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マタイによる福音書連続講解説教

2024.9.15.聖霊降臨節第18主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書13章24-43節『 たとえを語る主イエス 』

菅原 力牧師

 今朝も先週と同じように、長い箇所を1回で取り上げました。今日の聖書箇所は三つのたとえと、なぜたとえで語るのか、という話と、一つのたとえの解き明かしによって構成されています。おそらく多くの方は、バラバラに、それぞれ単体で読んでこられたかもしれません。しかし今日は24節から43節の全体を視野に入れながら、み言葉に聞いてまいりたいと思います。

 最初のたとえ、24節から30節のたとえを読んでみます。「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった。」これが話の始まりです。人の畑に毒麦なんか蒔いて何の得になるのか、麦を盗んでいくならともかく、というよう突っ込みを入れたくなる人がいるかもしれませんが、これはあくまでもたとえなのです。この畑で働く僕たちが主人のところにやってきて、「旦那様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」もっともな疑問を主人にぶつけたのです。すると主人はあっさり「敵の仕業だ」というのです。では抜き集めましょう、という僕たちに対して、主人は、毒麦を集める時に、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないと言って僕たちの提案を退けたのです。刈り入れの時まで育つままにしておきなさい、そして刈り入れの時に毒麦と麦を選り分けなさい、といいつけたのです。種まきのたとえに続いて、農業が題材になっている譬です。当時の農業においてはよくある話で、毒麦を早々と抜けば、よい麦まで一緒に抜いてしまうことがあったため、刈り入れの時まで待ちなさい、といっているのです。いうまでもなく主イエスはここで、農作業の手順を語りたいわけではない。このたとえにおいて何かを語ろうとしているのです。それはいったい何なのでしょうか。

 先週ご一緒に読んだ種まきのたとえにおいては、種が成長する、その種が神の言葉であることを信じて受けとめる時に、福音という種は植えられた私の中で驚くべき成長をしていく、ということを聞き取ってきました。

 今朝読んだたとえはそれに対して、種が育っていくその時、知らぬ間に悪いものが入ってくるという譬でした。そしてこのたとえはその悪いもの、悪がいつどこからどうやって入ってきたのか、ということではなく、すでに悪いものが、悪が入り込んでいるということに注目しているのです。そしてそれを今どうこうするのではなく、刈り入れのときというしかるべき時があることに心を留めて、今の成長を生きる、という流れです。

 このたとえの背景には、主イエスの宣教方法を巡って、不満を持つ人々がいた、ということがしばしば指摘されます。それはイエスがまこと神の救い主なら、今この地上にいる悪人を、悪を滅ぼし、一掃すべきだ、そうして神の伝道をなすべきだ、というような意見を持った人たちです。

 例えばそれは洗礼者ヨハネのような人です。実際洗礼者ヨハネの中には、「よい実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」、そういう強烈な悪の滅ぼし、というような考えがありました。だから、彼は当然、救い主とはそのような働きを強く推し進めてくれる方である、という思い込みもあったでしょう。

 しかし主イエスは、そのような働きも、方向性も持たれなかった。たとえはそのことを明確に示しているように思われます。

 わたしたちの人生にもさまざまな、悪の働きや悪そのものがあり、わたしたちは困惑させる。ややこしいのは、悪というのは時に善きものとも混在している、ということです。混じり合っている。これが悪だと言えるものだけではない、よきものと表裏一体となっていたり、混じり合っていたりする。わたしたち人間が善きものだけを実現しているわけでもなく、悪いものも抱え込みながら、生きている。悪を払いのけたいとか、悪を一掃したいというのは、まちがってはいないけれど、実はそれほど単純な話なのではない。このたとえが語るように麦まで一緒に抜くことになるかもしれない。大事なことは、悪が一掃されるとか、完全になくなるということに躍起になるのではなく、よきものをわたしたちの内で成長させてくださる神を信じ仰ぎ見て、悪のあるこの世を、悪魔の働くこの世を、今を生きること。まことの裁きは、神の定め給う時に、神になさることだと信じて、今を生きることだ、というメッセージがこのたとえから聞こえてくるのです。

 続く31節から33節の短い二つのたとえ、31-32節のたとえは、新共同訳聖書では訳されていないのですが、天国はからし種「一粒」に似ている、と原文にはあります。一粒なのです、最初は。それが成長すると空の鳥が来て枝に巣をつくるほどの「一本」の木になる、という譬なのです。からし種はゴマ粒よりも小さな種。その一粒が、巨大な一本の木になるという始まりの小ささと成長後の大きさの対比が語られているのです。百倍、六十倍、につながるたとえです。そして33節からのたとえはやはり成長するたとえ。どちらも驚くような成長ぶりが語られているのです。

 ここまで読んで、24節からのたとえ毒麦を抜かない、という話と、二番目、三番目のたとえが繋がってくるのです。悪が一掃されるとか、完全に撲滅されるということに躍起になるのではなく、刈り入れの時が来ることを受けとめ、与えられた今において、み言葉を信じ、成長させてくださる神を仰ぎ見て、み言葉の力を信じて、生きることの大事が語られているのです。

 先週聞いた「み言葉を聞いて悟る」ということが今日のたとえにおいても貫通しています。深く繋がっています。み言葉を聞き、信じる。それはわたしたちがよく耳にすることですが、決して平板なことではない。み言葉、福音の言葉、といってもそれはたくさんあるのです。しかしみ言葉と言われている神の言葉の中心になるものがあるのです。わたしたちはみ言葉において、神の福音、神の救いのわざに出会っていく。神の救いのわざとは、神がイエス・キリストをこの世にお与えくださり、このイエス・キリストの十字架へと向かう歩み、十字架における贖罪のわざ、わたしたちの罪を負い、わたしたちを担い、わたしたちのために死に、わたしたちの罪の赦しを与え、主の復活によって新しいいのちに生きる恵みの中においてくださった、その救いの事実、それがわたしのための出来事であることを受けとるのです。これこそみ言葉の中心に、核にあるものです。

 わたしたちにとって、信仰とは、そのキリストの救いの出来事をわたしのための出来事であることを繰り返し何度でも受けとる以外のことではない。その上で数多ある一つ一つのみ言葉を受けとめ、キリストの救いの出来事において信じ従い、歩んでいく。このキリストの救いの出来事を信じる信仰なくしては、福音の種は、成長しない。道端や、石だらけや、茨に落ちた種になってしまう。このキリストの救いの出来事を信じる信仰なくしては、この世の悪や悪魔のはたらきや、この世のさまざまな力の中で、毒麦に絡まれた麦のようになってしまう。もともとわたしたちには、自分のまかれた土壌を変える力も、毒麦に打ち勝つ力もないのです。キリストの救いの出来事を信じる信仰、そこに立って、神の働きを信じて生きるのです。神の御業の豊かさ、深さを信じて、今この時を生きるのです。

 今日の三つのたとえは、まさにキリストへの信仰に生きるたとえ、といっていいものです。

 34節と35節にはなぜたとえで語るのか、ということが語られています。これはマタイの説明文のようなものですが、旧約聖書を引用して、たとえを用いて、天地創造のときから隠されていたことを告げる、というのです。隠されていたことと訳されている言葉は、「謎」という言葉であり「秘密」という言葉で、先週のところで出てきた「天の国の秘密」に通ずる言葉です。み言葉、福音の言葉は、神の働きを告げるものですが、それは誰もが当たり前に受け取ることのできるものではない。それは信仰において受けとるのです。信仰以外ではその秘密は受け取れない。謎も受け取れないのです。

 36節から43節まで、最初のたとえの解き明かしが語られています。

 ここで語られているのは、一つ一つの言葉の解き明かしと同時に、刈り入れの時の来るのだから、そのことをうけとめて行きなさいということです。

 しかしそれは、その刈り入れの時を仰ぎ見て、今を生きるためです。今を疎かにして刈り入れの時に心奪われ、うつつを抜かすのではない。

 わたしたちは、いろいろな困難に取り囲まれて生きる。確かに平穏な時も、満たされたときもある。しかし、そのような時も自分の中にある悪や、悪魔に惑わされる自分がおり、眼開くと困難にぶつかっている自分を知らされる。まして、具体的な困難や、病や、問題にぶつかって、右往左往することも少なくない。

 毒麦の意味するところは、深いし広いし、身近。だがわたしたちはそのよう中で何が大事なのか、これらのたとえを通して知らされていく。それはすなわち、キリスト信仰なのです。み言葉を聞いて、キリストの救いの出来事を受けとり続けていくキリスト信仰なのです。右往左往するのは人生の常です。しかし、わたしたちはキリスト信仰に立ち帰り、ここにあって生きる。ここにあって右往左往しながらも、み言葉の信仰によって生きる。成長させてくださる神の働きを信じ、約束の時を仰ぎ、今を生き、主に聞き従っていく。その単純で、豊かなメッセージをこのたとえ話から聞き取っていきましょう。