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マタイによる福音書連続講解説教

2024.9.22.聖霊降臨節第19主日礼拝式説教

聖書:マタイによる福音書13章44-52節『 天の国のたとえ 』

菅原 力牧師

 今朝ご一緒に読み聞こうとする聖書箇所は先週に引き続き、たとえが連続する聖書箇所です。三つのたとえと、天の国のたとえについてのお話とからなっています。お読みになってわかるように、マタイによる福音書の13章というのは、主イエスのたとえによる話が連続しているところです。そして今日のたとえで、一つの区切りをつけて、たとえのまとめのようなことを語るそういう場面です。

 さて、三つのたとえのうち、最初の二つのたとえは、よく似ています。二つとも天の国のたとえなのですが、「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」とても短いたとえです。二つ目のたとえはこうです。「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」内容の違いがあるとはいえ、たとえの短さもよく似ているたとえが連続しているのです。最初のたとえから見ていきたいのですが、まず、畑は宝を見つけた人の所有ではない。自分のものではない。どうやって見つけたのかは書いてないのでわかりません。しかしこの人は畑に埋められた宝を見つけたのです。この人は見つけた宝をそのまま隠しておき、喜びのうちに帰り、自分の持てるもの、家財道具もすべて売り払って、その畑を買い取った、という話なのです。地中に自分の宝を生めるということは、当時はよくあったそうです。しかし本人以外誰も知らない場合、本人が死んで宝がそのままということがあり、年月がたつということもあったようです。この人はたまたまどういう仕方でか、その地中の宝を見つけたのです。驚いたでしょう。全く想定外のことなのですから。この人は自分の発見した宝のすごさを、価値を知っていて、自分の持てるものすべて売り払って、この宝の隠された畑を買った、というのです。この人がとった行動が、法律的に、道徳にどうなのか、というようなことは今このたとえにおいては関心外のことです。買ったという事実に目を向けているのです。

 二つ目のたとえもほぼ同じようなたとえです。

 よい真珠を探している商人が、高価な真珠一つを見つけたのです。この人も自分の持てるものをすっかり売り払い、それを買った、というのです。当時中東の地域では真珠はとんでもなく貴重なものでした。ですからきわめて高価なもので、容易に手に入らないものでした。今のわたしたちの環境とはまるで違う。この商人は真珠を探し求めている人だった。その人が見て、驚くべき真珠、ものすごい一品を見つけたのです。それはわざわざ一つと書いてあるのですが、余程のものだったのでしょう。商人は自分の持てるものすべて売り払ってでもこれを欲し、そして実行し、買ったのです。

 よく似た二つのたとえが連続する場合、ここで共通しているものが強調したいものと深く繋がっているものなのではないか、ということはよく伝わってきます。

 この二つに共通するもの、それはまず、「見つけた」、ということです。発見したということです。一人は宝を、一人を真珠を、発見したということです。それもたまたま、なのです。畑で宝を見つけた人は言うまでもなく、真珠を探していた人も、その場所がわかっていたわけでも、知っていたわけでもない。もしわかっているのなら、はじめから代価をもって買いに行くのです。わからなかったからこそ、戻って持ち物をすっかり売り払って買ったのです。

 たまたま、偶然ということは発見したものから言えば、受動的、ということです。労働の対価として、報酬として与えられわけでも、この二人が真面目な立派な人だから与えられたのでもない。ただ、見出し、ただ発見したのです。畑で宝を探そうとしていたのではなく、たまたま見つけさせていただいた、ということです。

 しかし二人には、さらに共通点があります。それは二人とも見つけたものがいかに自分にとって価値高い、貴いものかを知っていた、ということです。それを見ても、価値がわからない人もいるでしょう。二人はたまたま発見した。しかしスルーの人もいるでしょう。あえて宝と語られているところがポイントでしょう。宝は誰にとっても宝、というわけではないのです。真珠も同じです。それが自分の全財産を投げ出して買うに値するかどうかは、同じではない。だが二人は違うのです。それが自分にとって価値高く、貴く、かけがえのないものだということを認識し、受けとめて、行動を起こすのです。それがこのたとえに共通する、三つ目のこと、持ち物をすっかり売り払って、買うという行動です。しかもそれは、誰かに強制されたことでも、命令でもない。自由な意思、自由意志による行動なのです。

 二つのたとえの強調点を確認すると、主イエスがこのたとえで語ろうとしたことははっきりしてきます。畑を宝を見つけ発見した人は、福音と出会った人です。自分の人生の中で、どんな形であれ、福音に出会い、福音を見つけた人です。こどものときから教会に行っていようが、大人になってから教会に行こうが、ある時宝を見つけるのです。発見するのです。これはわたしの人生になくてならぬ宝だ、ということを見出すのです。福音を福音として受けとり始める。聖書に触れる人全員が宝に出会うわけではない。聖書の言葉において宝に出会う、予感する、ここに何かあると受け取るのは、宝の放つ光を何らか受けとめたからなのであって、それはたまたま導かれたというほかない。真珠を探していた人は、自分の意志も目的もあったけれど、この真珠と出会えたのは、偶然としか言いようがない。そしてこの宝を発見した二人が、持ち物をすっかり売り払って宝を買ったのは、その宝を発見したことにとどまらず、それを自分のものにしたということ。しかもその代価は、自分が今までも所有していたものを全て手離しても払うべきものだと二人受けとめていたのです。今までの持てるものを売り払ってとは、今までのものによる歩みではなく、この宝によって新たに歩みだすということを物語っています。この宝によって生きる、そういうものだと二人は受けとめたのです。

そもそもこの宝の代価とはどういう値のものなのでしょうか。全部売り払ってというのだから、とても高価だということはわかります。けれど、持ち物全部売り払ったら、買えるのでしょうか。それで足りるのでしょうか。わからない。このたとえからはわかりません。しかしこのたとえから伝わってくるのは、二人がすべてをつぎ込んでも惜しくない宝だと受けとめ、それほどまでにこの宝を手に入れたいと思ったということです。

 短い二つのたとえ。ここで繰り返し語られているのは、宝を見つけた喜び、宝の価値を受けとめた喜び、そしてそれを自分自身のものとするために二人が懸命に求めたこと、です。

わたしたちは人生の歩みの中で、この宝を見出したものです。そしてわたしたちもこの宝を自分自身で受け取ることを切に求めてきたのです。もちろんわたしたちこの二人とは違うでしょう。たとえ通りではない。だが、二人とは違う仕方で、この福音という宝を自分自身のものとするため、それぞれ求め続けてきたとのです。一方で、この二人がそうであるように、この宝をすでに買ったのです。受け取った、ということです。わたしたちも既に受け取っています。自分自身のものとして、自分自身が生きる根本のこととして受けとめているのです。そしてすでに、この宝によって活かされてきました。しかし同時に、この宝によってさらに活かされ、恵みを受けていくために求め続けています。たとえでは宝を買った、という話になっているのですが、わたしたちがこの宝を求めるために、一度きりではなく、場合によって何度も持てるものを手離していくことをもこのたとえは示唆しているかもしれません。自分の持ち物を握りしめていることが多くなりすぎると、この宝を受けとめられなくなる。この福音を受けとるために、わたしたちは握りしめているもの、抱え込んでいるものを手離すことがときに求められているのでしょう。

三つ目のたとえは先週読んだ畑の中に毒麦が紛れ込んできたけれど、毒麦を抜くことに躍起になるのではなく、善きものをわたしたちの内で成長させてくださる神を信じ仰ぎ見て、今を生きる、というあのたとえと、根本同じたとえです。終末の裁きが強調されているのは、そのことは神に委ねて今を生きるための当時の表現といってもいいことです。

そして最後に51節から主イエスがたとえについて弟子たちに「わかったか」と尋ねる場面が出てきます。弟子たちは「わかりました」と答える。弟子たちがどれだけ深く豊かにわかったかは疑問です。

しかしこの一連のたとえで、弟子たちはたとえを受けとる大事な一歩を示されたのではないか。それは例えば、主イエスがまいてくださる種、その種をみ言葉、神の言葉として受けとる信仰、それなくして、福音は福音として聞くことはできず、また信仰において主のみ言葉を聞くのなら神は三十倍、六十倍、百倍にわたしたちの内で成長させてくださるということ。福音は秘密とか奥義とか呼ばれる隠された意味、力がある。それはイエス・キリストを信じる信仰において、受け取らせていただくものであり、わたしたちはさまざまな悪や罪の中で、み言葉を力を信仰において受けとめていくのだということ。そして、わたしたちは既に受け取っている宝の恵みを受けつつ、さらにその恵みを自分自身において受けるために求め続け受けとり続けていくのだ、ということ。これら一連のたとえ、一つ一つは長くはないたとえを自分の生きる場所で反芻していくのです。思い起こせる長さなのです。筆記具もノートもない時代に、ただ記憶して、何度も思い起こし、たとえが語ってやまない神の力、溢れる力、漲る力を受け直していくのです。

そこで主イエスは言われた。「だから天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いもの取り出す一家の主人に似ている。」もしわたしたちがたとえの語ることを繰り返し受けとめていくのなら、倉から、新しいものと古いもの取り出す主人のように、古い旧約律法も新しい主イエスの御言葉において受けとめて福音によって歩んでいくことができるのだ、ということを語ってたとえの語りを終えるのです。