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マタイによる福音書連続講解説教

2024.9.8.聖霊降臨節第17主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書13章1-23節『 種まきのたとえ 』

菅原 力牧師

 今日の聖書箇所は『種まきのたとえ』として知られた箇所です。皆さんもこのたとえそのものは何度となく読んでこられたことと思います。しかしあらためて、ここを、1節から23節のつながりの中でよく読んでみたいと思います。

 今日お読みした箇所は、3つの箇所から構成されています。新共同訳の区分け通りですが、1節から9節がたとえ本体、たとえそのものです。10節から17節までがなぜたとえで語るのか、という話。そして18節から23節がたとえの解き明かし、という構成です。この三つの部分の関係、繋がりということを意識しながら、全体を読み進んでいきたいと思います。

 主イエスの話を聞こうとして集まってきた群衆。この人たちは、湖のほとりにおられた主イエスのもとにやってきた。そこで主は小舟に乗り、その船から岸辺にいる群衆に向かって、語り始められた。この人たちは、岸辺に立って主の言葉に耳を傾けた人たちです。たまたま集まってきた人たちではない。聞こうとして集まってきた人たちです。

 この人たちに対して、主イエスは種まきのたとえを語られた。弟子たちはここで素朴な疑問を持った。どうしてあの人たちにはたとえを用いて語るのですか、ということです。もっとストレートに語られたらいいのに、と思ったのかもしれない。すると主は、預言者イザヤの言葉を引用して、「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。」というのです。ここでいうあなた方というのは、群衆のことです。つまり主イエスのもとに集まってきた人々のことです。その人たちのことを、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないものだと言われ、だからたとえで語るのだ、と言われたのです。

 わたしたちはふつう、たとえというのは、会話の中で言えば、わかりやすくするために用いるものだと思っています。「例えば、こういうことがあるけれど、それと同じことですよ」とわかりやすくするためにたとえを語ることが多いのではないでしょうか。ところがここで言われているのは、聞くには聞くが理解できないので、たとえで語るのだ、というのです。少し混乱してくるのです。たとえはこの聖書箇所でそうですが、日常にある素材で平易な題材で語られています。けれども、その中に「秘密」が隠されている。その「秘密」が理解できないものにとっては何が言いたいのかわからない、ただのお話しにとどまるということです。つまりたとえ話は、わかりやすい、ということのためよりも、わかりにくい、わからないのことの前に立ち止まらせるためのもの、というためのものだというのです。

 11節に気になる言葉があります。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」という主の言葉です。この秘密という言葉は今度の協会共同訳聖書では「秘義」と訳しています。以前の口語訳聖書では「奥義」。隠された事柄の真の意味、最も大事なことということです。ということは、聞くには聞くが理解せず、と言われている人たちとは、この秘密、秘儀、奥義を受けとめていない人たちということになります。赦されていない、という言葉は与えられていない、受けとめていない、ということです。

 

 たとえ本体を読むと、話そのものはわかりやすいたとえです。種まく人が種まきに出た。ある種は道端に落ちた。鳥が来て食べてしまった。石だらけの土の少ないところにある種は落ちた。すぐに芽を出したが、すぐに枯れてしまった。他の種はいばらの間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった。蒔く種蒔く種、すべてうまくいかなかった。だが他の種は良い地に落ちて、実を結び、あるものは百倍、六十倍、三十倍にもなった、というのです。話そのものは、誰が聞いてもわかるような平明な話です。けれど、このたとえの中にも秘密がある、秘儀がある、奥義があるというのです。群衆はそれを聞き取れていない、理解できていない、というのです。というかそもそも主イエスの語る言葉を聞いてもその奥義を理解していない。どうしてなのでしょうか。

 主イエスは、たとえを用いて話すわけを語った後で、もう一度、たとえを語ります。これ自体とてもめずらしいことです。たとえを解き明かしたということには違いなのですが、この解釈自体は、何か非常に深い比喩的な意味を取り出した、というものではない。むしろたとえ本体を聞いたものなら、読んだ者なら想像しやすいものです。道端にまかれたものとは、悪いものが来て、すぐにまかれたものを奪い取られた人のことだ。石だらけのところにまかれた人とは、喜んで受け入れるが、根がなくすぐに躓く人だ。たとえを読んで、子どもたちに紙芝居で解き明かすような、そんな解き明かしが続くのです。いったい何が秘義なのか、奥義なのか。

 18節以下の主イエスの言葉をマーキングをしながら読んでみるとすぐに気づくことがあります。それは、この短い箇所に御言葉、御国の言葉という言葉が6回も出てくるということです。それは当たり前だと思う人もいるでしょう。そもそもこのたとえは種まきのたとえであり、その種とは福音のこと、つまり御言葉なのだから。

 しかしその当たり前のことを受けとめて、たとえを聞いていたでしょうか。

 

 種は御言葉、神の言葉なのです。聞くには聞くが理解せず、とはたとえを聞いて、それを熱心にも聞き、一生懸命聞こうとはするのだけれど、あくまでも人間の言葉の延長線上でしか、受けとらない人ということです。神の言葉として聞いていない。イエス・キリストがまかれた種、すなわちイエス・キリストが語られた福音の言葉、それが神の御言葉ですが、確かに形の上では人間の言葉で語られている。とてもいい言葉ですね、生きるうえで参考になります、自分自身の課題として、これからもイエスの言葉を聞いていきたいです。そういう反応は多々あったでしょう。しかしそれはみんな人間の言葉の延長線上で聞いているということです。み言葉とは神の言葉なのです。それは、神の御言葉として聞き受けとるものにとって、成長する言葉なのです。百倍になるというのです。百バイトは何なのでしょうか。神の言葉はわたしという一人の限定性のある人間の中で生きて働き、溢れるほどに成長するというのです。

 み言葉に聞くけれど、気づくと相変わらずの自分がいて、自分でも嫌になってしまう。み言葉によって変えられたいと願うのだけれど、振り返ると相変わらずの自分がいて、罪人のまま立っているようで、情けない。そう感じている人もおられるでしょう。自分としてのリアリティがそこにあるというということには深い共感を覚えるのですが、しかしそれは今日の主の言葉に即して言えば、聞くには聞くが、理解せず、見るには見るが、決して認めない、ということなのではないでしょうか。福音の奥義、この福音は神の言葉なのだ、ということを受けとり損なっている、見誤っている、ということになるのです。キリストの言葉を先人のすぐれた言葉として、人生を導く優れた教えの言葉程度には受けとめていても、み言葉として理解せず、受けとめてもいないのではないか。

 たしかに、このたとえが語るように、種がまかれたその土壌によって種が育つのか、育たないか、分かれ道がある。したがってこのたとえは、わたしは道端のような土壌だとか、わたしは石だらけの土壌だとか、いや茨のはびこる土壌だとか、読まれても来ました。しかしこのたとえには、もっと大胆な飛躍があって、あなたがまかれた種をみ言葉として受けとめ、神の言葉としてこの言葉に聞き続け、その言葉の力を信じ、その言葉によって歩もうとするのなら、あなたは何であれ善い土壌に変えられ、種のそのものの力によって、あなた自身の中で福音が成長するのだ、ということが語られているのではないか。それが、天の国の秘密を悟る、ということに繋がっていくのでしょう。

 このたとえを聞くことにおいて、群衆の理解力が特に劣っていたわけではないでしょう。ふつうに理解したでしょう。しかしこのたとえは普通ではないのです。まかれた種は神の言葉であり、それは聞く者の中で、驚くべき成長力を持って働くものなのだ、ということはとても普通のことではない。わたしの中で神の言葉が三十倍、六十倍、百倍になるということは、とても普通ではないし、わたしの常識はその理解を妨げている。そうですよ。わたしの常識は、天の国の秘密、奥義を悟ることをしばしば妨げているのです。ただイエス・キリストを仰ぎ、イエス・キリストの信実に出会い、信仰によって主の言葉を聞こうとするとき、秘密は開かれていくのです。

 主よ、どうかわたしの愚かを打ち砕き、あなたへの信仰において、み言葉を聞かせてください、その祈りを持って、わたしに語りかけてくる声に聞くことができるものとさせていただきましょう。