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マタイによる福音書連続講解説教

2024.9.1.聖霊降臨節第16主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書12章46-50節『 天の父のみ心を行う人 』

菅原 力牧師

 主イエスが群衆に話しておられるとき、主イエスの母親、兄弟たちが話したいことがあって外に立っていた、というのです。ここで描かれている場所がどこなのかは、わかりません。郷里に近い場所だったのかどうか、聖書には何も書いていないのでわかりません。しかしいずれにせよ、親兄弟が主イエスに話があって訪ねてきたというのです。

 マルコ福音書のこの同じ出来事を記した箇所では、マルコの説明書きとして親族はイエスが気が変になった思ったから、やってきたことになっています。家の仕事もしないで、家族をほったらかして宣教活動しているイエスは気が変になったと思われても仕方がない、というような事情があったのかもしれません。しかしマタイはそのマルコの記述を削除しています。マルコの文脈は家族の主イエスに対する無理解があって、だから家族は主イエスを取り押さえに来た、ということになっている。しかし、マタイは、この出来事は家族の無理解というような文脈のものではなく、もっと違うものだという理解を持って、あえてマルコの説明を抜いたのではないか、と思われるのです。どういうことなのか、それをこの短い、かつ印象的な出来事を読む中で、受けとめていきたいのです。

 「そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上とご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます。』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とは誰か。』」家族が来ている、家族が話をしに来ていると告げた人に対して、主イエスはわたしの母とは誰か、わたしの兄弟とは誰か、と不思議な問い返しをされます。自明すぎて聞くことではないことだからです。主イエスに家族のことを伝えた人を含め、主イエスの家族のことを知っている人もこの場にはいたでしょう。しかしそもそもこういう問いかけをしない。なぜ主イエスはこういうことを問いかけられたのでしょう。それは主イエスが家族との関係が良好でなく、ギクシャクしていたから、ここにわたしの本当の家族がいる、家族以上に親しい者がいる、というようなことを言わんとして、このような問いかけをされたのではないか、と理解する人たちもいます。しかし、そうではないと思います。

 ここには主イエスの大きなビジョンがあると言っていい。主イエスの見ておられる豊かなビジョンがあるのです。「わたしの母とはだれか、わたしの兄弟とはだれか。」そう問いかけられた主イエスは続けて、弟子たちの方を指して言われたのです。この弟子たちの方を指してという言葉ですが、これは今度の協会共同訳聖書では「弟子たちに手を差し伸べて」となっていて、より原文に近づいた訳となっています。主イエスが手を指し伸べて語られるとき、それはこのマタイ福音書でみれば、共通の意味が込められている。それは保護するとか、慈しむとか、愛と力に溢れた主のわざを象徴する行為だということです。

 手を差し伸べてこう言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでもわたしの天の父のみ心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」主イエスがここで語られているのは、神の家族のことです。

 だれでもわたしの天の父のみ心を行う人は、神の家族の一員なのだ。

 その人は、神の保護の中にある、神の慈しみの中にある、神の愛の中にある、神の恵みの力の中にある。その人は神の家族の一員なのだ。これがここで語っておられるキリストの豊かなビジョン、神の家族のビジョンなのです。ビジョンというのはここでは神の与えられる現在と将来にわたる展望のことです。すなわち、神の家族とは、5人家族とか、人家族というふうに限定されるものではなく、天の父のみ心を行う者によって、この世界に拡がり、民族や国を超えて広がっていく家族なのだ、というビジョンなのです。

 天の父のみ心、という天の父とは、神を天の父と仰ぐ言葉です。神を天の父と呼ぶ、それは主の祈りの最初の言葉、天におられるわたしたちの父よ、というあの呼びかけです。キリストによって、神を天の父と呼ぶことのできる恵みの中にあることを知っているものの言葉です。その天の父のみ心を行うものは、神の家族だというのです。

 天の父のみ心は広く豊かなものですが、その中心にはわたしたち罪人である人間を救うという御意志があります。人間に対する愛があります。救うとは、人間と共に歩みたい、歩むという神の御意志です。

 この神の御意志、愛を受けとめ、感謝すること、感謝のうちに生きること、それが天の父のみ心を行う人ということです。父のみ心を行う、そこには確かにいろいろなヴァリエーションがあります。イエス・キリストのみ言葉に一つ一つに従って、服従して生きること、それも天の父のみ心を行うことです。自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい、という主イエスの言葉を自分なり賢明に生きようとすること、それも天の父のみ心を行うことです。生活や仕事を通して、キリストを証しし、キリストを宣べ伝え、キリストの福音を共有することに自分の時間をささげていく、そういう仕方で父のみ心を行うこと、ということもあるでしょう。さまざまなヴァリエーションがあるその中心、要には、神の愛、神の救いの御意志、共に生きようとされる神の恵みを知らされ受けとめ、感謝して生きること、そのことがあります。

 この神の愛は、人間を真実守り導き、保護し、慈しみ、恵みの力の中に置くものなのです。その恵みを受け、感謝のうちに生きる者、その者は神の家族なのだ、と主イエス・キリストは言われているのです。

 キリストはここで、神の家族と地上の家族の比較をして優劣をつけようなどとはしておられない。地上の家族はこの地上にある。マルコ福音書にある、イエスの家族が、イエスが気が変になったと思った、という文脈はしばしば、地上の家族がどのような問題を抱えていようと、神の家族はそれを超えた真実の家族なのだ、というような読まれ方をしてきた面があります。それがマルコの意図としてあったかどうかは別問題ですが、マタイは最初に申し上げたように、そのマルコの言葉を削除した。そこには、主イエスの言葉は、そのような神の家族と地上の家族を並べて何かを言う、というようなものではない、という理解があるのだと思います。キリストはここで地上の家族のことを貶めようなどとは思っておられないし、そのような意図もない。ただわたしたちはどんな血のつながりの中にあろうが、どんな血族の中にあろうが、どんな民族の出身であろうが、男であろうが、女であろうが、どのような性であろうが、どのような出自であろうが、どのような国家に属する国民であろうが、天の父のみ心を行うものは、神の家族なのだ、と語られる。だからこの言葉を聞いて、ファリサイ派の人々や、律法学者たちは、驚くと共に主イエスに対する反発を一層強くしたのではないか。ユダヤ人であることが、ユダヤ民族であること救われる道、と受けとめていた人々にとって、見過ごすことのできない発言だったからです。

 家族が外に立って話したいことがある、というこの表現は文字通りの意味だけでなく、イエスの肉親、すなわちイスラエルがイエスの外に立って、イエスの語る福音の外に立って、イエスを批判することの隠喩(隠れた喩え)になっているのではないか、と受けとめる人たちもいます。実際この聖書箇所からいろいろな読み方が広がっていきました。

 しかしわたしたちにとって、今日の聖書箇所から主のメッセージとして受けとめていきたいことは明確です。

 弟子たちに手を差し伸べて言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。天におられるわたしの父のみ心を行う人は誰でも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」わたしたちは、天の父である神の愛の中にあって、わたしたちを救おうされる御意志の中にあり、わたしたちを守り導き、慈しむ、その御手のうちにあるのです。そのことを知らされ、その愛に出会い、その恵みを受けて、感謝し、その愛に応えようとすること、そこにもう既に天の父のみ心を行う歩みが始まっている。そこで神の家族の一員とされ、神の家族のひとりとして生きる道はすでに始まっている、そのことを信じ、喜びのうちに今日を生きること、それこそが大事なことなのです。