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マタイによる福音書連続講解説教

2024.8.11.聖霊降臨節第13主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書12章38-45節『 ヨナのしるし 』

菅原 力牧師

 マタイによる福音書の12章に入ってからは、主イエスの言葉やわざ、言動に対して、批判的かつ敵対的な人たちとのやりとりが記されています。先週、先々週のところではそれは主に(おもに)ファリサイ派の人々であったのですが、今日の聖書箇所ではそこに律法学者たちも加わってきました。

 こうしてユダヤ教の中枢を担う人たちが主イエスのもとにやってくること自体、主イエスの言動が見過ごすことのできないものであり、彼らからしてとても許せない発言が際立ってきたから、と言えるでしょう。

あらためて12章のここまでを読み返してみると、主イエスはご自分が神の子であることの自覚を、語っているのです。その意味でファリサイ派の人々や律法学者たちは、主イエスの言動をよく聞いていたのです。

 彼らは主イエスにこう尋ねてきました。「先生、しるしをみせてください。」彼らがこう言ってきた理由ははっきりしていました。イエスが神の子である自覚を人々に向かって堂々と語っているからです。彼らはそれが許せなかった。断じて許せなかった。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところにきているのだ」というような発言や、預言者イザヤの言葉「見よ、わたしの選んだ僕、わたしの心に適った愛する者」という言葉を引用して、あたかも自分が神の御心に適う神の子だ、と言わんばかりの発言に、彼らの怒りは、もうすでに沸点に達していたのです。だからこそ彼はこう聞いたのです。あなたが神の子であるというしるしをみせてください、と。あなたの語る言葉がまこと神からの救いの言葉であるしるしをみせてください、と。この場合のしるしとはまさしく、証拠と言っていいものです。神の子だという証拠を見せてみよ、と言ってきたのです。

 それに対して、主は、「邪(よこしま)で神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と言われた。

 しるしは与えられない、その言葉から考えてみたいのですが、イエスがキリストである証拠、それは与えられない、というのです。証拠とはそれを見て判断するためのものです。別にファリサイ派や律法学者たちだけでない、誰もが考えることです。例えば、高額な買い物をするとき、多くの人は、それが高額に見合うだけのものか、その証拠となるものを確認したい。この商品がこれだけの値段であるのは、材料がこの品質のものであり、これだけの技術が加わっているできているからだ、という証拠を見聞きして納得したいのです。証拠はその人が納得するための保証となるものです。

 しかし主イエスがキリストであることのしるしは与えられない、というのです。それは、たとえどんな証拠が与えられたとしても、それを最終的に判断するのは、その人です。その人がその証拠をどう受けとめ、その人の中の判断スイッチが入るかどうか、ということになります。つまり判断の基盤は自分です。そういう意味での証拠はない、ということです。誰が見ても、どんな人が見ても、すべての人がこの方はキリスト(救い主)だと判断スイッチを入れる、そういうしるしは与えられない、と言っているのです。イエスをキリストとして受けとめるということは信仰の事柄であって、信仰の事柄の最終のスイッチは、わたしにはないからなのです。信仰は、わたしの確証によるのではない。わたしが証拠を確認し、わたしがその証拠を判断し、わたしの考えで判断するのではない。向こうから働きかけによるのです。キリストの信実によるものであり、聖霊の働きかけによるのであり、わたしを超えたわたしの外から来るものなのです。したがって、たとえどんな形にせよ、しるしが与えられても、それをしるしと受け取るのも、そこに神の働きを見るのも、わたしの判断ではなく、神によって信じさせていただき、受け取らせていただく、ということであり、しるしを見せよ、わたしが判断する、ということの対極にあるものなのです。

 その上で、主イエスはここで、あえてヨナのしるしを上げています。マルコの平行箇所ではただしるしは与えられない、だけなのですが、マタイではこのヨナのことが付け加えられています。それはどういうことなのか、と言えば、しるしは与えられない。けれど、旧約聖書を読めば、そこにすでにしるしとして示されているものがあることがわかる。それがヨナのしるしだ、というのです。与えられないけれど、既に与えられている、ということです。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」しかし、言うまでもなく、ヨナのしるしと言われるものが、今ここにいる人々にとって、彼らが求めているしるしとなる保証はどこにないのです。

 ヨナが海に放り込まれて、三日三晩巨大な魚の腹の中にいたことは旧約聖書にしるされていることで、ファリサイ派の人々も、律法学者も承知していたでしょう。しかしそれが何のしるしだというのでしょうか。人の子も三日三晩の大地の中にいることになる、イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ墓の中に死体として置かれたこと、そのことを指し示すものになる、というのです。少なくともこの額面通りの意味で言えば、それはヨナの受難の体験と主イエスの受難と死が重なり合うということです。しかもファリサイ派をはじめ、同時代の人々はまだキリストの十字架も死も知らないのです。

 このヨナの出来事がしるしとして意味を持ち得るとすれば、イエス・キリストの受難と死、そして神の復活を信仰において受けとめて後の話です。すなわち、あのヨナが大魚の中での受難の後の神による救出されたという出来事が、イエス・キリストの十字架の受難と死と復活の「しるし」だったのだ、それが腑に落ちてくる、ということでしょう。確かにヨナのしるしはしるしとなりえる。しかしそれはイエス・キリストがわたしたちの救い主だということを信じて、物事を見る時、旧約の預言者を見る時、はじめていえることで、邪で神に背いた時代の者たちには、しるしは与えられない、ということなのです。それはまた与えられても、しるしと受け取れない以上は、与えられないということと等しい、ということです。

 ニネベというのは、ユダヤ人から見て異邦の民、外国人でした。しかしこの民はヨナの説教を聞いて、悔い改め、ヨナの信じる神を信じるものなったのでした。あるいはまた、南の国の女王はソロモンの知恵を聞くために、つまりソロモンの信じる神の言葉を聞くために、ユダヤから見て地の果てからやってきたのでした。

 おそらく主イエスがここで語ろうとしているのは、ニネベの住人、南の国の女王たちの存在が、「しるし」になるとすれば、それはイエス・キリストの語る言葉によって、そのわざによって、福音はユダヤから、ユダヤにとどまらず、異邦の民に、世界の民に広がっていく、そのキリストの福音によって起こっていく出来事のしるしとなるのです。徴は、すでに、神から与えられているのです。

 しかしそのしるしはイエス・キリストを信じる信仰においてしか、受け取ることはできない、ということでしょう。

 43節から主の言葉は、42節までのことを受けた言葉です。穢れた霊が主によって追い出されても、その人が空き家状態になっているだけならば、悪霊はいろいろうろついた後で「やっぱり出てきた家に戻ろう」と言って引き返してくる。もし仮にその家に誰かいればともかく、空き家で、家の中はすっきりしているならば、悪霊は他の仲間も引き連れても、前よりも大人数で住み着いてしまう、という話です。主イエスの言葉の意図は十分に伝わってきます。

 主イエスは悪霊に取りつかれた人々の癒しをなさった。それは悪霊を追い出すということでした。それによって悪霊は確かにその人から出ていく。空き家になるのです。ところがその空き家になった家に、誰が住むのか。悪霊は追い出してもらったものの、自分のまことの主をはっきりさせない、うだうだのままなのか、それとも、まことの主を仰ぎ、主によって活かされていく生活なのか。

悪霊は、まことの主をはっきりさせない家が大好きでしょう。居心地がいいから。だから、仲間を呼んで、仲間と一緒にその家で暮らすというのです。

主イエスの言動、主イエスの言葉を聞き、わざを見聞きした人々が大勢いました。中でもファリサイ派や律法学者たちは、主イエスの言葉をよく聞いていた。よく聞いていたけれど、それは、自分の判断力に頼ろうとするもので、そこに、主イエスの言葉において神が働くということに自ら心を閉ざす方向のものでした。それでいて、神から与えられるしるしを見せてほしい、というのですから、それは信仰とは違う方向へと向かうのです。

そして自分の判断に頼り、神が生きて働いてくださることに心閉ざしていくとき、まさしく悪霊は、その人の家に住み着いていく、そういうことになっていくのだ、とキリストはお語りになったのです。

主イエスの言葉とわざに、思いを凝らしていきたい。そこで働きかけてくださる神の導きに委ねつつ、歩んでいきたい。その中で、神が与え給う「しるし」がこのわたしにもわかってくるのではないか、そう思うのです。