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マタイによる福音書連続講解説教

2024.8.4.聖霊降臨節第12主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書12章22-37節『 主イエスとベルゼブル 』

菅原 力牧師

 聖書を読み進んでいく中で、わたしたちにとってわかりにくいことはたくさんありますが、その中でも大事だということはわかるけれど、なかなか理解が及ばないものの一つに、聖霊の働き、ということがあるのではないでしょうか。

 聖霊の働きが大事であることも、神とキリストと聖霊とが三位一体の神として働いてくださっていることも、もちろん頭ではよくわかっているけれど、隔靴掻痒の感が否めない、と思っている人もいるでしょう。

 しかしそのような場合でも、大事なことは、自分の実感や感覚から聖霊について考えようとするのではなく、み言葉に聞いて、み言葉から聖霊に思いを馳せることです。そしてみ言葉が指し示す聖霊の世界に触れていくこと、それが大事なことなのです。

 さて、今日の聖書箇所なのですが、難解な話のようにも感じられるのですが、内容はともかく、話の流れは、それほどむずかしくはないのです。主イエスのもとに「悪霊に取りつかれて目が見えず、口のきけない人」が連れてこられました。主イエスがこの人を癒すと、この人はものが言え、目が見えるようになったのです。これを見ていた人々の間で、大きく二つの反応が起こりました。

 一方の人々、群衆はこの奇跡に驚き、この人はダビデの子、救い主ではないだろうかと驚嘆の声を上げました。もう一方の人々ファリサイ派の人々ですが、彼らはこれは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊に取りつかれている人を追い出したのだ、と言ったのです。まさに見聞きした人たちの意見は二分されたのです。

群衆がどれだけ、主イエスのことを理解していたかはともかく、主イエスの癒しのわざを見て、奇跡を見て、ある人々はダビデの子、救い主だ、と言い、ある人々はこれは悪霊の親分の仕業だ、と言ったというのです。それで主イエスはファリサイ派の人々に対してそれはまちがいだ、と言われた。悪霊が悪霊を追い出す、サタンがサタンを追い出す、そんなことすれば、内輪もめになり、その集団は立ちいかなくなる。そしてさらに、わたしは悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているというなら、あなたたちは何の力で悪霊を追い出すのか。主がこう言われたのは、ファリサイ派の人たちも悪霊祓いをやっていたからで、その力はどこから来るものなのだ、と問い返したのです。

 その上で主イエスはこう言われる。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところにきているのだ。」ここまでの話は悪霊の話でした。悪霊に取りつかれた人が連れてこられ、主イエスが癒された。ファリサイ派それを悪霊の頭の仕業だ、と言い出した。そしれに対して主イエスは反論した。悪霊が悪霊を出だすことはできない、と。悪霊、ベルゼブル、サタン、みんな内容的には同じです。  

 しかし主イエスはここで、「わたしは神の霊、つまり聖霊によって、悪霊を追い出しているのだ」ということお語りになっているのです。悪霊に働きに対して、聖霊の力によって、悪霊を退けるのだ、と言われているのです。わたしたちは今日、この事実に目をしっかり向けたいのです。

 今日の聖書箇所ではまず悪霊に取りつかれた人が連れてこられたのでした。悪霊に取りつかれているということは、悪霊の力のもとにある、ということです。悪霊の働きは種々あるにせよ、その根本には、人間を神から引き離そうとする働きがあります。人間が悪霊の力のもとにあることで、神から引き離され、自分の力で生きようとする者となり、不安や、怖れに囚われていき、まことの安定を欠いていくのです。悪霊の働きは、多く人間がそれと自覚しない形で進められていく。悪霊に取りつかれているなどとはゆめゆめ思わない。ただ病の人は、いよいよ病んでいく、という症状が目に見えるということから、人々はあの人は悪霊に取りつかれている、と言ったのです。

主イエスは人間世界の中に働くこの悪霊に対して、神の霊、聖霊の力によって対峙し、退けようとしたのです。聖霊は神と人間を結び付けるものです。キリストと人間を繋げるものです。信の世界、信仰の世界を築くものです。キリストはこのわたしたちの住む世界に、聖霊の働きを齎す方であり、この世界の中で神と人間を繋げる方なのです。そしてこの聖霊の力こそが、神と人間を繋げる聖霊の力こそが、唯一悪霊を打ち破る力を持っている、ということをキリストは知っておられたのです。

 キリストは、マタイ福音書の1章にあるように、聖霊によって身ごもった方です。そして洗礼を受けられたとき、聖霊が降ってくるのをご覧になったのです。聖霊によってご自分のこの世界での使命をあらためて受けられたのです。そして主は聖霊に導かれて、荒れ野の誘惑を受けられた。サタンの誘惑を受けられた。それはまさしく、この地上の歩みがサタンとの戦い、悪霊との戦いの連続であること、そしてそれは聖霊の導きの中で行われること、を受けとめてこられたのです。主は聖霊によって語り、聖霊によって癒され、聖霊によって悪霊に打ち勝たれる主であられた。そして主イエス・キリストは、聖霊によって悪霊を追い出し、神の国の開始を齎した。神の国、神の支配は、主イエス・キリストの到来とともに始まっていくのですが、それは同時に聖霊の働きの中で進められていくものなのです。

 わたしたちは、これら一つ一つの出来事を思い浮かべながら、主の歩みが聖霊と共になされた歩みであった事実をまずわたしたちは知る必要があると思います。主イエスは神の独り子であったけれど、その歩みのすべては、聖霊と共に、聖霊の働きの中で進められたものであり、さらには聖霊によって十字架へと導かれ、死人の中から復活させられていったことも、受けとめることが肝要なのです。つまり主イエスご自身は、ご自分が聖霊の働きの中にあること、聖霊の導きと支えと力を受けて、歩んでおられたことを自覚しておられた方なのです。

 福音書の読書体験の中で大事なことは、自分との聖霊との距離感とか、実感のなさ、というような話ではなく、イエス・キリストは聖霊と共に在り、キリストは聖霊と共に働き、聖霊はキリストと共にこの地上で働かれたというそのことに気づかされ、その事実を受けとることです。つまりイエス・キリストのおられるところ、そこに聖霊ありという事実です。

 わたしたちは自分の実感に豊って聖霊を捕えがちです。あるいはまた聖霊の働きを自分の都合で解釈してしまう。身近に起こったうれしい出来事を聖霊の働きだ、と言ってみたり。しかしわたしたちにとって大事なことはそういうことではなく、イエス・キリストと聖霊の働きの事実そのものです。

29節の譬は、強盗が家に押し入って、まず強い人を縛り上げなければ、その家の者を奪い取ることはできない、と言っているのです。違和感を覚える方がいるかもしれませんが、ここでの譬は、強い人というのが悪霊です。その悪霊を縛ることのできる方は主イエスであり聖霊なのです。悪霊によって支配されているこの世界を奪取できるのは、聖霊なのだ、という譬なのです。

この聖霊と悪霊の戦いにおいては、あなたはどちらにつくのか。態度保留はありえない、と言っているのです。聖霊の勝利を信じて生きるのか、悪霊の力に目を奪われ、心を奪われて生きるのか、聖霊を信じて歩もうとしないなら、それは悪霊につくことになる、というのです。

そしてキリストはこう言われる。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らうものは赦される。しかし、聖霊に言い逆らうものは、この世でも後の世でも赦されることがない。」主イエスはここで、人の犯す罪は究極赦されるが、聖霊を冒瀆し、聖霊に言い逆らうものはこの世でも終末のときにも赦されることはない、言われるのです。驚きの言葉です。

これは何を言われているのか、おそらく人間のなすわざに対して、神は根本赦しの中で、受けとめてくださる。しかし神ご自身のお働き、イエス・キリストともに働く聖霊を冒瀆し、聖霊の働きを貶めることは赦されない、と言っておられるのです。なぜなら、聖霊の働きを冒瀆することは、わたしたちの救いそのものを否定することになるからです。聖霊が生きて働いてくださらないのなら、わたしたち罪人は、救いを受けることも救われることも無いからです。

 33節からの主の言葉は、二つの譬を織り込んだ主イエスの言葉です。貴が良ければその実もよい年、木が悪ければ、その実も悪い。よい人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを取り出す。これはすでにこの福音書に出てきている主の言葉と同じもので、その人がどういう人か、それはその人の口から出てくる言葉でわかるというのです。何を見つめ、何を聞き、何を心に留めているか、それはその人の口から出てきた言葉でわかる、というのです。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また自分の言葉によって罪あるものとされる。」恐ろしい言葉だ、と思う反面、主の前ではそうなのだろうと思わされるのです。そもそも主の前では、どんなに取り繕ってみたところで、すべてご承知のことなのです。むしろなぜ主がこのような言葉を語られたかを考える必要があります。

 それはわたしたちが、自分の口から出る一つ一つの言葉に神経すり減らすというようなことではなく、キリストと共に生きて働く聖霊の導きとさせを信じて、キリストのみ言葉に聞きつつ歩む、それこそが大事だ、ということを語ろうとしておられるのです。聖霊の働きを知らされたものは、態度保留はない、という主の言葉の中で、わたしたちは今も、これからもキリストと共に働き続けてくださる聖霊を仰ぎ信じて歩むことが求められているのです。聖霊はキリスト共に働くのです。わたしたちがみ言葉に聞き、み言葉によって歩もうとするとき聖霊は必ずそこで働いてくださるということです。そしてそれは必ず、わたしたちの口から出る言葉も、主に導かれたものとされていく、ということなのです。