらされたというよう緊急の際には、いのちを守るために例外規定のようなものがファリサイ派の中にもあったようです。しかしそれはあくまで緊急ということで、いい方はともかくこの会堂にいる片手の萎えた人というのは、緊急性の高い人ではないのです。明日でもいい人です。

 つまりこの二つのエピソード、前半の空腹ということも、片手の萎え人の話も、万止むを得ず、というのではなかった。空腹の話に続きダビデの話が出てきますが、これはまさに飢えた時、緊急時でした。しかし主イエスの弟子たちの空腹はそんな緊急の話ではない。明らかにこれは主イエスの方から安息日論争のようなもの仕掛けた、あえて安息日に、事を起こした、という感じがあるのです。飛んできた火の粉を振り払うということではなく、ご自分の方から安息日との向き合い方を示されていったということです。つまりここには明らかに主イエスの御意志があるということです。

 

 安息日の掟も含め、ユダヤ社会を貫いていたのは律法でした。律法はイスラエルの民に与えられた神からの戒めであり、教えでありました。

 神から与えられた恵み、導きに応えて歩む戒めであり教えであったのです。

 その律法を与えた神が、全き者として与えられたのが、独り子イエス・キリストなのです。したがってこのイエス・キリストがこの世に来られたことで、律法との関係において変化があることは当然のことでしょう。

 そもそも律法は、神との契約関係にあったイスラエルの民の神に向かう生活の規範であり教えであったわけです。今神の独り子イエス・キリストがこの世界においでくださったことで、わたしたちはこの方との関係に生きることが、神の恵みに応える道であることが示されていくのです。

 このマタイ福音書の22章にこういう話が記されています。やはりファリサイ派の人が登場するのですが、ファリサイ派の律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねるのです。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」すると主イエスはこう応えるのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」キリストこう律法の専門家に応えるのです。主イエスは律法における最も大事なこと、それをこう言う形で応えられたのです。全力で神を愛すること、隣人を自分を愛するように愛しなさい、この二つのことだ、と言われたのです。

 逆に言えばどんな律法を落ち度なく守っているようであっても、この二つのことが根本において欠けているのなら、律法に生きているとは言えない、ということです。いやそもそも律法という神に応える道というのは、この神を全力で愛し、隣人を自分のように愛する、ということが基礎となって、その道は形成されていく、ということをキリストは言われたのです。「木を見て森を見ず。」

そして事実、イエス・キリストは、十字架において、神を愛することと、人を愛することを生き抜き、身に負い、その生涯を貫いた方なのです。神に仕え人に仕える、その道を歩みぬかれた。

 わたしたちはこの方において、主イエスご自身が言われた、律法において最も大事なことは何ですか、を身をもって具現しておられることを示されるのです。すなわち、この方において律法がまさしく成就したことを見るのです。主はマタイ福音書の5章で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言われた。あるいはこの主イエスの言葉は知っているけれど、その言われていることは朧気だ、感じている人も少なくないかもしれません。

わたしたちがこの言葉から受け取らなければならないことは、これはたんなる律法とは何かというような論議ではなく、キリストご自身が、まさにその生涯において律法を完成、成就された、ということを十字架を仰いで、わたしたちが知る必要がある、ということなのです。十字架において現れた神の独り子の神と人への愛の結実、それはまさしく律法の成就なのです。

 はじめの話に戻ります。主イエスがファリサイ派の人々と敢えて「安息日」論争をされた、それはもちろん理由のあることです。

 それは、安息日ということ、律法ということを考えていく「基点」のことです。どこから安息日というものを受けとっていくのか。それは主イエス・キリストからなのです。主イエスは、安息日のルールに対して、能うる限りそれは守っていくが、やむを得ない場合、例外となる場合がある、というような話をしたいわけではない。そうではない。主イエスが語られるのは、8節の言葉「人の子は安息日の主なのである」、イエス・キリストこそ安息日の主だ、という一言です。

 つまりこのイエス・キリストいう方を仰ぎ、その言葉、そのわざ、その歩み、十字架を受けとめ、この方との関係の中で生きることこそが安息日を受けとめていく基点なのだ、ということです。神を愛し、隣人を自分のように愛していかれキリストを仰ぎ見ることの中で、キリストの言葉の一つ一つに聞き従う中で、安息日を受けとめ、律法を受けとめていくことこそが、大事なのだ、ということです。15節以下の文章は、主イエスのことを旧約の預言者を通して指し示すものですが、その中に20節の言葉、「彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。」があります。傷ついた葦とは、通常無価値な、棄てるもの、そしてくすぶる灯心とは、火を消されて、芯の部分は切り取られて棄てられる。しかし、この僕は傷ついた葦を折らず、灯心を消さない、そのような僕だというのです。このような僕たるキリストに支えられ、背負われている者として、わたしたちは、キリストに応え、神に応えてどう歩んでいくか、一人一人、信仰において応答していくことが求められている。それがキリストに在る者の生き方であることを今日の聖書箇所は語っているのです。